28.御園鎌倉家
「徹お兄ちゃま、これみて!」
少しばかり濃い栗毛の女の子が、地面で座り込んで小さな少年に何かを見せたがる。
「なんだよ、 美音? 俺、今、忙しいの」
紺色のパーカーを着た、こちらも少し黒みがかった栗毛の男の子。
笹の葉の垣根の下を覗き込んで、蟻の大群をつついて遊んでいるところ。
美音が差し出したのは、笹の葉で作った『小舟』
「近くの川に流しに連れていって!」
まだ、小学校を入ったばかりの美音は少しばかり『お兄ちゃん』である徹にせがむのだが──
『従兄』の徹は、垣根の下に頭を突っ込み、小枝を動かすことに夢中で
美音の方には全く、振り返ってくれなかった。
「徹お兄ちゃま!!」
従兄のパーカートレーナーの帽子を引っ張っていると……。
「あの……」
美音の頭の上が何かで陰った。
美音はふと上を見上げると……
そこにはパパが時々着ているのと同じように『真っ白な制服』を着込んだ『黒髪のお兄さん』が……
大きな白い花を抱えて美音を見下ろしていた。
大人の男性の声がして、徹もふと垣根の下から頭を出して
美音と同じ方向を見上げた。
「……もしかして、『徹君』に『美音ちゃん』?」
そのお兄さんは綺麗な黒い瞳を朝日に輝かせて……二人にニッコリ……微笑みかけてきた。
「誰?」
美音が尋ねると、白い制服のお兄さんがちょっと困ったように首を傾げる。
だが──
「……あ! 解った! お祖父ちゃんの学校の人!!」
年上の徹が解りきったように得意気にお兄さんに笑いかける。
でも、『お祖父ちゃんの学校の人』というと、お兄さんは益々困ったように首を傾げた。
でも──
「……御園大佐……いえ、葉月さん……じゃ、なくて……」
二人の従兄妹同士は、大人のお兄さんが何を言いたいのか解らなくて顔を見合わせた。
やっとお兄さんが解る一言をハッキリと言ってくれる。
「……右京さん、いるかな? 小笠原の……澤村が来たと伝えてくれるかな?」
「右京伯父ちゃんだね? 解った! 呼んでくる!!」
徹が張り切って……和風門をくぐって庭に走り去って行く。
「お兄ちゃま……伯父ちゃまのお友達?」
美音は、そんな『サワムラ』と言うお兄さんをジッと物珍しそうに見つめているだけ。
すると、そのお兄さんは優しく微笑みながら、美音の目線にしゃがんだ。
「違うよ。葉月さんの……仕事仲間」
「葉月お姉ちゃまの? お姉ちゃま、さっきご飯食べていたよ?
あ、お兄ちゃまも、お空を飛ぶの?」
美音が真顔でお兄さんの顔を覗き込むと、ただ静かに微笑んでいるだけ。
そして……そのお兄さんが胸に抱えていた花束の中から
小振りの花をスッと長い指で抜き取った。
そして、せっけく綺麗に揺れている金色の雄しべをちぎって……長い茎をへし折って……
「いいや? お兄さんは空は飛べないんだ。でも、飛ばすお仕事をしているんだ。
葉月お姉さんをね? 船の上から飛ばすんだよ。だから、一緒に仕事しているんだけど……」
お兄さんはそう言いながら……最後には中心についていた雌しべも取ってしまった。
そして……美音が着ているブラウスのポケットにそっと……
小振りの小さな花を差してくれたのだ。
「わ。いい匂い! お兄ちゃま、有り難う!」
「どういたしまして……」
「なんで、黄色いお花はちぎっちゃったの?」
美音はお兄さんの足元にちぎられてしまった金色の雄しべを見下ろした。
「お洋服を汚してしまうからね。お洗濯では落ちないほど、色が付くんだよ?
ママに叱られるだろう?」
「そうなの? 綺麗だったのに……」
美音はまだ、お兄さんの手元で……ポケットに入れてくれた花より
大きく華やかに揺れている白い花を羨ましそうに見つめた。
その花は、ポケットから香る芳醇な匂いより、もっと強く放っている。
「美音ちゃんは……伯父さんやお姉さんとは髪の色が少し違うね?」
お兄さんは、美音のママが朝結ってくれた耳より上のおさげを優しく眺めていた。
「パパがお兄ちゃまみたいに黒い髪だからってママがいうよ?」
「そうなんだ……」
「真一お兄ちゃまだけ、伯父ちゃまやママ達みたいに同じ明るい色が残ったねって……
いつも言っているよ?」
「そうだね。でも……目の色はみんな一緒だね? 美音ちゃんの目もビー玉みたいだ」
お兄さんは、不思議そうにずっと美音の髪を見つめていた。
美音は目が『ビー玉』と言ってくれるお兄さんに、ニッコリ微笑むと。
お兄さんもこの上なく、嬉しそうに微笑み返してくれた。
「可愛いね? ママが結ってくれるのかな?」
美音の髪についている赤いリボンをお兄さんはずっと笑って眺めている……。
「うん。ママがいつも結ってくれる」
「ママは誰?」
「薫」
「ああ、じゃぁ、美音ちゃんは薫さんのお嬢ちゃんなんだね?
美音ちゃんもママと同じでピアノは弾く?」
「……お兄ちゃま、どうして知っているの!?」
初めてあったお兄さんが、美音周辺を何でも知っているので驚いた。
「葉月お姉ちゃんがヴァイオリンで……ママ達はピアノだって教えてもらったんだ」
「……でも、葉月お姉ちゃまは時々しか弾かないよ?」
「……そうだね?」
お兄さんは少し哀しそうに笑った。
「美音ちゃんは……大きくなっても、やっぱりピアノが弾きたい?」
「うん! でも、パパみたいにトランペットもカッコイイと思うの!」
「パパは……トランペットなんだ?」
「右京伯父ちゃまは、ちっちゃいトランペットを昔使っていたんだって……。
今はね? 先頭に立って棒を動かす人なの」
「そうなんだ。ちっちゃいトランペットって『コルネット』の事かな?」
美音とスラスラと話してくれる優しいお兄さんをずっと美音は見つめていた。
すると家の奥から『ピアノ』の音色が聞こえてきた。
「ママかな?」
お兄さんがそっと……門の奥の庭に視線を馳せた。
「違うよ。ママの音じゃない」
美音がそう言うと、お兄さんはもの凄く驚いた顔。
「なんで解るの?」
「美音は誰が弾いているかすぐ解るって、伯父ちゃまが誉めてくれる♪」
「す、すごいね? じゃぁ? 誰? 伯母様かな? 伯父様かな?」
「……ううん? 葉月お姉ちゃまだと思うよ?」
すると……お兄さんはもっと驚いた顔をして立ち上がった!
『……アイツ、ピアノも弾くのか……』
お兄さんがそんな一言を……美音よりずっと上に行ってしまった位置で呟いている。
「伯父ちゃまの次ぎに、葉月お姉ちゃまは上手。
それに……ヴァイオリンも弾けるから……すごいよね?
ヴァイオリンは弾けなくてもピアノだけでもお姉ちゃまみたいになろうね?ってママが言うの。
ママは毎日弾いているのに、『葉月の感には適わない』っていつも言うの。
でも、お姉ちゃまは、全然弾かないんだよ? なんでかな??
伯父ちゃまに聞いてもね? お姉ちゃまは飛行機の人だからもう弾かないんだって……」
「そう……葉月お姉ちゃんは、そんなに凄かったんだね……」
黒髪のお兄さんは、そこで初めて……哀しそうに瞳を伏せた。
美音が少しばかり、困ってお兄さんの顔をそっと覗き込むと……
ずっと頭が上にある背の高いお兄さんは、ハッとしたようにすぐに笑い返してくれる。
「……美音ちゃん、大きくなってもピアノ頑張って……。
もし、その時、お兄さんがお姉さんと一緒にお仕事していたら……聴かせてくれるかな?」
白い綺麗なお花を差してくれた優しいお兄さん。
美音は嬉しくなって、元気良く頷くと……
お兄さんは……なんだか美音を神妙に眺めながらも……同じように嬉しそうに微笑んでくれた。
「いらっしゃい……」
そんな白い服のお兄さんと、小さな女の子が向き合う所を……
笹の低い垣根からそっと柔らかい声をかける人……。
お兄さんが、その人を見て……驚いた顔をして表情が固まった。
そこには紺の着物を着た栗毛の初老の男性が……静かに微笑んでたたずんでいた。
「お祖父ちゃま!」
「右京は今、慌てて支度しているよ。昨夜、遅かったらしいね?
悪いね? 娘達から事情は聞きましたよ」
「……御園准将……。初めまして……澤村です」
お兄さんの顔が急に引き締まった。
お兄さんは着物姿のお祖父ちゃんにそっと静かに敬礼をした。
「昨夜は……こちらの事情でお騒がせいたしまして……申し訳ありませんでした。
姪御様の彼女を……粗末に扱いまして……弟までお世話になってしまって……。
父も一緒にお詫びしたいと言っておりましたが、先ず、わたくしから……」
お兄さんはそこまで言うと深々とお祖父ちゃんに頭を下げたのだ。
でも、お祖父ちゃんは静かにニッコリ微笑むだけ……。
「いやいや。娘達とも話したけれど、よくよく聞くと、
うちの姪の『いつもの気まぐれな我が儘』……。
どうか、子供のような大人だと許してやってください……。
後ほど、お父様にもお詫びを申しあげておきますよ。
葉月のやる事なんて……だいたいこんなものです。
いつも手を焼いているでしょう?」
お祖父ちゃんの静かなニッコリ……に、
お兄さんは、俯いてそっと首を……苦しそうに振っただけ。
「……准将、申し訳ありませんでした。
昨年の『暮れ』に、彼女を通して気遣っていただいたのに……。
わたくしが、意地を張りまして……お気遣いを無にしました。
今回の帰省をやっと決心したものの……
暮れも、今回の帰省も……彼女の気持ちに負担をかけさせました」
お兄さんはまた、深々と栗毛のお祖父ちゃんに頭を下げるのだ。
美音はさっと、垣根の下をくぐる。
笹の葉をかき分けて、垣根の向こうにいた着物のお祖父ちゃんの帯に飛びついた。
「お祖父ちゃま! 小笠原のお兄ちゃまは何か悪い事したの!?」
こんな優しいお兄ちゃんが、苦しそうに頭を下げているのが見ていられなくなったのだ。
それを見て、お祖父ちゃんが困った顔を美音に向けてきた。
でもお祖父ちゃんは……いつもの笑顔をこぼして、美音の黒栗毛を撫でるだけ……。
「おや、美音? 綺麗なお花を差しているね? お兄さんにもらったのかい?」
「そうよ! お兄ちゃま、お洋服が汚れないようにって美音にくれたの!」
「そうかい? じゃぁ……美音、お兄ちゃんは悪くないって皆に言ってくれるかい?」
美音はちょっと困惑した顔。
良く解らないけど……
『美音的』には『悪くない』と思いたかった。
「わりぃ! なんせ朝方、寝付いたんでね!!」
白いシャツで裾を無造作に出したジーンズ姿の『伯父ちゃま』が
徹に手を引っ張られて庭に現れた。
「これ、右京。いい加減にしなさい。お前が彼に早く来るように言っておいて……なんだい?」
お祖父ちゃんは、途端にしかめ面。
なんだか、いつも格好良い伯父ちゃまも、お祖父ちゃんの前では妙に幼く見える。
今度は美音は、右京に駆け寄った。
「伯父ちゃま! 小笠原のお兄ちゃまは、何か悪い事したの? していないよね??」
美音が右京の手を引っ張ると……
「──さぁて、どうかな?」
ニヤリと背の高い伯父ちゃまが、虐めるように小笠原のお兄さんに笑ったのだ。
「右京」
お祖父ちゃんの静かなたしなめに、伯父ちゃまは少しばっかり……ふてくされたのだが……。
「まぁ、来いよ。 葉月は今、ピアノを弾いている。珍しくな……。
まだ、澤村が来たことは伝えていないけど……。
ああ、そうそう、和人君は真一と意気投合してこちらも夜更かし。
まだ、寝ているからそっとしているよ」
「和人が……真一と? 申し訳ありません……のんびりさせてしまって……」
お兄さんは、伯父ちゃまの一言、一言に妙に怯えているようにも見えた。
「お兄ちゃま、お家に上がって行くのでしょう? いいよね? お祖父ちゃま?」
「そうだね? せっかく美音にお花をくれたから……美味しいお茶を点てないとね」
お祖父ちゃんがそう言うと、徹従兄と右京伯父ちゃまが揃って苦い顔。
よく見ると、小笠原のお兄さんもちょっと緊張した笑顔。
「さ。どうぞ? 娘と家内も待っているからね?」
お祖父ちゃんが草履で庭を歩き始める。
「おいで。お兄ちゃま!」
美音が手を引っ張ると、少しだけ黒髪のお兄さんは固い顔をほぐしてくれた様だった……。
主である『御園京介』の後に……隼人は小さな女の子に手を引かれてついてゆく。
(フロリダのお父さんと顔はそっくりなのに? 雰囲気全然ちがうなぁ……)
それが隼人が見た『御園京介』の第一印象。
それにしても……栗毛でハーフなはずなのに……
『着物、着こなしているな〜板に付いているな〜』と、隼人は感心のため息ばかり。
葉月と皐月を『月と太陽』と例えたが……それに似ている?
兄の亮介は、陽気な『太陽』
弟の京介は、おだやかな『月光』と例えたいほど……静かな柔らかさとおだやかさを感じさせた。
亮介と違って、すこし体系はふくよかでそれが余計に丸みある雰囲気を出している。
口ひげがないのも、彼の表情を優しくしている気もする。
(なるほど? 葉月はこちらの影響を強く引き継いだって事かな??)
彼女が生まれて、10歳まで育った家……。
その間も、この『鎌倉御園家』の中では美しい……軽やかなピアノの音が流れていた。
そこに……隼人が昨夜、逃がしてしまったウサギがいる証拠。
姿がないのに音がする。
彼女の音がする……。
隼人はそっと耳を澄まして……ずっとその音を感覚から離すまいとしていた。
「澤村君が来たよ」
京介が玄関戸を開ける後ろで、隼人は白百合の花束を抱えてそっと緊張感を走らせる。
「昨夜はお騒がせいたしました。お邪魔いたします……」
頭を下げながら敷居をまたぐ……。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
三通りの? いや? 似た声が揃って複数聞こえたので
隼人は驚いて顔を上げると……。
玄関の廊下、すぐ手前には黒髪で京介と同じように着物姿の女性が一人。
女将のように深々と三つ指をついて隼人に頭を下げている……。
その女将に従うように……こちらは洋服だったが……
眼鏡をかけた栗毛を束ねた女性と少しばかり華やかな服装の栗毛の女性が
同じように三つ指をついて正座にて頭を下げていたのだ。
「葉月の叔母、瑠美でございます。お転婆な姪がいつもお世話になっていると聞いております」
頭を上げた初老の女性は、品の良い笑顔で隼人を見上げたのだ。
小笠原の小料理屋『玄海』の女将はほっそりしているが……
こちらの着物の女性は、ややふくよかで、だが、着物の着こなしが
素晴らしく美しく見える女性で、隼人は硬直!?
『登貴子』が、洋風。
『瑠美』は、和風。
そんな印象で、京介も着物は着ているし……
隼人は思ってもいない『鎌倉家』の日本的で厳かな『重み』に戸惑うばかり……。
「従姉の瑠花です」
「従姉の薫です」
こちらも品良く厳かな気品で自己紹介をしてくれる。
「初めまして、小笠原で御園大佐にお世話になっている、澤村隼人です。
この度は……弟までお世話になったようで、本当に申し訳ありませんでした。
あの……宜しかったらこちらどうぞ、飾っていただけると光栄です」
隼人は三人の女性にも一言詫びて……
そしてそっと着物姿の瑠美に大きな百合の花束を差し出した。
「まぁ……綺麗! カサブランカね? こんなにたくさん……。有り難く頂きます」
瑠美が夫に似たおだやかな笑顔で微笑んだ。
その優雅さ……。
葉月の母、『登貴子』もそうだが『嫁』でありながらも……
叔母の瑠美も劣らぬ『御園』にふさわしい気品で、隼人は密かに……唸ってしまった。
すると──
「ママ! みて♪ 美音が一番最初にもらったの!」
美音が急いで靴を脱いで、『ママ』に駆け寄った。
華やかな女性の方が『薫』だと隼人は見定めていると……
薫は娘に着せている愛らしいブラウスに百合が差し込まれているのを見て驚いた顔!
『ま……!』
慌てて娘のポケットから抜き取って……ブラウスの胸元を慌てて確認している様子?
『あら?』
薫は慌てた顔をすぐに収めて、訝しそうに改めて百合の花をシゲシゲと見つめたのだ。
「小笠原のお兄ちゃまがね? お洋服が汚れるからって、
せっかく綺麗についていた黄色いちっちゃいお花、取ってしまったの」
「──!!」
娘の報告に薫が初めて……隼人を見つめた。
そして……『にっこり』
「まぁ。細やかなお気遣い……流石は……大佐付きの側近さん」
その笑顔が母親の『瑠美』に良く似ている。
葉月とは違って、『日本的』でやはり『鎌倉家』の特徴なのか?
やんわりしていて気持ちが和む笑顔だったのだ。
その笑顔を見て、隼人もなんだかホッとしてしまったほど……。
「可愛らしいお嬢様だったので、つい……申し訳ありません」
隼人は軽く頭を下げると、薫が『とんでもないわ』とまた優しく微笑んでくれた。
「さぁ……お上がりになって」
瑠美の品良い笑顔に、隼人はやや恐縮して……
「お邪魔いたします」
一礼をして黒い革靴を出船に脱いで、鎌倉御園家に上がった。
隼人が上がったのを確認して……
「こっち来いよ」
右京も上がって、廊下を先に歩き始めた。
右京は『我が家』とばかりに堂々としているのに対して……
女達は、隼人がその場を通り過ぎようとするまで、また三つ指で頭を下げている。
(こっちの家は……行き届いているなぁ?)
その礼儀正しさに隼人の緊張は増すばかりだった……。
聞こえていたのは『練習曲』の様な音楽だった。
「シューベルトの野バラ……を弾いていたな? どうした事か?
うちの庭には薔薇なんてないんだけどな……ぁ?」
右京が葉月の考えていることが解らないのかそんな事を隼人の前でぼやいた。
(……! うちの庭には小薔薇が咲いていたな?)
葉月が昨日の事を思って弾いてくれているのであれば……
隼人にとっても『横浜に連れてきた事』は、受け入れてくれている事とも思えてくる。
それにしても……
ピアノの音が優雅に聞こえるのに……
右京が案内してくれる長い廊下は、やっぱり『日本邸宅』
障子に襖の部屋が幾つか続くばかり……。
廊下には朝日が燦々と入って……庭の日本庭園が美しい緑を輝かせている。
徐々にピアノの音が近づいてきて……
『野バラ』の曲が終わってしまった……。
「俺が話しかけるから……後ろで待っていてくれるかな?」
ピアノの音が近づいてくると……右京が隼人に小声でそう言ってきた。
隼人も静かにこっくり頷く。
「それにしても、なんだ? ぎょうぎょうしく『正装』でくるなんて……」
右京は、呆れた笑いをこぼして隼人の白い制服を眺める。
「…………母の墓前に今回の昇進を……彼女と報告したかったので……」
隼人がそっと申し訳なさそうに呟くと……
右京が途端に驚いた顔をして表情を止めた。
そして──
「……そっか、悪かったな。ぎょうぎょうしい……なんて表現して」
右京が初めて……隼人に向けて『兄貴らしく』穏やかに微笑んでくれたのだ。
その内に……練習曲のようだった曲から……
美しい和音が滑らかに聞こえ始めてきた。
その曲は隼人も耳にしたことがある曲……。
「アヴェマリア……ですね……?」
「グノーのな……。滅多に弾かないから指が固いな……」
「そうですか?」
隼人からすると、まったくもって『上手い』と唸っているところ……。
右京としては『不満』らしい……。
確かにヴァイオリンを弾く前には、葉月の父が弾かせていたという事は聞いていたが……
ヴァイオリン以外にもこれだけ弾けるとは隼人も予想外……。
『もったいない!』
知っていれば、あの小笠原のマンションにピアノの一つでも置いて
たまには聞かせてもらいたいところだ。
そう思った矢先に──
「その様子だと、葉月がマンションに持っている『グランドピアノ』見た事ないだろ?」
「え!? あの──??」
右京が『知らないのか』とばかりに、呆れた顔でため息をついた。
「ま。葉月にとって音楽は『相棒』でありながらも……『別れた相棒』って所で……
スタジオにも日頃、入っていないみたいだからな……。
ピアノがあると解れば……『弾いてくれ』と言われるのも辛かったのかもな?」
(え!? そんな部屋?? あったか!?)
隼人は……半年も住んでいるのに……そんな『隠し部屋』があるなんて!?
と……『ショック』を受けた。
だが……『思い当たる事』はある!
『……なぁ? 玄関にはいる前の廊下にさぁ? あるあの扉は何?
俺の部屋から見ると窓が連なっている大きな部屋に見えるけど?
マンションの何かなのか?』
葉月のマンションに居着くようになってすぐに思った疑問だから
かなり前に尋ねた記憶がある。
すると……葉月は……
『物置よ。ここ部屋が少ないから……本棚とかいろいろね』
そう彼女が素っ気なく答えた事を思い出した。
今ほど彼女の『領域』に慣れていなくて……踏み込みづらくて……
そして……『居候』
だから……『世帯主』が言うまま、『倉庫』と思うことにした。
そうでなければあんな大きな部屋が放置されているのは『倉庫以外納得できなかった』
……ので、ある。
(あそこに……グランドピアノがあったのか!?)
隼人は絶句……。
そして……なんだか『脱力』
まだまだ……『葉月のすべて』を良く解っていない証拠とうなだれた。
それに『物置倉庫』
嘘でもない……。
そこに葉月は家族が無理矢理入れていっただろうピアノを
しまい込んでいる『感覚』であるのだと隼人には解る。
だが──
右京が言うところの『辛い』は解るが……
やっぱり隼人は『勿体ない』と妙に……
あのマンションに『立派なピアノがある』と解って心が燃えたのだ。
そう燃えたのも……
今、側で聞こえている『和音』が素晴らしく『美しい』からだった。
「葉月は俺と違って……明るくて透明感のある音を出すんだよな。
俺は男のせいか、どうも重いというか……厳格的だと友人にも言われる」
「……そうですか……」
『その辺』は、先程の『美音ちゃん』や『右京』には当たり前の様だが……
隼人にはさっぱり解らないから『苦笑い』
そして一番奥の『和室』に辿り着き、障子の前に右京が立った。
隼人に向けて、『シー』と口元に一本指を立てたので……
隼人は、右京の横に控えてそっと息をひそめた。
「……アヴェマリア……か?」
右京が障子を開けると……スッとピアノの音が止んだ。
止んだのだが……また、ゆっくりと曲の続きが始まる。
「いいでしょう? 姉様はG線上のアリアが好きだったけど……
私はこの曲を弾くと姉様と重ねるの……。
昨日……たくさん姉様のこと思い出したから……」
意外と明るそうな葉月の声がピアノの音と一緒に聞こえた。
「それに……『義兄様』が好きな曲だから……」
(? 兄様ってどの兄様??)
隼人がふっと首を傾げると……何故だか右京が困ったように隼人の方を神妙に確かめる。
それにも隼人はちょっと驚いて首を傾げた。
すると……
「その曲はやめて……他にしたらどうだ?」
右京が慌てて……そう言ったように聞こえたのだが……。
「……どうして?」
「……お前の『カノン』、聴かせてくれないか?
それとも……彼の好きな曲ってないのか?」
『彼』が隼人自身の事と解って……隼人は俯いた。
「彼? 隼人さんの事?」
隼人は……久し振りに緊張した。
昨夜……逃がしてしまった『ウサギ』
たとえ……隼人の帰りを信じてくれなかったとしても……
やっぱり『恋人には見せてはいけないもの』を見せてしまった責任がある。
そして……『幼い彼女』を知っているから……。
『逃げた』と言う事は……『ショックだった』と言う事だ。
葉月の『心』は幼いかもしれないが『恋心』を僅かでも隼人に持っていてくれるから
『辛くて逃げた』
隼人は……昨夜、そう心の整理をつけられた。
それならば……逃がしたウサギを『また、上手に捕まえる』
そうすれば……たいしたことない……。
彼女の幼い心なんて……。今までだってその繰り返しだったのだから……。
「澤村君は……何が好きなのか……知っているのか? リトルレイ?」
右京が障子を開けた入り口で……
本当に優しそうな兄様笑顔で葉月に話しかける。
「…………」
葉月から返事はない。
だが──
そっと……またピアノの音色が流れ出す……。
ベートーベンの『悲愴』……。
まるで羽でも舞い降りて来るかのように……柔らかい弾き方……。
葉月の指がそっと……隼人の事を思って弾いてくれている……。
隼人は自分に好都合な解釈でもそう思いたかった。
すると……右京にも何か通じるのか?
彼はそっと微笑んで、隼人の肩を叩いた。
『頼んだぞ』
そっと小声でそれだけ言って、右京は日が射す廊下を去って行く──。
鎌倉の日本邸宅の隅っこ。
和室にピアノがある部屋。
隼人の足元、木の廊下に日差しが徐々に強く射し込んできた。
五月晴れの鳥の声……。
そして……そよ風の笹の音……。
静かなベートーベンの音楽……。
それだけが昨夜、離れてしまった二人の間に流れ込んでいて
まだ……距離を感じるばかりだった。