42.外泊出勤
『おはよう♪』
跳ねた髪をかきながら起きあがると葉月はもう隣にはいなかった。
昨夜解かれたパジャマをもう一度着て…リビングに出ると…
さんさんと朝日が射し込むリビングで葉月がにっこり…出迎えてくれた。
黒いガウン姿で…栗毛を揺らしてテーブルに朝食を準備していたのだ。
(わぁ。俺の官舎の朝とは天地の差だ!)
初めて向かえた平日の恋人の自宅での朝。
こんなに優雅でいいのだろうか??と隼人はまた・戸惑っていた。
葉月はお構いなくまたキッチンに戻ってゆく。
『隼人さん。グレープフルーツ食べる?お砂糖?はちみつ?』
(うあ…。葉月が…)
急に女らしくなったようでまた…嬉しながら戸惑っていた。
「グレープフルーツは砂糖に決まっているだろう?」
『また。こだわり?うちの父様ははちみつよ?』
そんな会話も自然になってきていた。
「ミシェ-ルの所は砂糖だったよ。」
『………』
(あ。横浜の実家はどうなんだって考えてそうだな)
そこは突っ込まないところが葉月らしいなと隼人は深く考えずに、のんきにあくびをかく。
「葉月はどっちなんだよ?」
「お・さ・と・う」
ニッコリ…白い皿にフルーツを載せて出てきた。
「本当ははちみつなんじゃないの?俺に合わせなくても、親父さんと一緒にしたら?」
「鎌倉は砂糖だったの。10歳までは…鎌倉だったし♪」
10歳の頃をそう明るく言ってくれる葉月も初めてだった。
隼人も一緒に…葉月の笑顔に微笑んでいた。
さっそく・お互いのいつもの席に着いて向き合って食事をする。
インスタントのスープの朝が、昨夜の残り物のコンソメスープになるだけでも
全然…朝の感触が違うので隼人もどうしてか…言葉が弾む。
「隼人さん。着替え持ってきたら?昨日と同じもの着ていくの?」
「その内ね。あ・俺が昨日と同じパンツはいているって誰にも言うなよ!」
葉月が紅茶のカップを口に付けながら、吹き出しそうに前につんのめった。
「何言い出すのよ!そんなこと言わないわよ!」
いつもの生意気なムキになるお嬢さん。
隼人が笑い出すと…葉月もクスリと微笑む。
いつもの大人びた中佐の笑顔だったが…それでも良かった。
隼人は…もう知っているから。小さい葉月を。
いつもの習慣通り。隼人はシャワー使おうと拝借。
その間葉月は制服に着替えて化粧。
『俺もう行くよ』
キッチンで何かしている葉月に声をかける。
コップ片手に何かを飲んでいるところだった。
『もしかして…』と…ダイニングのテーブルを振り返ると。
『やっぱり…』
高級そうなモザイクのピルケースが開いていたのだ。
毎朝そうして…『ピル』を服用していると言うことだった。
(まぁ。俺も甘えちゃっているしなぁ)
昨夜もお構いなしになったことに反省しながら…
隼人側の対策へも真剣に考えなくてはと思う。
でも。ちょっとだけ意思表示。
葉月が開けっ放しにしているモザイクのふたをワザと閉めておく。
隼人がピルケースを触ったと知って葉月がどう感じるかはどうでも良い。
だから。ちょっとだけの意思表示だった。
『気をつけてね。車で一緒に行けたらいいのにね』
水を流す音と葉月の声が帰ってきた。
「いいよ。まだ・人には騒がれるの面倒だし。」
『ウン。解っている』
隼人は支度に明け暮れる葉月をおいて、玄関に向かった。
隼人は自転車だったので今日は1キロ遠い…だから一足早く出た。
自転車を横にエレベーターを降りると…
入り口をほうきで掃いている初老の男性が目に付いた。
外人だったので…隼人は立ち止まった。
『おはようございます』
遠慮がちに頭を下げると…向こうもニッコリ…。
「おはよう。隼人君」
流ちょうな日本語が…しかも…初めて会うのに名前で呼ばれて隼人はビックリした。
(あ!管理人さん!?)
朝からすごい人に遭遇してしまった!しかも…葉月の部屋に一晩泊まった所を見られた!と。
フロリダの父親に『報告』される…と思ったが…
いつかはばれることだったし。もう…ばれているかも知れない。
「あの…。お世話になっております。いつも…お邪魔して」
隼人は自転車を止めてキチンと頭を下げる。
しかし…管理人の主人はただニッコリ微笑んでいた。
「試験勉強大変だね。中佐の期待に応えなくちゃね。」
そう…笑顔で流してくれたのだ…。解っているだろうに。
(執事?みたいだな??)そう思ってしまった。
「あ。ほら・早く行かないと。遅れるよ!」
彼にせかされて…隼人は時計を見て『あ!』と自転車にまたがった。
「あの…ご主人は…」
名前ぐらい聞いておこうと思ったのだ。
「ロバートだよ。行ってらっしゃい♪」
彼が笑顔でそっと…隼人の自転車を父親のように手で押してくれたのだ。
『行って来ます』
『車に気を付けるんだよ!』
白髪の妙にガタイの良いおじさん。
隼人はそっと…フランスのホテルアパートの親父さんを思いだしてしまった。
坂道を勢い良く自転車で降りて『見送ってもらう』と言うことを噛みしめていた。
自分の官舎にさしかかるちょっと手前で…隼人の横を黒塗りの車がそっとスピードを緩めてついてきた。
『??』
後部座席の窓がスッと開いた。
「よう♪おはよう!こんな所走っているのか??」
金髪の麗しい男がいたずらげに顔を出したのだ。
「フ・フランク中将!お・おはようございます!!」
ビックリ…自転車を降りようとした。
隼人が官舎より遠いところから通っているのは葉月の所に外泊した。
葉月の兄分に、そう…見抜かれてしまったらしい。
「あはは!上手くやれよ♪じゃぁな!」
運転席には白い手袋をした運転手。
後部座席のロイの横にはいつも通り…優雅な雰囲気のリッキーが座っていて
彼もいつもの品格の良い笑顔をこぼして隼人に会釈をしてくれた。
黒塗りの車はそっと緩やかに発進した。
(はぁ。さすが連隊長…。お迎えの側近と運転手付かぁ…)
ロイのもっと優雅な出勤に隼人はため息。
(もう…内輪にはバレバレだなぁ)
でも…それも当たり前なこと。もう割り切れるようになった。
あんな葉月を昨夜手にしてしまったのだ。今更・戻れるわけがなかった。
隼人はまた自転車をこぎ出す。
ガードレールのすぐ下は青い海。波の音が強く響く。
強い潮の香り。朝のポンポン船の音。海鳥の声。
マルセイユより海は近くに感じる。
マルセイユは大切な思い出。故郷。
小笠原は…新しい居場所。
隼人は力一杯ペダルを踏み込み、潮風を笑顔で切ってゆく。
『おはよう♪隼人兄!』
本部にはいると、早速ジョイが青い瞳を輝かせて向かえてくれた。
「早いね!お嬢もまだ来ていないのに!」
隼人はドッキリ…見抜かれてると思って表情を止めたが
ジョイは無邪気に『どうしたの?』と首を傾げただけだった。
どうやら…従兄のロイと違ってやはりまだまだ…『お坊ちゃん』の様である。
「たまにはね。側近らしく早く来ないと。」
「あー。気にしなくても良いと思うよ。
お嬢は側近時代の時も…その前も。とにかく早くて出くる性分だし。
隼人兄はとにかく・そんな気配りする以上の苦労は味わっているよ!」
それが昨日の『元・恋人』との対面を指していると解って…
隼人はまだ納得いかずに拗ねたジョイに苦笑い。
「でも・ほら。俺は…ハリス少佐とは気が合いそうだと解ったし。
『御園中佐』の人選はさすがかなぁって…。」
するとジョイがため息をついた。
「あ〜あ。隼人兄は、ハリス少佐のこと『大人』って言っていたけど。
俺から見たら隼人兄もかなり大人だよ。見習う…」
つい最近まで、取っつきにくい年下上官だったジョイにそういわれるようになって…
隼人は、『変わるモンだなぁ』とそっと微笑んだ。
『おっす♪』
ジョイと話し込んでいると、山中の兄さんが颯爽とご出勤。
『おはよう!』
二人で笑顔で挨拶を交わす。
「あー。今日もせがれが泣く泣く♪」
「剛史君。元気?」
隼人も最初お邪魔したときに彼の子供は目にしていた。
山中のように何とも体格の良い男の子だった。
「ああ。もう♪そろそろハイハイの時期でさ。動く・動く!」
「じゃぁ!春には歩いているね!お正月は鹿児島に帰るんでしょ!」
ジョイが元気いっぱい山中に尋ねた。
「もちろん♪あ・お嬢に言っておかないとなぁ。年末年始に休暇くれって。
ジョイはどうするんだよ?今年は。クリスマス近くは感謝祭とかあるんだろ?」
「うん。どうしよう?夏の長期休暇も今年は帰らなかったし。
ロイ兄と相談してからかな?俺もお嬢に休暇のこと言っておかないといけないね。」
隼人はこの話題にドキリとした。
もう・11月になったところだ…。
そろそろ年末の話が日本らしく出てきたのは
フランスではなかったことで初めてだった。
二人の補佐が、隼人に視線を集めた。
「大尉はどうするんだよ?横浜だろ?」
「そういえば帰国してから…一度も帰っていないんじゃないの?隼人兄…」
「俺は…」
葉月なら流してくれそうな話題。
他の人間には聞かれて当たり前の話題。
こんな風に答えに詰まる…普通に答えられない自分が情けなくなってきた。
「あ。早速お嬢と何処か行くとか?真一もなついているモンね!」
ジョイがいつもの如く生意気にからかってきたが…『助かった…』と言うものだ。
「真一になつかれているっていうと何か安心できるから不思議だなぁ。」
山中もそういって…ほほえましく見守ってくれる。
丁度良く話が流れたところで…
『おっはよう♪』
「おはよう!洋子姉さん!」
またジョイが元気良く出勤者を迎える。
河上少佐の妻。河上大尉が出勤してきた。
「あら♪珍しい。澤村君がこの時間にいるなんて。」
まるでバレーボール選手のように河上大尉も、葉月のように背が高い。
身体はスポーツマン系で夫の少佐の方が小柄に見えた。
いつも黒髪はきっちりバレッタで結い上げているか、一つにまとめていて
キャリアウーマンだが、穏和さとおおらかさはいつもと変わらない女性だった。
「なんですか?まるで俺が遅刻ギリギリみたいに言わないでくださいよ。」
「あら。ゴメン!葉月ちゃんが早いモンだから損な側近さんよね。」
彼女は明るく笑い飛ばして隼人の肩を叩くのだ。
どこか憎めなくて最初から馴染みやすい人だった。
コピーを取りに行くたびに、側の席にいる彼女とは
毎日一言・二言交わすうちに、隼人の中でも『洋子姉さん』になりつつある所。
補佐二人。側近一人。女性の班長が一人。
この四人はとりわけ葉月には近くていつもこうして話している。
隼人もこの一ヶ月で解ってきたのがこのメンバーが四中隊の一番の要であるようだった。
『その。葉月ちゃんは?』
四人で話していると洋子がふと。尋ねた。
(そういえば…遅いのかな?)
男三人一緒にカフスをめくって腕時計を確かめる。
『おはよう。』
葉月がやっとやってきた。
優雅な物腰。美しい栗毛。
葉月が入ってきただけで…急にしっとりとした重厚な空気が流れる。
隼人の女中佐の登場だ。
「ちょっと。遅くなっちゃった。管理人のおじ様に止められてたの。」
(あ。俺の事かな?)
隼人は、自分と会ったものだからその感想でも
あのおじさんが葉月に言っていたのだろうか?と不安になった。
だけれども。葉月の笑顔は昨日より輝いていた。
「あら?葉月ちゃん最近ちょっと色っぽくなったんじゃないのぉー。」
洋子が意味ありげに、微笑んだが葉月は何のその。
わずかに微笑むだけ。
その無感情コントロールは、職場では見事なもので隼人も安心する。
「姉さん。そうゆう質問すると『おばさん』って言われるぜ♪」
山中のからかいに今度は洋子が『何ですって!』とムキになった。
ジョイはケラケラ笑って年上の会話にはしゃいでいる。
隼人も思わず笑っていた。
「さて。早速…朝礼しないとね。あ。来てる?」
葉月は書類ケースをジョイの机に置いて時計を見た。
「あ。まだだよ。仕方がないなぁ…」
山中が自分の席を振り返って。角合わせになっている窓辺の席を見た。
「あ。もしかして『ワグナー少佐』の事?」
隼人も。もう一人印象的な隊員がいた。
とにかく毎朝の如く…朝礼前にやってくるのだ。
葉月がいつも…
『私の合図じゃなくてデビーの出勤が朝礼の合図ね』とぼやいているのだ。
それでも遅刻はしないので葉月も注意のしようがないらしく
毎朝・ハラハラしているとのこと。
良く聞けば。葉月と同い年で同じフロリダ出身で…同じくツーステップしている。
海陸少佐で今は山中のすぐしたのエリート後輩なのだが何処かまだ抜けていると言う感じだった。
彼も葉月には親身で、補佐でも班長でもないが本部には良く力を尽くしてくれていた。
「グッモーニング!!間に合った!」
栗毛で短髪の青年が息を切らして駆け込んできた。
「デビー。たまには私に余裕をちょうだいよ。」
葉月がいつもの如く冷たい無表情で呟いても…
「わるい。わるい!でも・間に合っているジャン、大目に見てよ。お嬢!」
彼は明るく葉月の背中をバシバシ叩くのだ。
「もう。『合図』が来たからはじめるわよ。」
葉月がシラっと栗毛をなびかせて、いつものポジションに向かうと
デビー=ワグナーは『ベッ!』と葉月の背中に舌を出して顔をしかめる。
ジョイと山中。洋子姉さんもいつものこととクスクスと笑っている。
歳も出身も同じ同期で葉月とは遠慮がないようだった。
葉月も信頼を寄せているのは隼人も肌で感じている。
『朝礼はじめるぞ!』
陸官である山中の大きな声がいつもの集合の合図。
ジョイが葉月の足元にあの小さな木箱を準備する。
隼人は側近らしくスケジュールのプリントを木箱に登る葉月に手渡す。
『はじめます。』
『敬礼!』
山中の号令で50名総勢が一斉に葉月に向かって敬礼をする。
隼人も、木箱の上で敬礼をする凛々しい葉月に毎朝誇りを感じる。
栗毛を朝日に輝かして、威風堂々、冷たい顔で敬礼をする恋人。
『俺の女中佐』
慣れてきた生活は日々隼人の体と心に浸透をはじめていた。