・・Ocean Bright・・ ◆飛べない天使達◆

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6.羽の芽

 その『指輪』は……右京に預けたもの。
 今日、葉月に会えると分かって、これをもう一度渡そうと思い、すぐに右京に連絡をして──今朝、横須賀基地の飛行場で待っていてくれた右京から、返して貰ったのだ。

『なんのつもりか知らないけど、まぁ……頑張れよ』

 彼女の従兄はそれを言っただけ。
 若槻と落ち合う前に、サッと姿を消してしまったのだ。

 だから、多くは語っていない。
 語っていないけど、右京はただ穏やかに微笑んで、隼人の背を押してくれただけだった。
 誰がこうとか、何故こうなったとか……そんな事は『今更』と言ったような顔で、色々と隼人なりの『いい訳』のような心情を告げる心積もりもあったのに、それすらも『今更、聞いた所でなぁ?』と言った風だったのだ。

 その彼女の従兄に『二人でいつか取りに行けるまで』と、預けた指輪を──葉月に、握らせていた。

「分かっているよ。もう一度、はめてくれとか、結婚を考えてくれとか……戻ってきてくれとか、そういう事じゃないんだ」
「……では?」

 訝しそうな葉月に、隼人はそっと微笑みながら……さらにギュッと葉月に握らせた。

「これから──新しく進むだろうウサギさんへの『餞』だ」
「はなむけ?」
「そう──俺とはもう、駄目でも……『勇気ある前進』だけは、忘れないで欲しくて。俺達は、もう別々に生きていくのかもしれない。だけど、今日まで、この一年ちょっと。俺とこれだけの事を得て……そこから葉月が、また、それをステップに、今よりも良き日々を探し当てるだろう、その過程に『この指輪』があって、この言葉がずっと生き残る事を……」
「隼人さん!」
「俺も──ほら、こうして持っておくよ。お前との一年間はとても楽しかった。無意味じゃなかった──俺は、お前と一緒にいたからこそ、フランスでただなんとなく過ごしていた自分を高める事が出来たと思うから……だから、お前にとってこれが良き事なら……もう、呼び戻そうだなんて思わない」

 隼人の指輪も、カードケースの片隅に忍ばせているのを、葉月に見せた。

「この気持ちを……忘れないでくれ」
「……」

 葉月がやっと、その指輪を握りしめ……ギュッと瞼を閉じた。
 そこから、スッと一筋の涙が素早く、彼女の頬を落ちていった。

「それで……お前、義兄さんを『佳い男』にしてあげろよ」
「佳い男?」
「そうだよ。お前が『いい女』であるのは、あの『佳い男』があるからだって──周りに言わせるぐらいの『女』にならなければ……」
「そうね──甘えてばかり、そして……守ってもらってばかりだものね。義兄様は、それで……悪く言われるの。私のせい……」

 なんだ、判っているじゃないか? と、隼人は意外に思いつつも──彼女も、今回はそれだけ考える事が出来たのだと安心した。
 安心したのだが──そこに、新しい『虚無感』が、隼人を襲う。
 そう……『もう、俺がとやかく言わなくても、この子は自分で考えて──自分で自分の気持ちを持つ事が出来るようになったんだ』と。

 まるで……自分の方が『妹を送り出す兄の気持ち』になっていて、ふと俯いた。
 でも……だからこそ、送り出してやれねばならない。
 こんどこそ『なにもいらない、俺の愛』を『ここに』──!

「とにかく、お前が誰を選ぼうと、この先、何に夢中になって走り出そうと……これは俺からのプレゼント。応援だよ」
「隼人さん……」

 そっとそよぎ始めた昼下がりの風に、葉月の栗毛が白い頬をくすぐっている。
 その顔で……彼女が瞳をキラリと揺らして、隼人を切なげに見上げる。
 隼人が毎日、毎日──側に置いて、愛してきた彼女の顔、その頬にそっと触れた。

「来週、最終診察には俺は行かない……」
「解ったわ……もし、があったら必ず連絡するから」
「うん」
「それから……私ね……これからなんだけど……」
「聞いた。退職を決意したんだろう? その手続きに来た時……ひとつだけ、お願いがある」
「なに?」
「せめて……式典のホストを立派にこなした部下達を、テッドや柏木を労ってやってくれ」
「……勿論よ」
「それから……良かったら。ウォーカー中佐とやろうとしていた計画のあらましがあるなら……譲って欲しい」
「……」

 そこで葉月が、急に俯いた。
 なにもかも放って出てきて、ここにきて急に思い出したかのように。
 そして、その放ってきた事の心苦しさに襲われたような顔をしていた。

「俺が……お前の分、引き継ぐから安心しろ」
「そう……」
「お前は……今まで、充分、軍隊でも頑張ってきたよ。胸を張って辞めるんだ」
「……胸を張って?」
「そうだよ。お前は望んでいない現実の中でも『頑張ってきた』のは変わりない。それを『逃げる為に軍人だった』なんて、位置づけて欲しくない。俺達、そんな『嘘』のお前と走っていただなんて思いたくない。御園葉月は『軍人を卒業する』。だけど……『御園大佐嬢』という人間に誇りを持って共に歩んできた沢山の仲間の為にも──胸張って、辞めてくれ」
「……私っ」
「……」

 急に葉月が、顔を覆い……泣き崩れ始める。
 隼人も空を見上げて、またこみ上げてきた涙を堪えた。

「いつか──お前が見つけた『音』を聞かせてくれ。いつかで……いい」

 それだけ、囁いて──隼人は背を向けた。
 『終わった』──俺がやりたかった事は、やるだけやったと思った。

「隼人さん──」

 歩き始めた隼人の背に……そんな柔らかい泣き声が聞こえた。
 だが……隼人は唇を噛みしめ、絶対に振り返らない。

「隼人さん──有り難う」

 今度は泣き声ではなかった。
 暖かみがある、彼女の柔らかい声。

「私、きっと……あなたに、あなただけに贈れる音を、届けるわ」
「……」
「無性にそんな気持ちになってきたわ……いつか、必ず……。あなたを愛していたから……」

 振り向かなくても解る。
 彼女は今、微笑んでいる。
 彼女は……今、俺が贈った気持ちを胸に、微笑んでいる。
 それが……『俺が愛した彼女』の最後の姿。
 満たされたように微笑んでくれるなら──それでいい。

 それでいいはずなのに──隼人は、やはりやるせなくなって、一人そっと涙をこらえつつ、銀杏並木の道に出た。
 もう、若槻の所には行かない。
 このまま一人で帰るつもりで、駐車場には向かわない。

 ある程度、歩き──やはり、一度は振り返った。

 だが──遠くなったベンチ、そしてその広場には……。
 もう、誰もいなかった。
 彼女の影もあとかたもなく……。

 全てが消え去った広場を眺め──隼人は空を仰ぐ。

 もう、シャボン玉もない。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 その晩──葉月は、別荘に帰ってから、疲れもあったのか夕食まで寝入ってしまい、夕食を済ませた後、すぐに入浴をした。
 今、寝室のソファーで、ネグリジェの上にきちんとお揃いのガウンを羽織って、くつろいでいる所。

 義兄の純一も、食後の『一仕事』を書斎で終えたのか、先程、バスルームに入っていった。

 東京からの帰り──義兄は、隼人との事は一切、触れてこなかった。
 勿論……葉月も。
 ただ、『今度は別れた』と言う事だけが、無言で通じ合っている。
 だからこそ……義兄はなにも触れない。

 ただ……一言『子供、残念だったな』だけだった。
 そして、葉月もこっくり頷くだけ。

 隼人は駐車場には戻ってこなかったが、若槻も理解しているようで……『戻れるわけないか』と、同情するような微笑みを浮かべ、そっとしておく事にしたようだ。
 そこで、若槻とも別れ──エドの運転で真っ直ぐに箱根に帰ってきた。

 今……葉月は、目の前のテーブルに、自分の財布を出していた。
 そこの小銭入れに、ちょっとした花柄の小さな、小さな巾着を忍ばせている。
 それを取りだしてみる。

 元々は、ピアスなどのアクセサリー小物を持ち歩く為に忍ばせている手の平半分ほどの、小さな花柄袋。
 その中から取りだしたのは、『クロスのネックレス』
 今年の誕生日に、両親が葉月に贈ってくれたネックレスだった。
 お守り代わりに、こうして持ち歩いていた。
 やはり、身に着ける習慣が続かなくて……でも、このプレゼントも思い入れが深かったので、持ち歩きたくてこうしていた。

 小さなプラチナの銀色ネックレス。
 それをそっとテーブルに広げた。
 そして、今度は……バッグの中から、グレーストライプのハンカチを取り出す。
 隼人が貸してくれたハンカチ。
 それをそっと開くと、今日、彼が『最後』とばかりに握らせてくれた『銀の指輪』が姿を現した。

「隼人さん……」

 葉月は、それをそっと指で転がしながら……眼差しを伏せる。
 哀しい──は、通り越した。
 切ない気持ちは、胸を駆けめぐってはいるが……。

 彼の最後の『愛』。

 愛される事を……こんなに心にも身体にも刻みつけてくれた男性。

 でも……もう、泣かない。
 この贈り物の言葉のように、泣くばかりでなく……葉月も、葉月なりに『前進』をするのだ。
 それが──最後、彼の愛に応えることだ。

 『ふたつの愛』は、やはり……『共にある愛は一つだけ』という答しか出してくれなかった。
 だけど……共にある愛ではなくなった『愛』は、こうして生き続けていく。
 そう……生かしていくのは葉月自身。
 そう……もう、生まれてこないけど、確かに存在していた『この子』を、自分の中で生かし続けるように……。
 葉月に『罪』とか『存在する』意味を考えさせてくれた『この子』を忘れないように……。
 この一年の愛を無にしない為にも、葉月は『前進』と言う形で、彼に報いたい。

 葉月は、そのテーブルに広げたクロスのネックレスの鎖に──そのリングを通した。
 さらさらとしているプラチナのチェーンの部分を、指でくるりと回すような手遊びをする。
 これを両親から贈られた夏の帰省。
 衝撃だったのは……アメリカ兄様の失恋で聞いた言葉。

『愛は一つじゃない。だけど、共にある愛は一つだけ』

 マイクが別れた恋人『イザベル』は、そう言って──共にある愛は、マイクではない男性として行ってしまった。
 そして、マイクの事も離れていても死ぬまで『愛している』って……言っていた。

 あの時から、葉月は『こういう答えもあるのだ』と目の前に突きつけられ、とてもその言葉は印象に残ったし、今回、何度もこの言葉が自分に問いかけてきた。

 だが──。

 葉月は、ネックレスをつまんで、目の前で揺らしてみる。
 小さなクロスには青い石、そこにまるで、何かの輪をかけたように指輪が重なる。
 それには若葉色の石がキラキラと輝いていた。

「愛はひとつだけじゃない……」

 葉月は、ふとそんな風に呟き……。

「共にある愛は、ひとつ?」

 もう既に答が出たはずの、まとわりついていた言葉に……妙な『違和感』を感じ始めていた。

 そのリングとセットにしたクロスのネックレスを、また花柄の小袋にしまい、財布に忍ばせた。

 

──コンコン──

 この寝室のドアからノックの音。

 

「はい、どうぞ……」
「失礼致します」

 入ってきたのは、ジュールだった。
 彼は頭を上げると、部屋をひと眺め──部屋に葉月しかいない事を知って、やや戸惑った様子だった。

「義兄様は……今、お風呂なんだけど……」
「そうですか……あの、こちらお嬢様ご所望の……」
「有り難う、頂くわ」

 葉月がニコリと微笑みかけると、ジュールは少し構えたようなかしこまった顔でトレイ片手に入ってくる。
 実は、葉月が自ら内線をかけて『ホットレモネードが飲みたい』と頼んだのだ。

 そのホットレモネードが、くつろいでいる葉月の目の前に丁寧に置かれた。

「メルシー」

 トレイを脇に挟んで、ソファーの傍らに直立するジュール。
 いつものきちっとしたたたずまい。
 葉月はそんな彼を傍目に、銅製の持ち手になるグラスカバーがされている透明なガラスコップを持ち、ひとくちそっとすすった。

「美味しいわ。ジュールが作ってくれたの?」
「はい」
「本当に、エドもそうだけど──あなたが作ってくれる飲み物はみんな、美味しいわ」
「有り難うございます」
「お勉強、されているのね──なんでも、洗練されている」
「いいえ」

 葉月がニコリと微笑むと、いつもはとても冷たい表情を保っている彼がすこしだけ、優しい顔をしてくれる。
 その時の彼の目はとても優しくて、彼の茶色い瞳に暖かさが灯る瞬間。

 葉月はそっとカップを置く。

「では……」

 ジュールが会釈をして、去ろうとしていたのだが。

「こちらに座って?」
「はい?」
「あなたとお話したいから呼んだの」
「!?」

 葉月は真面目くさった真剣な顔でジュールを見上げた。
 それぐらい真剣な顔をしないと、この奥深そうな彼には逃げられそうな気がしたから……。

「しかしですね……あのお困りの事なら、まず、ボスにご相談されてから」
「なにも困っていないわ。あなたとお話したいの。いいじゃない、兄様だって、直ぐそこにいて、もうすぐ出てくるんだから。別にそんなに気遣わなくても」
「……」

 彼が心底、困った顔をしていた。
 無理もないかも知れない。
 寝付き前を装って、確かに『故意あって、彼に用事を言いつけたのだ』。
 そんな葉月は、彼等に見せ慣れてきたとはいえ、薄いネグリジェの上には、これまた薄いガウンを一枚羽織っているだけ。
 胸元も、足元も、きっちりと隠して腰ひもを結んでいるとはいえ……だった。

 それで隣に座ってくれ……は、ボスがどうこうでなくても、男性が戸惑うのは仕方がないかも知れない。

 だが……ジュールはそんな躊躇いはすぐに消し去り、とても落ち着いた様子で葉月の隣に腰をかけてくれた。

「なんのお話でございましょう?」
「……」

 そんな彼の淡々とした接し方は、先程の僅かな暖かみを消し去った『黒猫部下』の引き締まった顔で、淡泊になる。
 落ち着いた対応だったが、『さっさと終わらせよう』という意気込みを密かに忍ばせている様子であるのを、葉月は嗅ぎ取る。

「レモネードも『ロイヤルコペンハーゲン』のカップで入れてくると思ったのに……」
「まさか──そこまでしません。それぞれに合った容器を選んでいるつもりですよ」

 湯気を揺らしているガラスコップを手にして、葉月が笑うと……ちょっとだけジュールが構えたような硬い返事。
 やはり彼には『これからする質問』を読みとられたと思った。
 こんな人と遠回しにやりとりしても、時間の無駄で、こっちが『丸め込まれる』ボロを出す危険性がある。
 だから──葉月は率直に尋ねる事にした。

「後で気が付いたんだけど──あのカップは、お祖母様から頂いたのでしょう?」
「……」

 一時、彼が黙っていたのだが……。

「そうです。譲って頂きました。お嬢様が気にされたフローラダニカがそうです」

 彼がやっと満面の笑みを見せてくれた。
 だけど……葉月はそこで笑顔になった彼に、息呑んでしまった。
 この葉月にも負けないような平坦顔を保っている彼が……ここで『これが私の本来の顔』とばかりに、パッと素直に笑顔を見せてくれたものだから。
 それが予想外で──。

「そう……そんなに親しかっただなんて、知らなかったわ」
「……とても良くして頂きました。孤児になってしまった私と姉にとって、レイチェル様に引き取って頂いた後の生活は……とても素敵な日々でした」
「そうだったの……」
「そのお祖母様がとても気に入っているカップでロイヤルティーを良く呑まれていた。その美しいお姿、今でも忘れません。なので、そのカップを……ねだってしまいました。とても気に入っているからとなかなか譲ってくれなくて……」

『あなたが私をドッキリときめかせる、素敵な男性になったと思ったらご褒美にあげるわ』

「……なんて、言われて」
「お祖母ちゃまが!?」

 そんなエピソードを、ジュールが急にこぼれそうになった笑いを堪えつつ教えてくれた。
 葉月にとっては凛々しく美しいお祖母ちゃまだったが──そんな孫とも言えそうな歳の男性に、そんな色めいた冗談を使っていただなんてと、やや驚きだった。

「そんな風にして、周りをちょっと振り回すのを楽しんでいらっしゃる素敵な女性でしたよ」
「もう……お祖母ちゃまったら……」

 そこでジュールの眼差しが陰った。

「どうだったのでしょう? お祖母様は私を思い描いた男性になったと認められたとお思いですか?」
「……いつ、譲って頂いたの?」
「……まだ私が若僧だった二十歳前の頃、お祖母様が亡くなる前です……。忘れてはいなかったようで、まるで形見分けみたいにして、譲ってくれたんです。それから私のコレクションのひとつになり、数々収集しております」
「そう……」
「まだ社会に出る前で、お祖母様の庇護にあった若僧の私に、譲ってくれた。認めてくれた訳ではない。ですから……余計にです。もう、素敵になったと一番言って欲しい女性はいない。だから……余計に私は、そのカップの為に、いくらでも自分が納得するまで、やっているだけです……」
「……それで……」

 それで、孫の葉月に持たせてくれたのかとそこは納得出来た。
 そして、彼が人一倍──自分に厳しく精進している訳も……。

「あのね? ジュール……あなたが私の家と縁が深い事は分かったんだけど……」
「深いという程でもありません。私はただ、お役に立ちたいだけで、長年ご縁を続けさせて頂いているだけです」
「そうでしょうけれど……」 

 義兄とジュール。
 この二人が十何年も……そう、葉月がこの金髪の男性と初めて出会った少女の頃、それよりも前に彼は深く義兄以上に御園に関わっている。
 その彼が……義兄と一緒に何年も『稼業』と『黒猫部隊』を取り仕切っているのが、どうも? 引っかかり始めていた。
 それも……ジュールが御園に関わるようになったのは? レイチェルが引き取ったからと言うではないか?
 祖母はヨーロッパを中心に事業を展開した事は聞かされている。
 確かに、ひとつの場所に落ち着いている人ではなく、鎌倉に、実家があるスペイン、ヨーロッパ、アメリカと、祖母は病にかかるまで、忙しそうな人だった。
 その繋がりが……見えてきたような気がしつつ。
 だからとて? その繋がりが本当に繋がると……ちょっと目を反らしたくなるような? そんな『予感』。

 だけど……葉月は、思い直す。
 その少しの『探求』は心にあれど、ジュールを呼んだ目的は他にあった。

「私が今日……義兄様と帰ってきて、子供が駄目になったと報告したら……あなたとても哀しそうな顔してくれて」
「……いえ、なんとお慰めして良いか解らないままで」

 でも、葉月は彼に微笑む。
 あのなんとも言えない表情を灯してくれただけで……今まで、影ながら支えてきてくれた一人でもある『影のお兄ちゃま』の気持ちは良く伝わったから。

 そして、葉月はテーブルに置いているヴァイオリンケースを手元に引き寄せた。
 それを開けて、ヴァイオリンを取り出す。

「お嬢様?」

 訝しそうなジュールをよそに、葉月はヴァイオリンを手にそっと立ち上がり、窓辺に立った。

「初めて会った時の事を覚えている?」
「いえ……その節の事は、勘弁して下さい」

 彼が気後れしたように苦笑い。
 葉月も思い出して笑い出す。
 だって……彼は、制服を着ている短い髪の葉月を『男の子』と勘違いし、義兄の『連れてこい』という命令に関して、葉月を手荒に襲ってきたのだ。
 後になって、葉月が『少女』と判った時の、彼のもの凄い驚愕した顔、葉月の頬にナイフの軽い切り傷をつけた事を義兄に怒られて、殴られた事。
 そんな事を思い返したのだろう。

 あれ以来──彼とあの時の事を話すのは、初めて。
 いや……こうして向き合って話すのも、初めてに違いない。

「あれから……あなたは、義兄様の部下とは言え、本当に良くしてくれて……今回も」
「それが、部下の務めですから。気にされる事もありません。私がそうせねば気が済まないだけの事です」
「……でもね。急に……あの朝、義兄様が言った事を思いだして」
「あの朝?」
「16歳の誕生日の朝。あなたが初めて美味しいミルクティーを飲ませてくれた朝」
「あ、ああ……」

 ジュールがちょっと気まずそうに咳き込んだ。
 その朝……葉月は、再び義兄と男と女として結ばれた後の朝だった事。
 彼がその見届け人だった事を思いだしたようで。

「義兄様が『俺の弟みたいな部下だ。新しい兄貴だと思って』と言っていたわ──。あの時は漠然と聞いていたんだけど」
「まぁ……部下は部下ですから」
「あの後、あなた、私にメモ紙くれたでしょう?」
「え、ええ──そんな事もー、ありましたね」

 ジュールは随分な昔話に、ちょっと気恥ずかしそうで、珍しく居心地悪そうに落ち着きがなかった。
 葉月は……そんならしくない彼が見られて、ちょっと密かに笑いたい所をそっと堪えてみる。

「私が学校でまだ習い始めたばかりのフランス語で『次に会う時はフランス語でお話ししましょう。それまで、頑張って精進して下さいね? お元気で』。何が綴ってあるか、家に帰って辞書で調べるまで解らなくて、意地悪な義兄様も『自分で調べろ』って教えてくれなくて。あの後、フランス語を一生懸命、お勉強したのよ。次に会った時、また、あなたを驚かそうと思ったの。私の事、男の子と間違えて本気で襲ったお返し」
「いや……本当に、勘弁して下さい」

 ジュールはまたバツが悪そうだったが……暫くして観念したのか可笑しそうに笑い出したのだ。

「お見事でしたよ。本当に、フランス語を習得されていて」
「いつも影ながらで、気が付かなかったけど──『お兄ちゃまと私』の事、本当は一番見守ってくれていたのは貴方だと思う……」
「……お嬢様?」
「有り難う」
「いえ? どうされたのですか?」

 急に神妙に呟いた葉月に、ジュールが不思議そうに首を傾げた。

「ほんのお礼。あなたに聴いて欲しいと思って……リクエスト、ある? 今ね、とても聴いて欲しいの。『私の気持ち』──まずは貴方に」
「!? お嬢様?」

 ヴァイオリンを構え、そっと眼差しを伏せて微笑む葉月を、彼が何かを悟ったが故の、驚いた顔──。
 だけど、葉月はそのまま、ジッと彼を見据えた。
 『私の今の気持ち……どのように見透かされても構わない』──ただ、ひとつ、この気持ちを音にして、まず、この『影のお兄ちゃま』に伝えてみたい。
 『音』で……『私』を──。
 私の『ほんの僅かな小さな気持ち』を……。

 すると、彼が通じたように、また──満面の笑みを優しくこぼしてくれた。

「では……『花』を……」
「花??」

 もしかしてそれは滝廉太郎作詞である『隅田川〜』の『花』? と、葉月はのけぞった。
 ヨーロピアンな雰囲気ばっちり、葉月から見てもとても気高そうで品良い金髪の若紳士が『花』なんて、日本の曲を口にしたのかと?

「お祖母様が、よく口ずさんでおりませんでしたか? 私がなんの曲かと尋ねると『花』という曲で、日本で春に聴くと私はとても素敵な気分になる。孫の右京にはよく弾かせる……と、仰っていましたから。今、季節外れですけどね……」
「そう──そう言えば、春なると右京兄様に『弾こう』と良く言われる曲の一つだわ……」

 おぼおげに、祖母が口ずさんでいたような? そうでないような?
 オチビの葉月にはおぼろげでしかないが……なんとなく繋がった気がした。
 やはり、この人は──『影ながら縁深い人』だと、葉月は頷く。

 彼ご要望の『花』──。
 葉月はヴァイオリンを顎にはさみ、ボウを弦の上に置いて、そっと静かに深呼吸。
 彼の眼差しを確かめて、息を整えた。

 静かに滑らしたボウ、それを受けて音を震わせる弦。
 流れ始める旋律……葉月の心に描いた音が、指へと伝わり、そして弦へと送り出され──空気を微弱に揺さぶり、解き放たれる。
 そして……それがきっと、彼の耳に忠実に届きますように。
 葉月はそう願いながら……何を伝えたいのか、どのように音を醸せば、伝わるのか……?
 そんな事に精神を全霊傾けた。

 あっというまに、曲は終わった。

「!? ジュール?」

 葉月も一時、弾き終わって放心はしていたが、心も呼吸も落ち着いたので、彼を見ると……。
 なんと? 彼が静かに涙を流していたのだ!?

 それは信じられない事だった。
 感情を外に出さないだろう彼が──涙を流しているだなんて、信じられない!

 だけど、彼は涙を流している自分の事を、きちんと解っているようで……。

「いえ……あまり懐かしく、そして、嬉しく思いまして。これはつい」

 なんて……今度は本来あるべき平坦な自分が崩れた事を、取り繕う訳でもなく、彼はそんな自分を笑うかのように微笑んで、涙を拭ったのだ。
 ジュールはその微笑みのまま、ソファーを立ち上がった。

「レイチェル様を思い出させて下さいまして、お礼を。いえ……それ以上にですね? お嬢様……」
「? なに?」

 まるで葉月を包み込むような優しい微笑みで、彼は真っ直ぐに葉月を見つめてくる。

「貴女のそのような音が、聴けてとても嬉しく思いました」
「そう? 良かったかしら?」
「ええ、とても──お嬢様も、本当はもうお解りなのではないですか?」
「……」

 葉月は黙り込む。
 やはり彼には『見透かされている』、もう、悟られている。
 いいや? きっと葉月がこうして『感触』を掴む前に、もう……解っていたのだと。

「ええ。解ってきた気がするわ」

 葉月も笑顔で答えた。
 すると、ジュールがとても嬉しそうに微笑んでくれる。
 だけど──瞳の奥の色はちょっとだけ、憂いているようにもみえた。
 きっと……その意味を、ジュールは良き事に気が付いたけど、それは逆にまた哀しい事を生み出すのだと。

 何かを得ると……何かを失う。

 そんな事だろう。
 葉月もだから……ちょっとだけ俯いた。
 でも、顔を上げる。
 その葉月の確固たる顔つきにも、ジュールは慈しむように微笑みかけてくれる。

「私をその一人にお選びくださって光栄すぎます。今、とっても贅沢な気持ちですよ。お嬢様の音を独り占め出来る日がくるなんて──」
「……きっと、ジュールも家族同然だとお祖母ちゃまは愛していたと思うわ」
「……お嬢様」
「これからも、宜しくね……」
「ええ……」

 ジュールの嬉しそうな顔に、葉月も自然と笑顔がほころんだ。

「お嬢様も──お祖母様のように、沢山の人を愛して、沢山の人に……今、私が見せて頂いたような夢を与えて下さいね? 私、今……お嬢様は、きっとそれが出来ると確信致しました。その音は『人を愛せる音』でしたよ……」
「有り難う……」
「私だけではないでしょう? 聴かせたい人は……。聴かせたい人に、聴かせてあげてください。私の太鼓判付きと言えば、安心して下さいますか?」
「ええ! ジュールの太鼓判なら……自信が持てるわ」
「頑張って下さいね」

 葉月は、彼に自然に……そして久しぶりに心の底から喜びが沸き上がってきたような笑顔を見せていた。
 それにも、ジュールは少しだけ……感極まったように瞳を潤ませていた様な気がしたが?
 彼はそこでソファーを立ち、『では、失礼致します』といつもの部下の礼儀正しさに戻って、去っていこうとしてた。

 だけど──背を向けた去り際に、一言。

「実は。失礼ながら──私は今回、貴女はヴァイオリンを失うだろうと思っておりました」
「!」
「二度と弾けないというぐらいに……悩まれるだろうと」
「本当に?」

 正直──そういう『葛藤』など、つい最近確かにあった事。
 今まで、それなりに未練があって傍らに置いてはいたが、思う通りに弾けなくて──それでヴァイオリンをパイロットになる前に手放したぐらい……葉月は実際に『弾きたいのに弾けない』と言う状態を長く引きずっていたのだ。
 そして、パイロットという世界も遮断して、ついに……夢でもあるのに、どうにも思い通りにする事は出来ないヴァイオリンと一対一にさせられて、苦悶はしていた。
 実際には……葉月は『既に』ヴァイオリンを弾ける弾き手ではなくなっていたのだ。手放した時点で──。
 それを『パイロット』という『逃げ道』があったからこそ──『完全に手放さなくて済んでいた』のだ。
 ヴァイオリンが弾けない心を持ってしまっても、葉月が『生きてこれた』のは『パイロット』という生き方があったからだ。
 『パイロットでなければ、ヴァイオリンを弾いていたはず』──否、『パイロットとして生きてこれたから、ヴァイオリンが弾けなくなった事実から逃れられていた』──のだ!
 それを……見抜かれていた!?

「だけど、失わなくて……貴女は得た。やはり、貴女は『レイチェルママン』のお孫様だと……」

 ジュールはそういうと、スッと去っていった。
 寝室のドアが静かに閉まった。

 葉月はヴァイオリンを手にして一人……暫く、たたずんでいたが。
 身体がとても火照っている事に気が付いた。
 『血潮』を感じていた。

 あの日──コックピットで得たような『生』の感触を。

「!」

 静かになった部屋──そこで、葉月はちょっとした気配を感じて、ヴァイオリンをケースに置いた。
 そして、バスルームに向かう。

 扉を開けてみた……。

「趣味悪いわね。そこでジッと盗み聞き?」
「邪魔しちゃ悪いと思ってね」

 目の前のドレッサーのスツールに、バスローブを着込んでいた義兄が頬杖をついて座っていて、葉月をそっと横目で見る。
 だけど、次には、彼もなんだか嬉しそうに微笑んでくれたのだ。
 葉月は思った──ジュールがそうして黙って様子をうかがっていたぐらいだ。この人も、本当は『そこを狙って』、黙って見守っていたのだと──。

「ちょっと後ろ、向いてみろ?」
「?」

 ドレッサーに座っている義兄が、なんだか悪戯めいた笑顔で、葉月に背を向かせる。
 そして、彼は葉月の背中にある肩胛骨を指で押すのだ。

「? なにしているの? お兄ちゃま?」
「なんだか、ここがうずうずしないか?」
「別に? しないけど……」
「それはおかしいな? ここに小さな白い羽が出てきているぞ。もっと出てくるようにもんでおこう」
「!!」

 葉月は驚いて……振り向きそうになったが。

「こっち向くな」

 急に……彼の堅い声。
 どこか……何かを解っているかのような静かで、そして、哀しい響きを僅かに秘めているような気もする声。
 葉月が振り向く事を許してくれなかった。
 ひたすら……肩胛骨をつぼでも押すように、押し続けている。

「お兄ちゃま……」

 まるで子供に語るような……厳ついお兄ちゃまらしくない『素敵な例え』。
 似合わなくて、いつもなら、葉月でも『なに言っているのよ』と生意気を返しそうな……そんな例え。
 葉月は俯いて、そっと静かに……そのまま暫く彼に委ねた。

「お前の中の天使の羽なのかもなぁ……」
「……」
「ジュールの言う通りだと思う。いい音だった……お前らしい、お前だけの……」

 何故か、葉月は涙を流していた。
 だけど、それをそっと拭う。

「お兄ちゃまにも、弾いてあげるからね」
「当たり前だ。ジュールに先を越されて、ちょっと腹立っている」
「お兄ちゃまったら……」

 拗ねている声に、葉月は吹き出して笑った。

「今度は、お兄ちゃまよ!」
「俺はいい……!」
「だめよ!」

 葉月はスツールに座っている純一の背に回って、同じように彼の肩胛骨を押さえてあげようとしたのに、サッと彼が立ち上がってしまった。

「黒猫に羽はいらない」
「ある猫は天使猫みたいで可愛いわよ」
「俺は可愛くはなりたくない」
「なにそれっ」

 確かに……! と、思って葉月は思わず、笑いこけてしまったのだ。
 あまりにも葉月が笑うので、最初は笑われて憮然としていた純一だったが……その内に、クスリとこぼし楽しそうに一緒に笑い始める。

 この人は羽がなくても……高い所をしなやかにのぼり、そして、音もなくくるりと舞い降りる事が出来る『黒猫』。
 この人はそれでいいのかもしれない……と、葉月は思った。

 ベッドルームに戻って……葉月はヴァイオリンをしまおうと手に取ったのだが……。
 綺麗で艶っぽいアマティの輝きに囚われた気がして……そのまま手にして見つめた。

(隼人さん──)

 いつか──彼に、彼にだけ贈れる葉月だけの音を。
 本当に『無性にそんな気分』だった。
 葉月はひとり、静かに微笑みながら──ヴァイオリンをしまう。

 まだ深夜までやりたい仕事がある……という義兄が書斎に籠もり、葉月は、一人で横になった。
 とても心地がよい寝付きだった。
 その日、見た夢は、海底に沈む『彼女と私』ではなかった。
 草原の風の中で、一緒に唄っている『彼女と私』だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 次の日、早朝──。

 純一が目を覚ますと、隣に義妹がいない。
 そして、まだ起きる時間でもないのに、何故か目が覚めた。
 部屋だってまだ暗い夜明け前のようなのだが──?

「!」

『うっ……』

 そんな微かな呻き声が、どこからともなく聞こえてくる。
 胸騒ぎがしてサッと起きあがると……その声は、パウダールームの方から聞こえてくる。

「葉月──!」
「お兄ちゃま……急に、痛くなって……」
「!」

 葉月はトイレ前の扉でうずくまり倒れていたのだ。
 急いで純一が灯りを点けると──白いネグリジェに血液が染みているのが浮かび上がった。

「大丈夫か──!?」
「だ、大丈夫……」
「エドを呼んでくる。いいか、ジッとしていろ──こういう事もあるだろうと、昨日の医師がここ近場の産科医院を紹介してくれたそうだから、安心しろ」

 苦痛に顔を歪めている葉月が、こっくりとだけ頷いた。
 純一は素早くエドを内線で呼んだ。

 恐れていた瞬間が、早速来てしまった。

 純一は、エドに言われた通りに、すぐに外に出られるようにと……とりあえず、葉月がすぐに着られそうな服とコートをクローゼットから取りだす。
 着替えを無理にはさせられそうもなく……とりあえず、持っていく事にして、純一はうずくまっている義妹にコートだけ羽織らせた。

「義兄様──いつもこんな風に……迷惑ばかりかけて、ごめんなさい」
「なにを言っているんだ」
「お兄ちゃま……ったら。私を甘えん坊にしちゃうから……私、なんでも甘えてしまって……」

 腕の中にゆっくりと起こしあげ、純一の胸にぐったりと身体を任せてくる葉月が……額に汗を滲ませながら、でも、微笑むのだ。

 今、まさに──愛した男との『結晶』が完全に消えさろうと言うのに、義妹は微笑んでいるのだ。

「生まれた、この子が私の中で『今』生まれたわ──そうでしょう? お兄ちゃま」
「葉月……」
「羽……は、お兄ちゃまが見つけてくれた羽の芽は……この子の羽よね?」
「ああ……そうだ」

 純一は、唇を噛みしめ──そんな義妹を哀しく抱きしめた。

 この日の朝──。
 その天使が旅立った。
 いや……葉月は旅だっただなんて思っていない。
 自分の中で生まれた、生まれたと……産院に行くまでもずっと呟いていたから……。

 車での移動中──純一の腕の中、朝日に照らされ始める義妹の顔は……。
 何故か神々しくて、堪らなかった。

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