44.新たな疑問

葉月の化粧品が所狭しと並んでいるバスルーム前の洗面台。

夕暮れた丘のマンションで一人…隼人は指で瞳を開いて集中しているところ…。

『ピーピーピー』 インターホンが鳴る。

(ん?葉月にしてははやいなぁ…)

隼人は明日から二連休前の週末・金曜日だから葉月も早く帰ってきたのかも…と

思いながら出迎えもせずにひたすら鏡に映る自分の瞳に集中した。

先日の源チームとの現場復帰を皮切りに、隼人は忙しい身分になっていた。

源のチームの後…本日。

二中隊・第二チームの『山下チーム』の補助員として出動。

補助員がない日は、葉月と先月相談し合った『外勤訓練』が開始。

まずはレスキュー訓練の『講義』がスタート。

来週からは『空手』そして…最後に『システム講義』が入っていた。

勿論。試験準備もラストスパート…。

12月の第一週日曜日に試験を控えていた。

「あ!いるじゃん!!」

バスルームの扉を開けたのは葉月でなく…真一の方だった。

「何しているの??」

少しも振り向いてくれない隼人に不服そうに真一が近づいてきた。

「コンタクト。今日もメンテに出たからね…」

「隼人兄ちゃん…コンタクトするの!?」

真一は興味深そうに隼人の顔をのぞき込んだ。

「やっぱ。眼鏡はね。邪魔だから。スポーツコンタクト愛用しているんだ。」

「ふーん。。」

「真一君は?眼鏡派みたいだね…」

隼人はやっと両目分取り外して、保存液を浸しているケースにしまい込んで手を洗う。

「うん。兄ちゃんと逆。手術中に人の身体にコンタクト落ちたら怖いジャン!」

「なるほど?」

まだ・専門的には進んでいないとは聞いているが

真一の心構えはいつだって『医者』だった。そこは隼人も偉く感心…。

「葉月ちゃん。まだ?」

真一はいつになく…寂しそうに隼人に尋ねる。

「二連休前の週末だから早く帰ってきそうだけどね…どうしたのかな?買い物じゃないかな?」

真一を不安がらせないよう隼人は明るく微笑んで紺色制服の真一をリビングに連れてゆく。

「ふぅ…」

なんだか真一は元気がなくダイニングチェアに腰をかける。

ダイニングテーブルには彼が持ってきたのかいつもより大きなスポーツバッグ。

「たまには…泊まっていけばいいのに。俺が来るまではいつもそうしていたんだろう?」

隼人が上がり込むようになってから真一が泊まると言うことは一度もなかった。

それでも彼・真一は平日の幾日かと日曜日の夕方は必ずやってくる。

「うん…。今日は…そうしようと思って…」

いつも無邪気でキラキラしている瞳が今日はちょっと曇っている気が隼人にはした。

今週始めのこと…。

隼人が23時の集中力切れでリビングに出ると

珍しく葉月が起きていて、ダイニングチェアでため息をついていた。

『どうしたの?』と尋ねると…少し困った顔で隼人に何かためらっていた。

葉月の手元には『白い表』。

『あの…隼人さんに言うべき事じゃないんだけど…』

その白い紙をちらっと覗いて…隼人は何かわかって躊躇した。

『成績表』だった。

それが真一の先日あったと言う中間テストの結果だとわかると、

『言いたくないなら良いし。相談して欲しいなら上手に乗るよ。』

と…葉月が入れてくれたカフェオレの残りを飲み干しながら呟いていた。

御園の一家事情には首を突っ込む権利はまだない。

しかし、小さなママがちょっとばかし悩んで頼ってくるなら力になるのは当然のことだ。

『みて。』

葉月が隼人を信用してその紙を突き出すので…隼人も気を構えて椅子に座って眺めた。

その結果は…

前回、夏の期末試験より15番も成績が落ちていたのだ。

その夏の試験では『さすが!』と言うほどの結果で主席に近かった。

なのに…今度は20番台に落ちている。

それでも上の下。まぁまぁの成績ではないか??

しかし。葉月が悩んでいるのは甥っ子の実力が出し切れていない結果が帰ってきたことらしい。

『いいじゃない。一度くらい』

『そう思うわ。でも。あの子…こんな事一度もなくて…』

すると、葉月は隼人が思っているより深刻そうにうつむいて栗毛の中…

両手でこめかみを押さえて顔をゆがめたのだ。

向かい側に座っていた隼人も、気になって葉月の隣の椅子を引いて座る。

『葉月…何か心配事が?』

わかっていた。『母の死の真相』

それが本当は知らぬ間に真一に知られたかも知れない。

そうでなければ…こんな風に手を抜く子じゃない。

葉月がそう思っているのがわかった。

でも。その事情も隼人は葉月が頼ってくるまで首を突っ込む権利はなかった。

葉月はやはり…口には出来ないらしく首を振った。

口にすれば…自分自身もトラウマを思いだして苦しむ。

葉月は暫く隼人の側で…同じ姿勢・表情で固まっていた。

所が急に…ザッと手がテーブルの端に動いた。

(あ!)

葉月の手はあのモザイクのピルケースにのびていったのだ。

その行動の早さが葉月を追いつめた具合を表していて

隼人はビックリはしたが、葉月の顔が何処か鬼気迫っていたので身体が自然に動いた!

『ダメだよ!毎回そんな事しているのか!?』

葉月を背中から力づくで押さえつけて止めていた。

『いや!お願いだから…』

その嘆願する声。隼人をふりほどこうとする力。振り乱す長い髪。

それほどなら…と隼人ももう少しで腕の力を緩めそうになったが…

葉月の方が先に観念してくれた。

『精神安定剤』

ピルを飲むならまだしも…いつもこんな風に自分の精神を倒立いてるのかと

隼人もやるせない気持ちで葉月を押さえていた腕から力を抜いた。

(本当は…弱いんだよ)

隼人にだって弱さはある。葉月がいくら経験達者の幹部軍人でもまだ26歳の女の子…。

隼人はそれを痛感してしまったのだ。

葉月を胸の中。力一杯肩をきつく抱きしめる。

やっと。葉月がそれらしくすすり泣きはじめた。

葉月の口からは…やはり具体的な『愚痴』や『相談』は出てこない。

ただ…泣くだけだった。

しかし…隼人も心を強くして思い切って切り出す。

『フランク中将に…相談したら?父親代わりなんだろう??

そうじゃなければ、音楽隊の従兄の兄さんに報告して…』

その途端。隼人の腕の中すっかり任せきっていた葉月の身体が強ばったのがわかった。

『??』

隼人は不思議に思って彼女の顔をのぞき込むと…

妙に落ち着いた顔に戻っていた…と、言うより青ざめていたのだ。

『だめ!兄様達には言わないで!お願い!!』

急に声に張りと強さが戻ってきて…隼人が着ていたカットソーの襟首を捕まれた。

その顔は…どこかいつものお嬢さんでもなく小さなママでもなく…中佐でもない。

なんだか隼人が知らないような『鬼気とした葉月』で躊躇してしまったぐらいだ。

『わかったよ…。言わないけど…その。どうするんだよ。』

『放っておく』

メソメソしていたかと思ったら…『兄貴分達に報告』を提案した途端に…

急にいつものしっかりした女性に戻っていた。

なんだか…腑に落ちないが…隼人はその日。

妙に心配でまた・葉月の自宅に…今度は書斎部屋で泊まることにしたぐらいだ。

それから葉月は一切…真一の成績については口にしようとしなくなり

弱々しく苦しむような姿も見せなくなったのだ…。

彼女がそれでいつもの力を取り戻したなら隼人もそれで良しとした。

一応…弱々しく頼ってきたのは一時だが…あったので。

また困れば隼人に弱音を吐くこともあるだろうから…

それ以上は隼人も触れないようつとめた。

ただ・一言…次の日に。

『止めてくれありがとう…。隼人さんのお陰で安心した…』と言う礼を

次の朝食の時、さり気なく伝えてくれたのだ。

隼人も側にいることぐらいは出来る。それで役に立ったならそれでいいと聞き流しておいた。

ただ一つ…。

頼れる兄達を避けて…一人若い女身で何をそんなに強がっているのか…

それは…隼人の中に新たな疑問として残ったのだ。

『はぁ…葉月ちゃんまだかな…』

そして…隼人の目の前。その問題の青少年がやはり気になる姿で訪ねてきた。

「なんだよ。いつかは帰って来るって♪」

若叔母をいつになく心待ちにしている真一が

なんだか愛おしくて…隼人はそっと…葉月とはちょっと違う手触りの栗毛を撫でると

やっと真一が妙に可愛らしい笑顔をこぼした。

「ちょっとね…成績落ちちゃったんだ…。葉月ちゃんに聞いた?」

彼の方からそんなことを言い出したので隼人はドッキリ…。

しかし…ここでは首を振って『知らない』と言っておく。

「そうなんだ。葉月ちゃん怒られちゃうかな?」

真一がちょっと心配そうにうつむいた。

「怒られる?だれに??」

「右京おじちゃん」

「右京おじさんって??」

「葉月ちゃんの…大きいお兄ちゃん。従兄の…。准将のお祖父ちゃんの息子。」

「あ・音楽隊の??」

「うん。俺にちょっと何かあるとおじちゃんはすぐ。葉月ちゃんのせいにするから。」

「……」

反応は子供の前ではしづらい物があった…。

(怒るくらいなら…養父を辞退して葉月に押しつけるなよ)

それが隼人の本音だった。

しかし真一の望みは『葉月の側』だから大人達がそうしたように隼人は判断していたのだが。

「メールしておこう。葉月ちゃんを怒らないでって…。」

真一はそういってため息をつきながらパソコンがある林側の部屋にこもってしまった。

隼人は洗濯場を拝借。

コレまた・立派なランドリールームで、洗濯機のすぐ側には物干し場のベランダがあった。

そのベランダは隼人が使っている書斎側と同じ林側にあり…

キチンとくもりガラスで隠れているガラス張りのベランダだった。

アイロン台までついていて、その部屋だけで4帖はあろうか?と言う広さだ。

(まったく…すごいマンションオーナーだな)

そういいながらも…何とも使い勝手も暮らし勝手も良い家だった。

隼人の着替えも日に日に増えていっていた。

カッターシャツに下着に部屋着…。遠慮なく洗濯場のかごに放り込むようになっていた。

隼人は油が付いた深紅の作業着を自分で洗濯しようと、洗剤を手にする。

そこでインターホンが鳴る。

(お!?帰ってきたな??)

今日ほど、葉月の帰りを待ちかまえていたことはない。

真一があんなに元気がなくては、隼人ではどうにも出来ない。

ここは若叔母の小さいママでしかできないことだからだ。

ランドリールームのすぐ横が玄関だったので

隼人が出るとすぐに葉月と直面した。

「ただいま。シンちゃん来ているの?」

葉月がちょっと困ったように微笑む。

「ああ。ちょっと元気ないよ。なんだか…鎌倉のお前の従兄さんにメールするって…」

「そう。もうとっくに絞られたわよ。『お前が側にいてどうゆう結果だ!』ってね…」

真一の口調からかなりの事になると思ったが…

いとこ同志…もう終わったこととばかりに葉月は少し疲れた笑顔をこぼすだけ。

「ほんとう!?それで?」

「それで?って??」

(皐月姉さん死を知りたがっているって言わなかったのか?)

そう言おうと思ったのに…予想外に葉月がキョトン…としたので

隼人はそれ以上は言えなかった。

「従兄様は…真一には甘いから大丈夫よ。私にはちょっと厳しいけど。」

葉月はいつもの事よ…とばかりにおどけたが…

「『仕方がない』ですって…」

そこはなんだか…急に硬い表情で隼人を見上げたのだ。

(報告したんだな…)そう感じ取った。

葉月がそっと…リビングへ向かう廊下…曲がり角の方へ視線を馳せていた。

隼人がサッと同じ方を見つめると…フッと…人の気配。

(真一君…!?)

大人達の会話を気にして影で見ていたようだった。

葉月がそこも勘づいていて隼人は『ヒヤッ』とした。

(ゴメン…うっかり…)

隼人が葉月の耳元で囁くと…

『いいのよ。有り難う♪心配してくれて』と笑顔が返ってきてホッとする。

『シンちゃん来ていたの?あら?今日はお泊まり?』

『うん…ゴメンね。葉月ちゃん…怒られたの?』

『いつもの事よ。制服・着替えてきなさい』

洗濯場でちょっと遠巻きに耳を立てていたが…

隼人の耳にはいつもの叔母と甥っ子の会話が聞こえてきたので

ホッとして…洗剤と作業着と格闘することが出来た。