36.夜明けの甲板で
『ヒューーー……』
葉月の耳元で気流が切り裂く音。
バタバタと、長い栗毛が後ろの首ではためいている。
彼女の視界には、海しか見えない。
大きな、大きなガラスのような鏡……。
近づいているのか、まだ遠いのか距離感覚に葉月は戸惑っていた。
でも……
『パラシュート全開!』
葉月は肩のバンドについているヒモを引いてみると……
「ああ!」
身体が急に上空に再び突き上げられて目を思わずつむってしまった。
「…………」
そっと……目を開けると……
緩やかに自分の身体が潮風にそよがれながらゆっくり海面に近づいているところ……。
『ふぅ……』
葉月はゴーグルの上、額の汗を拭って一息ついた。
下界の海を見渡してみたが……
『それらしき影が見えないけど……本当に義理兄様は来るのかしら??』
そんな不安が横切った。
広い広い……夜が明けようとしている海には何も影がなかった。
もうすぐ……海面にたどり着いてしまう!
『ええい! 信じて待つしかないわ!』
葉月はもう一度目をつむって息を大きく吸い込んだ。
あと、少し……あともう少し……。
葉月の肉眼で距離がつかめるところに海面が近づいてきた!
『1、2、3……』
──ザッバーーンと激しい水しぶきが舞う。
葉月の身体はそのまま海面に叩き付けられるようにして着水!
葉月は青い海の水泡の音を耳にしながら
数メートル身体が沈んでいる感覚を感じながら、アクアマリン色のゴーグルからしっかり瞳を開いた。
パラシュートの抵抗で身体の動きがとりにくい……!
葉月は義理兄が用意しておいてくれたナイフを腰から抜き取って
水中でもがきながらパラシュートのヒモを切り離す!
後は、救命胴衣の浮力に従って……
ほのかに明るい水面を目指して一生懸命、手で水をかき上げる!
『ぷはぁ!!』
水面にやっとの思いで辿り着いたが、波の音以外は『シン』としていた。
(本当に来るの? ここまで準備して置いて来ないと言うこともないと思うけど)
葉月はダイバーウォッチを見つめた。
いまの空中ダイビング時間を差し引いてみる。
(2分の誤差が出たかも知れない……おじ様に見つかって、もめたし)
葉月はため息をついた……。
だが……そっと背泳ぎでもするかのように海面に力を抜いて浮いてみる。
(隼人さん……待っていて……頑張って……私が来るまで死なないで……)
水平線から少しずつ、紫色になる空とまだ明け切っていない星空を眺めた。
「フフ……アハハハハ!」
急におかしくなって笑ってみた。
「また……やっちゃった……まぁ……これが私って所……ね……お姉ちゃま」
『そうよ。これでいいのよ』
そんな声が聞こえてきそうだと葉月はそっとそのまま身体を波に漂わせながら微笑んでいた。
そして……急に思い出したようにお腹をさすってみた。
「大人しくしていろって言われたのに……きっと、怒るわね……彼……」
出来ているなんて思っていなかったが……
出来ていたらさぞかし隼人はこの行動について怒るだろうと……。
「私にそんな幸せ……本当にあるのかな?」
『あるわよ』
「……ないよ……だって……怖いから……今のままでいい」
『すぐ消極的。レイの悪い癖』
葉月は姉がそう言うだろうと感じる言葉と会話をしていて……
「!!」
ハッとして波間に身体を沈めた。
『………………音がする』
海中に耳を浸からせると微かにエンジン音が……。
念のため……頭を少しだけ出して海中に身を沈める。
「!!」
葉月の視界に白い船が見え始める。
『義理兄様とは限らない』
葉月はさらに頭半分海中に浸して……腰のナイフに手を添える。
白い船がさらに葉月に近づいてくる。
息を止め静かに海中に姿を隠し、潜水泳ぎでその船に近づいてみる。
その船のスクリューを海中で確認。
さらに……息を潜めて船体に近づく。
『おかしいですね……確かにこのあたりに……』
(…………)
ほのかな透ける海面に揺らめく黒い男が見えた。
喋っている言葉は『フランス語』だった。
(金髪の……彼だわ!)
いつもお遣いに来るフランス語を使う男だと解ったがまだ、安心できない。
『…………ま・その内出てくるだろう……』
(……!!)
こちらも『フランス語』……でも!
その声……その声を聞いたのは去年フランスのホテルアパートに彼が訪ねてきて以来……。
懐かしい……葉月が絶対に忘れない声。
(ジュンお兄ちゃま!)
葉月は躊躇わずに海面に姿を現す。
船体のすぐ下に、人影が現れたせいか、甲板にいる男二人が『がちゃり』と揃った音を立て、葉月に銃を向けた。
「随分なお迎えね……」
海面で『ニヤリ』と微笑んだ栗毛の女を確認して……
金髪の男は、ハッとして警戒を解き……
黒髪の男は……呆れたようにゆっくり銃を降ろした。
「あがれ。時間がないぞ」
それだけ言うと、長いコートの裾を翻して甲板から義理兄は姿を消してしまった。
「お嬢様……」
ジュールはいつも通り……葉月に気遣って外梯子に駆け寄って来る。
身体を海面に乗り出して手を差し出してくれたが……
「一人で上がれる」
葉月が鋭い目つきでそう呟くと……金髪の彼は『ヒヤ……』とした顔つきで動きを止める。
葉月の瞳が既に『戦闘態勢』に入っていると気が付いたからだ。
葉月はクルーザーの梯子に足をかけて海面から抜け出す。
海面から上がると深緑色の飛行服はずぶ濡れで急に身体が重く感じたが
構わずに一人で力強く甲板まで上がった。
甲板に上がると……船体後部の広い甲板で義理兄が立ちつくし背を向けていた。
「オチビ……こっちにこい」
「解ったわ……」
早速、『オチビ』と言われてムッとしたが、
葉月はなにやらそばから離れない妙に過保護そうな金髪の彼に
冷たい視線を流して純一の側に行く。
義理兄の大きな背中の後ろに立ってみた。
明けの空を眺めながら純一が煙草をくわえて火を点ける。
「着ている服を全部脱げ」
「解った……」
背を向けている兄の命令に従った。
「下着も?」
「すべてだ」
さすがに……こんな外甲板ですべてを脱ぐことは葉月にも抵抗が……
背を向けている義理兄に見られることを恐れているのではない。
むしろ……彼には何度だって全裸を見せてきた。
葉月が躊躇っているのは、後ろにいる金髪の彼……そして操縦席にいた栗毛の彼……。
飛行服を上下脱いで……レエスが付いていないスポーツ用の下着になったが
ビキニ姿から先に進めなかった。
「ジュール……船内で支度をしろ」
「イエッサー」
その声が遠くに行ったのが聞こえて、葉月はホッとして義理兄の言い付け通り
黒いスポーツ用のブラジャーとショーツを脱ぎ去り、背を向けている義理兄の側で一糸まとわぬ裸体になる。
潮風が冷たくて、葉月はそっと身体を震わせた。
ついに義理兄が、そっと振り向いて葉月を見下ろす。
葉月も、煙草をくわえている彼を見上げる。
「良く来たな」
「うん……」
義理兄が少しだけ、唇の端を緩めてくれる。
それだけで……葉月も、そっと微笑んでしまう。
裸でいるのに彼の前ではなにも臆する気持ちが湧かない。
左肩に残っている傷だって、無いように感じるほどの安心感。
(逢いたかった……)
そう言いたいが、肌でなく葉月の瞳をジッと見下ろしている、くわえ煙草の彼に見つめられたまま
彷彿とした気持ちになってくる。
義理兄が煙草を甲板に落として、黒いアーマーブーツで踏みつけて
一歩……葉月の前に近づいてくる。
黒い手袋をしている義理兄の手が、そっと……葉月の頭の後ろに回った。
「…………」
彼には何をされても、葉月は許してしまうのだが、何をされるのかとやはり……
いつも緊張してしまう……。
「無理をさせたな……ずぶ濡れだ」
彼は葉月の目の前で、フッと軽く微笑んで目をつむっていた。
そう……葉月の肌にすぐに反応しないこの『扱い』が一番の安心感……。
『スカイダイビングの抜けだし=無茶』を要求したくせに……
最後にはそうしていたわってくれるから……。
「でも……兄様の言うとおりにやったのよ」
「そうだな……良和オジキに見つかっただろ?」
そう言いながら彼の手が一つに束ねている髪を後ろで掴んだのが解った。
「……お兄ちゃまが教えてくれたとおりに……『秘密任務』って言っておいた
パパにも……コートのポケットにお兄ちゃまからの手紙……入れて置いたし……」
葉月が報告している間に彼の黒い大きな手が
束ねた髪を掴みながら……スルスルと背筋を降りて行く……。
もう少しで『ゾクリ……』と葉月は反応しそうになったが、必死にその感触を堪えた。
「また……亮介オジキに叱られるな……俺は……」
目をつむったままの義理兄が一人で静かに笑う。
「私が……したかったこと……お兄ちゃまが叶えてくれただけじゃない」
葉月が、やるせなさそうに微笑む純一を強くかばうと……
やっと……葉月に向けて優しく口元を緩めてくれる。
そして……背中に回されていた大きな手がやっと退いたかと思うと……
葉月の束ねていた濡れた髪がばらけていくのが解った。
義理兄の手袋の手の中に……葉月の髪をくくっていたゴムが……。
髪をほどかれて……義理兄が再び一束、手にとって
濡れている葉月の髪を目を開けてジッと手の中、眺めている。
「だいぶ……伸ばしたな」
「うん……」
慈しむように葉月が大切にしている長い髪を見つめる義理兄。
そんな彼を見ているだけで、心が安まるのは何故なのだろう??
今……不謹慎な事に葉月には『純一』しか見えなかった。
隼人のために飛び出してきたのに……
こうして全裸で警戒など全くなく義理兄がすることを一つ、一つ許して……
彼の仕草、表情を一つ、一つ刻み込んでいる自分しかいない……。
本当に何のために来たのか忘れかけそうになった……その時。
『ボス』
「!!」
船室の影から、金髪の彼の声がして葉月はビックリ両腕で胸を隠した!
驚いた葉月を、いたわるように……義理兄がサッと葉月を
長いコートで身体を隠して胸元に引き寄せてくれる。
義理兄の……煙草の匂いが染みついている大きな胸に抱かれて
葉月は『ボゥ』となりかけた……。
でも、気を確かにしようと首を振る。
金髪の彼は……声はしたが、姿は見えなかった。
「……なんだ」
威厳ある低くて重い声を義理兄が……
『あの……お着替えの前に真水でお身体を流した方がよいかと……』
「……義妹は、そんなことは気にしない……どうせ、また海に入る」
『失礼しました』
金髪の彼がそうして義理兄以上に葉月の手厚く接してくれるのは
昔から肌で感じていた……
と、言っても……『ある事がキッカケ』であってそれが『金髪の彼との出逢い』
それから、彼はそうして葉月には必要以上に『紳士』なのだ。
そんな彼の気遣いを、義理兄はいとも簡単に払い下げる。
しかし……
「まぁ……いい。こっちにその真水もってこい」
『はぁ……しかし……私は……』
彼が葉月が裸でいるのを解ってか、影で躊躇っている。
「お前が言い出したんだぞ。もってこい」
相変わらず意地悪な男だと葉月は大きな胸に抱かれながらため息をついた。
『は……では……』
金髪の彼は、葉月を見ないように低く頭を下げて白いタンクを一つと、バスタオルを持って現れる。
「なんだ。男なら堂々と頭を上げて見ろ」
「いえ、滅相もない」
「そんな柔な男とは一緒に仕事はしていない」
ニヤリと微笑む義理兄に葉月は、また呆れてため息をついた。
「意地悪ね」
「黙っていろ」
葉月がそっと漏らした一言を義理兄がニヤニヤしながら耳元でそう釘を差す。
ボスにけしかけられたためか……金髪の彼はふてくされたように……
でも、恐る恐るそっと頭を上げて葉月と純一の方に視線を定めた。
その途端……
「……ボスも意地悪ですね。お戯れを……」
彼はムスッとした表情で、すぐに背を向けてしまった。
煽るだけ煽られて、葉月の肌ごと……純一の胸に収められていたので
『からかい』に腹を立てたのが葉月にも解った。
勿論……義理兄は面白そうに『クスクス』とこぼしている。
葉月はまた、呆れたため息……。
ちっとも変わらない性格だと……。
「ヤツのせっかくの気遣いだ。使わせて貰うか?」
義理兄がそっと耳元で囁いた。
葉月はそれを聞いて……背を向けた金髪の彼に一言。
「メルシー……ムッシュ……」
金髪の彼はそれだけ聞くと肩越しで会釈をして姿を消したのだ。
「さて……」
片腕で葉月をコートに隠していた純一が退いて
早速、白いタンクを手にした。
立ちつくす葉月に向かって蓋を開けながら近づいてくる……。
「我慢しろよ」
その途端……背の高い義理兄が葉月の頭に向けて勢い良くタンクを傾ける。
『ヒャ!』と葉月は声を上げそうになった!
「つ……冷たい! もっと、そっとやってよ!」
「うるさいな。これぐらい! 早く顔でもこすれ!」
「もう!!」
葉月は言われるまま、注がれる真水で顔を洗って、身体をこする。
潮臭かった身体、髪の匂いがスッと無くなった。
タンクの水が無くなると、今度は義理兄がバスタオルを
乱暴に葉月に投げつける。
「もう! いつも意地悪!!」
そう言って破れかぶれにバスタオルを広げると……
「手間のかかるヤツ……昔からだ……まったく!」
義理兄が今度は乱暴に葉月の身体を拭き始めたのだ。
「…………」
肩から胸から……背中から……足の先まで……
乱暴だった彼の手つきが、丁寧にゆっくりした動きに変わってゆく。
葉月は……その大きな手をジッと見つめていた。
そして……笑っていた。
「小ちゃかった頃、お兄ちゃまそうして拭いてくれたわね……」
「…………」
彼の手が、足先で止まった……。
そして彼は、甲板にうつむいてそっと微笑んでいた。
「右京につられてね……だが、皐月に良く叱られたな。
『葉月はレディだから触るな』って……」
そこで……二人はしんみり……言葉がでなくなる。
風の音が暫く響いた。
すると、義理兄は……黒手袋を取り去り、甲板に置いた。
立ち上がると、僅かに微笑みながらバスタオルで葉月の頭を包む。
「…………挨拶がまだだった」
「…………」
その『挨拶』……葉月の左肩の傷跡を慰めるように口付けてくれる『挨拶』
彼の無精ヒゲが葉月の肌に当たる……白い肌に冷たい唇が当てられる……。
「お兄ちゃま……」
あの事件の夜、姉との約束を破ったから……この傷は俺のせい……。
彼がいつもそう思って慰めてくれるその姿。
『お兄ちゃまは悪くないのに……お姉ちゃまもそう言っていた』
そう葉月は今まで言い続けてきても、義理兄はこの『挨拶』をやめなかった。
それに……そこを甘えてしまうのだが、葉月が癒される一時であるのは確かな瞬間だった。
葉月の肩に義理兄の顔が……すぐそこに。
いつも、いつもそうしてくれるから……葉月はこの男の前では『なし崩し』だった。
だから……葉月も挨拶……。
義理兄の頬にそっと唇を寄せる。
寄せて……少し背伸び……。
彼の唇の端にそっと唇をずらす。
アメリカ育ちである葉月からの『慣れた挨拶』と義理兄は思っているだろうが
葉月はいつもこの挨拶の時は自分は『女』だと思ってしていた。
大胆に唇を重ねられないのは……彼が逃げていくような気がしたから……。
『お兄ちゃまは……皐月お姉ちゃまのモノ……お姉ちゃまを忘れていないから』
そう思っている。
口づけは葉月の中では『特別』だった。
肌を合わせている上での『口づけ』は『高揚時の戯れ』にすぎない……。
挨拶の口づけは『愛情表現』
そう位置づけていたから……。
だから、彼は滅多に『挨拶の口づけ』には応じてくれなかった。
だから、すぐに逃げて行く……。
案の定……。葉月の『おませ』を感じ取った義理兄はさっと葉月の肌から唇を除けてしまった。
葉月も……いつものことだが
『お姉ちゃまを忘れていないのね!』と……やるせない気持ちで唇を噛みしめる。
「お前……すねている場合か? 男を助けに行くのだろう?」
上手な義理兄に見透かされて葉月は頬を染めてふてくされる。
そのうえ……
「まぁ。 あの男がくたばってもいいなら、ここで望み通りにしてやってもいいが?」
ニヤリ……と、カマを掛けられて葉月は益々、ふてくされて
「フン!」と、そっぽを向いてしまったが……
(そうだわ! ここでこんな事している場合じゃなかった!)
やっと目が覚めたようにしてバスタオルで髪をごしごし拭くと
やはり、ムキになった葉月を見て義理兄は『クスクス』笑うだけ……。
「支度する……!」
バスタオルの隙間から覗いた葉月の瞳が輝くと……義理兄も応えるように不敵に微笑み返す。
「よし……10分後に海中から潜入だ。急げ!」
「OK!」
水平線はオレンジ色に変わろうとしていて、
冷たい潮風に湿った栗毛が葉月の背中をくすぐっていた……。
葉月はバスタオルを身体に巻いて、船室へと向かい始める義理兄の後をついてゆく。