式典前日──最終調整に入ったコリンズフライトチームの通常訓練が終わり、葉月は一人、ロッカールームでシャワーを浴びて、着替え終わった所だった。
「お疲れ様です〜お邪魔します」
「お疲れ様。今、上がりなのね」
「はい! サワムラキャプテンも今、隣のロッカーに入った所ですよ」
今まで、この時間帯にロッカーを使っていたのは、葉月一人だったが、1ヶ月前から『仲間』が出来た。
隼人のチームに入ってきたトリシアだった。
彼女はショートカットの小さな頭に被ってる紺色のキャップをサッと取り払い、ぷるぷるっと、柔らかい金髪を振りながら鏡の前に置いた。
「いつまでもここは日差しが強いですね」
「本当──訓練に出ると汗まみれよね」
「──ええ。甲板も照り返しの熱気がすごいですもん──」
彼女も色が白いが、流石に、頬が赤く焼けてしまい、汗びっしょりであったが、爽やかな初々しさを見せている。
ニコリと微笑むトリシアは、葉月から見ても、とても真っ直ぐそうで明るい。
葉月は時々、そんな女の子の素直な笑顔を見ると、ちょっと羨ましくなる事もあるが、そんな彼女の笑顔はとても好感が持て、とても好きになっていた。
だが──着替え終わり、いつものお着替えバッグを手にした時、トリシアの視線がチラリと葉月の手に走ったのを見たような気がした。
「なにかしら?」
「いいえ? 素敵なバッグだわ……と思って……」
「……有り難う。親戚からのもらい物なんだけどね」
確かに──右京がプレゼントしてくれた、近頃、二十代の女性に流行だとか言うブランド品ではあるのだが……。
判っている──彼女は葉月の『指』を見たのだと。
キャプテンの指にも、そしてその恋人の自分の指にも……堂々とつけていた銀色の指輪がなくなっている事。
それが──チーム内で密かに『話題』になっている事も気が付いていた。
『大丈夫なの?』
そんな気配に気がついていたのだが、今朝、訓練に出かける隼人を追って、思い切って一言、尋ねてみると──。
『ああ。おおっぴらには訳は話さなかったけど。デイビットには、“お互いに話し合った結果、早すぎたし、職場での距離が近すぎる為、ポジションを第一に考えてやめた”と言ってある。心配するなよ』
と──そんな返事が返ってきた。
葉月もそれで、頷いておいた。
全て──隼人に負担をかけて、そして、全ては彼がそんな風に手を尽くしてくれるばかり。
事の発端は、全て『我が心の不始末』であるから、申し訳ない事、この上なかった──。
何時、何処で……どうすれば……隼人をこんなに傷つけなくて済んだのだろう──。
このごろ、そんな事を考えては、義兄との『関係』をどこでどうすれば、こんなに周りを巻き込まなくて良かったのか──なんて、今更と言われそうだが、本当に今更ながら、葉月は初めて向き合って考えていた。
おそらく──今までは『自分の気持ちだけ』しか考えていなかったのだろう。
ロイの言葉も無視した。
右京の許容あるが、リスクを考えての従妹へのごく平凡な女性としての選択についてのヒントも見過ごした。
最後に兄達は、もう……『葉月の思うままに──』と手放そうとしている。
そこに至るまでも──葉月は何も振り返ることなく、自分の気持ちをそれ程外に出していなくても、滲み出てくる『頑なな主張』を貫き通した事になるのだろう。
右京が言う所の『リスク』すら……考えた事はなかった。
本当に『自分の気持ち』に素直にとは言え、それは隼人という男性を『恋人に』と迎えていた自分にとっては『迷惑をかける』結果だったのだ。
『あの……本当にごめんな・・さ・・』
『やめてくれ』
申し訳ない気持ち、そのままを口にしただけなのだが、それすらも、隼人は言わせてくれない。
彼の今の傷ついた気持ちを思えば、かえって、失礼である事も解っていたが、言わずにはいられなかったのだ。
だが──隼人がいう事は、やっぱり少しばかり違っているのだ。
『言っておくけど。お前に謝ってもらう筋合いはないよ』
『どうして?』
『俺からお前を手放したんだから──。お前が捕まえていて欲しい、兄貴にはもう会わないと心に言い聞かせて努力してくれている時でも、俺は納得できなかったんだ。お前を“行かせようとしている”のは、俺なんだからな──』
『まだ……行くとは決めていないわ』
『それも分かっている。でもな……たとえ、お前がここに残る事を選択しても──』
そこで隼人が口ごもったが、葉月を真っ直ぐに見下ろしてきた。
『もう、俺達は──元には戻れない。あの丘のマンションで幸せに暮らしていた俺達は、もう……すぐには戻れないんだよ』
『──!』
『あるとしたら、もう一度、スタートだな。もう一度、同僚からだ──。お前だって、直ぐに俺の所に飛び込むのは、虫が良すぎると思って、直ぐには帰ってこられないだろう?』
『……』
その通りなので、葉月は俯いた。
『その時は、また──気持ちが絡まり合うまで……お互いにじっくり考えよう』
『……』
それも──『残る』を選択した場合には、そうなるだろうと葉月も覚悟はしていた。
『俺──たぶん、俺らしくなかったな』
『え?』
今度は隼人が……申し訳なさそうに黒髪をかいていた。
葉月は首を傾げた。
『俺──こんな男じゃなかったはずなのにな。葉月のおかげで随分と俺は……力を振り絞っていたなぁ……』
『ええ……本当に、感謝しているわ』
『いいや。男としてこの一年は随分と、磨かせてもらったよ。それは葉月のおかげだ。でもな……今度機会があるなら“俺らしく”させてもらう……』
『……?』
その意味がこの時一瞬……葉月には解らなかったが──その後直ぐに何かが閃き理解出来た気がした。
確かにフランスで出会った時の隼人は、こんなに誠心誠意全力疾走で、向かって来てくれる男性ではなかった。
むしろ──葉月のように、自分自身の殻に籠もっていた所があり、葉月の方が遠慮していた節もあった。
もっと自分の事を周りに関せず考えていただろうし、隼人という自分に我が儘だった所もあったはずだ。
それが──葉月と一緒になり、時がたつにつれ、彼は葉月を第一として、本当に誠心誠意に気持ちを傾け、注いでくれた。
その『エネルギー』が葉月の心を解放してくれた。
──そういうエネルギーが自分にあった事、自分から湧いたという事は、尊い事かもしれないが、何年も続けられる器であったかどうか──
彼はそう言いたかったのではないだろうか?
だけど──葉月に、そういう隼人の『負』を受け止めるキャパシティーも用意されていなければ、今の葉月ではそういう器もない。
──『確かに』──
葉月が隼人に『くつろぎ』という物を、どれだけ与えていた事だろうか?
彼は、葉月が側にいればそれで満足と言ってくれただろうが……それこそ、この一年という『状態』の中で言ってもらえた事であり、この先、もし、あのまま結婚していたとしても、この隼人の『全力』がいつまでも持続できるだなんて、それは葉月にとってだけ都合の良い状態でしかないのだ。
隼人は、そんな事も考えついていたのかもしれない。
この一年──つい最近まで、それは隼人にとっても葉月にとっても『当たり前の状態』だった。
だが──これから何年も先──果たして、この状態で『俺はやっていけるのか』。
隼人はそこまでも、考え抜いていた事。
その先に、もし──隼人の力が尽きた時、葉月がちゃんと一緒にいられるか。
こんな一人ではどうにも立てない精神おぼろげな危うい女なのに──。
もしかすると──隼人が手放したのは、最初から解ってはいたが、『葉月の自立』を願っての『賭』でもあり、そして──最後の『愛』だったのかもしれない。
そんな事も、一人になって考えていたのだ。
「じゃぁ──お疲れ様でした!」
トリシアが、紅いメンテ服を脱ぎ去り、キュートな裸体に愛らしいバスタオルを巻いて、シャワーへと笑顔で向かっていく。
そこで、葉月はハッと我に返えり、笑顔を取り繕い、『お先に』とロッカールームを出る事に……。
水色の肩掛けバッグを手にして、また悶々としながら……ゆっくりとした足取りで、連絡通路に差し掛かった時だった。
「大佐──!」
「?」
そんな声がして、振り返ると……制服に着替えた隼人が追いかけてきていた。
「早いわね? さっき、トリシアがロッカーに入ったばかりだったのに? 一緒に帰ってきたのでしょう?」
葉月が驚いて立ち止まると、隼人が隣に息切らして追いついた。
「だからさ……きっとお前はまだロッカーにいて、終わる頃だろうと思ってさ。もう、カラスの行水の如く、ササッとね……」
まだ乾いていない前髪を、隼人が笑いながら、指でさばさばとかき分けていた。
「なに? そんなに慌てなくてもカフェで会えるのに──」
そんな隼人の慌て振りがおかしく、葉月は笑い声を立てていた。
すると、隼人もそこは楽しそうに微笑んでくれる。
「俺達、寝不足なのに──今日もお互い良くやった!」
「まぁねぇ? もう、最後だし。ここでくたばってられないわよ」
「うん──お前もいつも以上の集中力だったみたいだな? 三回転半……惜しかった」
「どうも……ダメなのよ。デイブ中佐もあそこで息が切れるし、私もタイミングが狂う。あそこで、どちらかが遅れを取ってしまうのよね……」
「あとちょっとだけど──でも、今の状態でも充分に見応えあるから、明日は歓声がとどろくさ」
「そうかしら……」
「あー流石、納得できないって顔だな。ま……明日も頑張りな。諦めずに──」
「有り難う──」
もう、本当に同僚の会話だった。
「それになに? 追いかけてきたりして、髪ぐらいちゃんと拭いたら?」
隼人の制服の肩に、雫が少しばかり落ちて、濡れていくのだ。
葉月は見かねて、水色のバッグから、青いストライプのフェイスタオルを差し出した。
「あ、これ……俺のお気に入りの柄」
「……」
隼人が風呂上がりに、葉月のクローゼットから遠慮もなく取り出していたタオルの内の一枚だった。
そういえば、この柄を良く手にしていたな……なんて、また想い出が蘇り、葉月は言葉を失うのだが、平静を努める。
「おー葉月の匂いがする」
「……」
それで顔まで拭きながら、前髪を拭き始めた隼人は……なんとも爽やかに笑い飛ばすだけ。
彼が無理しているのは、葉月にも通じてきた。
だから──黙っていたのだが。
「あのさ──今、大佐室にパパママが来ているんだよな?」
「? たぶんね?」
「あんまり心配させるような暗い顔……するなよ」
「解っている。右京兄様にも言われたわ……それに何も言うなって……なんだかしらないけど、俺達に任せろだなんて。それで良いのかな? とは思うんだけど」
「良いのじゃないか? 任せておけよ。ついでに──俺の家族も今日の夕方、大佐の招待でくるだろう? 横須賀便で」
「え、ええ……」
葉月は、この点でも頭を痛めていた。
隼人の父親──あの寛容な和之まで『裏切った』という気持ちでいっぱいだったのだ。
自分の親を騙そうとしても、こっちには騙そうだなんて顔は出来ないと……思っていたのだ。
「確かに──俺が先走って親父に結婚の意思を伝えてしまったけど。でもさ──これも、予定は未定だったんだからさ。親父には……そういう話が出て、一時はお互いに合意したけど、今後のスケジュールがきついから、もう少し様子見をすると、説明しておくから。気にするな」
「──でも」
「そうしてくれ。頼むよ──俺もあまり余計な心配はかけたくないんだ。あからさまに親に説明するのもなんだかな。俺とお前の問題なんだから──」
「……」
本当に何も言えなかった。
じゃぁ? もし、葉月がここからいなくなった場合は……どう言うのだ? と……。
だが……ここで、葉月も思い直す。
その時は、存分に……自分が悪くなればいいのだ。
実際そうだ──悪いのは自分なのだから。
行ってしまった後の事を、今から取り繕ったり、謝ったりするのは、変な話だと──。
だから──『その後の事は、私を悪者にして』と隼人に言いたくなったが……それすらも、今言うのは違うのではないかと。
『許して欲しいから、何か謝りたい』──それは『現時点』で言えば、それこそ、『憎まれる事を逃れたい』という葉月のみの『勝手』だ。
事が起こり、その後──謝る事も必要だと思うが、それ以上に『憎まれる事を受け入れる』事──それも償いの一つなのだろう──。
だから『今』は、何が心苦しくても、受け入れるべきだ。
それを感じる事から逃げてはいけない。
だから、本当に──何も言えなく、葉月は溜め息をついた。
「分かったわ──そういう事にしておくわ」
「じゃぁ……よろしくな」
隼人は真顔でそれだけいうと、葉月の背中をひと叩きして、先に行ってしまった──。
すたすたと……もう一緒にいる意味はないとばかりに。
葉月も追いかけられなかった。
もう──そういう間柄なのだと……昨夜、二人で無言の内に仕切りを作ってしまったのだ。
「あ……タオル……」
気が付くと、隼人は葉月のタオルを首に巻いて去っていた──。
私の匂いがする……というタオルだけ、お供に持って行ってしまったようだ。
わざとだったのだろうか?
でも、葉月は取り返しに追いかけなかった。
それだけでも──側に置いてくれるなら……なんて、都合が良いかもしれないが、そう思ったのだ。
私のひとかけらを……持って行ってしまった彼。
自分は彼の側を選ぶにしても──『彼を愛する資格』が備わっていない事、そして……彼にはもっとふさわしい女性が現れるかもしれない。
どんなに彼が愛してくれても、葉月に彼を支える気持ちが全力で傾いていない。
『そこに行くまで……』
そこにいけなくなっても──あれは今までの私。
彼の側にいる意味が、ほんのちょっとしか示す事が出来なかったのに、存分に彼がさらおうとしていた『私』なのかもしれない。
あのカボティーヌの匂いがする青いタオルは──。
・・・◇・◇・◇・・・
その日の夕方──隼人と達也は揃って、滑走路へと向かっていた。
「しっかし兄さんには俺、脱帽だね──」
「何が」
二人は夕模様になり始めている空を見上げながら、滑走路警備口で並んでいた。
澤村一家の出迎えに、出てきたのだ。
隼人は息子として、達也は当然──好奇心も手伝ってもあるのだろうが、ホスト隊長として出迎えに来ていた。
そうして空を黙って眺めていると、遠い轟音が聞こえ始めてきた。
だが──まだ機体の姿は、肉眼では確認できない。
「葉月の親父さんとおふくろさんに会っても、まぁ〜笑顔で乗り切っちゃって。俺には出来ないね!」
「なんだか、朝から機嫌悪いな」
隼人は面倒くさそうに、達也からそっぽを向いて、素っ気なくあしらおうとする。
達也はムッとした顔をあからさまに浮かべる。
「そりゃっムカムカしているぜ! なーんで昨夜のような『絶好のチャンス』を易々逃すかな〜。俺だったら、有無を言わさず部屋に押し込み、相手がなんやかんやと訳わかんない理屈を並べる前に、ベッドに押し倒すね。言っておくけどな、言葉だけじゃないんだよ。男と女は──。兄さんは“理屈と理性”だけで動き過ぎだ。本能の解放も男と女なのだ!」
「俺は俺。達也はそりゃ、『その手』は第一級なんだろうけど? 俺はそういう自信ないから──」
「よっく言うわっ! つい最近まで、『近頃のウサギさんはちょっと触るだけで、わんわん泣く程に敏感で〜』なんて、俺にプレッシャーを与えていたくせに! それ程に葉月が“性”に目覚めているのなら、そういう方法だって、効果あると思うんだけどな〜。だいたい、女って奴は、それで結構、ころっと行くんだよ。肌を愛してやれば、ころっとね──。葉月だって例外じゃないかもしれない、今の状態だと。なのに……!」
「あ〜。そういう“時期”もあったなぁ──。確かに、あれはすごかったな。ほんと、あの時のウサギさんは男泣かせだったなぁ〜」
「あのな!」
達也が何を突っかかっても、隼人はひんやりと涼しげな顔で交わそうとするばかり。
それで、達也もやっと二人きりになって、朝からの『不満』をここぞとばかりにぶっちゃけようと全力を出し始めると、そこを隼人がまたもやサラッとした顔で、遮る。
だが──その顔が、なにやら……静かすぎたので、達也は隼人の顔を見つめながら、いったん、口を閉ざしてみた。
「俺──今、達也が感じてきた気持ちというのが、すんごく分かってきたんだよ」
「はい? 俺の事なんて、この際どうでもいいから、葉月をなんとかしてくれよっ」
だが──達也のストレートな直球を、またもや隼人がするっと交わすが如く、勝手に彼は続ける。
「達也──葉月と別れた後、確かに口惜しい気持ちもあったと思うけど……ホッとした気持ちとかも感じなかったか?」
「──!」
なんだか達也は、その一言に固まった。
何故なら……やっぱりそう思う所があったからだ……。
「俺──今、こうなってみて、そんな気持ちを初めて味わっている」
「そ、そうなんだ……」
「それでも達也の心を離さず、小笠原まで戻してしまったアイツはなんなんだ? 俺も、今──そんな気持ち」
「あ、そう……」
「俺に限らず、達也もしかり……ロベルトもそうだったんじゃないかなぁーなんてね……」
隼人が空に見え始めた輸送機を確認し、それを微笑みながら目を細める。
達也も……なんだか言葉が出てこなくなり、一緒に空に現れ着陸態勢に機体を地上に向け始める輸送機を見上げたが──。
「あのキザ男と一緒にすんなっ。俺が一番……葉月には触って欲しくなかった男だったのに──」
「なんで?」
「なんでって〜」
達也は口ごもる。
そして──頬を染めた。
隼人には見抜かれている事が分かっているから──。
そして……隣の隼人もおかしそうに笑っていた。
「分かる、分かる。俺も去年、ロベルトと葉月の関係を知って……暫くはかなーり嫉妬したもんな」
「へぇ、兄さんでも?」
「ああ。だって……ロベルトは『良い男』だもんな。こう背が高くて格好良くて、物腰良くって優しいし? なんたってあの性格に似合わず、お洒落でお似合いじゃないかってさ。達也もそうだったんだろう? 俺より良い男とくっつくなってね? しかも年上でさ……適わないかもなんて思っていたんだろう」
「違うねっ! 俺の方が良い男だ!」
「あはは、そうか。そりゃ、悪かった」
達也は思いきり否定したが……それは『図星』だった。
隼人も分かりきっている様だから、笑っている。
そうなのだ──特に達也は、あの二十代の若き頃の自分を振り返ると自分でも『ガキ』と言いたい時期に、あのキザ男は本当に落ち着いている大人の区域に感じていた男だったからだ。
葉月にアプローチするさりげなさも、距離の取り方も、達也という『噂の公認男』が存在していても『余裕』に見えた。
だから──余計にヤキモキして、彼を敵視していたのだから。
「ロベルトも──全力で愛した後、結局……力が続かなくて、遠くから葉月を見る事を選んでしまったその気持ち。今なら、分からなくもない」
「……葉月を諦めて、さっさと他の女と即結婚した男だぜ? 俺もそうだけどぉ、半年は間があったのに、アイツは即、だぜ、即! しかも、それを葉月の目の前で見せつけていたのかと思うだけで、腹が立つっ」
「葉月とロベルトは……その辺は解り合っていたよ。俺が来た時には既に──。そういう掛け合いも二人は見事だった。今、思い返せば──」
「あっそぅ……」
その隼人の言葉に……達也は否定したいのだが、言い返す力が何故か湧かなく語尾が自然と弱まってしまった。
「本当に、何故、葉月は男に全力というか力を起こさせてしまうんだろうな? 皆が力尽きて、離れてしまってもなお見守ってしまうその気持ちも……分かる。きっと俺、今、それになっちゃっているんだな」
「……それって、疲れたって事?」
「ほどほどに……疲れていたというのは否めないね」
「そっか……」
確かに……と、達也は肯定はしたくないから、一人心の中で呟いていた。
確かに……達也は今、もどかしい叶わない気持ちもあるが、『以前より楽』という気持ちも、小笠原に来て感じていたのも事実で、実際、葉月にもそんな話を口にしていた事もあった。
『俺は今、兄さんより気楽。同僚だから』と──。
だから、その隼人が『力を抜いてしまった』と言う少しの休憩であると祈りたいが、その『楽』を味わってしまっている事は、達也も否定できなかった。
すると──滑走路に向けて、車輪を突きだし始めた輸送機を見据え、隼人がフッと微笑んだのだ。
達也は首を傾げながら……次に彼が何か言おうとしている事を待ってみる。
「兄貴も──分かっていたのかな? 『オチビに本気になると俺はおかしくなる。アンコントロール』ってね。きっと怖かったんだ」
「……そんなの体の良い言い訳だ」
「そう、体の良い事に甘んじてしまっていたんだろうな」
「葉月をあんなにしてしまったくせに。そういう男に入れ込んじゃって、まぁ〜“あの”葉月ちゃんたる者が、どうよ!?」
「あーまぁ。そこは達也が言う所の、理屈と理性がない男と女だったんじゃないのか? だから、もう……だぁれも止められないってこの事だな」
「!」
今度こそ──達也は言い返せなくなる。
自分の持論で固められてしまったのだ。
「あの人も狂えばいい」
「兄さん?」
隼人の目が燃えたように見えて……達也はちょっぴりひやっと後ずさりたくなった。
「あの人も、今度こそ……葉月の為に狂えばいい。自分だけ、コントロールばっちりの好都合は、もうお終いにしてもらわないとな」
「兄さん──」
まるで……復讐に燃える眼差しのような気がして、達也は絶句した。
「兄さんがそれで……いいのなら。本当に俺……もう、何も言わない」
「サンキュー」
その返事をしてくれた隼人の顔も、確固たる厳しい顔。
本当に『覚悟』している。
そして──隼人は葉月と離れて、今まで見えなくなっていた自分を取り戻している様にも見えた。
見えなくなっていた自分。
その気持ち──達也にも分かった。
達也もフロリダに転属し、暫くした後──妙に解放されたような『自分』に気が付いて、戸惑った事がある。
葉月を一生懸命に愛した自分の事は、とても誇りに思える『男だった自分』を輝かしく思いながらも、『俺はあのままで俺でいられただろうか?』と……穏やかに流れ始めた日常の中、感じた事があったのだから。
「分かってくれたのなら──俺の親にも、満面の笑顔で宜しく」
隼人がわざとらしい笑みをニコリ、ニッコリと……達也をからかうように浮かべたのだ。
「もーちろん♪ 兄さんのお姉ちゃんママは俺にお任せ♪」
達也は滑走路に着地し、エンジン音が静まっていく輸送機を目の前に迎えて、極上の笑みを浮かべる。
そして、サラッと前髪を指で横流しに整え、詰め襟をただす。
「言っておくけど、人妻だ。それに親父信望者だからな」
「そーんなの分かっているぜ? でも、美人だと噂だからな。あー楽しみ」
「ったく……」
そのうちに、タラップが用意され、輸送機の扉が開かれた。
隼人と達也は揃って、満面の笑みを整えていた。
「悪いが……親父と最初、二人にして欲しいので。うちの継母と弟、頼んで良いかな?」
「オーケー。任せろ」
二人はニッコリニコニコとしながらも、そんなてはずを確認し合い、澤村一家が姿を現すのを待つ。
「葉月の両親に挨拶が出来ると張り切っているから──親父に釘をさしておかないとな」
「あら……本当に隼人さんって、なにからなにまで大変ねぇ」
「だから……やめろってそれ。それに──先走った俺の身から出た錆みたいなもんだからな」
「そこまで、隼人兄が言う必要ない」
きっぱり言い放った達也に、隼人はちょっと照れくさそうに俯いてしまった。
そのうちに、横須賀から乗り込んできた隊員に、見物に来た家族達が……いつも以上の登場人数で次々とタラップを下りてくる。
その中程で、和之が、弟の和人と並び、そして……その後ろから美沙が姿を現した。
『兄ちゃんだ!』
気取ったのか、大人びたラフな格好をしている和人がまず、元気良くタラップから手を振ってくる。
「へぇ! なんだ! 高校生って……やっぱ横浜の子はませてんな〜!」
「あはは。すんごいませた弟だから、要注意。葉月と渡り合うんだぜ」
「わっ! あれが兄さんの姉ちゃんママ!!!」
「まぁ……」
「超〜大和撫子美人♪」
夫と息子の後を楚々とついて、黒髪をなびかせている美沙を一目見て……達也の瞳が輝き、隼人は苦笑いをこぼした。
「やる気湧いてきた。任せろ」
「変なやる気はいいから……」
だか、達也はにやっと微笑むと、スタスタと隼人を置いて、歩き出してしまった。
「隼人、来たぞ〜」
他の搭乗客に混じる中、和之が上機嫌で、隼人に手を振る。
いつもの事だが、隼人はなんだか何処かに隠れたい恥ずかしさを感じながらも、歩き出した。
「いらっしゃいませ。お疲れ様でした」
「やぁ──海野君。今回は家族で押しかけてしまい、お世話になってすまないね」
「いえいえ……大佐嬢自らの我が隊の一番客ですよ。遠慮はしないで下さい」
流石……口は上手いなと隼人は、急に立派な青年に変身する達也にあっけにとられるが……和人が隼人めがけて一直線に向かってくるので、笑顔が自然と浮かんでしまった。
「兄ちゃん! 本当にきちゃったぜ。わぁーもう、俺、着陸体勢に入った時、下の景色を見て鳥肌! まだ、鳥肌!」
「良く来たな──お、本当に鳥肌だ」
「だろっ」
「なんだか──ませた格好、きばってきたな」
「そっかな」
今どきの若い男性が、ちょっと小粋に着こなす生意気な服装に、隼人は苦笑いをこぼしたが、和人なりに『異世界』みたいな外国提携基地に来る為の、構えた格好なのかと思うと、隼人はおかしくて笑い出していた。
「海野君、こちら、私の家内でね。隼人の……母になります」
「ああ、お姉さんみたいなお母さんですね。初めまして、奥様」
若い妻を息子の母として紹介する事に和之がちょっと照れている様だが、達也には説明済みであったので、彼が持ち前の明るさで上手く流してくれている。
「初めまして──海野中佐。隼人と主人から良くお話しを聞いております。お会いできて嬉しいわ」
「……あの。ええ! 私も光栄ですよ〜。ああ、兄さんが羨ましいなぁ。こんな若くて綺麗なお姉さんでもお母さんでもある人がいるなんてっ」
美沙の笑顔に一瞬……固まってしまった達也を見て、隼人はしらけながら目を半分細める。
わからないでもない。隼人も昔は焦がれた女性だ。
今だって彼女は、安心して見つめられるようになったとは言え、やっぱり魅力的な女性なのだ。
それを誤魔化す為に、達也が慌てたように、隼人を引き合いに出してからかうのだ。
「あら……お上手有り難う。海野中佐──」
「荷物……お持ちいたしましょう」
「あら……本当に、主人が言う通り、葉月さんの周りの補佐さんは、皆、紳士だと聞いていますが、本当ね」
「いえいえ。美沙さんは特別ですよ」
「まぁ──海野さんったら」
隼人は本当に口が上手い達也に『おいおい』と心で突っ込みながらも、美沙がそんな達也の手慣れたエスコートにまんざらでもないようなので、そのまま流した。
「な! 兄ちゃん! 葉月さんは? ね? どこ、どこ? まさか、明日の為に訓練中?」
和人の矢継ぎ早の問い合わせに、隼人はのけぞりながらも、微笑む。
「メンテの俺がここにいるのにそんな訳ないだろう? 今、フライトチームの最終ミーティングの時間なんだ。それが終わったら、大佐室で会えるよ」
「え! 俺達、大佐室入れてもらえるのかよ!?」
「ああ、葉月が待ちかまえているよ。和人を車庫に連れて行く約束だからと、手続きもしていたからな」
「やった!」
喜ぶ和人の姿を隼人は微笑ましく迎えていると、家族が、そこに集った。
「こんにちは、和人君。お兄さんと一緒に仕事させてもらっている海野です」
「あ! こんにちは。弟の和人です──。海野さんって陸専門だそうですね」
「ああ、そうだよ。良かったら、射撃訓練場、連れていってあげるよ」
「マジっすか!」
「ええ、マジっすよ」
「こら……和人。きとんとした行儀の良い言葉になるように気をつけなさいと、言ったのに!」
そんな言葉で打ち解ける和人と達也の間に、母親らしい美沙が割って入ってくる。
「あー、美沙さん。そこまで気にしないで下さい。俺達なんて、普段は汗くさいがさつな男の集団ですよ」
「そうでしょうけど……葉月さんのお仕事場でもあって、この子の兄の職場にお邪魔するのですから……」
「いいえ。私もこの年頃は、こんな風に気ままにありのままでしたよ。教官の前でも──」
「まぁ……そうでしたの」
「ええ──そうですよ。さ……ご案内いたしましょう。さ! 和人君も行こう! カフェに連れて行ってやる」
「やった!」
達也がサッと美沙の背中をさらうようなエスコート。
美沙も逆らえずに、はしゃぐ息子に流されるように、笑顔を浮かべ、楽しそうに──達也と三人で前を歩き始めた。
(上手いといや、上手いんだけど)
隼人が頼んだ通りに……達也は上手に美沙と和人を引き離してくれ、隼人は父親と二人になった。
「お疲れ──葉月も心待ちにしているぜ」
「お、おおう」
和之も、達也の流れるような紳士的エスコートに目を見張っていたようだった。
流石の和之も、達也の巧さに驚いたようで、隼人は苦笑い。
ま……この女扱いがさり気なく上手く、隼人でも頭が上がらない親父をこうさせたのは『流石』と言うべきなのだろうか?
「俺が持とう」
「おや? お前も成長したな」
父親の荷物を手に取ると、和之がいつもの口で返してくる。
「まったく、相変わらずだな」
「しかし──お前、本当に大丈夫なのか?」
「なにが?」
「どうも私はあの海野君には適わんね……流石というか。お前が霞んで見える」
「はっきりいうな? そりゃね──あれが彼の才能みたいなもんで、内勤での得意分野だからな」
「お前もしっかりせんとな」
「俺は俺──」
「だろうがねー」
和之は優雅に妻をエスコートしている達也に視線を馳せては、溜め息を漏らしている。
「葉月君とうまくいっているんだろうな? あんな素晴らしい男性が側にいて、お前、霞みっぱなしじゃぁいかんぞ」
「なんなんだよ。それ」
『ライバルに負けるな』とばかりに後押しをする父に、隼人は苦笑い。
……そして、それと共に『御園葉月』を気に入って、息子に手放すなといわんばかりの父親の気持ちを、再確認して、隼人は気持ちが重くなるのを感じた。
「葉月とは上手くやっている──けど」
「けど、なんなのだ?」
「結婚の事は……」
「?」
隼人は警備ゲートで入所手続きをしている美沙と達也を横目に確認し……。
そして──父親に言おうと決めていた事を、ハッキリと口にした。
「……ああ、そうなのか」
「!? それだけ?」
和之はあっさりとしていたので、隼人は驚いて、父親の顔を見つめ返した。
「そんな事だろうと思った。お前──葉月君の了解も得ない内から、随分と先走っているなと私は思っていたんでね。女性に無頓着なお前が、指輪まで買ったと聞いた時は、私が知っている息子隼人じゃないと思ってしまったぐらいだ。彼女の今までを考えれば、ちょっと彼女には唐突なのではないかと、私はそんな心配をしていたんだ。そうか──それなら、ご両親にはとりあえず、同僚の親として挨拶し、さりげなく将来の約束もそれなりに控えているようなご挨拶でいいのだな?」
「……まぁ、うん。そうなんだけどぉー」
「分かった」
そして、和之はスタスタと警備ゲートに歩き出してしまった。
なんだか隼人は拍子抜け。
というか……やはり、自分は妙に周りを見失って、走りすぎていたのだろうか? と考えさせられた。
離れて見守っている、そして……人生先歩きしている父親が、そんな見解を持って見越していた事に、感服させられた気持ちだった。