・・Ocean Bright・・ ◆楽園の猫姫◆

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7.夢叶う後

 また──薄桃色の靄に包まれ、どれぐらいの時間が経ったか分からないけど──。
 おそらく朝……だ。

 葉月は、またゆっくりと起きあがる。
 昨日と一緒だ。
 ネグリジェを着ていて、裸ではない。
 そして──隣には、彼もいない。

 朝日が若草色でコーディネイトされている部屋に入り込み。
 窓の外は朝霧が立ち込め……そして、小鳥のさえずり。

 なんだか……毎日、甘い夢を見ているように、寝て、夢を見て、起きる。
 たったそれだけのような気持ちが急に湧いてきた。

「起きたのか? 本当に、物音には……」
「!」

 その言葉も……何処かで聞いたようで、葉月はドキリとして振り向くと……。
 これまた──バスタオルを腰に巻いている義兄が、バスルームから出てきた所。
 何が違うと言えば、葉月がその瞬間いる場所だった。

「おはよう」

 そして……昨日までと違う事はまだある。
 その朝日の中、葉月を見下ろして、爽やかに微笑んでいる彼がいる事。
 そして……そんな彼が、爽やかに葉月に挨拶をしてくれた事だ。
 いつもは無口で、むっすりとしていて──葉月が構わないと黙って着替え、外に出て行きそうな人なのだ。

「おはよ……お兄ちゃま」
「……なんだ」

 葉月が少し、惚けた顔でとりあえず返答すると、少しばかり残念そうに純一がベッドの縁に座りこむ。

「少しずつ、お兄ちゃまは卒業だろ?」
「え? ええ……そうね」

『あなた』

 葉月が『兄様、お兄ちゃま』以外に、なんと呼べばいいかと考えた時に、咄嗟に出た言葉。
 それを彼が、とても気に入ってしまったのだ。

 身体を重ねているその時は、気持ちが高ぶるとそう言えるようになっていた、この一晩で。
 その度に、彼はとても満足そうに──無垢な笑顔で幸福そうな顔になる。

 だけど──。

『おはよう……あなた』

 それをなんとか言おうとして……葉月はやっぱり、その言葉が言えずに呑み込んでしまった。

「ま……少しずつだな……」

 ノースリーブのシルクネグリジェ。
 胸元には、百合の刺繍がしてある。
 朝日が若草色のアップシーツを照らし、葉月はそこで日差しに包まれていた。

 その姿で、ぼんやりと純一を見つめていると、彼が少し困ったように首を傾げ、ベッドの端に座りこんでいる位置から、長い腕を伸ばし、葉月の頬をそっとなで始める。

「どうした……? つわり、大丈夫か……」
「うん……」
「朝飯……一緒に食えるか?」
「うん……」
「? どうした……?」
「どうして?」

 また葉月が無表情に首を傾げると、純一が呆れたように溜め息をついた。

「……俺は、お前には適いそうにもないかもな。本当に、昔からそうして俺を見透かしているような平気な顔をする」
「そう? 私だってお兄ちゃまに散々意地悪されたわよ。そっぽ向かれたり、無口に払われたり、一方的に置いて行かれたり」
「ああ、そうかい? ああ、そうだったかもなっ。そう……尻に敷かれる……そう思っていた」

 そうして、彼は背を向けて……なんだか不機嫌に黙り込んでしまった。
 お兄ちゃまが、子供みたいに拗ねている。

「あはっ! やだっ、兄様ったら……」
(シンちゃんにそっくり!)

 思わずそう言いそうになって、葉月は唇を噛みしめたが。頬が震えて吹き出しそうになる。
 それを誤魔化す為ではないが、シーツから抜け出して、純一の背に頬を寄せ……とうとうクスクスと笑い始めていた。

「兄様……」

 傷跡がいくつかある背中。
 葉月はその傷を、指でそっとなぞった。
 自分の肩の傷を慰めてくれるように……葉月も彼が裏世界で味わってきただろう苦痛を癒すように──。

「もう……それほど、危険な事はしない。足場もだいぶ固まってから久しい。近頃はジュールとエドなどの若い男達に任せられるようになったし……」
「そうなの?」
「部下も沢山出来たしな……」
「そう……」

 葉月はその背に口づけをする。
 彼が裏世界を行き来している危険な身である事なんて……今はそれ程、現実的に心配する感覚がなかった。
 葉月の現在の自覚は、それしかないかのように……。

『兄様がここにいる……』

 もう、それしか感じていないのだ。
 その人が『愛していきたい』と言ってくれた。
 その人が『俺の女房にする』と言ってくれた。
 その人が『もう一度、やり直そう』とヴァイオリンを取り返してくれた。

 これからは……思うままに生きていけばいい。
 この人の側で……私が信じ続けてきたこの人が側にいてくれるんだから、なにも不安なんてないわ。

 それだけ──。

『思うまま──?』

 急に何か違和感が生まれて、葉月がたった独りになった気分で、ひっそりと彼の背に首を傾げた時だった。

「やめろ──お前がそういう事をすると……」
「やっんっ!」

 振り向いた彼がふざけて笑いながら、葉月の乳房をシルクの生地の上から鷲づかみにし、ついにはベッドの上に押し倒してきた。

『私の思うまま──は……』

 その事をフッと頭にかすめたのに……。

「兄様……うぅん……」
「お前は、柔らかくて──優しい」
「……」

 葉月の唇を何処までも深く愛しながら、彼の手は、シルクの生地の上を……何処でも心地よさそうに滑り続けていた。
 それで、なんだかフッと靄が晴れたような気がした時に、葉月が捕らえた『事柄』がまた……霞んでいった。

「……ヒゲ。剃ってしまったの?」
「あ、ああ……」

 覆い被さり、唇、頬、耳元と首筋──そこを行ったり来たりしてい純一が、フッと顔を上げ、顎をさすった。
 葉月もそっと、彼の頬に手を添えて、撫でてみた。

 つるりとしている頬。
 そして──さっぱりとした彼の顔は、急に若返ったようだった。
 だから? 今朝はいつも以上に、余計に『爽やかな笑顔』に見えてしまったのだろうか? ──葉月はそう思ったぐらい。

「なんだ……お前の柔肌を傷つけているようで……」
「そうなの? 私、平気だったのに……」
「昨夜も、ここらが赤くなった気がして……」
「そう? 気が付かなかったわ」

 彼がそっとその赤くなっただろう場所、乳房の輪郭を生地の上から指でなぞった。

「私は……おひげがある兄様の方が見慣れているから。肌の感触だって……昔からの事なのに……」
「……。ま……すぐに伸びるだろうがね」
「……?」

 少し違和感が生まれた。
 それに、彼の方も急に? 何かを感じ取ったようにフッといつもの素っ気ない表情で顎をさすり……その上、結構あっさりと葉月の身体の上から離れた。

 今まで通りではない事を、急に気にしている彼が彼らしくないような……。
 いや、『義兄』らしくない……そう思ったのだが。

「そうだ。お前──早い内に、診察に行かないとな。俺も付き添えるようにエドに頼んである」
「……そう、うん。分かっているわ」
「どうした?」
「? どうして?」
「……」

 今度の彼の顔が、少しだけ歪んだ気がした。
 葉月にしか解らない、ほんの少しだけ頬の筋肉が動き、眉がぴくっと動いたような、『そんな気がする』程度の僅かな変化。

「俺が、どうした? と、聞いているのに……どうして、それを尋ね返すんだ? 俺が尋ねているんだ」
「だから──『分かっているわ』と言っているのに? どうして、『どうした?』なんて聞くの? 私の方が不思議なんだけど?」
「……」

 今度は確実に、彼が顔をしかめ、呆れた溜め息を落とした。

「それもそうだ? ああ、そう、昔からそうだったな……」
「なんの事よ?」

 唇を尖らせると、純一はいつもの素っ気ない顔に戻ってベッドから離れていった。
 今度は、葉月が眉をひそめる。
 正直、たった今──純一が何を感じ取ったのかが、この時は解らなかったのだ。

──ルルル──

 内線が鳴る。
 丁度、その電話があるサイドボードの方へと向かっていた純一が、受話器を取った。

「……ああ、そうか。解った。会うと言っておいてくれ」

 それだけ聞こえる。
 そして、彼は受話器を置くと、まだベッドの上でぼんやりとした顔で窓辺を見つめている葉月に振り返った。

「朝飯──行くか? 今日、俺は午前中は書斎で仕事をするが、午後に客が来る。お前を紹介するつもりだ」
「そう──分かったわ」
「……」

 そんな風に応える葉月に、純一はやはり何か腑に落ちない顔をしていた。

「本当に紹介するぞ。嫌じゃないのか?」
「うん。嫌じゃないわ」
「……なら、良いが」

 どちらかというと、今までの葉月なら妙な人見知りをする部分もあった事を、彼が心配しているのだろう。
 だけど──なんだか葉月は、そこで頑なになる自分を、今はとても面倒に感じていた。
 むしろ……。

「今日も良いお天気。兄様──富士山、とっても綺麗ね」

 そこで葉月はやっと彼に輝く笑顔を見せていた。

「……そうだな。ああ……綺麗だ」

 葉月の笑顔にホッとしたような、だけど、それが意外に見えたのだろうか? 彼が戸惑いの笑顔を浮かべたのを葉月は分かっていた。

「シャワーを浴びて、着替えてくるわ。そうしたら、私もリビングに降りるから……」
「わかった。先に行って待っている」
「うん」

 ベッドを降りて、葉月はガウン片手にバスルームに向かった。
 ドアを開いた時に、ふと振り返ると……今日の兄様は淡い桃色のワイシャツに、銀色のネクタイをベッドに並べてコーディネイトしている所。
 スラックスとジャケットは、毎度の如く、黒色だ。
 それを見届けて、葉月はバスルームに入った。
 しかも何故か葉月は無意識に、そこのドアの鍵を締めたのだ。

 シャワーを浴びて、クローゼットを開ける。
 今日は、シックなカシュクールの黒セーターと、千鳥格子柄モノトーンのクラシカルなスカートを選んでみた。
 そして、今日はドレッサーに向かってみた。

 静かな風の音に包まれて、そこに髪がやや乱れている自分がいる。
 側にあるミストスプレーをふりかけて、櫛でとかせば、いつものすんなりとした毛の流れが、朝日の中素直に輝き始める。

「……私じゃないみたい」

 鏡に映るそんな自分の頬に、そっと指を伸ばしていた。
 ドレッサーには、色とりどりのメイクセットが並べてある。
 口紅もアイシャドーも頬紅も──それを描く筆も各種取りそろえられていたが……葉月がそれを手にする事はなかった。
 口紅だけ──好きな色を手に取ってみた。
 いつもの淡いピンク色。自分の口に染みこむようなニュートラルな色。

『ふふ……気が付いちゃった?』 
『お前……それでどうするつもりだったんだよ!』

「!」

 ある朝の、光景がフッと浮かんだ。
 急に鮮明に──。

『もう! 急に何するのよ! せっかく塗ったのに!』
『アハハ!』

 彼の唇に……残っていた私の桜色の口紅の跡。
 そして、彼の唇が拭いきってしまった口紅を塗り直す自分──。

「!?」

 鏡の中に、白い軍服を着ている女性が、冷たく自分を見ている気がしたのだが。
 『幻』だったようで、葉月が鏡に向かった時は……淑やかな女性の姿である自分だけしか映っていなかった。

「なんでもないわ。そう……なんでもないのよ」

 葉月はムキになってその桜色の口紅で、鏡に映る自分を消すように無茶苦茶に塗りつぶしていた。
 鏡にグニャッとした口紅ラインが乱暴に引かれる、やがて……当然の如く、葉月の手元で、その口紅が折れて落ちる。
 自分で何をしているのかと、急に我に返って、手の平で慌てるように鏡をこすると……余計に鏡は、桜色のベールに曇ってしまった。
 だけど、そのベールの隙間から輝く鏡には、ジッと自分を見つめている彼女の眼差し──とても冷たく、そして静かだった。

「……」

 それで汚れた自分の手を葉月は暫く、見下ろしていた。
 葉月はただ首を傾げてみる。

 朝日の中で、そこにいる自分は……何かに押し出されて、途方に暮れているように感じていた。
 そう、つい最近──やっと何かから抜け出せたような感覚を得ていたのに、それが為に抜けきったその場所は、あまりにも自分が知らない世界のような……その世界に対して、自分自身をどう示して行けばよいのか……馬鹿みたいに分からなくて、そこから目を背けたくなるような……そんな弱々しい感覚が何処かで疼いている。

 だが──それを探し当てる間もないまま、何か大きな流れに呑み込まれて、そのまま身を委ねっぱなしのような気がするのだ。
 その『川の流れ』の早さと荒々しさを確かめるのが怖い。その流れていく自分を直視する事が怖い。直視するという事は──今ある自分の姿の危機のような物を目の当たりにする事になるのだろう?
 だから、そのまま委ねてしまう事が、今はとても楽だった。つまり目をつむっているのだ。
 『逆らう術と感覚がない』自分が、もどかしく……そして『術』というか、そこであるべき自分の足元がないかのようだった。
 それはこの『義兄』という場所の事でなく、そして置いてきた『軍』という場所でもない、もっと根本的なありのままの自分の足場の事だ。
 それが分からないまま、今は、そうして流れていく事しか葉月には出来なかった。

 『ただ委ねてみる』──それがあまりにも心地よく、そして、自分を喜ばせているのだ。
 切望した全てが、埋まっていく心地良さは何もかもが『快感』だ。
 いつも何処かで痛くてうずくまって、投げやりだった自分から解放されたかのような?
 そんな『痛くない世界』をどうやって拒否するのか? そこは、自分には適さない物、場所なのだと、今はどうはね除ける心理を持つ事ができるのか?
 心の底から『幸せだ』とは、まだ実感し得ていない。
 ただ……こんなにも『楽』で『心地よい』事はないように感じていた。

 力が入らない。
 抜け出したくない。
 目覚めたくない。
 もう、痛く感じたくない。

 まるで、起きなくてはいけないと分かっているのに、大好きな毛布にくるまって、もっと眠りを貪っていたい朝の感触に似ているように感じていた。

 葉月は鏡をそのままにして、ベッドルームに戻った。
 おぼつかない足取りは……今じゃなくても、ここに来た時から感じている事だった。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

 もう、ベッドルームには義兄はいなかった。
 窓辺側に向かい合っているソファーとテーブル。
 そのガラステーブルの上に、ヴァイオリンケース。

 葉月はそこのソファーに腰をかけて、そっと朝日の中、そのケースを開けてみた。
 朝日に、艶やかに輝く『アマティ』のヴァイオリン。
 今朝も彼女は葉月に堂々と気高く微笑んでいた。

 その彼女をそっと撫でてみると──。
 急に、朝日がくっきりと眩く感じ、外の白樺林の風景がキリッと冴えてきたように感じ始め、葉月はハッとガラス玉の瞳を見開いていた。

『あら……貴女は私を上手に唄わせてくれるの? 私は気難しいわよ』
「そうね。そんな感じがするわ」
『もう、逃げないで。ちゃんと私と向き合ってちょうだい。私は他のお友達とは訳が違うし正直よ』
「そうみたいね。貴女は嘘をつかないし、私を甘やかさない。だから……怖いわ」
『ふふ。特に今回は厳しく行くわよ』
「昔、一度──思いっきり貴女の仲間を、破壊したわ。私の憎しみが生んだ、最初の犠牲者だった。そのお友達もね、私に正直すぎて、憎くなってしまったの。愛していたから──」

 葉月はふと、昔の自分を思い出し、唇を噛みしめた。
 義兄はそんな自分を知っていると思うのだが……分かっていて、こんな名器を与えてくれたのだろうか? それとも──?

 その日の幼き自分──悲痛な声で娘を止める両親の声、そして、苦悶の表情でうなだれている両親を思い出していた。

 葉月は唇を噛みしめて、ソファーの上で独りうずくまった。
 そして──まだ自覚がないお腹を両手で抱きしめる。

 『ママ』なんて、自分から言えない気がした。
 だけど、葉月はなんだかその中に隠れている天使が、まるで叶わなかった自分の様な気がしていた。
 この子をうんと愛してあげる前に、何かしなくてはいけないような気がしていた。
 本能で愛してあげる事以外の……もっと自発的な葉月だけの愛の為に──。
 それには自分はあまりにも曖昧で、そして汚れていて、弱くて……そして、不確かに感じていた。

 どの男性と共にあるべきか……という事より、もっと以前の事のような危機感迫る物のような気がしていた。
 産むのは私自身である事は間違いないのだ──。

 そう思った途端に、幻のような別れた彼が笑ってくれた気がした。
 『今、お前がいるのはそこだ』と……勝手な解釈だろうが?

 そう感じた時に──葉月は昔、両親の目の前で、発狂するようにヴァイオリンを壊した夜の事を『真っ先』に思いだしていたのだ。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

「お兄ちゃま、知っている? 私がヴァイオリンを壊した時の事……」
「なんだ?」

 リビングに降りると、義兄は葉月が降りてくるのを待っていたのか、コーヒーだけを手元に置いて、新聞を読んでいた。
 葉月が向かいに座った所で、エドが二人の前にそれぞれ異なったメニューの食事を運んでくる。

 ジュールは毎度の如く、監督のような目線で、周囲を事細かく眺めながら、キッチンでお茶を入れている。
 そして……金髪の彼女も……。
 葉月なりに気になる部分はあるが、やや疲れ切ったような顔でも、きちんと今朝もお勤めに励んでいるようだ。

「なんだ……いきなり」

 新聞で隠れていた所を、彼がバサッとたたんで、不思議そうな顔を覗かせた。

「パパから聞いているんでしょ?」
「……」
「別にパパが何でも兄様に、私の様子を報告しているだろう事を責めている訳じゃないの──」
「別に亮介オジキは、俺になんでも報告なんかしてこないぞ」

 葉月はちょっぴりふてくされた。
 葉月の今までの勘では『父と義兄の繋がり』は、とても『怪しい』気がしていたので『嘘つき』と心の中で、ふてくされたのだが──。

「でも、そうだな──その話は聞かされている」
「あの時、パパとママの哀しそうな顔を、思い出してしまったの」
「……そうだったのか。それで……?」
「……ああせずにはいられなかったの」

 葉月はフッと眼差しをふせ、エドが運んできたパンプキンポタージュを一口すすった。
 すると、純一は新聞をたたみ、傍らに置き、手元にあるクロワッサンを手でちぎり始める。

「……ああせずにいられなかった。それを後悔しているのか?」
「……後悔しても、自分がした事は消えないわよね」
「それで、お前はヴァイオリンを壊して、どう思ったのだろうか?」
「……そうね。壊したけど、別れられなかった」
「余計に、愛している事に気が付いた。だろ? それが余計に苦しかったようだがね」
「……うん、そうだったわ」

 ヴァイオリンは粉々に砕けた。
 狂ったように、壁や机、床に叩きつけて滅茶苦茶に発狂する葉月を、両親は泣きながら力一杯止めていた。

 だが──その後、父がまたヴァイオリンを買ってきてしまった。

『葉月──嫌ならまた壊してもいいんだ。だけど……だけど……』

 父・亮介は、この頃から葉月に対してどのような言葉をかけて良いのか、分からないといったような弱々しさを見せるようになり、それにも葉月は訳もなく腹を立てたりして、そんな膨れあがるばかりのコントロールが出来ない『熱くて黒い自分』を持てあましてばかりだった。

『だけど……だけど……』

 と、もどかしそうに何かが言えない父の顔。
 今の右京のようにとても若くて美しい男性の顔が、弱く哀しいばかりに歪んでいる。
 そんな記憶が蘇って、葉月は目をつむった。

「お兄ちゃま──自分がしてきた事が、急に怖いわ」
「葉月……」
「なにもかも……」

 フッと涙がこみ上げてきた。
 だが、葉月は慌ててそれを拭う。
 泣く事など──許されない気がするのだ。

「お前、泣きたい時は泣いた方が良い。俺が言うのもなんだけどな」
「……」
「今、怖いと思っている事もそのまま感じていればいいだろう? やがて、素直に自分で受け止めた事は、ちゃんと良い形に変えられる。意固地に曲げなければだが──」
「兄様──?」
「ま〜これも、俺が言うと説得力なさそうだな」
「……」

 とぼけた顔でコーヒーを飲む義兄に、葉月は思わず笑ってしまっていた。

「本当よ……」
「だろう?」

 ニコリと彼が微笑むと──目尻にシワが寄っていた。
 葉月は、彼のそんな笑顔が急に眩しく見えて、目を細めた。
 だけど、そんな義兄が急に真顔になって葉月を見据える。

「葉月──今、自分がどうなっているのか、という不安はもっともだろう」
「私がどうなっているのか?」
「出来れば、そういう自分をいつものように隠して、見過ごさないようにして欲しい」
「──?」
「だが、少なくとも……お前は俺とは違って、それがちゃんと出来るはずだ。『向き合えば』だがね」
「あの……」

 急に、いつもの大人の義兄の顔で、何かを諭そうとしている純一の言っている事が──葉月には心に引っかかるのだが、理解が出来ない。

「今までは仕事や戦闘機に乗る事で、そんな見たくない自分を誤魔化してきたはずだ。そうだろう? 良い機会だ。何もなくなった自分に不安を感じてるはずだ。しかし、それがお前だと思うぞ。置き去りにしてきた自分が顔を出し始めているのではないか?」
「!」
「今は、そういう時間であって、お前にはいつか必要だったのかもしれない。俺はそう思っている」
「なにもなくなった私の姿?」
「そう、なんというか、『走らなくても良くなった、止まっても呼吸が出来る葉月』と言うべきか? きっと……あの男……」
「あの男?」
「いや? 独り言だ」

 純一は、今言いたい事はそれだけとばかりに、また新聞に顔を隠してしまった。
 『あの男』と言いかけていたが、葉月には義兄が『隼人』を思い浮かべていたのだろうと予想が出来た。

 その時、ふと思った。

 『空母艦で出会った二人は、何を話し合ったのだろう?』──と。
 でも、今は問いただしてもはぐらかされる気がして、葉月は大人しく食事をする。

 今日はこのポタージュにトマトジュース、そして──生野菜がちょこんと添えてあるスクランブルエッグが、葉月にこしらえてもらえた朝食だった。

 そのスクランブルエッグを一口、頬張り、葉月は眉をひそめた。
 目の前にいる義兄を見つめると、彼は新聞片手にフォークで器用に、そのスクランブルエッグを口に運んでいる。

「ね? お兄ちゃま、いつもこういう味付けがお好みなの?」
「うん? ああ……これか? そうだ」
「ここにいる皆さんもそうなの?」
「いや? 俺の好みかな?」
「そう……」

 そのスクランブルエッグは、ちょっとした塩味だった。
 義兄らしいと言えば、そうであって、妙にぼやけたふんわりとして甘みがある卵より、塩気があるのが好みと言えば彼らしい。

「ああ、なるほど。お前はプレーンの方が良かったか。エドが俺に合わせてしまったのだろう」
「ううん……別に良いの」

 そのスクランブルエッグは、一口頬張ってやめてしまった……。
 『彼』のスクランブルエッグはとても美味しかった。
 プレーンと言っても、甘みがあって、ふわふわで、いつも朝日の中で黄金色──。

 葉月はポタージュとトマトジュースを飲み干し……すぐに席を立った。

「お嬢様──明日はそのようにお作りしますね」

 一人で二階に戻ろうと階段へ向かう時、エドがそんな気遣ったひとこと。

「いいの。義兄様と同じにして……」
「あの……? お嬢様」

 訝しそうなエドを置いて、葉月は階段を上がり、妙に駆け足のようにベッドルームに戻った。
 そしてまた、眩い光がこぼれるソファーへと身を委ねる。

「……ごめんなさい」

 今になって急に、涙が溢れてきた。
 今度は素直に泣いておこうと思う。

 もうどんないい訳も通用しない。
 涙で自分を慰めようだなんて事をしたくなくて、平気な振りをしていた。
 自分の裏切り。
 こんなにも『自分本位』になるという事が、この上ない『我が儘』で『罪』だという事を、飛び出してから今、涙を我慢せずに流した事によって、初めて感じたように思える。
 だけど、涙は正直な自分の感情であると、先程、義兄が教えてくれたから──。

『ねぇ……俺と葉月の子供ってどんな子かな? 黒髪かな? ママにそっくりな栗毛かな?』

 いつだったか──彼とそんな機会があった時、彼がそう言っていたのを葉月は思い出していた。
 今は、それだけ……ただ、子供という理由一つで、裏切った彼の下には、今更帰れないだろうとも、思ってた。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

 義妹が、ヴァイオリンを弾いている音がする。
 純一は、その音を聴きながら書斎でいつものようにノートパソコンに向かい合っていた。

 手元の内線電話が鳴る。
 それをおもむろに手にした。

「なんだ」
『あのお部屋のお掃除をしたいと思っているのですが──』
「分かった。義妹にリビングに行くように言っておく」

 エドからの連絡だった。
 純一は机から立ち、寝室へ向かう扉を開けた。

 昼へと勢いよく輝く日差しの中、窓辺で栗毛の義妹がヴァイオリンをひたすら弾いている姿。
 その後ろ姿は、純一が憧憬してきた『ミューズ』の香りを漂わせていたのだが……。

「葉月……」

 声をかけたが、義妹は聞こえなかったのか……聞こえているのか?
 純一が聞いた事がないカントリー調の曲を、取り憑かれたようにヴァイオリンで弾き続けている。
 結構なアップテンポな曲で、それを楽譜なしで弾きこなしている所を見ると、彼女自身が気に入って、手にしては弾いている曲なのだとうかがえた。

 アップテンポな曲でも、雑味なく弾きこなしている所は流石だと、純一は思ったのだが……。
 窓辺に映っている義妹の顔つきが……妙に鬼気迫っているような? そんな気迫を垣間見た気がして、やや心に引っかかる。
 それは純一のミューズにはほど遠い……いつもの義妹の姿だった。
 暫く、純一はひたすらヴァイオリンを弾いている彼女を、静かに見守る──そんな義妹をとても愛おしく、そして切なく思っている自分がいるのも確かなのだが──いつもこう言う時は、心が痛く、哀しくなってしまうのだ。

「葉月!」

 少し強めに呼ぶと、やっと葉月が振り返った。

「なに?」
「……」

 義妹は実に、色々な顔をする。
 愛らしいばかりの無邪気な笑顔の時、憎めない悪戯な眼差し、急に大人びる濡れるような瞳……頼りなげな儚い憂い顔、かと、思えば……。
 今のその顔は……何か深い溝を泳いでいる最中に呼ばれて水面に戻ってきた……という、彼女自体、気が付いていないと思うが、そういう息を止めてまで、彷徨ってきたという『力み』を感じる顔で。
 そんな顔をしている義妹は、軍人である時、いや……事件に巻き込まれて後、よく見せていた顔だった。
 しかし、純一は、今はそんな義妹を触らずに、そっと素知らぬ振りで流す。

「エドが掃除をしたいそうだ。終わるまでリビングで待っていろ。──それに、最初からそんなに根を詰めるな、少し休め。気分は大丈夫……」
「分かったわ。気分は大丈夫──」
「そうか……」

 きっぱりと払われるように言われた為、やや気に入らない所ではあるが、純一にとっては、そんな義妹は今に始まった事ではない。

 葉月はヴァイオリンをケースにしまって、サラッと一階へと行こうとしている。

「何という曲だったんだ? 聞いた事がない」
「アゼリン=デビソンのムーンライトシャドウよ……」
「覚えておこう」

 そういうと、義妹はいつもの優美なニッコリとした笑顔を浮かべて、ベッドルームを出て行った。

「……」

 純一は伸びかけている黒髪をかいて、ひとつ溜め息を漏らす。

 そして、再び書斎で静かな音の中、今度は書類を眺めていると……。

──コンコン──

 今度はノックの音がしたのだが。

『ボス……今、宜しいですか? こちらに来て頂きたいのですが……』

 妙に息詰まったようなジュールの声が聞こえて、純一は立ち上がり扉を開けた。

「なんだ……」

 そこにはエドとジュールが顔を揃えている。

「こちら、パウダールームに来て頂けますか? エドが見つけて、私に教えてくれたのですが……ボスが見られた方が宜しいでしょう」
「? どうした?」

 息詰まった声の弟分ではあったが、彼の顔つきはいつも通りに平坦で冷静だった。
 そんな弟分の顔は、よく義妹と重なる時もある。
 むしろ、エドは僅かでも顔に出る方で、分かりやすい……だから、エドはやや戸惑った顔をしていた。

 部下の二人と共にパウダールームに向かうと……。

「!」

 扉を開けてすぐ正面にあるドレッサーの鏡。
 その鏡が、桜色の口紅でいっぱいに塗りつぶされていて、そして……下には折れたままの口紅が落ちていた。

「……あのように平気なお顔をされていますが、少しずつ波がそよいでいるのでしょうか?」

 ジュールが哀しそうに溜め息をつく。

「……エド、貸してくれ」
「いえ……私が拭きます」
「いいんだ。貸してくれ」

 エドが持っている布巾を、純一は手に取り、身を乗り出して鏡を拭き始める。

「こんな事は今に始まった事じゃない──お前達も、狼狽えないようにして欲しいのだが」
「……解っています」
「勿論です、ボス」

 素直に二人が返事をしてくれる。

「こうしてサインを出してくれるだけ、マシな方だ」

 純一は力を込めて……義妹が、きっと無意識だっただろう心の波を指先に込めて、ここにぶつけていた『心模様』を拭き取る。

「あのボス……」
「解っている。俺がこうさせているのだろうな……今ではなく、ずっと前からだ」

 ジュールが何かを言おうとしている所を、純一は静かに遮った。
 淡々と……義妹の心にかけてしまっている靄を、純一は一生懸命に拭い取るように、力強く拭き続けた。
 純一が何を考えているか推し量る為に、いつも何かと、小言にてカマをかけてくるジュールが黙り込んでいたのだが──。

「別にそういう事ではなくて……」
「あの男も……いや、彼もきっとこういう葉月を預けてくれたのではないかと思っている。俺でないと駄目なのだと……そういう事を言いたいのだろう? ジュール」
「!? ボス……?」

 すると、純一が思ってもいなかった意外な反応をジュールが示した。

「……そうですね。お嬢様、昨夜はお幸せそうでしたからね。どれだけお心が満たされた事か……。勿論、貴方もでしょう」

 ジュールが何か不安そうに眼差しを伏せる。

「そこから始まると思っての覚悟を決めた告白のつもりだった。本気になると言う事は、逆に本当の答を知るという……実際は、とても勇気がいる事だ。俺はそこのスタートを切ったとは思っていても、あれがゴールだとは思っていない。むしろ、今からだ。きっと──葉月は勿論、俺自身も……。ジュールお前はそう言いたいのだろう?」
「……ええ」

 ジュールはそこも、妙に力無く頷く。
 純一は全てを口にはしたくなかった。
 そして──その訳を弟分のジュールは、よく解り得ているようで、彼も何も言わない。

『葉月の気持ちを……満たしてやってくれよ! 葉月のその気持ちが満たされたら──“答”が出るじゃないか!? 』

 鏡を拭き続ける純一には……そんな『あの子』の声が響いていた。

 拭いても……口紅の油分はなかなか綺麗に拭いきれずに、桜色のベールが消えても鏡は曇ったままだった。

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