25.すれ違い
その日の夕方。隼人は再び葉月の自宅に向かったが、
この日は真一とは出会わなかった。
夕暮れが刻々と進む中、林側の書斎部屋で一人大人しく本に向かう。
あまりにも静かで、やっぱり林の木々の音がさざめくのだが
今までのような『侘びしい』気持ちはもうなくなっていた。
今までよりもずっと心が落ち着くような音に変わってきていて
葉月が帰ってくるまで、安らかに書籍に向かっていた。
(ちょっと暗くなってきたな)
それに気がついて机のスタンドをつけた。
ほのかな明かりが隼人の手元を照らす。それからしばらくして・・・
『ピーピーピー』と、リビングのインターホンが鳴った。
誰かが玄関でカードキーをスラッシュさせると鳴るらしいのだ。
隼人は、今日は意地を張らずに葉月を出迎えた。
「お帰り」
「ただいま」
葉月がまた、買い物袋を下げて帰ってきたが、そんなに大きな袋ではなかった。
それよりも。小脇に大きな書類ケースを抱えたいた。
「そんなに後処理残っていたっけ??」
隼人はここのところ、少しずつ葉月がやってきた事務を引き継いでいた。
外勤派の葉月もそれは助かると喜んでいてくれたのだ。
なのに、隼人が葉月の手元が空くように、日々精進しているのに
葉月はいつにない姿で帰ってきた。
「ああ。これ? 別の事」
「別の事??」
手元が空いたら、空いたでまた何か抱え込んでやろうとする葉月の意欲に隼人はいぶかしんだ。
「心配しないで。急ぎの事じゃないし、隼人さんにもそのうち話すから。」
葉月は『ふぅ…』と一息ついて、買い物袋と書類ケースをダイニングテーブルにおいた。
「今日はシンちゃん。こなかったようね」
葉月が少し寂しそうに呟きながら、制服の上着を脱ぐ。
隼人は、『そのうち話す』の一言にとりあえず、突っ込むのはやめることにした。
「学生だから。忙しいのじゃないの?」
隼人も何気なく返事をしてまた、書斎に戻った。
『ゴハン。食べる?』
書斎の机に腰をかけると、遠くの方からそんな葉月の声。
『うん。ゴメン。そうする』
『ゴメン』の一言が隼人らしくて葉月もキッチンに食材を並べながら微笑んでいた。
真一がいない今日は、大人二人だけ。
お互いが別々のことをして、物音以外は静かな空気が流れていた。
隼人の鼓膜に柔らかい木々の音。葉月の夕食の支度の音。
微かに聞こえるさざ波の音。
少しずつ…少しずつ…。隼人の日常の音になりつつあるようだった。
隼人の体に少しずつそんな音が浸透していく。官舎で見ていた月明かりのように…。
食事はこの日も『和食』だった。
簡単な味噌汁にご飯に、おかずと葉月が買ってきた総菜。
それを二人で山本のことを『ああだ。こうだ。』と話しながら終える。
「まったく。隼人さんそんなことまで言ったの?」
今度は葉月が、自分なりの一言を付け加えたという隼人に呆れていたが
なんだか、無邪気に笑って流してくれた。
「だってさ。お前に『言え』って言われて、いわれた通りだけに帰ってくるって…
なんだか。俺ってただの『お遣い』じゃないか??」
「それ。『男のプライド』?」
そんなところは、真一の生意気にそっくりで隼人は『ヤレヤレ』とため息をついた。
「言い訳をするつもりはないよ。確かにね。
でもな。俺は葉月より歳も上だし、一応。キャリア的には先輩のつもりだからね。
女中佐に言われるままになるつもりはないからな。」
昼間の葉月の『先読み』に少しばかり感心して隼人は、『負けてられない』…そう思ったのだ。
康夫が言ったとおりだと思った。
若いくせに変に読みが深い葉月。勘が働く女中佐。
そんな一面を垣間見て、隼人は置いて行かれるようなそんな『焦り』が
フランスにいたときのように生じていた。
この『焦り』に感化されたから、とうとう…葉月が運んだ『風』に乗せられるように
『島』までやってきたと言っても…今となっては素直に認めている。
葉月の『風』を久しぶりに肌で感じて、隼人はやはり『ついていこう』と言う気になる。
葉月はそんな隼人の『兄貴ぶる』お言葉になんだか満足そうに微笑んでいた。
「そうこなくちゃ。隼人さんには、何時でもそうであってほしいの。私。」
『小娘のムチ役兄貴。』それでいいという葉月に隼人も『意見一致』と微笑んだ。
隼人には年上の先輩として、側近といえども一歩先は行ってほしい…。
葉月のそんな願いは隼人にも通じていた。
まぁ。だから山本に対して『自分として一言』を決行したのだ。
「さて。隼人さんにはこれからちょっと一役かってもらおうかしら?」
葉月が食べた後片づけをしながら、ダイニングチェアから立ち上がる。
「一役…かう?って??」
また何を思いついたのだ?と隼人もお皿を重ねながら、葉月を見上げる。
「とりあえず…。もうすぐ、メンテの補充員として外にでるでしょ?
実は、ここの所。隼人さんを貸してくれって言う申し込みが
少しずつ、他の空軍チームから要請がきているの。それに出てもらうこと。」
「そんなこと。当初の予定通りじゃないか?」
葉月が妙に静かなほほえみを浮かべながら、皿を抱えてキッチンに行ってしまった。
『欠員穴埋め業務』は最初からウィリアム大佐から言い渡されていたことだった。
それでも、他チームから『貸してほしい』という声があったのは
隼人としては嬉しい事なのだが…。
隼人はその当たり前のやることの裏で葉月が何を考えているのかは解らない。
だけど。何かを思いついてまた、一人でこっそり『実行』しようとしている事だけが解った。
隼人はキッチンに姿を消した葉月のところに
残りのお皿を運びながら後を追った。
「また。なに考えているんだよ。全く。大人しくしていろって言ったのに…」
「さぁね…♪」
『フフ…』と微笑む葉月がやっぱりまた何かをしようとしていると隼人は確信をした。
「フランク少佐が言ったとおりだな。お前の『さぁね』は怖いってさ。」
「失礼ね。」
流しに放り込んだ汚れた皿を葉月が水で流す。
「どうせ。問いつめても白状しないつもりだろ?」
スポンジで洗剤を泡立てる葉月の手元を眺めながら
隼人は葉月の妙な柔らかいほほえみをジッと眺めていたが…
やっぱり彼女は何も語りだそうとはしないと、隼人はあきらめて
ため息一つついて、書斎の戻ろうとキッチンに背を向けた。
「隼人さんなら…言わなくてもそのうち解ってくれそうな事よ。
とりあえず…ジョイと一緒に『攻防戦』頑張ってね♪」
相変わらずの調子のいい声に隼人は肩越しに
チラリと呆れた視線を流しはしたが…
「はいはい。中佐の意のままに…」
肩で疲れたように手を振ると葉月がくすくすと笑った。
葉月が何を思いついたかは知らないが…
(どうせ、また俺うまく乗せられるんだろうな)
その『風』にうまく乗ると最後には何かがついてくる…。
そんな期待が隼人の中に生まれてしまうからやっぱり困ったものだった…。
ちょっと、嬉しい困ったなのだ。
『何思いついたのかな?今度のじゃじゃ馬さんは…』
隼人は目の前でまたピョンピョン跳ね始めた栗毛のウサギの後を追いかける
飼い主のような気持ちでため息をついた。
葉月のとっては『山本』の事なんて何かのきっかけで小さな事なのかもしれない。
それも…『山本対策』以上の何かが待っているような気がしてきた。
こんな底知れない『予感』は、フランスで暮らしていた15年には絶対にないものだと気がついた。
隼人は、すっかりなじんでしまった書斎で、また集中…。
葉月の片づけの音が止むと、今度は彼女がリビングを
行ったり来たりしている音がしばらく続いた。
それでも、隼人には気にならない音だった。
静かになったのは21時頃…。
また、木々の音と微かささざ波が静かに流れて隼人もいつもの集中が深まる。
ハッとして時計を見ると…一時間しかたっていなかった。
(また。23時になったら葉月寝ているかもしれないな)
そうなってしまう前に、『おいとま』しようかと隼人は席を立つ。
書斎の外に出ると、葉月が濡れた髪を結い上げて
部屋着のワンピースで、また書類にかじりついていた。
それも…テーブルいっぱいに広げてなんだか…『隊長業務』という雰囲気ではなく
隼人から見たら物々しさを感じたぐらいだ。
『何しているの?』
そう聞きたいが『さぁね』でまた返される気がして隼人はまた、部屋のドアを閉めようとした。
「隼人さん?」
葉月に呼び止められて、隼人はもう一度ドアを開いた。
「なに?」
「昨夜。おいていったお洋服…。その部屋のタンスにしまっておいたから。
クローゼットも今は空っぽだから適当に使って?
タンスは半分上は真一のものが入っているから隼人さんは下の方使って。」
葉月が書類を真顔で見つめながらサラッと呟いた。
『これからはそうして隼人さんはここの人になったらいい』
そう聞こえたはずなのに…そんな風に言われるとまた、天の邪鬼が出るはずなのに…。
仕事中…葉月が書類を見ながらサラッと何かを言いつける時と同じように…
「わかった。そうする。」と、答えてしまっていた。
「何でも好きに使って。」
葉月は淡泊にそれだけ言うと、広げに広げまくった書類を
端からとってはパラパラとめくっていた。
「もう。帰るの?」
また、葉月が無表情に尋ねてきた。
「…………。」
なんだか。23時頃帰る習慣が付いてしまったようで隼人は『まだ。』といいそうになったが
まだ何か、葉月の世界に、どっぷり浸かりたくなくて声に出すことができなかった。
「帰るなら。その前に時間をちょっとだけちょうだい。」
書類をめくる葉月は…いま私服といえども、大佐室でいつも目にしている隼人の上官だった。
だから…
「それなら。今聞くけど?」
「そぉ?」
葉月がいつもの女の子のにっこりを浮かべたので、
隼人はドアから離れてダイニングテーブルに向かった。
隼人が椅子を引いて座ろうとすると葉月が書類ケースから
B5サイズぐらいの紙の束を手にして隼人に差し出した。
「夕方。ジョイからもらったの。さっき話した、メンテ補助要請。」
隼人はそれを手にしてめくってみる。
この基地で一番ベテランが集まる「第一中隊」の1チ−ムからの要請。
そして、山本がいる第二中隊から2チームが要請。
第四・五中隊と同じような若い中隊の第六中隊からも要請がかかっていた。
「まずは。来月はじめにそれだけ声がかかっているの。
ジョイも嬉しそうにしていたわよ?来たばかりなのに最初の一声で
一発で要請がまんべんなく来たって…。あなたがフランス出身って事で
アメリカ出身が多いこの基地ではかなりの注目をしているって事。
それでね?全部引き受ける気はある?」
その問いかけに隼人は真っ先に答えていた。
「あるよ。」
「やっぱりね。そういうと思ったわ。」
葉月も嬉しそうに微笑んでくれた。
隼人は昨日だったら、「考えてみる」と言っていたと思った。
だが。今は「メンテチームは必要」そう感じたのだ。
どんなチームを結成するかは二の次。
まずは二年間内勤に慣れた体を…教官でしか使わなかった体を…
『現場的』に修正しなくてはならない。それにはまず…
一日。一回でもいい。二時間でも訓練に出ることだった。
それに『島の空軍』をこの目で確かめて置かなくてはならない。
そんな気持ちになっていたのだ。
しかし…
「私はね?隼人さんのその返事を確信していたし、嬉しいと思うけど…。
今、一番の目的の邪魔になるなら、全部は引き受けなくていいと思うんだけど?」
葉月の『お勧め』は『程々に引き受けたい』と言うことらしい…
隼人も、今だから気持ちが先走りしているだけかもしれないから…葉月の言うことは良く解った。
まずは『少佐』になること。『本部の要』として側近として落ち着くこと。
「だったら。葉月に任せるよ。どれだけ出れば、葉月の足を引っ張らないか…
その具合で、決めてくれればでれるだけ出るし。そこは側近として従うよ。」
隼人は早速『要請』が来てくれただけでも多少は満足した。
「その辺は、ジョイと決めてくれる?内勤肌のジョイなら『営業上手』だから…
先輩方に断るにしろ、売り込むにしろ上手に私の代わりにしてくれているから。」
「なるほどね。解った。」
無邪気なくせに頭のいいジョイが『営業上手』と言うのは納得ができて隼人は笑っていた。
「それでね?返事はまだできないって、ジョイと一緒に他の先輩達には
あなたを出し渋っているのよ。私達。ジョイなんか
『他にも来ているからお断りするかもしれない』なんて口から出任せ言っているのを聞いて
私なんか本当かないやしないんだからぁ。と思っていたのよ?」
葉月が呆れたため息をついたが、隼人は『出し渋っている』売り込み作戦に正直びっくりした。
「彼。そんなこと言っているのかよ!?」
「そうよ?やりすぎないで…て釘を差したところでジョイも結構気が強いからね。
隼人さんに冷たいそぶり…今までしていたけど。この一ヶ月弱…
そんな風にして隼人さんを売り込んでいたのよ?
実力は元より、ジョイが一番認めているって感じ。
私がフランスから連れてきたのに、影が薄れちゃうほどよ??」
隼人はそれを聞いて、やる気が『プレッシャー』に変わるような気がしてきた。
「もう…解っていると思うけど…。半端な空軍って事で
私達随分、そうしてやってきたから…ジョイも見返したいってところなのよね。
あなたに期待していると思うわ。今すぐ…メンテチームを作ってほしいとは言わないわ。
でも。いずれは…って事は念頭に置いてね?」
葉月の諭し方に隼人は…どれだけの期待を背負ってフランスから引き抜かれたかを
ここで初めてヒシヒシと感じたのだ。その上、葉月がこんな事を言いだした。
「当然。キャプテンは隼人さんにしてもらうわよ。」
先の話のはずなのに、葉月はそこは『確定している』と言うように強く言いきった。
「と…。待った!?俺がキャプテン??」
隼人としては、『葉月のサポート的側近』の心積もりだった。
側近として『チーム結成』に力は入れてメンバー集めをしても
それは『今までのメンテ員・メンテ教官としてのキャリア』を頭脳的に活かそう…それだけだった。
キャプテンはフランスでの同期生『ジャン』のように
外勤向けの人間を選んで管理してもらい、隼人はたまに欠員補助ででればいい。
フランスでも康夫の補佐をしながら、教官をしながら…欠員の手伝いにたまに出るような仕事だった。
葉月の元では、『補佐』が『側近』になって、上官の格と管理規模が大きくなっただけ…。
その為には、それを担う肩書き『少佐』が必要だ…と、それぐらいにしか思っていなかった。
『キャプテン』なんておこがましい。なれるはずがない。
隼人は、そう思ったから、今までだって『ジャン』から一歩下がって
『内勤の道』を選んできたのだから…。
それを、メンテチームの結成は葉月の中では『ぼんやり』な輪郭しかないが
そのはじめには、もうしっかり、頭に『隼人がキャプテン』と、イメージが固まっているので驚いたのだ。
そんな隼人の怖じ気づきようすら、葉月は解っていたかのように
落ち着き払ったあの平淡真顔で続けた。
「隼人さん?私の側近なら訓練でもサポートしてくれなくちゃ困るわ。
内勤にはたくさんの本部員がいるわ。それを隼人さんの頭で動かしてくれたらいい。
体は空軍に預けてほしいのだけど?なんの為に、来月から外訓練に出るの?
ただの習い事じゃないのよ?」
葉月にこんな風にはっきりキツク言われたのは初めてだった。
本当のことを言われると腹が立つと言うが本当だった。
隼人は年下のいつもは『妹のように可愛いふつうの女の子』が
皆が言うような『生意気小娘』として初めてムッと苛立ったのだ。
「そんなこと。俺は考えていない!俺は葉月の手となり足となり…
そうゆう側近を望んでいるんだ!!空軍で駆け回る一隊員じゃない!
本部の管理が手が回らないからフランスまで俺を引き抜きに来たんだろう!?
俺は、側近としてきたのか?それとも空軍の外勤員として引き抜かれたのか?
どっちなんだよ!!!」
フランスにいたときのような閉鎖的な自分がバッと外に出て大声を張り上げていた。
広いリビングだから、ちょっと出した大声がかなり響いたような気がした。
葉月が一瞬哀しそうに隼人を見上げた気がしたが…
スッと書類に視線を戻してしまった。
「………。いいのよ。それならそれで他の方法考えるし…」
泣いたり笑ったり…怒ったり…ムキになったり…
隼人の前では結構感情表現が豊かである葉月が
この時に限っては妙にサラッと落ち着き払っていた。
(これが…皆が言う『無感情令嬢』ってことか!?)
その冷たさがこの日は妙にしゃくに障った。
本当に…『この野郎!』と隼人は年に似合わず年下の葉月に腹を立てていた。
「帰る。」
「お疲れさま。」
その淡泊な言葉にまた。隼人は頭に血が上ったぐらいだった。
隼人は上着を書斎からとってこの日は書類ばかりを睨む葉月に
優しい挨拶もなしに自転車で帰った。
帰り道の潮風が頬に冷たく当たる。
隼人は途中。海際のコンクリートに自転車を止めて
防波堤から海をずっと水平線まで眺めた。
本当は解っていた。葉月がそこまで期待してくれているのは嬉しいことも…。
そして…そうして行かなくてはならないことも。
ただ…。15年もフランスで閉じこもっていた自分が
大きな世界に出ていくのが『怖い』だけなのだと…。