エピローグ

1.子供の意志

『ただいま…』

書類の束を小脇に抱え、手には買い物袋を提げて、隼人はぐったりと帰宅。

昼間のロッカールーム騒ぎの後処理。

コレについて葉月が不在だった為にだいぶ、責任者等々に振り回された。

その事は良いとしよう…。後としよう…。

隼人が何よりも気になるのは『彼女』の事だ。

彼女の赤い車に乗って帰宅。

すぐに革靴を脱いでリビングに急いだ。

早めに帰ってきたつもりだったが…薄暗いリビングは灯りがついていなかった。

テラスには紫色の海と空が広がり…小さな星が散らばり始めている。

おまけにサンテラスのガラス窓が三面・ガラス天井まで…全開になっていた。

涼しい風がヒンヤリと三階のリビングに入ってくる。

『全く…。何しているんだよ…。』

リビングの灯りがついていないと言うことは、

葉月は部屋で眠っているものと隼人は思った。

やはり…気疲れだろう…。

隼人はそう思いながら、部屋の灯りをつけることより先に

テラスの方に窓を閉めに向かった。

『ん?隼人さん??』

か細い声がこのリビングで聞こえたので、隼人はハッとして窓辺から振り返ると…

テレビ前の低いソファーから葉月がもっさりと起きあがったのだ。

いつもの黒いガウン姿で栗毛はどうしたことかかなり乱れていた。

「なんだよ。そんなところで、うたた寝か??」

「うーん。だって…お天気が良くて…窓開けていたら気持ち良くて…。」

「いつから?」

「わからない?帰ってきて…すぐ?」

『ふぁ…』とあくびをする葉月に隼人は呆れながらも…。

誰もいない平日の昼下がり。

昼間の出来事も気にすることなく『骨休め』が出来たのだと安心して微笑んだ。

「まったく。結構こうゆう所、ルーズだなぁ」

昼間は日差しが強い小笠原だが夜の気候は結構・肌寒い。

こんな冷たい風が入る中で、あんな薄着で寝込んでいることに益々呆れて窓を閉めた。

天井のガラス窓は『リモコン』で閉めるというまたたいそうな作りなのだ。

そうして隼人が、手際よく戸締まりをしていると…

『クシュン!ハックシュン!!』

葉月がくしゃみをした。

『はー…クシュン…』

「ほら。気を付けないといけないだろう??」

益々…呆れてリビングに戻ると、葉月はシルクのガウンをさすって肌寒そうだった。

「風邪…ひいたんじゃないの?帰ってからちゃんと髪乾かしたか?」

「ううん。もう乾きそうだったから…。」

「まったく…知らないぞ。俺」

リビングの灯りをつけると葉月も立ち上がった。

この時はそれで隼人もいつもの葉月の調子と呆れただけだったのだ。

『もうちょっと…横になっていてもいい??』

ソファーから起きあがった葉月だったが、妙にけだるそうで

両腕を寒そうにさすりながら部屋に入ってしまった。

『じゃぁ、晩飯。簡単に作るよ』

『うん。有り難う…』

隼人は少し心配になった。もしかして本当に風邪じゃないかと?

昼間・あれだけシャワー室で下着一枚で…長いこといたのだ。

おまけにタクシーに乗せるまでは長い髪もだいぶ水分を含んだままで生乾き。

家に帰ってしっかりすればいいのに、疲れていたのは解るが

あんな薄着で『風』を堪能しながら昼寝をしていては…

『風邪もひくかもな』

また・呆れて…隼人は書斎部屋に行き制服から普段着に着替えてキッチンに入る。

葉月が車を置いていったので、『これは行くべきだろ』と街の方まで帰りに走ったのだ。

そこで、いつものスーパーで買い物。

葉月が揃えていない、隼人にとっては必要な料理アイテムを買い込んだ。

魚が安いので『じゃ。ムニエルに』と思って買ってきたので

それに塩こしょうをふり、葉月が持っていないハーブ調味料の瓶を開けて、香味風で味を調える。

フライパンにオリーブ油をひいて、魚を並べて蓋をしたときだった。

『ピーピーピー』

インターホンが鳴った。

(お。やっぱり来たか。良かった。三人分用意して置いて)

そろそろ真一が来る日だろうと隼人は、余るのを覚悟で三人分魚を買って置いたのだ。

「ただいまぁー! あれ?」

誰もリビングにいないので真一のいぶかしむ声が聞こえた。

「いらっしゃいー! 良かった。丁度、真一君の分も買って、作っていたところ。」

隼人のエプロン姿を目にして真一はバッグを放り投げて嬉しそうに駆け寄ってきた。

「いい匂い! なに、なに!? 今日は!」

「白身魚のムニエル」

「わぁい! フランス流??」

「まぁね」

フライパンの蓋を開けて「すごい、すごい」とはしゃぐ真一を

狭いキッチンから「はいはい」と隼人が追い出すと…

「葉月ちゃんは? まだ残業?」と真一が壁の掛け時計を見上げた。

「………。」

葉月が帰って来るにはまだ早い時間だったので隼人はためらったが

「帰ってきているよ。部屋で寝ている。」

「!? 早いね? どうしたの?」

「訓練後…」

『貧血』そう言いそうになったが…そう言っても真一の今の血相だけで

かなり驚きそうだと…どう理由を付けようかと隼人はまた躊躇した。

「風邪…」

「風邪!?葉月ちゃんが??珍しいね??」

風邪と聞いただけでも真一は血相を変えて葉月の部屋にすっ飛んでいってしまった。

(あの姿でいるのに…いいのか!?)

また、スリップ一枚で寝ているんじゃないかと年頃の男の子にも平気で見せているのかと

隼人は部屋のドアを開けようとしている真一を止めるべきかどうか戸惑ったが…。

『葉月ちゃん?』

キチンとノックをしたのでホッとした。

『シンちゃん?いいわよ』

間髪入れずに葉月の入室許可が出て、隼人は『え?』と眉をひそめた。

真一がスッとミコノス八帖部屋に入ってしまった…。

(うーん…)

複雑な心境で隼人は料理に専念することにした。

暫くして…

真一が部屋から出てくる。

そして…またキッチンの隼人の元に帰ってきた。

「本当…風邪みたい。葉月ちゃん『寒い』って…パジャマ着ていたモン。

いつも下着一枚で寝ているのに…。」

隼人は『ぶ!』とつんのめってしまった。

「知っているの?葉月が下着一枚で寝ているって!?」

「へ?前からジャン?俺が小さいときからずっとだよ??」

「平気なのかよ??」

「ああ。そうゆう事?だって俺小学校五年生まで一緒にお風呂入っていたし。

あのころから葉月ちゃん変わらないモン。勿論今は入ったりしないよ!!」

(はぁ…。なるほど…)

十歳年下の男の子となら…そうゆう時期があっても普通かと隼人は納得することにした。

「葉月ちゃんがパジャマを着ているって…よっぽど寒いんだねー。」

そう言われて…隼人は益々心配になってきた。

「ちょっと…様子見てくる。これ…焦げないよう見ていてくれる?」

「うん!!」

見張り係を申しつけられて真一は張り切ってフライパンの前を陣取る。

隼人はクスリとこぼしながら…葉月の部屋に向かった。

『葉月?』

隼人が部屋にはいると…葉月はいつものようにシーツにくるまって

壁際を向いて横になっていた。

「なに?」

「………」

隼人はキッチンを振り返ってからそっとドアを閉める。

「大丈夫かよ?『寒い』って??」

「ああ。うん…。大丈夫…。シンちゃんが来たらいけないと思って

パジャマに着替えたの…。ほら…その……。『印』が…」

「あ。そうゆう事…」

下着一枚、ガウン一枚だと昼間付けた『熱愛の印』が見えやすい。

だから、肌が隠れるパジャマを着た…と言うことらしい。

よく見ると…隼人にくれた物と真一が着ている物と同じ…白いシルクのパジャマだった。

真一が遊びに来ても一向に起きあがろうとしないのが心配だが…。

『隼人兄ちゃん!!焦げるかも!』

真一の呼ぶ声に葉月がクスリ…と、こぼしたのを見て…

「出来たら呼ぶから…来いよ」

『うん…』

また横になる葉月をはた目に隼人はキッチンに急いだ。

いつもの三人での夕食。

真一はご機嫌で『美味しい・美味しい♪』と元気よく食べているが…

葉月は箸で一口…二口…とけだるそうにゆっくりで…

全く食が進まないようだった。

いつもは真一のように元気良く何でも食べるのに…。

さすがに真一もその葉月が気になったようだ。

「葉月ちゃん…気分悪いの??」

「…………」

「なんだよ。無理して食べなくてもいいよ?お粥にでもすれば良かったかな??」

こうなってくると隼人も『風邪』と思いたくなってくる…。

「ごめんなさい…。美味しいのだけど…。」

隼人を申し訳なさそうに見つめて…葉月はとうとう…箸を置いてしまった。

「ああ。いいよ…。」

隼人もにっこり…気にしないようにと微笑むと。

葉月はまたけだるそうに立ち上がって見慣れないパジャマ姿で部屋に戻ってしまった。

「つまんないの…」

大好きな葉月が食事の席にいなくなって真一のご機嫌も一気に急降下。

でも…

「本当。美味しいね!隼人兄ちゃんがいなかったら俺今日の晩ご飯食いっぱぐれてたよ!」

「かもねぇ…。叔母さんがあんなんじゃ。こうゆう事って今までも?」

「滅多にないけど。葉月ちゃんが病気になるってほとんどないモン。

身体は鍛えているから健康だし。それでも具合が悪いときはロバートおじちゃんのとこに行くし。」

真一はそう言ってパクパクとアッという間に平らげてしまった。

隼人もため息。

葉月がいなくちゃ、この子は本当にこの島では一人きりだな…と。

どんなに親類に近い大人達がたくさんいると言っても、

真一にとってこの島で血が繋がっている家族は葉月だけだ。

その葉月がこんな調子の時は…致し方なく、よそのおたくに世話になっているのかと

隼人もいたたまれない気持ちになってきた。

食事が終わって隼人が後片づけを始めると

真一はバッグから漫画を出して、テレビ前のソファーを陣取った。

テレビを付けて時々笑いながら漫画を読んでいる。

その男の子らしさを隼人も目にして少し安心。

ところが…

隼人がキッチンとテーブルを行ったり来たりしていると

真一は時々立ち上がって葉月の部屋の前をうろうろしている。

それでも、諦めたようにため息をついてまたソファーに戻って、テレビ鑑賞。

徐々に笑い声もなくなってきたことに隼人は気が付いた。

楽しく笑っていればその内葉月が出てきてくれると思っているのか?

そう思うと…また、いたたまれなくなってくる。

そして…真一が帰る時間がやってきた。

「送ろうか?車。お嬢さんに借りるから…。」

ソファーで膝を抱えて真一は首を振った。

「自転車で帰るの?」

「ねぇ?葉月ちゃん何かあったの?」

心配そうにまつげを伏せた真一に隼人はドキリとした。

「葉月ちゃん…風邪だと思うけど…。すごく元気ないモン。誰かに虐められたの?」

さすが…葉月の側にいつもいる甥っ子…。

隼人は真一の鋭さに飲み込まれて…絶句してしまった。

その間を真一にまた悟らせるチャンスを与えてしまったようだった。

「そうなんだね!男の人に何かされたの!?」

それも『男の人に何かされた』と読みとられて隼人はまた固まった。

葉月の『トラウマ』をまるで知っているかようなの切り込み。

さすがに隼人も黙り込んでしまった。

隼人が呆然としているうちに、真一はサッと立ち上がって

葉月の部屋に向かっていった。

『葉月ちゃん!!』

真一が部屋のドアをノックもなしに勢い良く開けて入ろうとすると…。

もう…葉月がそこに立っていた。

「帰るの?隼人さんに送ってもらったら??」

いつもの笑顔の彼女がそこに…。

それを見て血相を変えていた真一も勢いを引っ込めた。

「葉月ちゃん?大丈夫?ねぇ?何もなかったの?」

「だから…風邪だって…。」

「うそ!その首にあるアザは何?隼人兄ちゃんのじゃないでしょ!」

そのアザに気が付いていて知らぬ振りをしていた真一に

さすがに隼人も動揺したし葉月もハッとしたように手で口づけの跡を隠した。

「お…俺のだよ」

嘘じゃぁなかった。

山本が付けた後に隼人が大きく残したのだから。

「うそだよ!普通の大人はそう言って恋人同士で付けあったことを

そんなにあっさりと子供には認めないもん!」

『ご最も…』と、隼人は即答したことを後悔した。

「さっきまでは本当に隼人兄ちゃんが付けたと思っていたけど!

なんか違うみたいジャン!葉月ちゃんが元気がないのは男の人に何かされたから…!」

「………。そうね…。」

葉月が静かに認めたので隼人はビックリ…。

真一も一瞬動きを止めた。

「でも。隼人さんもコリンズ中佐も助けてくれたし…。」

「やっぱり!!やだよ!そんなの!そんな悪いヤツ…!

葉月ちゃんに変な事するヤツなんか。俺許さない!!だれ!そいつ!!

フロリダのお祖父ちゃんに言いつけて懲戒免職にするから!」

真一が葉月の襟首をつかんで、彼女を揺する。

いくら男の子でも力は男。

葉月がよろめいたのにビックリして隼人は真一を押さえた。

「離してよ!」

隼人をふりほどいたその力はもう…一人の男の力だった。

「絶対イヤだ!葉月ちゃんがそんな目に遭うなんて!!俺!イヤだ!!」

葉月に食らいついて、涙を浮かべた茶色の瞳。

その目はいつもの無邪気さを持っている真一の瞳じゃなかった。

『殺気』を隼人は感じてゾッとしたぐらいだ。

『この子は…もう知っている。母の死を…!』

隼人はそう確信した。

そうでなければ、葉月が男に何かされた無事だった。良かったね。

葉月ちゃんは武芸達者で強いしね…。みんなが助けてくれて良かったね…。

無邪気な真一ならそう笑い飛ばすはず。

葉月が男に何かされたことを知ってこんなに取り乱すのは…そうゆう事では?

隼人がそう動揺していると

真一に抱きつかれている葉月が隼人に助けを求めるような眼差しを向けている。

隼人も葉月も一緒に『この子は…もう気が付いている!』と…眼差しだけで確認しあった。

『どうする!?葉月?』

そう視線で投げかけた途端に…葉月の表情が引き締まった。

「私が投げ飛ばしたの。二回もよ?ドアにぶつけてやったの。どう?

私って…おじいちゃま譲り…強いでしょ?」

真一の栗毛を撫でて葉月が笑い飛ばした。

「でも!だったら何でそんな首に…」

「隙よ。隙を作らないと…。男が手を緩めたときに女は反撃よ」

「…………」

葉月がやっといつもの余裕を見せたので真一は納得はいかないようだが

信じることは出来たようだった。

「さぁ。門限が近いでしょ?私…。今日早退して、うたた寝したから風邪ひいちゃったみたい…。

気分悪いの。隼人さんに送ってもらいなさい。隼人さん…お願い。」

葉月は強い眼差しで隼人に頼んで…真一を優しく撫で引き離した。

「……。ごめんね…葉月ちゃん…。」

何故か真一が謝った。

「………。私も。相手できなくて。」

「そうじゃなくて…。」

「おやすみ。」

真一は何かを葉月に投げかけたいようだったが…葉月はそれに構わず部屋に消えていった。

「さぁ…。帰ろうか?」

「うん…。」

隼人はしょんぼりとしてしまった真一の頭を撫でて…帰る支度をさせた。

真一を車に乗せて、夜の海岸を走る。

真一の寮は、基地の警備口手前。医療センターのバス停があるもう少し手前。

その寮に向かう途中もわずかな時間だが真一は

助手席で黙りこくったままずっとうつむいていた。

そんな真一にかける言葉が見つからなくて隼人はまた・ため息。

だが…隼人の官舎を過ぎて基地の警備口が視界に入る頃…。

「隼人兄ちゃん…葉月ちゃんをよろしくね?」

ステアリングを握る隼人を真一がいつもの笑顔で見上げた。

「そうだね…。真一君に頼まれちゃ責任重大。」

そう笑ったのだが…どうしたことか今日の真一は情緒不安定なのか

ムッとした顔を浮かべたのだ。

隼人も『?』とドキリとした。

その内に寮の前に到着して隼人は門の前、道路端に車を駐車。

「また、来いよ。お嬢さんもいつも待っているみたいだから。」

「ねぇ…いつになったら…」

真一が少し癖が付いている栗毛の前髪の中うつむいて呟く。

「いつになったら?」

隼人が問い返すと真一が唇を噛みしめて隼人を睨み付けるように見上げた。

「いつになったら隼人兄ちゃんは俺のこと『真一』って呼んでくれるの??」

「え?そうだね…じゃ…次から。」

「いつになったら…あのマンションに毎日いてくれるの!?

試験が終わっちゃったら官舎に戻っちゃうつもり??」

子供にそう詰め寄られて隼人は固まった。

そんなことはまだ決めていなかった。

と…いうか。今のように帰る日もある。泊まる日もある。週末は泊まる。

それで良いと思っていた。

「俺はその内、葉月ちゃんの側にはいなくなるんだよ!

訓練生を終わったらここの学生の目標はフロリダの医療センターに行くことなんだから!!

葉月ちゃんをいつまで一人にしておくんだよ!」

真一はそれだけ言うと隼人が止める間もなく『バタン!!』と

激しくドアを閉めて寮の玄関まで走っていってしまった…。

隼人は暫く呆然としていた。

そんな先のこと…。考えてもいなかった。

真一の中では訓練生が終わったら葉月の元から独り立ちする意志がある。

あんな無邪気な子供なのにその先をキチンと見据えているのだから。

それに…真一が寂しいのだと思って葉月の元に来ていると思っていた。

半分はそうなのだろうが…

半分は一人で暮らす若叔母の様子を見に来ていた…と言うことを初めて知ったのだ。

いつもは大人の事情は見て見ぬ振りの真一だが。

良く見極めているようだった。

『あの子は騙せないようだなぁ…。』

隼人は自分を情けなく思いながら、ため息をついてギアを動かす。

海辺の道を葉月が待つマンションへと向かった。