「これほどとは。流石に葉月ちゃんだってわからなかったな」
「そちらこそ。私も橘さんだとはわかりませんでした」
「言ってくれるな。そりゃな。基地では無頓着に過ごしているからな」
うわ。俺も一緒だよ、隊長――と、同じパイロット男として、なんだかちょっと情けなくなってしまった。
「しかも。普段はなかなか踏み入れられないこのレストランへのご招待。御園のお嬢様に俺は試されてるなーと思ったから、気合い入れてきたんだぜ」
「ゆっくりお話をしたかったので、静かなお店を選ばせて頂きました。居酒屋やバーで普段着のほうが私も気楽だったんですけど……」
「まさか。俺はこっちで嬉しかったよ。ご招待、有り難う」
あの橘隊長が気の良い笑顔。そして女性からの招待を快く受け入れ、『嬉しい』と男として気取らない素直な御礼の言葉。今度は葉月さんがちょっと照れた顔をしたので英太はそっちにびっくり。
やっぱ、橘隊長って。こういうところ『その女のツボを押さえられる』って事なのだろうか? 元上司だった隊長の知らない男の姿に、英太は目を見張ってしまった。
そんな隊長と目が合い、英太はどっきり。
「といいたけどね。なんだ。ガキが一緒という点はガッカリだよ。葉月ちゃん。二人きりだと思ったのになあ」
「ですが。英太にも社会勉強をさせませんと。本当に『悪ガキ』のまま、小笠原にくださって。なかなか骨を折りましたわよ」
話って。黙って聞いていろと言われたが、そんな話題にされると英太は逃げたくなってしまう。そして橘隊長も可笑しそうに笑う。
「なにいってんの、葉月ちゃん。元悪ガキの俺が育てる男だから、後輩も部下も悪ガキみたいになっちまうんだよ」
「自分でそんなことを仰って。相変わらずですわね」
「そっちこそ。抜け目ない油断ならないじゃじゃ馬嬢。今日は何を企んでいる事やら。俺はそうそうアンタの嵐に巻き込まれるつもりはないけどね。何を聞かされたって驚かないし、言うことを聞く気はない。故に、葉月ちゃんの可愛い姿を眺めつつ、美味い食事だけ頂いて帰るだけにしたいね」
今夜は『ミセス准将の話』。既に橘中佐は見抜いていたから、英太は驚いた。
『デートにみせかけて誘い出された男』になんてならない。いつもはダラッとした無頓着な風貌でも、いざとなれば見通しが出来る男、立派なビジネスマンになれる。これぞミセス准将が求めている男――ということなのかと、英太は驚嘆。
そして改めて思った。『俺はそんな隊長の部下であり、だからこそきっぱり切られたんだ。そんなデキる男の部下だったのに……』と。
今となっては、それも当然だったと理解できるようになってはいるが、それでも彼が苦汁の決断を本当にやってのけていたことに驚きを隠せない。
丸テーブルに葉月さんと中佐が向かい合って座り、英太は向かい合う二人の間、左側に座る。いちばん下っ端なのに正面に庭が見える良い席に座ることに。だが、上官二人には庭より『相手』といったところらしい。
やがて、ワインがグラスに注がれる。深紅のとろっとしたボルドーワイン。ほのかな店内の照明と、小さな庭からの夜明かりに透ける紅色はルビーのようで英太はかえって緊張してしまう。
それでも、英太の目の前にいる大人の男と女は慣れた手つきでワイングラスを手にし、さりげなくその香をまず堪能している仕草。
「悪いね。こんないいワインをご馳走になって」
「いいえ。私もここは久しぶりですから。楽しみにして参りましたのよ。お付き合いくださいませ」
どんな良いワイン?? 彼等の真似をして匂いをかいでも、英太には解らない。
そんな慣れない青年を、二人の上官がにっこりと見ているのでハッとした。
「これがいいワイン。銘柄で覚えるより味で覚えろよ。さて、葉月ちゃん、今夜の乾杯はやっぱり『あれ』かね」
「そうですね。橘さんからそう言って頂けますと、私も嬉しいですし……きっと英太も……」
いちいち核心を言わないで進む大人の会話が、英太にはまったく読めない。
だが英太の新旧二人の上官が、こちらにグラスを掲げてくれている。
「雷神のエース誕生に」
橘中佐が、仕事でも見せたことがない男前の笑みを英太に向けてくれている。
「橘中佐が見つけた青年の栄光に」
そして葉月さんも。今の英太があるのは、橘中佐がスワロー部隊へと配属してくれたから。そして、彼が苦汁の決断でスワローから追い出したからこそ、小笠原の雷神への道が自然と開けていたのだと。葉月さんの乾杯は『橘隊長あってこその英太だった』という意味も含まれていると悟った。
英太もグラスを掲げる。英太も英太なりの乾杯を。
「私を、ここまで育てて導いてくださったお二人へ感謝を込めて」
二人が顔を見合わせ、すこし驚いた顔。でも次には二人揃って、絶対に絶対に基地では見せないような満たされた笑みを揃えてくれた驚き。
三つの深紅のグラスが、静かにカチリと合わさる。
英太の向こうにある淡いピンク色の薔薇が、そっと夜風に揺れている。なんだか胸に込み上げる感動があった。
食事は静かに始まる。大人の二人は慣れた手つきでナイフとフォークを使いこなしているが、英太も初めてではないが緊張しつつ慎重にゆっくり丁寧に。
その間、葉月さんと橘中佐は無言だった。なのに、極上の赤ワインでの乾杯に気分がほぐれたせいか、二人はしきりに見つめ合っては微笑みを返し合っている。またまたなんとも、大人のムード満載で、英太はただちょんと座っている男の子で入る隙がなさそうだった。
静かな大人のムードの食事が幾分か進み、やっと橘中佐が話し出した。
「今日の葉月ちゃんの時計、すげーな。それもしかして『モナコの華』ってやつじゃないか」
ブランド名を口にした隊長に、英太は目を見張る。この男、もっさいボサ男は仮の姿で、中身はすっごい男なんじゃないかと絶句。そして葉月さんもちょっと驚いた顔をしている。
「流石ですわね、『慎吾さん』。この時計のこと、ご存じでしたか」
「時計を追求しようとしたら、最後にそこにぶち当たる。時計の王様だ。ン千万が当たり前。流石、御園家のご令嬢様」
ン千万!!! つい目がざっとあの真っ赤なバンドの時計へと向かってしまった英太。それに橘中佐もそんなこと良く知っていて改めて驚愕。
だけれど葉月さんは、白いナプキンの端でおしとやかに口元を拭きながら、静かな微笑みを浮かべ言った。
「義理の兄が贈ってくれたものです」
「義理の兄――。ホワイトを宇佐美と共同開発製造をしているクロウズ社と軍隊の繋ぎをしているというあの『谷村社長』のことか」
「ええ」
「すげえ兄さんだな。それで、義理の妹にそーんな時計をヒョイと」
英太はまた驚く。『魔よけ』になったその豪勢な赤い時計が、あの谷村社長の義理の妹への贈り物だったなんて。やはり彼はすごい社長で。そして……それだけのものを義理の妹に贈るだなんて、やっぱり愛しているのだと。
そんな気持ちが込められた時計を、お洒落をする時に腕にしてきた葉月さん。左指には旦那様との愛の誓いの指輪。そして同じ左腕には添い遂げられなかった男からの真っ赤な愛を腕に。そんな思いをわざわざ纏って『仕事の話』で向かう男にみせつけたのか……。そう思うと、英太はなんだが嫌な気分になってきた。
でも。それは少し違ったらしい。葉月さんも、ちょっと言いにくそうにして、でも橘中佐に告げる。
「実はこの時計。私と橘さんが空母艦で初めてお会いした頃、義兄から贈られたものなんです」
なに。今度は義理兄様との愛の自慢? 英太は眉間に皺を寄せてしまう。
だが、橘中佐はその話を聞いただけで、とても驚いた顔をし、ナイフとフォークをかつりと白い皿に置いてしまった。
「だから? だからあの時、あんなに俺を拒んだのかよ」
「そういうことです。あの時『男なんていないだろ』と貴方はなかなか退いてくださらなかったけれど、その時の私には既に心の中に『義兄』がいたものですから」
「だったら。そう言ってくれたら良かったじゃないか」
「若かったんです。姉の婚約者だった男性を慕っていることも、どこにいるとも分からなかった男性を待ち続けていると説明することも。そして、なによりも家族以外の男性に自分のことを話したくなかったので……」
あれあれ。なんだか、変な昔話に絡み始めていると英太は目を丸くした。しかもしかも、どうやら『若い時、橘中佐が葉月ちゃんを口説いていた』みたいな話になっている?
でもそれで。先日の『大人のムードな駆け引き』での『特に私と貴方なら』という意味が分かってきたような気がした。
そして『元カレでも、元カノでもなかったんだ』と判明。どうやら葉月さんは谷村社長を好きだったから、当時はどんな男に口説かれても断っていた――ということを、今になって明かしているようだった。
「へえっ。そんなすげえ男と、まだまだ若僧だった駆け出しパイロットの俺とじゃあ、そうか、まったく相手になっていなかったということなのか。で、それがその証拠と、俺に屈辱を与えた男の愛の証を、今になってみせつけにきたってわけかよ」
「違います。今では義兄もこの時計をしている私を見ると『やっと年相応になったようだが、若すぎる女性に当たり前のように贈った自分の思い上がりと焦りが見えて、俺も若かったと恥ずかしくなる』と言います。歳が離れた義兄ですら、冷静ではなかった。それだけ私達義兄妹には、誰も受け入れないほどの隔離した世界があったということです。ですが、だからこそ。大人になったと言ってくれる義兄の為に『今』、彼の当時の想いを身に纏いたく思っているのです。そして今日は当時の私達を知って欲しくて、敢えてこの時計を。だからあの時、もっと私の心が開放的ならば。そしてもっと男性と拘りなく胸の内を話せたなら……。慎吾さんにもあんな拒否をしなくても済んだでしょうし、もっとパイロット同士として心を通わせて飛べたかもしれない。今はそう思うのです」
今度は英太のナイフとフォークが止まる。
今夜の葉月さん。なんだか橘中佐と若い時にすれ違い、そして取り返しがつかなくなった関係を、取り戻しているかのように思えた。
聞いていれば、空母艦に共に搭乗した時出会い、そこで毎度の軽いフットワークで紅一点だっただろう葉月さんを橘中佐が猛アッタクしたということのよう。そして葉月さんは当時『事件の傷を誰にも言えずに頑なに心を閉ざしていた女の子でしかいられなかった』から、あんな拒絶しか出来なかったという昔話のようだった。
どのような拒否をしたかは判らないが、それでも既に事件に巻き込まれ心に大きな傷を負っていた葉月さんが、そんな必要以上の拒絶をしたことは英太にも容易に想像できた。
そしてそれは……既に御園家の事件を知っているだろう橘中佐も同じなのか。彼は庭の外へと視線を馳せ、ワインをひとくち。そして大きな溜め息をついた。
「今となっては。俺も葉月ちゃんが言いたいこと、分かっているつもりだよ」
「もっと。貴方の気持ちを受け入れた上での、気遣えるお断りが出来ず申し訳ありませんでした」
「いや。俺も、若さに任せて可愛いパイロットがやってきたなんて浮かれて強引だったわけだし。訳を知らなかったとは言え、あれは当時の葉月ちゃんには『恐怖』だったのかと知った時には、昔のことでも肝を冷やしたもんだよ」
『こっちこそ。済まなかった』と、橘中佐が頭を下げたので、葉月さんが驚いていた。
「私の恐怖なんて……。本当に怖かったら、とても身体が動かなかったと思いますよ」
「でもあの時の葉月ちゃん。すっげー恐ろしい顔で俺を投げ飛ばしたもんな!」
軽やかに中佐が笑い飛ばすと、あの葉月さんがちょっと恥ずかしそうに頬を染めた。
そして英太もついに笑ってしまっていた。当時の若い二人の攻防が、易々と目に浮かんでしまったから。
「葉月さんたら。橘隊長まで投げ飛ばしていたんですか」
当時のすれ違いのまま、一時、二人の言い合いが少しばかり激しくなりそうだったが、男二人が笑いに結びつけたので、やっと葉月さんも可笑しそうに微笑む。
「だって……。橘さんったら本当に強引だったんだもの。コリンズ大佐がいつも傍にいてくれたのに、彼が離れた隙を狙って、私を抱きかかえて二人きりになるような場所にさらっていったんだもの」
「うっわ。隊長、サイテーだな! それじゃあ当時の葉月さんは心臓爆発ものじゃん。悪魔っ」
「うっせーな。黙れガキンチョ。っつかー、なんでお前みたいな若僧が、葉月ちゃんの大事な過去を知っているんだよ」
「いいじゃないっすか。そういう『ご縁』だったんだから」
『葉月さんと英太のご縁』。そう言っただけで、橘隊長の楽しそうだった表情が一変。『なるほどね』と神妙に唸ってしまった。葉月さんと英太の『ご縁、共通点』を思いついたよう。つまり、橘中佐も英太の過去は知っていると言うことを表していた。そして彼も納得したようだった。
また彼がワイングラスを手にひとくち、同じく大きな溜め息を。
「あの日。えっと、葉月ちゃんが刺されたと知った日」
急に話の風向きが変わったので、英太は固まる。葉月さんを見ると、彼女も硬い表情になっている。
「俺達がいる横須賀基地で、目と鼻の先……葉月ちゃんがフロリダの雇い傭兵に刺されたという情報が耳に入った時は俺も胸を貫かれたよ。俺だけじゃない。あの長沼が顔色を変えて俺のところにすっ飛んできたほどで。あの御園嬢が死にそうだって……。すぐそこの横須賀基地の医療センターに収容されたけれどICUに入りっぱなしで意識不明。俺達、気が気じゃなかった。どうして、そんなことが起きたのか、分からなかった。俺達の基地で、身近に思っていた同世代のパイロットが狙われた。それだけで俺達でも恐怖だった……。それを刃を思いっきり受けた葉月ちゃんの恐怖、今でも察するよ」
葉月さんにとって、特に思い出したくない恐怖の日、瞬間。ラングラー中佐や小夜さんからそれとなく聞かされているから英太も知っているが、でも青ざめる。改めて聞くと、かなり凄惨な出来事。そして英太はハッと気が付く。やはり葉月さんも持っていたグラスを手放し、なにか誤魔化すかのようにして、ナプキンを口元に当てた。
そして英太は見た。彼女の指が……微かに震えているのを。さらに葉月さんの手が、横脇に忍ばせていたあの小さなハンドバッグを取り出し、膝へと置いたのだ。震える指先がバッグを開けようとしている。
「後になって、その男と亡くなったお姉さんと繋がっていて確執があったと。葉月ちゃんが十歳の時に巻き込まれたアクシデントの噂も耳にした。その時、俺がすぐさま思い出したのは、あの形相で俺を投げ飛ばした時の葉月ちゃんの顔。俺……男に嫌悪しているだろう女性に酷いことしちゃっていたんだと、その時、初めて……悪かったとアンタがいる小笠原に駆けていって謝りたかったよ」
葉月さんのブラウスの胸が大きく上下し始めているをみて、英太はそっとさりげなく、彼女の膝にあるバッグを自分のところへと持ってくる。
自分の膝元にバッグを寄せ、英太は隊長が葉月さんの顔を見て話すことに夢中なのを見計らい、バッグの中からそれを探す。
やはり……あった。薔薇模様の小物入れ。『花のお守り』。それも英太は何食わぬ顔で取り出し、そっと蓋を開け、中にある白い錠剤を銀箔から静かに出し、そっと葉月さんの手の中に握らせた。
「どうかしたのか」
「いえ。なんでもありませんわ」
様子がおかしいことに、流石に橘中佐も気が付いたのか、英太と葉月さんの顔を交互に見た。
葉月さんは、その薬を飲まずして、なんとか落ち着けたようだった。
そして、橘中佐も察したようだ。
「わ、悪い。やめよう……この話。つまり、俺は昔の葉月ちゃんを強引に口説いて投げ飛ばされたことは気にしていないって事だよ」
「それなら、よろしかったです」
やっといつもの余裕の笑みを葉月さんが取り戻したので、英太もほっとした。
でも、英太はそのバッグと花の入れ物をすぐに返さなかった。もしまたなにかあったら、俺が彼女を守る。そう心が叫んでいるから。
それにしても。なんだか、二年前よりも過敏になっているような気がして、英太はふと不安になった。
華子が来た時も。華子自身から聞いたが、自分から過去の話をしただけで、震えだしたと聞かされ。現実に英太はそのあと、花のお守りを握りしめて、准将ともあろうミセスがたった一人暗い通路で嵐が過ぎ去るのを耐え、戦っていた姿と遭遇してしまっていたから。
やっと橘中佐が、ナイフとフォークを手に、食事に戻った。
「えっとさ。なんでそんな昔の話をする為に俺を呼んだんだよ。それだけじゃないだろ。昔のわだかまりを解いて、それで……次はミセス准将は俺になんの話を? もうさっさと本題に行こうぜ」
彼から上手く切り替えてくれ、助かったと英太は胸をなで下ろす。
そして落ち着いた様子の葉月さんも、こっくりと頷いて、いよいよ本日の本題に踏む込む覚悟を決めたようだった。
前菜も終わり、スープも終わり、今は魚料理。相手が食事を再開しても、葉月さんは何もせず、暫くじっと白い皿を見つめている。
「なんなの、葉月ちゃん。さっさと終わらせようぜ」
「では」
魚をぱくぱくと頬張っている橘中佐へと、葉月さんは視線を真っ直ぐに据えた。
そしてその本題が突き出される。
「雷神に来て頂けませんか。橘中佐」
また男と英太の食事を進める手は止まってしまう。
驚きに固まる男に、なおも葉月さんは付け加えた。
「大佐として来てください。そして私と一緒に今度の航行へ、共に艦に乗ってください」
庭のピンクの薔薇が、ひときわ強く吹いた夜風に大きく揺れる。
※注※ 作中の『モナコの華』は、この作品で創作されたフィクションのブランドです。
Update/2010.12.30