3.スタジオ
ゴロゴロ──! ピシャン!!
『きゃっ!』
先程まで天気が良かったのに、夕方になっていきなり海辺は黒い雲に覆われた。
その上、アッという間に空が暗くなり、豪雨に雷鳴まで。
大きな大佐室の窓辺にその稲光がサッと反射したのだ。
「ハハ! 何? 今の?? 葉月でもそんな声出す訳!?」
葉月が手元の書類に光が落ちてきたかのように
稲光がした途端にペンを離して、背筋を伸ばした物だから隼人は思わず笑ってしまったのだ。
「……」
葉月は少しばかり『女の子らしく反応』した事が気恥ずかしかったのか
隼人のからかいにムッスリ膨れながらも
また『しらっ』とペンを握り直した。
「だって、この窓、大きすぎて怖くない?
滑走路は広いし……なんだか海なんて目の前だし
雷雨になると光とか近く感じるのよね。いつも──」
「別に建物の中だし……避雷針だってあちこち設置されているんだから」
「今日は……なーんか落ち着かないのよね……。ちょっとの事で敏感気味」
隼人は、葉月のそんな『勘』に、ドッキリ……。
(あなどれないウサギ!)
『きゃ!』
なんて……可愛い声を出したのは確かに珍しいが……?
それも、ちょっとの事で『敏感気味』で、敏感なところを触れらそうで構えているからこそ……
雷如きでビックリしたようだった。
「フォスター中佐……いつ来るんだっけ? 大佐?」
「……来週ですって。山中のお兄さんに陸訓練見学するからって先程伝えたら
凄く緊張してデビーと打ち合わせしていたわよ?
お兄さんは、任務でフォスター中佐と顔合わせているじゃない?
フロリダの第一陣を引っ張った先輩だって、そりゃもう……。
あの落ち着いたお兄さんが大慌て……」
葉月が、落ち着いている山中の慌て振りにもそっとため息をついた。
隼人も苦笑い……。
「なんで……来るんだろうね? しかも、つい先日、任務で一緒になったばかりの隊長を
こっちの『基地見学』させるなんて人選的に何かを感じるよな〜」
隼人もペンを持ったまま頬杖……ため息を天井に吹いた。
「同感。また……ロイ兄様が何を考えて始めた事やら?」
「ん!? 今度のフロリダからのお客の差し金は……
葉月はフランク中将の『仕業』と思っているわけ??」
「まぁね? 隼人さんや皆は私の事『台風』って言うけど……
実はロイ兄様がいつもその『台風の目』って事には気が付いてくれないのよね!」
「……台風の目ね?」
隼人は葉月の息巻く言葉に……妙に納得。
「だいたいにして……」
葉月がペンを握り直して、真っ正面を真っ直ぐ見つめて……なんだかもの凄い真剣な顔。
「私は……兄様達の『思惑』どおりには動かないわよ!」
『ゴロゴロ……』
「私は私で……『枠』を描くの!」
葉月がペンを握って拳をかざしたのだ。
『ゴロゴロ……ピカッ!!!』
「ロイ兄様の台風の目に動かされたとしても! 私なりに起こした風で進むの!!」
『ピカピカ──ピシャンッ!!!』
稲光の中、葉月が妙に『力説』
「お前……何、漫画みたいな事しているの??」
隼人は大佐になってから『兄様には負けない』なんて
意気込んでいる葉月の『小さな少年将校』のようなムキのなりように思わず引きつり笑い。
葉月は時々、こうして妙に力んでいるのだ。
「なーにが……私なりの風で飛ばすだよ? 飛ばされる俺達の身にもなれっつーの」
「別に──ついて来られないなら『それまで中佐』」
シラっと書類に向かった葉月に隼人は当然ムッとした。
「なんだと? この小ウサギ!」
「なによ? 私の事、いつ嫌になっても構いませんからね」
「ったく!」
「隼人さんはね……そんな事いうけれど……
私だって偉そうな意気込み見せたって……
ロイ兄様の『台風』についてゆくの『必死』なんだから……。
兄様の『思惑』ぐらいは予想しておかないと、切り捨てられるし振り回されるし……
自分を見失うし……成長しないし……。
そこ越えるぐらいにならないと『大佐』は務まらないって……右京兄様にも説教されたわよ」
「──!!」
「私、これから酷い女になるかもしれないから、よろしく」
葉月が冷めた目つきで、出来上がった書類を束ね始めた。
「……」
隼人は……葉月の『大佐になった決意』を初めて知ったような気がした。
『半端な気持ちじゃ……今までと一緒じゃダメなのよ』
それには『先ず』……『連隊長の意向』とやらは良く噛み砕いて
『何故? 自分がその様な業務を言い渡されたのか』を捕らえるべきだと葉月は言いたいらしい。
ただ、言い渡されたことばかりしていたのでは……『大佐』として意味がないと葉月が言いたいのだと。
今までのように『兄様の言うことを聞いていれば間違いはない』と考えていただろう葉月は
これからは……『兄様の言うことをさらに自分のプラスに変えなくてはならない』
それを……どうやら『右京』に教え込まれたのだと解って隼人は絶句!
「……反省。俺は最近ちょっと……のんびりかもな……って思えてきた」
すると、葉月がそんな隼人の力無い微笑みに……そっと輝く笑顔を向けてくれた。
「そんな事ないわよ。隼人さん無しじゃ小ウサギは大佐が務まりません」
「よくいうよ。さっきなんて言った?」
「なんか言った? 私?」
おかっぱ頭で、とぼけた顔して誤魔化すのだ。
「……小悪魔ウサギが何か言っていたみたいだけど……。
忠告として胸の中にしまっておく……」
隼人が微笑むと……葉月がいつもの笑顔をこぼしてくれたのだ。
「俺も一つ……『酷い女』になっても、それは女じゃなくて大佐たる姿だと信じているよ」
「メルシー……さ、ウィリアム大佐の所に書類出して……今日は早めに帰りましょう?
雨、ひどくなってきたし……洗濯場の窓空けてきたから心配……」
葉月は照れるようにして立ち上がって……隼人とは目を合わせないように大佐室を出ていった。
「ごめんな……俺、まだ全然ダメだよな……」
冷たい横顔の中に……素晴らしい感性と穏やかさが隠れていること……。
それを知っているから隼人はやっぱり彼女を憎めない。
どころか……まだ引っ張られてばかり。
彼女の『風』に吹かれたからここまでやって来た。
隼人は……出逢って一年が経とうかという葉月との出逢いを
最近特に噛みしめている。
そして……紺色の肩章の上に付けている金の星をまたつまんでみる。
「俺は……やっぱり中佐だな」
彼女の『大佐』としての『力量』とか『姿勢』にまだ教えられてばかり。
それを背中で見守って、後押しすることしか隼人にはまだ出来ない。
それでも彼女が『なしではいられない』と言ってくれるから……。
『それにしても……右京さん恐るべし!』
隼人は……『芸術派少佐』の右京が、
実は葉月をしっかり『軍人的』に導いている事に驚いた。
『音楽隊』にいるのが、勿体ないと思ったぐらいだ。
かといって……やっぱりあの兄様には『汗くさい男の世界』は似合わないような気もする。
優雅にいてほしいと男の隼人が思ってしまうような『素敵』を備えているのだ。
どちらかというと『癒し的な兄様』のような気がする。
『だけど……あの人も苦悩は随分味わってきたんだろうな』
葉月から聞いた話でも、隼人はそう予測している。
そうでなければ……あの様な『酸いも甘いも』表現できる音は出ないはずだった。
そこは……葉月も適わない大人の音で……
隼人も今のところは右京の音に惚れている。
男の音……そんな味を右京は持っていたから……。
終礼が終わり、日が長くなった夏の夕暮れ──。
残業を少しばかりした隼人と葉月だが、雨が激しく続くので早めに帰ることにした。
勿論、帰りの運転も隼人。
助手席には書類ケースを抱えた葉月が乗っている。
「買い物はどうする?」
ステアリングを握る隼人は、ワイパーでかき分けてもかき分けても
滝のようにフロントを隠す雨水の激しさに注意を払いながら葉月に話しかける。
「こう……雨がひどいとね……。残り物で何とかする?」
葉月は助手席にも滝のように流れる雨水を見つめながらため息。
「そうだな……そうするか……」
隼人も、島の半端じゃない『夕立』の迫力にこの頃驚いてばかり。
この中、傘を差して買い物もどうかと思い、葉月の言うとおりため息をついて諦めた。
その内に……隼人が部屋を放置している官舎に差し掛かる。
「……部屋……任務から帰ってもそのままね? カーテン選んであげるって約束したのに」
葉月が通り過ぎる鉄筋の集合住宅を見上げる。
「ああ、でも……色々忙しかったし。もう、いいよ」
「いいよって?」
「……だから……まだ、決めていないけど。ロイ中将と相談して引き払おうかと思っているし」
「いいの?」
葉月が、窓から視線を隼人に移して詰め寄ってきたので……
思わず隼人ものけ反ってしまった。
「いいの?って……俺が完全退去、官舎を出てきたらいけないのかよ?」
少しばかり不満げに呟く。
「そうじゃないけど……荷物、どうするの?」
「どうしようかな?」
「…………」
そこで葉月が黙り込んだ。
俯いて何かを一人で考え始めているようなので……
「あ。でも、今すぐって訳じゃないし……ただ、俺が去年転勤してきたみたいに
転属シーズンになったら新居者も出てくるだろうに住んでいないのに借りたままも中途半端だし。
九月、それまでに決めるつもりだから……」
「そう──」
そんな話をしているうちに、丘のマンションに辿り着いた。
土砂降りの中、お互いに傘を差して駆け込むようにマンションの中に入る。
「あー。もう、相変わらず降り出すと半端じゃないんだから!」
葉月は、書類ケースをかばったためか、白いシャツの肩先が一気に濡れてしまった様子。
「ホントだ。小笠原の夏の雨がこんなにすごいなんて思わなかったな」
スコールのような雨が時々激しく降る。
これがフライト訓練のメンテで甲板に出ていたら最悪である。
隼人はこの数週間に何度か甲板で激しい雨の中のフライトサポートを経験したが
それはマルセイユでは考えられない条件の中での訓練で、驚いたほど。
その中でも源のチームもロベルトのチームでも、そんな悪条件の中でも
連携した機動力などにまた、ひとつ驚いていたり……。
ロビーで葉月がブツブツとぼやきながら、ハンカチで肩より先に書類ケースを拭いている。
(さすがだな?)
そんな彼女の仕事に対する姿勢はいつみても『自分より仕事』に見えてしまって感心。
「おや? 大変だったね……お帰り」
またまた……一人暮らしの『たけこお婆ちゃん』がロビーに出てきたところ。
「こんばんは」
葉月と隼人は揃って笑顔で挨拶。
たけこお婆ちゃんの手には、アルミ箔で覆われた小鉢が一つ。
「雨を眺めていたらねぇ……アンタ達が帰ってきたのが見えたからさ」
そういって、たけこお婆ちゃんはさっと手が空いている隼人に小鉢を差し出したのだ。
「え? あの?」
「一人だと、作りすぎてしまうんだよ。アンタ達最近、帰りが遅いだろ?
ちゃんと食べているか心配でね。年寄りのおせっかいだけど、付きあっとくれよ」
小柄なおばあちゃんが、ニッコリ……隼人に小鉢を突き出すばかり。
隼人が戸惑って、葉月を見下ろすと……
「お婆さま。有り難うございます。遠慮なくご馳走になりますね?」
この上ない笑顔をこぼした物だから……隼人もそれに従って……
「頂きます……すみません……」
照れて黒髪をかきながら、小さいお婆さんから小鉢を受け取った。
「わ。いい匂い……お婆さま、きんぴらかしら?」
葉月が調子よく鼻を小鉢に近づけて嗅いだりして。
「ああ、牛蒡に人参に胡麻と一緒にね」
「わ。俺、そういうの弱いんですよね〜」
「私も〜」
若い二人が揃って喜んだので、たけこお婆ちゃんは満足そうに微笑んで1階の自室に戻っていった。
「こういう事があるから……官舎、帰れなくなるんだよなぁ」
「ふーん」
エレベータに乗って隼人が嬉しそうに微笑むと葉月はなにやら真顔で上の空?
「なに? お前は嬉しくないの?」
「え? 嬉しいわよ?? 最近だけどね、こう言うことは……」
「あ。そうなんだ」
「前は……あまり住人に会うって事なかったし……」
葉月がちょっと致し方なさそうに微笑んで横髪をかき上げた。
少し湿った栗毛……おかっぱになってもそうした仕草は髪が長い時と変わらなくて
隼人は思わず見とれてしまったのだ。
「なんとなく、解らないでもないけどな」
オーナー嬢として、住人が外人のような葉月を遠巻きにしていたのだろうと思ったのだ。
葉月も一人この広いマンションで『軍人一筋』で硬い表情で暮らしていたのだろうと……。
男が通っていたなら尚更かもしれない。
どうやら『公認同居人』というのは、隼人が初めてのようだった。
「達也がいた頃は……達也が人なつこかったから……そうでもなかったけど
その時は……たけこお婆さまはまだ住人じゃなかったから」
「──!」
隼人は……葉月の口から久々に『達也』が出来てきて思わず硬直!
「? どうしたの?? あ、いけない事、言ったかしら……」
葉月が途端に、申し訳なさそうに隼人を見上げたのだが……。
「いや? 達也がここに来ていたことだろう事は、解っていたことだし……昔の事は別に」
なんとか微笑みを返した……。
昔を気にしないと言う笑顔ではなく、
『達也のことが話題に出た!』という驚きを隠す笑顔であるのは葉月が知る由もない。
「そう? それなら良いんだけど……」
葉月もとりあえず笑顔になったところで、エレベーターが3階に到着。
いつもの手順で、葉月が自動ドアの前のパネルにカードをスラッシュさせる。
重厚な鉄の自動ドアが開いた。
本玄関までの絨毯敷きの廊下は短いが……そこにある一つの扉。
隼人はそこに視線を流した。
「スタジオ……窓、開けて出かけたんだよな。俺」
「また、入っていたの? もう……」
そう……横浜帰省後、帰ってすぐに葉月が『スタジオ』に初めて入れてくれたのだ。
横浜から帰ってきてすぐの夕暮れの日の話になる──。
『葉月。お前、スタジオのピアノ埃だらけじゃないだろうな?
調律が悪くなっているなら、いつもの業者を小笠原に送るぞ』
鎌倉で皆で『ローズティのお茶会』をしていた時に、右京が何気なく唐突に言い出したのだ。
その時の……葉月の驚いた顔。
『……別にわざわざ本島から調律師を送ってこなくても良いわよ!
ちゃんとロバートおじ様に頼んで手配してもらうから!』
そんな風に葉月は答えていたが……その時、隼人の顔を見ようとはしなかった。
そう──。
右京は……
『澤村にその部屋がある事をちゃんと言わないとダメじゃないか?』
そういう遠回しの葉月への後押しだと隼人には解った。
それが通じたのだろうか?
葉月は帰るなり……
『スタジオがあるんだけど……物置なの。入ってみる?』
と……今まで黙っていた事に悪びれる様子もなく……。
いや?
黙っていた……という事の罪悪感を隠すかのように平淡な顔で隼人にそう言ったのだ。
だから……隼人も『なんで隠していた』とは詰め寄らなかった。
その時、葉月は玄関を出て片手に普通の鍵を手にしてその部屋を開けた。
『うわ!』
部屋に入った途端!
その隼人の驚き!
本当にダンスでも出来そうな何十畳もありそうなピカピカのフローリング床。
その真ん中に艶やかな黒いグランドピアノ。
壁二面はすべて窓。白い重厚なカーテンがその窓を覆っていた。
しかも──
『林側だから、ちょっと暗いのよね。
でも、小笠原は日差し強いから日光を避けるぐらいの方が涼しいから』
葉月はそう言ってドアの横にあるリモコンを手にして窓際に向けたのだ。
『ジー』
そんな静かな音を立てて、カーテンが自動に開いたから隼人は余計にビックリ!
その途端に、部屋に日差しがやんわり入ってきて……
なんとも優雅な風景が……。
まるで、ポストカードの写真のような? 雑誌で見るような風景だったのだ。
葉月のリビングに入ってくる太陽光線のような『強烈さ』はなかったが
柔らかな西日の中に、磨かれた床に黒いグランドピアノがある風景。
そこに──隼人が見届けたばかりの『スミレのワンピース』を着ている『リトルレイ』の幻が
フッと……ピアノの椅子に浮かんだほどだった。
『意外と……埃だらけではないようだな?』
隼人は躊躇いながら……その部屋に入室。
『……ロバートおじ様が……時々お掃除してくれているみたいね?』
葉月が、ちょっと言い難そうに呟いて微笑んだ。
管理人のロバートは、葉月の住居内には入ってこないようだが
『フロリダの親から預かっているお嬢さん』として見ていることは隼人も解っていた。
本当に『執事』の様な働きぶりで、朝なんか3階の自動ドアの前に丁寧に新聞を置いてくれている。
隼人は朝起きて、その新聞を自動ドア前まで取りに行くのだ。
話はずれるが……
『リッキーが君のことを凄く誉めてね』
任務から帰還して間もなくのある日の事。
掃除中のロバートとロビーで挨拶がてらの話をしている内にそんな言葉が出たことがある。
『!? ……リッキーってあの??』
隼人を知っているだろう、そして、隼人が知っている『リッキー』は一人しかない。
『あれ? 葉月ちゃんから聞いていないのかな?
私の息子だよ……。ほら、ロイ君の側近をしている……。
アイツはね……独身だけどアメリカキャンプ内で一人暮らししているから
ここにはあまり顔見せないけどね。
しかし……葉月ちゃんらしいね……。リッキーの事をまだ話していないなんて』
ロバートは、そんな葉月が目に浮かぶとばかりに大笑いをしたのだ。
隼人が驚いたのは言うまでもなく……。
その後、すぐに葉月に詰め寄ると──
『ああ、そうなのよね? お祖父様の側近だったの。ロバートおじ様』
『え!? ロバートさんって元軍人なのかよ?
じい様の側近って言ったら、フロリダ第一線のエリート補佐官だったって事だろ!?』
『そう言うことになるわね?』
そこで、初めて……『リッキーの血筋』にも納得したが、かなり驚いた。
確かに『歳の割には……ガタイがいいな?』と隼人は常々思っていたし。
なんと言っても住人に大変頼られていて、力仕事の手際もロバートは半端じゃない。
住人同様、隼人もかなり信頼を持っていた。
しかも……日本語も大変流暢だし、かなり日本慣れしているのだ。
こんな管理人を良く見つけたと常々感心ばかりしていたのだ。
『それ! 早く言えよ!!』
隼人がどんなに突っかかっても葉月は、なんのその。
『そんな事、さして重要じゃない』とばかりに、その事が発覚しても
平然とした顔をしていたのだ。
話はずれたが……隼人が、スタジオに初めて入ったその時、
『ロバートおじ様が掃除してくれているみたい』と言う葉月の
ちょっと言い難そうに呟いて微笑んだ様子を見て、そんな事を隼人はスッと思い出していたのだ。
と……言うのも……。
新聞も取ってきてくれる。
葉月の『進入禁止』のスペース内にある『スタジオ』の手入れもしてくれる。
そういう『管理人以外の気遣い』
まさに『お嬢様付き執事』という働きぶり。
隼人はそのロバートの好意に口を出すつもりはない。
だが──
隼人にはそんなロバートの気持ちが、今なら痛いほど解るからだ。
『亡くなった上官のお孫様……頼まれているから、私が頼まれているから……』
そんな彼の心の声が……このピカピカの床から聞こえてきそうだった。
ロバートも……『御園家の苦悩』は見届けてきた一人なのだろう。
そこを信頼されて『退官後』も、『御園家』と携わる『護衛役』をしている。
そのロバートが……
『亡くなった源介中将だって、願うはず……葉月ちゃんが、ヴァイオリンを捨てないと』
そう思いながら……この床を磨いて、ピアノの埃を拭っている。
隼人にどれだけ心を開いているか、そこまで葉月に確かめたり、踏み込めない。
隼人がスタジオに出入りしている気配を感じない、隼人がその部屋の存在を知らない。
葉月が『隼人さんの入室を躊躇っている』とロバートは読みとっていたのだろう?
だから……
葉月と隼人の間で余計な波風が立たないよう……
隼人の目に付かないように……
葉月に『音楽を捨てちゃいけないよ』という『意志』を押しつけないように
葉月が勤めに出て不在の内に……
隼人の目に付かない内に……
ロバートがスタジオの床を磨いて、そして埃を拭っていたのだと。
それがすぐに隼人の頭に浮かんだほど……スタジオは右京が心配するほど汚れてはいなかった。
隼人がここで葉月に言いたいのは──。
『あのさ……葉月。ロバートおじさんは、管理人だけどな?
ここの部屋はお前がきちんと管理すべきじゃないのかな?』
『……勿論、ロバートおじ様がお掃除してくれたと気が付いたときは御礼を言っているわよ?』
隼人の『お小言』の始まりを予感したのか葉月がふてくれて答える。
『そうじゃなくて……おじさんから気にして掃除をするような形でなくて
お前がこの部屋に入って……汚れている、床を綺麗にしたい、ピアノも調律したい……。
そういう気持ちを持って、自分が仕事でその手が回せないときに……
おじさんに頼むような形に……少なくともした方が良いと俺は言いたいんだけどね』
『…………』
隼人の言いたいことは、葉月には通じているらしいが……
やっぱり何か躊躇っているようだった。
ロバート自ら気にして、自主的に手入れをしてくれるよりかは……
葉月が『この部屋に出入りして使っている』から『綺麗にしたい』と言う意志を見せて
そこで初めてロバートが動いてくれる……。
そういう形にすることが良いのではないか?……と、葉月に勧めているのだ。
そうすれば……
ロバートも、この部屋に対して『愛着』を持つ葉月の姿に安心するだろう。
それが……望んでいることだろうと思ったから……。
『……あのね? 隼人さん……』
『なに?』
葉月は隼人の進言に……何か付け足したそうだったが……
『……ううん? なんでもないわ。そうね、そうするわ。
右京兄様から、大切なヴァイオリンももらったし……
隼人さんにも……私の音楽の姿見届けてもらったし……ね?
スタジオだって……前は結構使っていたんだけど、忙しくて──』
なんだかいつになく『すんなり』進言を受け入れてくれ、
無邪気に微笑んだので、隼人は少しばかり腑に落ちなかったがそれでとりあえず『良し』とした。
それに予想したとおり。
本棚なんてなかった。
『物置よ。ここ部屋が少ないから……本棚とかいろいろね』
隼人が丘のマンション来た頃、何の部屋か尋ねた時の葉月の返事。
『物置』と言えば、隼人がそれ以上の興味を示さないと思っての答えだったのだと。
本棚はない。
だが?
『……へぇ? ソファーベッドがあるんだ』
部屋の一つの壁にこれまた大きなクローゼット。
その扉の前に、黒いチェック柄のシーツでカバーされたソファーベットがあったのだ。
『…………まぁね? 昔、右京兄様が来たときそこでよく寝ていたの』
『ああ、そうなんだ』
隼人はその時は、それで納得した。
『葉月……。別にピアノやヴァイオリンに向かうことを強制しているわけじゃないよ?』
『え?』
『でも──好きなんだろ? 解るよ。ピアノにヴァイオリンを持っている葉月の顔がそう言っていた。
それを……忘れないでって俺は言いたいだけ。
取り戻せなんて言わないよ。葉月が捨てたくない範囲だけ……保ち続けてくれたらいいんだ。
それをね? 今、自分が音楽に対してどれだけの気持ちでいるかを
周りの人間にも素直に伝える事も……心配してくれる人達の為だと思うから……』
『…………』
葉月が、そっと切なそうな瞳で隼人を見上げたので
隼人は少しばかり胸がときめいたほど。
『いつも……有り難う……。
うん──おじ様に心配させないように気を付けるわね?』
彼女がそっと……隼人の腕に額をあてて俯いた。
その小さな頭を隼人もそっと引き寄せて撫でてみる。
『あのさ……ピアノ。少しでも良いから教えてくれない?』
『ええ!? 隼人さんが弾くの!?』
突然の申し出に葉月が途端に引っ付けていた額を離して
大きく瞳を見開いて隼人を見上げた。
『そ。及ばないけど……ヴァイオリンの伴奏をして……一緒に弾きたいなって思った』
『……でも……』
『ああ、葉月の相手には到底、成れないことぐらい解っていて言っているけど』
『キラキラ星……からの、練習でも?』
葉月が、ちょっと躊躇っていたようだが『教えても良いよ?』という答えが帰ってきた。
『当然だろ? 初心者だから……。
でも──目標は『アヴェマリア』かな? ちょっと高望み??』
隼人が照れて黒髪をかくと……
『隼人さん──』
葉月がまた……泣きそうな顔で、隼人の腕に抱きついてきたのだ。
でも──次の瞬間。
西日の中……葉月は、見たことがない様な幸せそうな微笑みを浮かべてくれたのだ。
そんな訳で……
隼人は暇があれば……『スタジオ』に入るようになったのだ。
「スタジオ……窓、開けて出かけたんだよな。俺」
「また、入っていたの? もう……」
そして今夜も──
隼人は、土砂降りの雨に床が濡れていないかと心配しながら……
早速スタジオに入ってみる。
「あ、良かった……おじさんが閉めてくれたんだ!」
先日、ロバートにさり気なく……近頃スタジオに入れるようになった事を隼人は伝えてある。
隼人がそうしてスタジオに関して、ロバートと同じように
その部屋に『空気を通して、息を吹き込もう』と
一つの部屋として扱うことに心を砕いていることが通じたのだろうか?
こうして窓を開けて出かけても、ちゃんと気にしてくれているので隼人は心が通じた気がした。
『隼人さん、ご飯出来たら内線で呼ぶからすぐ来てね!』
葉月がスタジオの入り口でそう叫んで……彼女は一人、本玄関へ向かって部屋に入ったようだ。
離れのようなスタジオ部屋なので、子機が備え付けてある。
「今日も……ちょっとだけやってみるかな?」
隼人の新しい余暇の楽しみ方。
灯りもつけずに、そっとピアノの鍵盤に触れてみる。
雨はいつの間にか止んでいて……開け放たれているカーテンの向こうから
少しばかりの月光が射し込んできた。
そんな初夏の夜──。