5.マジック
それから……少し時が流れて『夏休み』がやってきた。
葉月と、当時は大佐だったロイが『遊びにおいで!』と誘うので
真一は葉月に迎えに来てもらい単独小笠原の葉月のマンションに遊びに行く。
小さい頃から可愛がってくれる…右京と仲の良いロイもいるし…。
ジョイはこの時はまだ訓練生で小笠原にはいなかったが
ロバートも、いるので祖父母も安心して預けられるようだった。
『お祖父ちゃんいないことだし…付けていこう!』
真一はお気に入りになった時計を丘のマンションについてから腕にはめた。
『その時計…持ってきたの?』
仕事から帰ってきた葉月が、真一の腕を見て困ったような顔をする。
『だって…せっかくあのおじさんがくれたんだモン。
あのおじさん…僕に『頑張れ』って言ってくれたんだモン!』
そう言うと…葉月はまた驚いたようにして…すぐに悲しそうな目線を落としたのだ。
でも…次にはすぐに真一が好きな優しい笑顔を浮かべてくれた。
『そんなに気に入っていたの?知らなかった…。でもね?
その時計は私が頼んだ物だからね?皆にはそう言うのよ?』
真一はあのおじさんから貰った物と思いたかったが…。
葉月もあの黒手袋のおじさんも『絶対他の人には内緒』と言い含めるので
そこでは、『解った』と、頷いておいた。
そんな葉月の側で…美しい海の島での楽しい夏休み…。
ロイが妻の『美穂』と一緒に海水浴に連れていってくれることになった。
ロイは当時30歳。亡くなった皐月と真と同い年だったが、
この頃、日本人の『美穂』とやっと結婚をしてつつがなく幸せに暮らし
妻の『美穂』はこの時『おめでた』でお腹が大きかった。
美穂は、真一のことも良く気にかけてくれるし、
珍しく…葉月が甘える年上の女性のようだったから
真一も遠慮なく美穂には甘えていた。勿論ロイも大好きだった。
葉月も一緒に海水浴には行くが決して水着は着ようとしなかった。
真一にはそれが何故かは…肩の傷が見えてしまうからだろうと思っていた。
でも葉月は、訓練で着る透けても良いような下着をTシャツの下に付けて
短い短パンを着て一緒に海に入ってくれるので別に不思議には思わなかった。
今思えば…葉月は『トラウマ』によって…
人前では『肌』を見せることは恐れていたのでは?とも、思えてくる。
大好きな大人達に囲まれた『海水浴』
楽しく遊んでいると、ふとロイが一言…真一に尋ねた。
『なんだ。いい時計しているじゃないか?お祖父ちゃんからもらったのか?
俺も欲しいなぁ。これ滅多に手に入らない時計じゃないか!?』
『さすが。亮介おじさん』と、ロイが羨ましそうに真一の時計を手に取り眺めたのだ。
海に入っても濡れても止まらない、格好いい時計。
真一は腕にはめることが出来て…大人のロイを驚かすことが出来て
ちょっと得意げになった。
ロイもかなりの財力を持つ家柄の一人御曹司だった。
そのロイが『いいなぁ』と言うのでなおさら『得意げ』
でも、一応『葉月ちゃんがくれた』と教えられたとおりに答える。
その時…葉月の顔が強ばっていたのに、言い含めた通りに
真一が答えたので『ほ…』っとした顔を浮かべたのを真一は覚えている。
『葉月ちゃん。お腹空かない?何か買いに行こうかしら?』
『そうね。でも姉様?お腹大きいから…私が行って来ます』
パラソルの下で、マタニティドレスを着た黒髪の美穂が優雅に微笑み。
肩まで伸びた栗毛を、若々しく赤いゴムで一つにまとめている葉月が
にっこり微笑んでスポーティなTシャツ・短パン姿で立ち上がる。
『僕。焼きそばがいいな!』
『じゃぁ。俺にはビール。焼きイカ』
『焼きイカ!?兄様って中身は日本人なんじゃないの!?…姉様は?』
『葉月ちゃんと一緒でいいわよ♪』
葉月は基地内では冷たい顔をしているが、こうした集まりには
鎌倉で見せているような優しい笑顔を浮かべる。そうして一人…出かけていった。
その葉月がいない間…。
ロイが麗しい青い瞳でジッと遠い水平線を眺めていた。
若いのにしっかりしていて大人のロイが真一は好きだった。
右京は『おじさん』だがロイと比べると『お兄さん』と言う感じがあった。
落ち着いた視線は、黒髪の真・父を思わせる。
『ねぇ?おじちゃん?』
『ん?』
『おじちゃんの部下に…フランスにお仕事に行ったりする…黒い手袋のおじさんっている?』
葉月が教えてくれないから、軍のことは何でも知っている優しいロイに思い切って聞いたのだ。
真一がそう尋ねた途端にロイの表情が、固まった。
男ふたりの後ろでくつろいでいた美穂まで…急に息を止めるような顔を…。
『そいつが…どうしたんだ?』
心なしか真一を見下ろすロイの瞳が…連隊長室で見るような氷の瞳に変わる。
突き刺すように厳しい瞳。真一に向けられたのは初めてだった。
真一はこれ以上は何も聞かない方がいいと悟った。
『べ…別に?』
でも、子供であった真一の動揺は、大佐である男にはすっかり見抜かれる。
すると、ロイは何かを悟ったように真一の腕に視線を素早く落とした。
(あ!)
『しまった!』と真一は…。
聞きたかったことは…ロイには聞いてはいけなかったことだと子供心ながらも察知する。
(黒いおじさんと葉月ちゃんに言われたとおり…黙っていれば良かった!)
そう思ったときには遅かった!
「やだ!何するんだよ!おじちゃん!!」
「ロイ!やめなさいよ!いいじゃない!!」
ロイが力ずくで真一の腕から黒猫ウォッチを奪い去る。
何故か美穂が真一をかばうように止めたが、所詮、身重の身。
「いたいよ!」
ロイに無理矢理・時計は奪われてその上…波の向こう…海原の遠くに投げられて…
太陽の光の中『黒猫ウォッチ』は一筋の光を放ち
瞬く間に、真一の視界から消えてしまった。
『………』
フランク夫妻と真一の間で暫く時間が止まったように波の音だけが響く。
「………わあああーーーん!!」
真一は声を上げて泣いた…。
何がいけなかったのか解らない。
どうしてあの時計を人に見せてはいけないのか解らない。
でも・・・一つだけ。
ちょっと気の良い無表情で強そうな黒いおじさんとの
『約束』を敗った後悔が一気に押し寄せた。
深い海に消えた『黒猫ウォッチ』はもう探せない。
どこかに流れていってしまうだけだ…。
『シンちゃん…』
泣きわめく真一を美穂が優しく抱きしめてくれた。
「ロイ!いくら何でも今のはひどいわよ!」
何時も仲の良いふたりがそこで妙ににらみ合っていたが…
妻の厳しい視線に、ロイはやや…うろたえているようだった。
ロイも急に我に返ったように、泣きわめく真一の元にひざまずいて
『ゴメン。悪かった…。許してくれ?』と、取り繕うばかり。
優しいロイが変貌したのもショックだった。
もう…会えないだろうおじさんの時計を無くしたこともショックだった。
美穂とロイに慰められている間に葉月が戻ってきた。
パラソルの下の様子に気が付いて、買った物を両手に立ちつくしている。
「ど・どうしたの?」
葉月が帰ってきたことを知って何故かロイが立ち上がり…
「ちょっと…来い!」と…葉月の腕をつかみ上げてどこかに行ってしまった。
砂浜に葉月が買い込んできた食べ物がそのまま落ちて散乱した。
「ロイ!いい加減にして!」
妻・美穂が、また厳しい表情で葉月を連れてゆく夫に叫んだが…
ロイは今度はお構いなしに葉月を真一の見えない遠くに連れていってしまった。
「僕が…いけないんだ…。葉月ちゃんとの約束敗ったから…」
真一は美穂と二人になってまた泣き叫んだ。
「そんなこと無いわよ?シンちゃんの大切な物…無くしたおじさんが悪いのよ?」
美穂がまた…大きなお腹で真一を抱きしめてくれる。
「だって…葉月ちゃんが怒られてる!」
「葉月ちゃんも悪くないのよ?悪いのは…大人なのよ…。」
美穂の悲しそうな声と慰める言葉の意味が分からない。
でも…どうしたことか…美穂は真一と葉月の味方のようだった。
暫くして、葉月が片頬を張らして一人で帰ってきた。
ロイに殴られたと言うことが解って美穂が立ち上がった。
「葉月ちゃん…。ごめんなさいね?ロイを悪く思わないで?」
だが…。葉月は無言で厳しい顔をしていた。
パラソルの下にある荷物をまとめながら…やっと美穂に微笑んだ。
「いいの。姉様。解っているわ。兄様の心配は…。私がいけないんだから…。」
「…………」
美穂は笑った葉月にそれ以上は何も言わなかった。
「帰ろう。シンちゃん…。かき氷食べようか?」
「うん…帰る…。」
頬が少し赤い葉月がそれでも微笑んで真一の手をひっぱてくれる。
「姉様。兄様に…気にしてないって言ってね?ちょっと…落ち込んでいたから。」
「………。ロイもバカね…。」
今度は美穂が疲れたため息をこぼしてうつむく。
「………。姉様も…。気にしないでね。」
「葉月ちゃん…」
葉月に慈しむ眼差しを向ける美穂。
大人の女二人が何を挟んでそんな会話のやりとりをしているかは
子供の真一には解らなかった。
でも…やっぱり…あの『黒手袋のおじさん』の事は…
『私が叱られるから言ったらダメ』と葉月が言ったとおり…いうべき事ではない。
おじさんと葉月と真一だけの『秘密』
大切な『秘密』にしておく物だとやっと心に心得たときだった。
『美味しいね!』
葉月のマンションまで…海辺の道路をかき氷を食べながら歩いて帰る。
『うん!美味しいね!』
頬を張らしながらも、葉月が何時も通り笑ってくれるから
真一ももう泣くのはやめて葉月と手を繋いで楽しく歩く。
でも…可愛い猫デジの時計を無くした痛みは…すぐには消えなかった。
その夜。林側の部屋で眠っていると…葉月のすすり泣く声が聞こえた。
そっと…ドアを開けて覗くと…。
ダイニングテーブルで…今まで見たことないような寂しい背中で泣いていたのだ。
葉月がロイに叱られたことに責任を感じて真一が近寄ると
葉月は少し驚いた顔をして、涙を止めた…。
そして、椅子に座っている膝の上にすぐに抱き上げてくれる。
「ゴメンね?私の不注意で…」
そう言って葉月は真一の時計が無くなった腕に口づけてくれる。
真一は首を振る。
「ううん。僕がおじさんと葉月ちゃんとの約束敗ったから…その『バツ』だね?
あのね…あのおじさんに会うことあったら葉月ちゃん…『ゴメンね』って言っておいてね?」
真一がしょんぼり、うつむくと葉月にまたきつく抱きしめられる。
そうして葉月は暫く真一の背中ですすり泣いていたのだ。
他の大人達が知ってはいけない葉月とおじさんの関係…。
それはどうゆう物かは真一には解らない。
でも、真一は葉月とおじさんの仲間だと思っていた。
二人は何も悪くない。
だから。もう、誰にも言わない。
おじさんが今度何時来るかは知らないけど…もう、葉月以外には言わない…。
そう、心に決めた夏の夜…。
葉月がいっぱい泣いた夜…。
時計を無くした痛みも徐々に癒えてきた…海水浴から三日ほど経った日。
葉月は仕事に出かけていたので真一は退屈しのぎに
葉月の部屋を出てマンションの裏の林に入って遊んだり、
マンションの坂で何かを転がして遊んだり…
葉月が夕方帰ってくるまで一人で遊んでいた。
たまに管理人のロバートがでてきて『買い物行くかい?』と様子を何度も見に来るが
真一は首を振って一人でいろいろと慣れない景色が面白くて
マンションの周りで遊び回っていた。
林の裏で一本の枝を拾ってひらめいた。
葉月の部屋に戻って裁縫箱を見つけて木綿の糸を付ける。
それでもう一度外にでる。
今度は坂の下にでてみた。
時々車が来る道路を初めて一人で渡って向かい側の
海がすぐ下にあるガードレールまで走る。
そこで自分で作った『簡易釣り竿』で釣りのまねごとをして一人で笑っていると…。
何十分かした頃に、真一の後ろに黒い大きな車がザッと停まったのだ。
『??』
振り向いて…真一はビックリ…息が止まって作った釣り竿を海の下に落としてしまった。
黒い大きな車は右京が乗っているような『外車』だった。
その後部座席から…立派なスーツを着込んだ背の高い男が颯爽と姿を現す。
グレンチェックの格子柄の…お洒落なスーツ。
白いシャツに黒ネクタイ。
そして…サングラスに、黒い手袋…。
「おじさん…。」
真一の目の前に再び現れた『黒いおじさん』
彼は真一の前にたたずむとまた…無表情に独特の雰囲気を醸し出して
真一を圧倒するような眼差しで見下ろしている。
真一はサングラスの奥の見えそうで見えない瞳と視線が合うなり…
「ごめんなさい」と頭を下げて謝っていた。
すると、彼は少しだけ口元を緩めてまた…真一の目線に合わせて膝を地面についた。
「コレが最後だぞ。御園大尉にもそう言っておいてくれ」
彼がスーツジャケットの内側から出した物は…
あの時計だった。
真一はビックリして彼の顔を見上げる。
「どうして?僕が時計無くした事解ったの!?」
すると彼が初めておどけた顔をして微笑んだ。
「それは…『マジック』。種明かしは出来ない。」
「………。でも…この時計付けると…怒られちゃうから。」
大きな黒い手袋の手で付けてくれた腕時計をしょんぼり眺めていると…
『フフ…』と彼がなんだか可笑しそうに笑った。
「じゃぁ。オマケだ。」
彼が内ポケットから何かを出そうとしていたが…
真一の目の前に出された黒手袋の上には何も乗っていなかった。
その手を彼が背中に回してもう一度真一の目の前で開いたときは…
「あ!どうやったの!?」
マジックの如く…彼の手の上には『青い時計』が乗っていたのだ。
今度は『ディズニーの時計』だった。
「種明かしは…内緒だ。」
そう言って彼はまた、黒い手袋の細長い指を『シー』と口元に一本立てる。
「うん。僕も誰にも言わない!」
今度は付けても怒られそうにない時計をくれた。
オマケに無くしたはずの時計が戻ってきた!
おじさんにも会うことができた!
嬉しくて微笑むと彼は急に冷たい顔になってまたスッと立ち上がる。
「じゃぁな。一人で遊ぶと危ないぞ」
そう言って…後部座席に乗り込むと途端に大きな車は発進して真一の前から去ってしまった。
運転席は黒い窓だったので誰が乗っていたかは解らない。
でも…彼は『お金持ち』 軍人じゃない。
子供心にそう悟った。
でも、なくした物が倍になって帰ってきた。
一番嬉しかったのは、時計が帰って来たことよりも…
妙に暖かさを覚えるおじさんに再び会えたことだ。
それも…『マジック』を披露してくれた。
『種明かし』が何かは解らない、そんなところにワクワクした。
真一は時計を抱えて真っ直ぐに葉月の部屋に戻って
何時間でも…林側のベッドで二つの時計を眺めて葉月の帰りを待った。
葉月が帰ってきてから、彼女には二人きりの夕食の際に
『二つの時計』を出して、事の説明をすると…。
また、驚いた顔をして真一に言い含める。
「いい?私から貰った…っていうのよ?解った?」
勿論。同じ失敗はもうしたくない。
真一は真剣な葉月の顔に対して、自分も真剣な顔で『コクリ』と頷いた。
だけど…やっぱり葉月は彼のことは何も言わない。
その代わり…。
「ダメじゃないの!一人で道路にでちゃダメって言ったでしょ?海に落ちたらどうするの?
そうゆう時はロバートおじ様に付き添ってもらって遊びなさい!」
母親の如く、クドクドとお小言を言うだけで
おじさんと何を話したとか…もう会ってはダメ!私が叱られるから!などは…
一言も言わなかった。
葉月が彼と接触したから…時計を頼んだからロイが怒った。
だから葉月と彼が接触してはいけないことなんだ。
だから…葉月はもうあのおじさんと会うことはいやがると思ったが。
葉月は何も言わない。
でも、真一は安心した。
葉月はあのおじさんを嫌っていない。
やっぱり…僕と葉月ちゃんとおじさん三人の何かの秘密があるんだと思うようになった。
だって…もう一度あのおじさんに会いたいから…。
今度何時会えるか解らないけど…。
『また・逢いたいな…』
そう思うようになっていたのだ。
『御園君にやってもらおうかな??』
『………』
『御園君?』
真一は、教室から見える海を眺めながら
遠い幼い日の記憶をたどってフッと現実に戻った。
「あ。はい…。」
解りきった数学の授業。答えをスッと言うと先生は
ぼんやりしていたことには何も注意はしなかった。
16歳になった真一。
今年の九月には17歳になる。
今真一の左腕には、黒いダイバーウォッチ。
黒いおじさんがくれた物ではない。
あの後…ロイが「悪かった」と言って、代わりにくれたダイバーウォッチだ。
そうしておけば。大人達が丸く収まることを10歳の時に知ったのだ。
勿論…。ロイがどうしてあのように怒ったかは今となっては薄々解り始めていた。
ロイのことは嫌いじゃないし…。むしろ…島では大切な父親代わりだ。
彼が本当に困ったように真一に取り繕うので
なんだか可哀想になってその時計を付け始めた。
ディズニーの時計は時々付けて小学校を卒業したときに大切にしまった。
黒猫ウォッチは…あの日以来。
真一の『宝箱』の中に大切にしまった。
いつか付けられる日が来るまで。
腕に付けるつもりはないが…。
何時付けようかは…何となく心に決めていた。