16.ロザリオ
隼人は朝食を頂いてから、昨日来ていたシャツと制服のスラックスに着替えて
『林側の書斎』にこもって…昨夜、物色した資料を開いて勉強を始めた。
葉月はやっぱり『御勝手に…』と言う感じで、隼人がこもってからは一度も
林側の部屋を覗こうとはしなかった。
隼人は一時間ほど資料を眺めて一息…葉月が入れてくれた二杯目のカフェオレに口を付けた。
昨夜もそう…。
葉月は一切部屋に入って来ないで、隼人の邪魔をしようとはしなかった。
それで隼人はついつい…集中してしまって、気が付いたら窓際の机に座って本を読んでいた。
何時間夢中になっていたかは解らない。
解らないが隼人が気が付いたときは腕時計が23時を指していたのだ。
それにビックリして…『帰らなくちゃ!』とパソコン部屋をやっとでたのだ。
すると…
テレビを小さな音量に絞ってつけたままで…書斎部屋の目の前にある
背の低いアイボリー色のソファーに葉月が寝込んでいた。
白い胸元でリボンを結ぶワンピース姿で黒いカーディガンを羽織っていた。
その姿が…仕事場では見ないしっとりとした姿で…
隼人はフランスで葉月の泊まり部屋に初めておじゃましたときの
『雨の日の休日』のことを思い出していた。
あの時も…葉月は本に夢中になってしまった隼人をほったらかして無防備に昼寝をしていた。
今も同じだった…。
隼人は可笑しくなって…そっと寝入っている葉月の足下にひざまずいた。
今も…まったく同じだった。
『やっぱり…俺の天の邪鬼だな。何にも変わらないのに…。
彼女の好意を変な風にねじ曲げて避けて受け取らないなんて…』
隼人のために…こうして『場所』を与えてくれた葉月。
邪魔はぜずに、隼人を好きなようにそっとして置いてくれるのに…。
隼人のわびしい官舎で集中するよりずっと落ち着いて夢中になっていたのは確かだった。
環境はものを言うかも知れないと隼人も認めざるを得なかった。
このまま葉月を起こすのも気が引けたので…隼人は書斎のベッドから…
勝手ながら毛布を引っぱり出して…抱えて持っていき…。
葉月の身体の上にそっと掛けてから…このマンションをでて帰ろうと思った。
入るのは容易ではないがオートロックなら出ていけば勝手に鍵も掛かるだろうからと
葉月には黙って帰ろうと心に決めながら…。
葉月の寝顔をそっと見守るように毛布を掛けようとしたときだった。
「!!!」
葉月がそれを悟ったかのようにガバッと起きあがったので隼人はビックリして
毛布を掛けようとした姿勢のまま固まってしまった。
葉月は起きあがると怯えたように辺りを見回してやっと目の前にいる隼人に気が付いた。
「隼人さん…」
葉月の額にドッと汗が滲み始めたのでそれを見て隼人もヒヤリとした。
「ビックリした…。よく眠っていたから…」
「そう…。眠っていたの?私…。」
「すごいね。康夫から勘がいいとは聞いていたけど…解るの?寝ていても…人の気配。
前にさ…。俺が雨宿りでお邪魔したときは…俺が側に行っても気が付かなかったのに…。」
すると。葉月が胸元のリボンのあたりを片手で鷲掴みにして、急に呼吸を荒くしたのだ。
「大丈夫かよ??」
その様子に隼人はさすがに…躊躇した。
「だ…大丈夫。夢見ていただけ…」
その夢がどんな夢かは解らないが隼人は葉月を
恐怖に陥れる夢に違いないと知ってショックを受けた。
葉月はサッと立ち上がってキッチンの方へ急ぎ足で向かっていった。
水が流れる音がしてなんだか急に心配になって隼人もキッチンを覗いた。
しかし覗いた途端に葉月はコップを手にしてリビングに戻っていこうとするので
隼人は葉月の行く道を遮らまいと身を翻した。
葉月が向かっていったのは、隼人が眺めていたモザイクの小物入れだった。
葉月はそれを急ぐように開けて…アルミに包まれた粒を震える手で取り出そうとしていた。
それが…『薬』と知って隼人はさらにショックを受けた。
隼人が茫然としているウチに葉月はその薬をグッとコップの水で流し込むように飲み干したのだ。
「薬…飲むんだ…」
隼人が茫然としながら呟くと葉月がそれを見られた気まずさか
テーブルに手をついてガックリうなだれたように見えた。
「悪い薬じゃないわよ…」
「解っているよ。でも…」
「時々よ」
「でも…まだそんな若さで…。」
精神安定剤なんて『不自然だ』と言いたかったが…。
葉月の今の様子を見ては…このマンションのセキュリティのように隼人には何にも言えない。
それは『体験した者』にしか解らない苦しみだからだ。
しかし。薬を飲んだだけで葉月が『ふぅ』と落ち着いたようだから、隼人もホッとした。
それでも…まだ…額の栗毛がじっとりと貼り付いている姿は、痛々しくてならなかった。
「葉月…。男が怖い?」
とっさにそんなことを聞いていた。
勿論、葉月も聞かれたくないことを聞かれて驚いたように…怯えたように隼人を見上げるのだ。
隼人はそんな葉月にそっと一歩近づいた。
葉月が隼人の様子に一瞬怯えたような顔をしたが…
隼人は心を強くしてもう一歩近づいた。
「どうして??そんなこと聞くの??」
胸元のリボンを握りしめて葉月が『警戒』しているのを解っていながら隼人はまた近づく。
息をひそめて…怯えているウサギに『大丈夫だよ』と、安心させるように…。
『いいから。大丈夫だから…。こっちにおいで』
心でそう言っていた。
葉月にそれが通じたのかどうかは解らないが…逃げようとはしなかった。
やっと葉月の前に来て隼人はそっと葉月の栗毛に触れることが出来た。
やはり…じっとりと汗で栗毛は湿っていた。
「俺も怖い?」
葉月を安心させるようにただそっと栗毛を撫でていると葉月がうつむいたまま首を振った。
それを確かめて…今度は葉月を胸の中に抱きしめていた。
「この前はごめん…。急にこんな事したから…」
葉月を胸の中に抱きしめながらただそっと…栗毛を撫でていると…。
この日は案外、すんなりと葉月は隼人の肩に寄りかかってきた。
「私も…。ごめんなさい…。ビックリしたでしょ?それとも…気が付いていたの?」
初めて葉月を抱いたあの日…。葉月も隼人を困らせるほど『反応』出来なかった事には
気が付いているようなので隼人は『やっぱり…』と…思った。
「怖かったの…。隼人さん…お兄様みたいなのに…男の人になったらどうなるのかしらって…。」
「俺だって…普通の男だよ。いつまでも…兄様じゃないと思うけど…。
今は…ほら…もっと大切なことがあるから…兄様かもしれないけどね…。」
天の邪鬼な自分がなんだか心の底を開いて口にしているので隼人は自分で驚いたりする。
とにかく…このお嬢さんに限っては…本当の心を見せないと
雪江が言ったようにすぐにそっぽを向きそうでいてもたってもいられないのは本当のことだった。
「私だって…。隼人さんの重荷になりたくないから…。」
「重荷なのは新人の俺の方だろ??」
「仕事じゃなくて…『お付き合い』の事…。
私だって…本当は普通に愛されたいし…普通に男の人を愛したいの…。
今は…隼人さんと一緒…。ただの…一緒に仕事をするパートナーでいいの。
だから…怖かったの。隼人さんを信じていないわけじゃないの。でも…
急に男の人になって激しい人になったら…私がどうなるのだろうって…」
『だから…あの日拒んだ』と言う葉月の気持ちがやっと分かった。
しかし…
「俺は…そんな大人しい男じゃないよ。俺だって普通の男だよ?
これから…どうしたら葉月に許してもらえる??」
まだ、確かに…『兄と妹のよう…』で暫くはいようと思った。
しかし、葉月にとって『心優しい頼りがいある兄様』で終わるつもりだってなかった。
隼人はジャンが言ったとおり…自分から『求愛』していることに気が付いて…
『好きなんだよ。本当に。』と改めて確信してしまった。
それを裏付けるかのように今度は力を込めずにそっと、そっと葉月を腕の中に閉じこめていた。
「私だって…普通の女よ」
怯えていたウサギの目が…急に輝いたように隼人は思った。
その煌めきは…艶めかしい女の瞳だった。
「俺を試してみる?」
隼人も負けじと葉月のガラス玉の瞳を射抜くように見つめていた。
「試すって?」
解っているだろうに葉月も真顔で突き返してくる。
(こんな時は生意気なウサギだな!)
隼人はそう思った瞬間には葉月の唇を奪っていた。
葉月も今夜は抵抗はしなかった。
久しぶり。再会して初めての口づけだったが…
何処か懐かしいような慣れたような感触を隼人は感じていた。
「わたし…そんなつもりで今日…ここに…誘ったんじゃ…」
隼人の口づけを受けながら葉月が囁いた。
「俺だってそうだよ。でも…今夜は別。」
「本当に…隼人さんの役に立ちたくて…」
こんな風になってから急に言い分ける葉月がじれったくて隼人はきつく葉月の唇をふさぐと
やっと大人しく葉月は黙り込んだ。
ここまで来たら隼人とて…止まることは考えられなかった。
葉月の汗ばんだ栗毛からあの…トワレの香りが立ちこめたからよけいだった。
「怖いなら…早くそういえよ」
この台詞も前も言ったな?と思いながら隼人は葉月の胸元のリボンをほどいていた。
しかし…葉月は何も抵抗しなかった。
急に男になった隼人を何とか受け入れようと集中しているようだった。
暫く葉月の胸元を乱したが…葉月が隼人の手を取って…
そっとミコノス部屋に招き入れたのだ。
お互いに着ていた服を脱ぎ散らかした後は隼人もただ夢中になっていただけ…。
『葉月』と囁くたびに彼女の冷めたような身体が熱くなっていくのを確かめただけでも
隼人は心が満たされていった。
夜中になって、落ち着くと葉月がそっと隼人の横で背中を向けて寝息を立て始めた。
今度はちゃんと眠っているのだろうか?と隼人は何度も葉月の寝顔をのぞき込んだ。
『歩いて帰ろうか?どうしようか?』とぼんやり天井を眺めて考えているウチに
葉月の頼りなげな寝息が心地よかったのかいつの間にか眠っていたらしい。
朝。目が覚めて…まるでその出来事が夢のように我に返った。
自分の大胆さにも驚いたが…。
とにかく…葉月のために必死だっただけだ。
それに…手放しにくい…『俺の女だ』と初めて感じた。
このままでは本当に『溺れていく』かもしれない…。
今のウチに何とか元の『淡白な男』に戻らなくては…といういつもの自分に戻っていた。
だから…『しまった。とうとうやってしまった。』と朝になってうなだれたのだ。
もう一つ…『やってしまった』があるのだが、やっぱり葉月のお構いなしのムードに
男として流されてしまったことだ。
隼人は昨夜の甘やかな一時に彷彿としながらも…また、心配事が増えたとため息をついて
日射しが入り込んできたテキストに気合いを入れ直して向かった。
やっぱり…葉月はこの部屋に入ってこようとはしなかった。
静かなものだった。落ち着いた書斎の雰囲気も手伝って…
さざめく緑の音が今日は一定したリズムに聞こえてくる。
隼人はまたいつのまにか…本の活字にのめり込んでいた。
『コンコン』 ノックの音で隼人は我に返る。
葉月がやっと覗きにやってきた。
「どう?進んでいる??お昼作ったんだけど…」
ふと、時計を見るともう14時だった。
朝起きたのが遅かったから、葉月も遅いお昼にしたようだった。
『ああ。わかった』と、隼人も黒髪をかきながら書斎を出る。
テーブルにはさんさんと…午後の日射しが降り注いでいた。
ものすごい明るさのリビングだった。
そのテーブルに、トマトソースのスパゲティが準備されていた。
「今日はお休みだけど…真一君は?」
もしかしたら来るかも知れないと、隼人は少し楽しみにしていたのだが…。
「遊び盛りだからね。日曜日だって必ず来る訳じゃないのよ。
今日は鎌倉のおじいちゃまの所に帰っているから…」
(それで、俺を連れてきたって訳か…)
葉月から見たら真一は子供扱い。子供には大人の生活は最初からは見せないということらしい。
隼人もそうゆう心構えなら『安心』と思いながら昼食に取りかかった。
(ふ〜ん。まずくはないけど…。俺の方が上手いな。きっと)
葉月の手料理を食しながら隼人はそう思っていた。
しかし、女の葉月にそれを言っては、ミツコを傷つけたように、
葉月のプライドも傷つけるだろうから隼人は黙って食べていた。
「朝。ウチがキリスト教かどうかって聞いたでしょ?」
栗毛を降ろした彼女が長い髪を耳にかけながら呟いた。
隼人は、話を逸らされたことは気にはしていたが、そんなこと、とうに…忘れてはいた。
「ウチは…御園は仏教よ。でもね。お祖母様がヨーロッパ系だったから半分はキリスト教ね。」
「お嬢さんも?洗礼とかした?」
「一応ね。どっちかというと…無宗教…。」
「まぁ…。俺だってそれに近いけどな。」
「ロザリオ見ていたでしょ?」
「ああ。うん。」
すると、葉月がコトリとフォークを置いた。
「大きいロザリオに、赤い珠と黒い珠がはまっていたでしょ?」
「うん。綺麗な珠だったね。高級そうだからてっきりキリスト教で大切にしているんじゃないかって…」
「そんなに高級な物ではないけど…。
赤い珠は『皐月姉様』黒い珠は…真一の父親である…『真兄様』
義理兄様が亡くなったとき揃えたの。真一はアレを時々見てお祈りしているわ。」
(そうか。そうして亡くなった姉さんと義理兄さんを供養しているのか…)
隼人は『なるほどね』と納得した。
しかし…もう二本…小さいロザリオがあったけど?と思った。
すると。葉月の方から言い出した。
「小さいロザリオもあったでしょ?」
「え?うん…。」
それも…誰かを弔っているのだろうか?と隼人は嫌な予感がした。
大きいロザリオが亡くなった人のために置かれているから…小さいロザリオも??と。
「何でだと思う?」
葉月の問いに隼人は嫌な予感がしつつも『さぁ?』と答えていた。
すると…葉月がスパゲティーを頬張っている隼人を黙ってジッと見つめるので…。
隼人もフォークを置いて姿勢を正した。
暫く、沈黙の空気が漂ったが葉月が冷たい表情で口を開いた。
「私の子供」
「…………」
『なんて言った?もう一度言ってくれ!!』 隼人はそう言いたかったが言葉にならなかった。