・・Ocean Bright・・ ◆ウサギ覚醒◆

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16.甦りの彼

 駐車場に停めてある赤い愛車に葉月は乗り込み、急ぐようにエンジンをかけた。

『キキッ!』

 急ぐあまりに荒っぽい運転になり、タイヤが鳴る。
 しかし、それでもアクセルを強く踏み込み、ステアリングを回す。

 もう……周りの景色も、人々も見えていなかった。
 もう……自分が日常いるこの基地に対する思いも──。

 すべてが真っ白に──葉月を前に向かわせている。
 こういう気持ちを、葉月は隠していたのだ。
 こういう気持ちを、ずっと抑えてきたのだ。
 感じないように努めていた。
 むしろ、そんな自分の事を考えた事もない。

 だが──きっとこういう事だったのだろう。
 周りが見えなくなる程、馬鹿みたいにこんなに夢中に、男性の為に走った事があるだろうか?
 葉月はずっと前から、何年も前から、こうして走りたかったのだ。
 ただ一人の男性の下へ、行きたかったのだ──。
 これが、葉月の本当の姿なのだ。
 今は──他の自分には成り得ない。
 それは嘘になる。
 嘘で笑って幸せな顔をしても、相手を傷つけるだけだ。
 結局、隼人を傷つけた事には代わりはないが、あのまま真っ直ぐ彼と結婚しても……やがては?

 それなら、たとえ『お前の選択は間違っている』と言われても、このどうしようもなかった消せない気持ちがある限り、やっぱり『間違うしかない』のだ──『消せないのなら』!
 罵られても良い。見限られても良い。
 この気持ちとは『決着』をつけなければ、前に進めない。
 それだけは分かったから──!

 警備口が目に入り、葉月はIDカードを急いで差し出す。

「あの……もう、お帰りなのですか?」
「ええ、急用があるの」
「そ、そうですか……」

 式典だというのに、連隊長とも親しい大佐嬢が基地を早々に抜け出す姿に、警備員達は訝しそうだった。
 だが──葉月は、それすらも、一つの流れと取るかのように、それこそいつもの無表情で通り抜ける。

 『置き去り岬』までは、そうは遠くない。
 繁華街を抜け、養殖場がある海沿いを抜け……観光地集落も通り抜け……途中から一つの峠道に入る為に基地から真っ直ぐ海沿いに進んできたこの道を曲がる。
 峠を登ぼる……徐々に景色が開けてきて、葉月が今いる道、ガードレールの向こう下界には、海が広がっていた。
 空は真っ青な秋晴れで、上空には、この季節特有の気流に流され、うっすらと筋を描いている雲がたなびいている。
 まだ緑が青々と茂っている小笠原の峠道。
 そこを上がりきった所に……この雄大な海を見渡し楽しむ為の『展望駐車場』がある。
 その駐車場から、徒歩で、岬に……その岬には灯台があるのだ。

 葉月がいつも置いて行かれるのは、その駐車場。
 今まで義兄と会う時は、彼は用意周到に、葉月が都合良いまとまった休暇がある時を調べてくるようで、その休暇中、葉月が一人で外に出かけた時を狙っていたように、突然目の前に現れ、しかも有無も言わさず眠らされ──そしていつの間にか目が覚めると見当がつかないようなホテルや別荘にいる事が多かった。
 時には何処にいるか判ったものだが、帰りも眠らされる。まるで葉月を運搬してきたルートや方法を知られたくないように──。
 そして、別れはこの『置き去り岬』が多かった。
 どういう訳か、そこには葉月の愛車が準備してあり、目が覚めるとそこに一人きり乗せられている事が多い。

 あれだけ、楽しい時間を過ごした義兄は何処にもいなくて……置いて行かれて、葉月はいつもそこでひとしきり泣いてから、なんとか元の日常へ……丘のマンションに戻り、そして朝が来たら基地へと向かっていた。

 ある時から、別れ際に眠らされる事を力一杯抵抗するようになると、結局、移動中は眠らされるが、車に一人きり置き去りにされることは無くなった。
 赤い車の中で目が覚めると、助手席には目覚めるのを待ってくれるようになった義兄がいた。

『行かないで──おにいちゃま。私を連れて行って』

 同じ事だった。
 ひとしきり泣いて一人で帰っていた時と、同じ事だった。
 むしろ、目が覚めて、隣にまだ大好きなお兄ちゃまがいる事の方が、嬉しいのは一瞬で、余計に別れが辛くなったのだ。
 きっと義兄は、そんな事を分かっていて、酷いかもしれないが、葉月を一人きり車に乗せ置き去りにした方がまだ諦めがつくだろうと思っていたのだろう。

『悪いが……分かるな? 葉月』
『分からない』
『いや……お前は頭が良いから、分かるはずだ。俺と一緒にいて、お前は何をするんだ? 俺はいつも側にはいてやれない事をしているんだから──』
『……』

 都合良く言い含められている気分になった事も何度もあった。
 でも──彼の大きな優しい手が、残酷に葉月の頬を包み、頼りがいある長い指が葉月の頬を流れる涙を拭い、頭をすっと柔らかく撫でてくれる。
 そんな仕草に騙されないと何度も思ったのに、結局、こくりと頷き、義兄を見送ってしまっていた。
 数年前、遠野大佐が亡くなって暫くした頃、ロベルトと付き合う事になるまでのその間に……義兄は突然現れ、また葉月をさらった。
 その時の別れではもう……葉月は、駄々をこねるのも無力感を覚え、その時はスッと平気な顔で義兄と別れた。

 葉月はそんな事を思い出しながら……上がる峠道を走り、泣いていた。
 あれから──二年。
 お互いにゆっくり過ごしたのは、もう二年も前になる。
 それまでの間は、フランスで義兄が釘をさす程度に現れるか、任務の際の手助けで会っただけ。

 手紙を受け取って、直ぐに向かって義兄が待っているかどうかは分からない。
 でも葉月は向かう──!
 今日いなくても、明日も岬に行く。明日いなくても、明後日も行く!

 岬がある峠の頂が見えてくる。
 駐車場も助手席側に見えてきた。

『!』

 駐車場に左折すると葉月の目に飛び込んだのは──!

 黒い車が一台──ベンツが停まっている。
 そして、駐車場の崖側に広がるパノラマの海を一人見渡している黒いスーツ姿の男性が背を向けて立っている。

「──!」

 それが一目で義兄だと判った!
 葉月は、その黒い車に寄るまでもなく、彼の姿を確認した位置で、車を停めてしまった。

「お兄ちゃま──!」
「!」

 なりふり構わずに運転席を飛び降りて、葉月は叫んだ。
 すると──海を見渡している彼が振り向く。

「……」
「……」

 暫く──お互いの姿を確認するが如く、二人は動かずに見つめ合っていた。
 岬から吹き付けてくる海風の音が、遠い潮騒と共に二人の間を暫く鳴り響く──。
 だが──葉月は走り出す!

「お兄ちゃま……」

 その距離が長く思えた。
 まだ崖側の手すり傍でたたずんでいる義兄が、いつにない不思議そうな顔で葉月を見ている?
 かと思ったら──!

「葉月──」
「!」

 葉月がよく知っている大股で、義兄がこちらに向かってくる。
 葉月は走っているのに、彼が向かってくる足並みの方が早く感じたのは何故だろう?
 今度はそれが不思議に思えて、葉月の足下が止まった。
 止まったが──。

「葉月──すまなかった」
「!」

 止まってしまった位置にはもう……義兄が辿り着いていた。
 そして──岬から吹きすさぶ風の音が響く中、葉月は彼に抱きしめられていた。

 目の前に黒いジャケット、煙草の匂い。
 そして──彼が良くつけているマリンノートのフレグランス、そしてちょっとだけ汗の匂い──それが葉月を急激に取り巻いた。

 その香りは懐かしくて、そして──葉月の周りにある全て……何もかもを見えなくしたり麻痺させたりする麻薬のような、魔法にかけられたような感触に陥ってしまう香りだった。

「信じられない……お兄ちゃまが、私より先に来ているなんて──絶対に何日かは待たされると思っていたわ」
「そうだな……そう思われても仕様がないな」
「そうよ──お兄ちゃまはいつも勝手で突然で……待っている時は来てくれないくせに、思ってもいない時に来るんだから……」

 彼が着ている白いワイシャツに、葉月は頬を押しつけ、ジャケットの襟をギュッと握りしめ引き寄せた。
 すぐにこの人が逃げないように──。
 いつも葉月には、どうにもさせないように封じ込めてしまうこの人に、引き剥がされないように──。

 だけど、葉月があまり感じた事がない彼の強い力で、抱きしめられている。
 嘘みたいだった──。
 夢みたいだった──。

 葉月がどんなに背伸びの愛をちらつかせても、それにそっぽを向けて素っ気ない素振りをされる事はしょっちゅうだったのに。
 最初から、こんな風に、葉月が必死に力を入れなくても、こんなに抱きしめられている事が、夢のようで……葉月はフッと顔を上げた。

「お前──また、俺をヤキモキさせたな。今度こそ、駄目かと思ったぞ」
「……」

 そこには、葉月が目の前にいる事を、いつも以上に実感している、感触を確かめている義兄の真っ直ぐな眼差し……そして、葉月の頬を大きな手で撫でては離さなくなった。

「でも──私、生きている」
「ああ……」
「お兄ちゃまに会えた──」
「……葉月」

 生きて帰って……彼に会って葉月がしたい事。
 それが今、目の前にある。
 言葉にも行動にも今すぐには出来そうにない。
 溢れてくる熱い気持ちが、ただ涙になって流れ、それが義兄の浅黒い指に伝っていく。
 そして、彼がそれを指で拭ってくれる。

「さぁ……葉月、もうお前は待たなくてもいい」
「!?」

 義兄が穏やかに眼差しを伏せて、葉月に微笑んだ。
 普段はあまり見せてくれない……二人きりの時にやっと見られる『本当の純兄様』の笑顔。

「猫姫──俺と行くぞ」
「!」

 義兄が大海を見据えながらおおらかに微笑む。
 そして──海風が吹きすさぶ中、葉月の身体が軽々と宙に浮いた。

 純一に抱き上げられていた。

 『猫姫』──義兄が極々たまに葉月の事をそう言う時がある。

 まだ葉月は自分の気持ちを何もぶつけていないのに──義兄の方が今までにない事ばかり言うので、葉月は信じられなくて首を傾げる。
 今度、彼の顔は、葉月が見下ろす位置にある。
 そして──彼は可笑しそうに笑っているのだ。

「どうした? 嫌か?」
「お兄ちゃま……」

 その笑顔がまた憎たらしかった。
 嫌か?──なんて、ただ葉月がここに来ただけではなく、何もかも振り払って突っ走ってきただろう事は知っているだろうに!? そうして判りきっている相手の気持ちを試すように笑っているのだから!
 だから──葉月は、義兄を見下ろし……。

「なんだ?」

 葉月の切なそうに笑顔を消した顔を見て、今度は純一が訝しそうに笑顔を消した。

「そういう憎たらしい兄様でもいいわ……もう、いい」
「──んっ!? 葉……」

 葉月は純一の頭を両手いっぱいに抱きしめ、唇を押しつけていた。

「それでもお兄ちゃまを愛している、私、うんと愛している──!」
「……」
「お兄ちゃまが帰れと言っても、私、帰らない──!」
「……は、づき……」

 戸惑っている義兄の唇を、葉月は逃がさないように追いかける。
 だが──やがて……。

「ああ……俺と行こう」
「う、うん……」

 義兄は微笑みながら、葉月の熱く荒れ狂っていた唇をなだめるように優しく愛し始めてくれていた。

 やっと落ち着いて……暫く、二人は視線を絡め合っていた。
 そして、一緒に目の前の大海を見渡した。

「俺がいる世界は──こことは違う。だが──俺も決めた」
「……」

 彼の瞳が真っ直ぐに輝き──黒い瞳が透き通る。
 昔はよく見ていたのに……いつしか義兄が曇らせてしまったその眼差しが……甦ったかのように見えた。

「お前と一緒に生きる事を──俺が守っていく」
「お兄ちゃま──」

 彼も……何にも囚われない笑顔を浮かべていた。
 本当に……昔、葉月が良く見知っていたあの頃のお兄ちゃまの笑顔。

 お兄ちゃまが生き返った──。
 何故か葉月にはそう思えた──。
 闇にいた彼に光が降り注ぎ始めたような気がする。
 お兄ちゃまの大きな黒い瞳が、とても眩く見えた。

 キラキラしている息子真一とそっくりなピュアな輝き。

「行こう──」
「お、お兄ちゃま!」

 彼がキラキラと笑いながら、葉月をさらに高く抱き上げる。
 葉月はびっくりして、義兄の首にしがみついた。
 黒い車に向かいながらも、義兄も葉月も微笑みながら見つめ合ったままだった。

 黒い車の側には、栗毛のエドが控えて待っていたようだが、それすらもたった今気が付いたぐらいで、葉月はそれでやっと我に返ったぐらい。

「いらっしゃいませ──お嬢様」

 いつもの如く、彼は神妙に頭を下げただけ。

「エド──悪いが、暫く……二人きりにしてくれ」
「はい……では、お嬢様のお車をそれとなく返しに行ってきます」
「ああ。俺はこの車で後ほど、『港』にいくとジュールに伝えてくれ。夕方までには必ず」
「かしこまりました」

「……」

 『本気なんだ』と葉月は改めて──義兄が部下にいいつける命令にも、急に我に返る。

 エドが赤い車に向かい、まるで自分の車の如く、運転席に乗り込んだ。
 それを見てる間に、葉月は、純一に後部座席に座らされた。

「心配するな──あの男は、ああいう事が得意なのは知っているだろう?」
「う、うん……」

 岬任務の際、手際良く、仲間がいる現場まで手引きしてくれた男だ。
 その後も、負傷し入院している病院に葉月の様子を確かめに厳重なHCUになんなく侵入し、その上、真一を上手に純一の下に連れていってくれた男だから──。
 彼がなにげなく、丘のマンションか軍の駐車場に戻してくれるのだろうと葉月が頭にかすめた時だった。

「……あまりにお前が、まっすぐだから」
「! 兄様……」

 後部座席の扉が閉められる。
 この車の窓はマジックミラーで、さらに黒く加工されている為か、扉が閉まると少し晴天の日差しが遮光され、薄暗くなる。

 そんな中……義兄が思い詰めたように、葉月に覆い被さってきた。

「に、兄様……!」

 その内に押し倒される。
 広めの車内とはいえ、足下を弾かれた葉月のつま先は、義兄の背後にある窓辺へとぶつかった程だった。

「……何年ぶりだ」
「……に、二年……」
「そんなになるか……」
「……」

 そういいながら、義兄はもどかしそうにネクタイを緩め……緩めたかと思うと、今度は葉月の白い正装上着に手を這わせくる。
 這わせるのだが、その前に、葉月の首筋にはもう彼の吐息が降りかかっていた。

「……」

 もう駄目だと葉月は思った。
 目をつむった。
 ここが何処で、今何時で……どんな事が起こりうるか……他に誰かが来るかもしれないとか……そんな事は消し飛んでいた。
 常識とか理性という物が、自分の中から消え失せていく──なんとも甘くてけだるく、それでいて心地よい感覚が身体中を痺れさせていく事だけが分かっていた。

 ボタンが荒く外される音がする。金ボタンが一、二個、シートの下に落ちたようだった。
 うっすら目を開けると、今度は小さなボタンが飛ぶ程……シャツを引き裂かれているかのようだが、どれだけ義兄がもどかしさのあまりに、そんな乱暴に急いでいても、葉月にはなにもかもがスローモーションの様に見える。

 服を荒らされている感触がなかった。
 もう既になにもかも剥がされて、なにもまとっていない裸になっている気分だった。

 首筋、胸先──自分の肌──そして身体の奥から湧き起こる痛いような熱いような狂おしい感覚が、代わる代わる葉月を襲って、身体中を取り巻いていく。

『ああっ・・う・ん……お、おにいちゃま!』

 ある感触を感じた時──葉月は一瞬目が覚めたかのように、その感触を自分の中に自ら貪欲に取り込み吸い上げるように、自分から身体を起こしあげ、深く身体の中に取り込んだ。
 それも──目の前のこの不確かな人が逃げないように……キュッと強く締め付けた。

『くっ・・は……づきっ』

 片頬をぴくりと動かし、片目をつむった程──彼は不意打ちを食らったように、驚いていた。

 二人の動きがそこで止まった。
 いま、二人は『一心同体』になった……。
 葉月の視界にかかっていた甘く熱いモヤが少しだけ晴れる。

 そこには……我を忘れ乱れながらも、葉月だけを真っ直ぐに見つめている男性が、熱い手で、熱い眼差しで葉月の全身を心を包んでいる。

「……分かるわ」

 葉月が彼の無精ひげの顎にフッと口づけると、彼が狂おしそうに葉月の栗毛を鷲づかみにし、抱き寄せてくる。

「ああ……俺も分かる」
「あ、ああ……ん」

 今度は義兄が奪われた感触を、葉月の中で強く息づかせる。
 葉月は唇を震わせながら、背を反った。
 反ったその体勢になった途端に、はだけた白いシャツの胸元から、小さな『さくらんぼ』がチラッと顔を出す。
 それを義兄に奪われ、また身体を震わせた。

「う……あっ。あ……分かる。お兄ちゃまだって分かる」
「ああ……俺もだ。葉月の中だと分かる……お前との時だけの感触だ」
「あん……わ、私も……」
「か、変わらないな……お前も……」

『葉月──お前は本当に……どうしてくれるんだ』

 そんな事を彼が最後に呟いたのは聞こえた。
 義兄が思いっきり葉月の上にのしかかってきても、手首を強く押さえつけられても……重さを感じない程──。
 また──甘くて気だるい熱いモヤに葉月は包まれ、麻痺していく。

 その薄桃色の靄の中──まるで落ちていくような感触は、とても身体が軽く、心地がよい。
 そのまま──彼の身体のぬくもりに包まれ、葉月は落ちても彼にしがみついて……彼に抱かれて……そのまま靄の行く先になにもかも任せきっていた。 

 窓一枚の向こうは青空なのに──。
 今──葉月の目にそれは見えなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「あれ……一人なのか?」
「は、隼人兄ちゃん……」

 達也の様子を見に行き、うまくいっていると安心した隼人は、一人、カフェテリアで食事を終え帰ってきた所だった。

 すると、大佐室には『いるだろう』と思って構えていた女性ではなく、彼女の甥っ子がソファーに脱力したように座っていたのだ。

「葉月は……?」
「し、知らない……来た時にはいなかったけど、ここで休ませてもらったよ」
「……そう」

 真一は、急にしゃんとしたようにして、応接テーブルに散らかってる物を片づけ始めた。

「!」

 だが──隼人はそのテーブルの様子に気が付く。
 真一の手元には缶ジュースとたこ焼きのパック……そして向かい側にも誰かが座っていたかのように、同じく缶ジュースと食べかけの透明パック。
 それを真一がかき消すように集め出す。

「待て、真一。これはなんだ?」

 隼人が一番気になった物を片づけようとしてた真一の手首を掴む。
 細長い白い箱、そしてその側に水色の包み、そして、白いリボン……。

「俺が女の子からもらっただけだよ。お菓子が入っていて食べちゃったんだ」

 それらしい顔つきで真一が言った事──だが、隼人には違う予想があったから、聞き入れなかった。

「俺に気遣って、嘘をついてくれているのか」
「ち、違うよ──」

 少しだけ、真一が狼狽えた様子を隼人は見逃さない。
 隼人は、そのまま真一の向かい側のソファーに座りこむ。

「……ついに、行ったのか……」
「! 隼人兄ちゃん……」

 隼人が俯き、頭を両手で抱え込む。

「止めたかったさ……本当に止めたかった。だけど、俺は……」
「兄ちゃん……」

 隼人は黒髪を悔しそうにクシャクシャっとかき混ぜている。
 真一は、やはりあんなに割り切った振りをしても、本心は悲しみで引き裂かれんばかりに痛いのだと……。
 なんだかそんな彼に対して、真一は申し訳なくなってきて顔を背けた。

「ごめん──兄ちゃん。俺……行かせたかったし、親父の所に少しでもいいからいてやって欲しくて……」

 真一はついに白状してしまっていた。

「真一は絶対に気に病むな。俺が……そうさせたんだ。俺が引き留めていれば、葉月は──行かなかった。俺は彼女の事をそう信じている」
「……だったら、なんで行かせたの?」

 悔しそうに顔を歪め、俯いていた隼人が顔を上げた。
 目があって、真一はドッキリと後ずさる。

「今は──真一とのその三人の中には、入れないと思った。もう俺が来た時から、出来上がっていた三人の関係に……」
「!」

 『三人家族だよね』──先程、真一が葉月に告げた感覚。
 隼人もそれは感じ取ってくれていた事が分かった!

「なんだかその家族のような関係に、踏み込めなかったんだ──入ろうという勇気がまだ無かったのかもしれない……。それにやっぱり……」
「やっぱり──?」

 そこで隼人がまた……苦しそうに俯いた。
 もう……真一はこんなに葉月を失って苦悩しているお兄さんにかける言葉は見つける事が出来そうになかった。

 だが──急に隼人が顔を上げたのだが……。

「! 兄ちゃん?」
「いや……俺はまだ諦めていない」
「え……?」

 真一は眉をひそめた。
 真一的には、もうあの二人はくっついたら離れないだろうという気持ちで、だから葉月に箱を手渡す日までに、お別れの心積もりを整えてきたつもりだった。
 だけど──先程まで、あんなにしおれきっていた隼人の眼差しが、急にいつもの輝きに戻ったではないか?

『いや〜一段落だな! 皆、お疲れ!』
『お疲れ様、海野中佐!』

「! 帰ってきたか──」
「……」

 本部事務所から達也の声が聞こえてきた。
 どうやら、一通りのエスコートを終え、帰ってきたようだ。
 その達也の声を聞いて、隼人が完全に立ち直ったかのように『凛』としたのだ。

「達也には俺から言うから──真一はなにも心配しなくて良いよ」

 笑顔のお兄さんではなくなっていたが……妙に隼人が強く甦ったような気がして、真一はただ唖然としてしまった。

「ただいまっと! ああ、兄さん──帰ってきていたんだ。そうそう! 今から親父さんとおふくろさんがこっちに来るとか言っていたけど、葉月は何処に行ったのかな? アイツ、まだ帰ってきていないのか?」

 大役を済ませ、上機嫌で達也が大佐室に戻ってくる。

「達也……」
「ん?」

 それとは対照的に、隼人の方が『今からが本番』とばかりに真剣に表情を引き締めていた。

「葉月が──行った」
「え? 何処に……」
「アイツが望んでいた所に──つい先程だそうだ」
「!」

 達也の表情から笑顔が消える。
 そして……達也は、そこに座っているだけの真一を確かめるように見下ろしてくる。

「真一……?」
「俺……行かせたかったから、行かせた」

 真一はハッキリと達也に答えた。
 甥っ子自らの意志に──達也がもの凄く驚き……暫し、固まってしまう程、ショックを受けた顔をしていたのだ。

「だから、今からご両親が大佐室にこられても、お嬢さんはいない。連隊長にはとりあえず本当の事を言うしかないだろう」
「言うしかないって……!」
「正直──この事は、俺達より、連隊長の方が良く解っているはずだ。ご両親にもそれで耳にはいるだろう。後はあちらのご事情だ──」
「……! じゃぁ……とりあえず明日、月曜日は今日の振り替え休日だから良いけど……もし、葉月が帰ってこなかったら週明けからどうするんだよ!?」
「どうするもこうするも──やるしかないじゃないか」
「やるって……? 葉月はまだ行ったと決まっていないじゃないか? たった今出て行ったけど、帰ってくるかもしれないだろ!?」

 狼狽えている達也に対し、隼人は益々冷静に落ち着くばかり──。

「いや、帰ってこない。二人が再会したらどちらも離れないだろう。特に兄貴の方が離さないはずだ」
「なんでそんな事が判るんだよ! 今まで葉月の事は引き寄せても、突き放してきた野郎なんだろう!?」

 達也は思いっきりそう叫んだ後、ハッと真一に対して申し訳なさそうな顔になったが……

「そうだよ、そういう親父だよ。でも……」
「そうだ、今回はあの兄貴は本気だ」
「何故……解るんだよ!?」
「俺に面と向かってそう言ったから……」
「! いつの間に!?」
「訓練で手傷を負った時──空母艦で」
「──!!」

 やっといきさつが解り、当人男同士でもそういう話が取り交わされていた事に、流石に達也も黙り込んでしまったようだ。

「とりあえず、十日……。なんとか誤魔化す。疲れが出て、鎌倉に急に帰省したとでも、でっち上げればいいだろう。連隊長にもそう提案する」
「葉月が帰省──!? で、誤魔化す!?」

 落ち着いている隼人は、まるで『用意』していたかのように、事を推し進めようとしているので、真一も驚いた。

「彼女──今まで、自ら望んでこの職務を歩んでいたはずだけど。いいんじゃないか? たまには自分の為の充分な時間を取らせてあげても。彼女は今まで、充分に頑張ってきたんだから好きにさせろ」
「兄さん……?」

 隼人のその言葉は……もう恋人でなく『側近』だった。
 そこは真一にも解ったし、達也にもそう感じ取れたようだった。

「だけど──俺は待つ。俺が信じているのは、大佐嬢の彼女。彼女がその自分を思い出し、戻ってきてくれる事を……」

 隼人は、大窓から差し込んでくる日差しの下に君臨する主が不在になった大佐席に、視線を馳せていた。

「もし──彼女がその自分を捨てても、それもいいだろう。だが、それがハッキリと判るまで、俺は彼女のこの場所を守る」

 そして、隼人は次には差し込む光を遠い眼差しで見上げた。
 それもとても透き通っている眼差しで。

「十日で戻ってこなかったら、次は二週間──なんとかやるんだ」
「……解った。俺も……葉月が帰ってくる方に賭ける。ほとほと自分でも呆れるまでな」
「サンキュー。達也」
「当たり前だろ!」

 そうと決まれば……と、二人の側近は急に慌ただしく動き出した。

「俺から連隊長に連絡する」
「解った──俺は親父さんとおふくろさんに連隊長室に行くように案内してくる」
「あちらが落ち着いたら、俺達は大佐不在の本部業務の体勢を整えよう。ジョイならこの事情も良く解っているだろう」
「解った、行ってくる!」

 達也が再び慌ただしく大佐室を出て行った。

 隼人は既に……いつものように側近席に座りこみ、ノートパソコンを開けた上に内線の受話器を手にしていた。

「ああ、真一。後で模擬店の様子を見に行くよ。困った事があったら遠慮せずに、言ってくれよな」
「……」

 笑顔はなかったけど、隼人の気遣いは充分に真一には伝わってくる。

「うん……有り難う」

 真一もそれしか言えなかった。
 もう……それ以上、隼人がしている事はなんだか見ていられなかった。

 やっぱりなんだか寂しかった。
 やっぱり大好きな叔母がいなくなった事。
 大好きなお兄さん達が、彼女を守ってくれている事。
 でも──父親にも幸せになって欲しい事。

 自分にはどうにも出来ない気持ちが、もどかしくて哀しかった。
 だけど──真一は心を強くする。
 これがなければ……同じ事が繰り返されていたに違いないと。

 真一は隼人のように葉月が戻ってくるとは思っていない。
 それ程、父親と叔母が愛し合っていると思っているからだ。

 真一はテーブルの上を片づけて、そっと大佐室を出る。
 今から、ロイおじさんにもお祖父ちゃんにもお祖母ちゃんにもばれてしまうのだ。
 とりあえず、祖父母の所に後で行く事になるだろうが、真一は模擬店という使命に戻る事にする。

 

 そして──隼人は受話器は手にした物の、暫くは窓辺を見つめていた。

『葉月──今からだと俺は信じているからな』

 隼人は先程、彼女が愛してくれた唇をそっと指先でなぞった。
 確かに……彼女は他の男も愛しているが、隼人の事も決して忘れてはいない事。
 それは通じている。

 彼女が『出来るはず無かった事』を現実体験して……どんな答を出すか。
 隼人の予想は、彼女と彼の長年の不朽の想いが結ばれた事では終わらせていなかった。

『これでも俺も……葉月の直ぐ側で毎日、彼女を見守ってきたんだ』

 隼人が信じている彼女が存在するならば──。

 隼人の勝負は、葉月の想いが叶った後だった。
 前からずっとそう思っていたから──。

 彼女がいるはずの大佐席はまだ日差しの中、輝いていた。

 
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