-- メイビー、メイビー --

TOP | BACK | NEXT

 
 
30.パイロットになりたくて

 

 最上階にあるスイートルーム。漁り火が遠く眺められる。

 リビングが広い部屋で、華子一人が一泊するにはあまりにも広い間取り。

 数室有り、ベッドも幾つもあり。どこで寝て良いかもわからないぐらいだった。
 でも、これは英太が泊まっても泊まらなくてもどちらでも良い、あるいは男と女が一夜を共に過ごしたのかどうなのか……そんなこともわからなくなる程広い一室を選んでくれたのだろうかとも思った。
 ともあれ、家族水入らず――。好きなように過ごせばよいという気遣いが伝わってくる。

 英太とは久しぶりの夜だった。
 二人で決めた一室で、すぐさま素肌になって、ひとつのベッドに抱き合って寝ころんだ。
 淡い照明の中で、英太がすぐに見たのは、御園大佐の口づけの跡だった。『こんなのがあったら、抱くの嫌だよね』と華子は申し訳なくて呟いてみたが。でも、英太は他の男が吸い付いた跡でも平気でなぞっていた。
 『葉月さんを思い浮かべているの?』――意地悪いと思いながらも。今までは自分の肌の上に、まだ知らなかった英太の恋する人を重ねられても平気だったのに。我が儘だが、華子は『今夜は嫌。あの人を私の肌に乗せないで』と思ってしまっていた。
 この気持ちがきっと。昼間、英太が怒っていた気持ちなのだろうとやっと理解できたのだ。
 見知らぬ人だから許せた。知っている人間がしたことだと思うと、知っている人間を乗せられていると思うと……やはり嫌だった。互いに寛大な振りして、実は稚拙だったに違いない。
 でも英太はその口づけの跡をなぞりながら言った。

 『嘘だきっと』。英太は唐突にそう言った。
 嘘。なにが。と、寝そべっている華子は、裸で寄り添っている英太が、柔肌を撫でていく指先を見つめながら首を傾げた。
 『嘘だ。あんな痛々しい傷跡を、いちいち愛して慰めていたら、哀しいことを思い出すだけ。何故、自分が慰められているかと。触れられるたびに思い出すに違いない。そんな時、またあの薬を飲むようなことが起きるかもしれない。俺だったら……触らない。見えないようにして、無いものとして触れない』。まるで確信しているように英太は言い切った。『隼人さんはきっとそうしている。これはただのサイン。葉月さんが見れば、華子にどうして欲しいか判るだろうと、旦那の隼人さんが見られることを前提に付けただけ。愛している軌跡なんかじゃない』。そう言うと、英太は怖れることなく、華子の乳房と乳房の間に顔を埋め、いつものようにそこを愛撫してくれた。

 華子もそう思えた。あんな痛々しい傷跡をなぞることが、感じる愛ではないと思う。
 そして今夜は英太も。見えているのに見えないふりで、堂々といつものように愛してくれる。大佐の口づけの上に怖れることなく、忌み嫌うことなく、いつも通りに華子を……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ふと目が覚めると、美しい漁り火がまだ煌めいている暗がりの部屋だった。
 シャワーの音が遠く聞こえていた。
 久しぶりに英太とぶつかり合うように激しく愛し合った……。その甘い疼きも、熱い痛みも残っている素肌はまだ火照っていて、華子は唸りながら、裸体にシーツを巻いて起きあがる。
 すると丁度、バスローブを羽織った英太が、抱き合った部屋に戻ってきた。

「起きたのか」
「うん……。英太は? 眠れなかったの?」

 すると、ちょっと英太が困ったように口元を曲げて、黙ってしまった。
 そんな彼を見て、華子も悟った。

「帰るの?」
「ああ。悪い」

 ベッドの周りに散らばっている二人の衣服。その中から英太が、制服の白シャツを拾い、スラックスを拾い、黒ネクタイを探し……。帰る準備を始めようとしていた。

「ひさしぶりに、朝まで一緒に眠りたかったのに」
「俺もな。また休暇で帰ったらゆっくり……」

 彼はそのつもり。でも、華子は……。

「そう。うん、だったらいい」

 悟られないように平然と言ったつもりだったのに、英太は華子が拗ねたように聞こえたよう。

「怒るなよ。ほんと、俺だってお前と一緒に起きて、ゆっくり朝飯を食いたいよ。けどさ……明日、スコーピオンの2対8があるんだ」

 そう言われ、華子もやっと我に返る。

「そうなの。あの三号機のスコーピオンと。パートナーは誰なの? 今度は英太が追いかけるんだよね?」
「パートナーは当日発表なんだ。ミセスとミラー大佐が決める。勿論、俺は追撃する方。気が抜けないんだ」

 だから、早く気持ちを切り替えるために、夜明け前にいつもの宿舎に帰る――ということらしい。

 裸でベッドにいるだけの華子の傍に、シャツもスラックスも身にまといネクタイを締めるだけになった英太が座った。
 ベッドの縁に座っている英太が、とても申し訳なさそうな顔で華子の頬に触れた。そしてそっと、口付けてくれる。

「ごめんな、華子。久しぶりにお前と触れあえて……すごく良かった。俺も、いつもの休暇の朝みたいに、お前と目を覚ましたかったよ」
「ううん。いいの。私も久しぶりで嬉しかった。でも、英太はいま、大事なところだから」

 そして華子も心から願っている。

「絶対、エースになってね。私、祈っている。見てみたい、エースになる英太を」
「ああ、勿論。ずっと、ふてくされていたばかりの俺がさ。今じゃ、基地中で応援してもらえるエース候補だなんて……俺だって不思議なんだけれどさ」

 ううん、英太にはその素質があった。だから、この二年、一心不乱に頑張って、そして変わった英太自身が引き寄せもたらしたもの。だから胸を張ったらいい。
 でも、どうしてか。いつもの彼を応援する言葉が素直に出なかった。

「春ちゃんに、エース候補だって報告してもいいかな」
「……そうだな。いままでは、期待させても心配させてもがっかりさせてもいけないと思って、ファイナルを獲得するまで言えなかったけど」

 『喜んでくれるかな』と、英太はまだ不安そうだった。

「もう煩わしい心配をさせたくないんだ。俺、高校生の時、春美にさんざん苦労かけさせたからさ。若い叔母が保護者だから躾が行き届かないとか周りに言われても、春美は俺を信じて守ってくれて。だから……もうなにも考えて欲しくなくて」
「高校の時のことは、全部、私のせいじゃない。だから春ちゃんだって。英太が基地中で期待されているエースで、力がある防衛パイロットで、日本の空を守っていると知ったら嬉しいに決まっているじゃん」

 また英太は『そうかな』と照れくさそうだった。

「私、楽しみに待っているから」
「ああ、ここまで来たから俺もやってみる」

 そして英太はついに華子の傍から立ち上がり、オーシャンビューの大きな窓から見える真夜中の漁り火を遠く見つめながらネクタイを締める。

「スナイダー先輩には絶対に負けない。どんなに俺が若くても。俺は翼になるんだ」

 はっきりと言わなかったが、ミセスとコンバットに挑む無線を聞いていた華子には『ミセスの翼になる』と聞こえた。

「そうね……。そうなれるといいね」

 もう、英太はここにはいない。
 彼は今から、あの漁り火のように遠く煌めき飛んでいってしまうのだと。
 でも。と、華子は素肌のまま、英太を見上げる。そして、微笑んだ。

「いってらっしゃい、英太。頑張ってね」

 愛し合った女の言葉に、幼馴染みの彼はこの上なく幸せそうに微笑み返してくれる。

「ああ、お前もな。今度の帰省は来週の土日になっちまうけど。またその時に、ゆっくりな」
「うん。春ちゃんのこと、任せて」

 英太のネクタイが整う。すると、彼がもう一度華子の傍に戻ってきてくれ、今度はきつく抱きしめられた。

「いってくる、華子」

 『うん』と抱き返すと、最後にいつになく情熱的な口づけをしてくれる。……こんなこと。幼馴染みで、なんでも知っているから分かっているからと。こんな恋人同士のように別れを惜しむような愛し方なんてしたことない。いつだって会える、帰ってくる、私も俺も一緒にいれば何一つ変わらない。そう思ってきたのに。この鈍い純朴なだけの英太ですら、こんなに華子と別れたくないと必死になってくれる口づけ。しかも最後は感極まっている様子の英太に、押し倒されてしまう。

「あ……、英太」

 乳房を隠していたシーツを剥がされ、またそこに英太が激しく吸い付いてくる。

「華子、華子」

 いつまでも別れ難そうに、そんなに愛してくれて、華子も泣きそうなった。

「行って、英太。だめ、流されちゃ」

 なんとか華子も思い留まり、エースへの道がペースが崩れないようにと帰路へと戻そうとする。
 そして英太も我に返り、やっと華子の肌から離れた。
 最後にもう一度、優しい口づけ。もう、がさつな幼馴染みではなかった。どこか優しい大人の男を感じさせた。

 それは嬉しいことだけれど。でも、華子は思う。
 もう……私の英太じゃないみたい。

「朝になったらまた基地に来るんだろ。今度は俺の班室に来いよ。昼はカフェで兄貴達とランチをしよう」
「う、うん」

 滲み出た涙を拭うと、英太が頭を優しく撫でながらベッドから離れていく。

「じゃあ、行くな」
「うん。いってらっしゃい」

 愛し合った部屋から、制服の男が颯爽と出て行った。
 愛を引きずらず、彼の目の前はもう空しか見えていないように。そこから出て行けば、もう彼には空しかない。そこに華子はもういない。

 今頃になって、こんな気持ちになるだなんて。

 英太が出て行きドアが閉まる音がして暫く、華子は白いシーツに顔を埋めて泣いた。

 好きよ、英太、大好き。だから、貴方の思うままに生きて欲しい。

 だから華子は自分のために傍にいて欲しいだなんて叫ばない。絶対に叫ぶものか。
 もし、英太を本当に愛しているというなら、華子はこうする。
 ――英太、飛んで。気が済むまで飛んで。私のこと忘れてもいい。飛んで、どこまでも飛んで!
 それが、大好きな幼馴染みの彼にして欲しいこと。
 だから涙が出たって、心が今になってキリキリ痛んだって、哀しくても寂しくても、でも華子も気が済むことは『飛んでいる彼』を守っていくことだった。

 水平線が白みはじめ、漁り火が淡く霞み港に戻ってくる頃。華子の涙は枯れ、そしてゆっくりとベッドから降りて立ち上がった。

「私も、シャワーを浴びよう」

 綺麗になって、全てを洗い流して。そして、夜中だというのに、もう誰が見る時間でもないのに、それでも制服のネクタイをきちんと締め直し颯爽と出て行った英太のように。私も凛とした女としてこの部屋を出て行こう。

 もう、今までの世界には留まらない。私も行く。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 本日は、やや薄曇り。その分、窓から入ってくる潮風が肌に心地よい。

 鏡に写った自分を完璧にチェックし、華子は背筋を伸ばして最上階の部屋を後にする。

 先程、フロントから内線があり『御園様がロビーで待っているとの伝言です。ですが、お支度はごゆっくりとのことでした』という連絡があった。

 ロビーに出て、華子はラウンジの喫茶をひと眺め。ゆったりとした朝を迎えている観光客やビジネスマンが点在している中、一番真ん中の席にその人がいた。

 今日も英太と同じ白い夏シャツで、黒いネクタイ。でも肩章には立派な金星、そして胸には色とりどりの階級バッジ。眼鏡をかけた大人の男の目が、カフェオレカップ片手に新聞を眺めていた。

「大佐、おはようございます」

 きちんと挨拶をすると、彼が新聞から顔を上げた。そして、華子を見るなりとても驚いた顔をした。……何故か分かっている華子は、ちょっと恥ずかしい思いで目元に触れた。

「目が赤いじゃないか。どうした……」

 なんだか、今日、この男性の声が父親のように聞こえてしまうのは気のせいだろうか? 昨日、女の私の肌に男の唇で吸い付いていたはずの男性なのに。もう華子の肌にこの人の熱っぽくて甘い記憶はない。

「えっと、朝方まで泣いちゃって」

 素直に正直に答えた。完璧に支度をして、背筋を伸ばし凛とした気持ちであの部屋から旅立つ気持ちだった。でも、この目だけが。昨日までの華子を忘れさせまいと、残骸のように残っていた。
 でも、大佐はそれだけで様々なことを察してくれたようで、大きな溜め息だけふっと吐いただけ。

「まあ、座って。なにを飲む?」
「私もカフェオレ」
「わかった」

 すぐに手を挙げ、大佐は手際よくオーダーをしてくれた。

 大佐が新聞をたたむ。

「昨日はお疲れ様。どうだった……なんて、聞かない方が良さそうだな」
「ううん、大丈夫」

 気遣ってくれた言葉に、華子は首を振る。

「どうした。英太と喧嘩になってしまったのか」
「ちゃんといつも通りに過ごして見送ったわよ」
「そうか。それならいいんだけれど」

 男と女としての関係も察しているだろうに。やはりそこもそっとしてくれる大佐。
 だが、華子は大佐に告げる。

「大佐、私……今日、帰ってもいいかな」

 そして大佐はそこでも分かり切った顔をしていた。

「華ちゃんがそう望むなら。今日の横須賀便の空席を探すけど」
「お願いします」
「英太には?」

 華子は口ごもったのだが。

「彼には……。大佐から帰ったことを伝えて。急に春美叔母が心配になったと、でもなんでも」
「……と、でもなんでも?」

 叔母が心配というのは『それらしい言い訳?』と言いたそうな大佐の顔に、華子はきちんと告げる。

「一人になりたい。基地に行って、鈴木大尉の幼馴染みとか彼女だとか、恋人だとか。別になんと思われても構わないけど、今日は辛い……」

 そう言っただけで。目の前の大佐が同調してくれたような哀しそうな顔になった。

「わかった。平日だから空いているだろう。すぐに手配する」
「有り難うございます」

 大佐は携帯電話を手に取ると『ここで待っていて』と言い、席を離れていった。
 そういえば……と、華子は自分のバッグから携帯電話を取り出した。
 着信履歴が数件。留守電には二件。一件は優美子ママ『御園大佐なら安心だから、ゆっくりと彼の姿を見てきなさい』と短い伝言。そして、もう一つは……。

『岩佐です。優美に行くと今週は休みだと聞きましたが……』

 あの社長らしからぬ、丁寧な話し方の伝言だった。

『理由は聞けなかったけど、体調でも悪いのだろうか。また都合がついた時でも構わないので、連絡を。来月の華夜の会について話し合っておきたいので、よろしく』

 最後はいつもの砕けた口調になっていた。

 それをもう一度聞いて、華子はため息をついた。ああ、忘れていた。この社長さんとの約束。
 その時、華子はふと思い出した。『そう言えば、岩佐社長も御園夫妻となにやら因縁がありそうで、お二人に頭が上がらなかったみたいだったけれど』と。
 なんだったのだろう。あの社長も華子のようなことをして……。そして華子は確信した。あの出たがり青年社長だった岩佐がメディアからぱたりと姿を消したのは、『もしかして御園夫妻と出会ってから?』そんな気がした。

 御園大佐が戻ってきた。

「正午半の便が空いていたから、吉田に席を予約してもらうよう頼んだ。取れたら連絡が来るから」
「そうですか。それで帰ります」

 もうこの小笠原でやりたいこと見たいことはなにもない……。
 気持ちはもう本島へと既に帰ってしまっている気分で、華子は黙ってカフェオレを飲んだ。
 だから。御園大佐がそんな華子をじいっと見ている。

「大きなお世話をしてしまったんだな」

 あの大佐が、自信なさそうな溜め息をこぼす。

「ほんっとうに。余計なお世話だったわよ。気が付かなければ、英太とずっと楽しくやっていけたかもしれないのに」
「だろうな。俺もそう思ったよ。だけど、そうかな」
「そうだね。……私も最後はそう思った。『やっていけたかもしれない』なんて。今が楽しいから、嫌なことは想像したくない、あるはずないなんて危機感ゼロで、良い方へ逃げているだけだったと、つくづく思い知らされたもの」
「いつかはそうなったと思う。でも……俺が、その変化を早めてしまうキッカケの人間になってしまったな」

 そうよ、そうよ。大佐が小笠原での英太をこうまでも見せつけてくれなかったら、『何も知らないでまだ本島でもう少し英太との幼馴染み生活を続けていられた』はず。もう少しで華子は大佐にいつもの調子で気強く言い返しそうになったのだが。でも……。

「でも、やっぱり、いつかは英太とも幼馴染みのままではいられなかったと思う。身体の関係があった分だけ、私達は男と女の関係をいつかはっきりさせなくちゃいけなかった。今ならまだ……互いに傷つけ合わずに済む」

 華子が出した答を聞き届け、あの大佐が唇を噛んで哀しそうな顔をしてくれた。

「そっちになってしまったか」

 どのような結果が出るか。大佐の予想は良い結果も悪い結果も分かっていたようだった。そして訪れたのは大佐にとって悪い結果。

「別に俺。あいつが俺の女房に恋をしているから、諦めて欲しいだなんて思って、こうしたんじゃない」
「分かっている。それに大佐は、英太のことを純粋に飛ぶことで自分の気持ちを表していると英太の気持ちを理解してくれていた、それに男として負けたくない――と、英太が選んだ道を受け入れて認めてくれていたもの」
「あいつの純粋な思いは本物だと思う。でもな、実らない恋は実らないんだ。俺がいるからじゃない。俺が夫だからじゃない。葉月という女と愛し合うということは……」

 そこで大佐が黙ってしまった。とても苦しそうな表情。昨日まで基地中の隊員や華子や奥様を余裕で振り回していた男性とは思えないものだった。

「昨日。英太が言っていました。ご夫妻はきっといつまでも変わらないだろう――と。彼、ちゃんと貴方達の姿を受け入れていた。切なそうな顔をしていたけれど、でも、ご夫妻としてのお二人のことも、とても好きなんだと思う」
「だからこそ、そんなあいつだからこそ……。英太には、孤独でいて欲しくなかったんだ」

 そこには、若い青年を案じている兄のような顔があった。
 恋敵のはずなのに、そんな恋敵が心底案じてくれているその気持ちに、今の華子は涙が出そうになる。

「それで大佐は、英太が一番馴染んでいる私と一緒に生きていくことが一番だと思ったのね」

 彼が『そうだ』と頷いた。

「そうだよね、私だって、ずっと英太と生きていけると思っていた。でも今回、パイロットとして隊員として男としての英太を改めて目の当たりにして思った」

 華子の脳裏に、あの白い戦闘機が稲妻をまといながら青空を飛んでいく姿が浮かぶ。そして甲板には真っ白い飛行服姿の英太がいる。

「英太って、すごくいい男」

 昨夜、あの逞しい大きな胸の中に素肌の華子をすっぽりと包み込んでくれて、優しく撫でてくれたり、激しく強く愛してくれたり。
 そして最後は、あんな……恋人同士のような熱い別れのくちづけ。大人の男の薫りを残して去っていった『制服の男』。

「あんな、いい男だったなんて。私の傍にいることが当たり前すぎて、知らなかった」

 また涙が溢れてきた。泣きすぎた目に込み上げてくる涙は痛かった。

「あんないい男に、私は相応しくない」

 そう言いきった華子を見て、あの大佐が慌てるように身を乗り出してきた。

「違うだろ、華ちゃん。愛し合うのに『釣り合い』なんて関係ないんだ。もし、華ちゃんが今の自分では不足だと思うなら、これから追いついていけばいいじゃないか。ただ二年間、二人の間にちょっとした隙間が出来ていただけだ。華ちゃんなら、直ぐに……」
「そうじゃないの、大佐」

 英太と華子を懸命に共にいさせようとしている大佐の言葉を、華子は遮る。

「そうじゃないの、大佐。私、英太とは男と女になりたくないって言っているの」

 そう言い切ると、大佐がすごく驚いた顔をした。どうしたことか、とても衝撃を受けたような顔、あの大佐が。華子の方が『え』と思ったぐらいの。

「大佐?」
「いや……。デジャブ、かな」

 がっくり項垂れるようにして、大佐が眼鏡を取り去り、それをテーブルに置いた。

「うちの奥さんと谷村の義兄が、どうして添い遂げられなかったのか。それを今、目の前で、あいつがそう言ったように見えてしまって」

 それを聞いて、華子も一昨日の夕に、ミセス自身から聞かされた話を思い出す。
 ――腐れ縁っていうのかしらね……家も隣同士だからいつだってそこにいて、本当に家族同然の幼馴染み……そう、『家族』だったの。だから、男と女にはなれなかった。

 今朝は、あの時のミセスの言葉に気持ちが痛い程通じる。
 大好き、愛している。私を一番理解してくれて、どんなにでも受け入れてくれるのは貴方しかいない。
 でも、違う。それは家族だから。男と女の関係をもてる間柄でも、『家族』だから。
  ――甘えてしまう。暖かくて、抜け出したくない。

『男と女は傷つけ合うのよ』

 ミセスの声が聞こえてきた。あの冷めた目で、でも華子から絶対に目を逸らさない。真っ直ぐに冷たくとも煌めく真摯な眼差しが華子を離さない。

『澤村とは傷つけあって家族になった。男と女、他人だから。でも許し合ってきたから』

 それが『男と女でもある家族』、つまり『夫妻』。

 華子はそう思うと、泣きたくなった。
 それが英太とは出来ない。男と女として主張し合うだなんて、絶対に嫌。それが華子の答だった。

「奥さんと谷村社長が、どうして義兄妹に戻ったのか。私、わかる……わかる気がする」

 こぼれてきた涙をハンカチで拭うと、目の前の大佐もやるせなさそうな顔。

「俺、またやってしまったか」

 自分で自分に呆れているような緩い笑みを見せる大佐。

「俺なんだ。葉月に義兄のところに『行け』と突き放したのは……」
「そうだったの?」
「葉月は『貴方を愛しているって信じて欲しい』、『義兄様のところには絶対に行かない』と俺に何度も何度も言ってくれたのに……」
「どうして。そんな時こそ、なんで『俺を選んでくれた』と捕まえてあげなかったのよ」

 この人が、恋人の気持ちを信じられなくて義兄のところに後押しをしたと知って、華子は驚かされた。
 そして大佐は、申し訳なさそうな顔で、テーブルの上に外したまま置いている眼鏡を困ったようにつつき暫く黙っていた。

「でも、俺……わかっていたんだ。絶対に忘れられるだなんて嘘だ。そう思っていた。だってな、本当に葉月は義兄のことを好きだったんだ。それが凄く伝わってきたんだ。生まれた時からずっと傍にいた男だ。そうそう忘れられるわけないだろ。俺だって、継母への恋心と決着をつけられるのに十何年もかかったんだ。だから……くすぶっている気持ちを出し切ってから俺のところに戻ってこいと。『賭けた』んだ、あいつの愛を」
「し、信じられないっ。『賭』って……。じゃあ、大佐は葉月さんが義兄さんと会って気持ちの整理を付けたら帰ってきてくれると、信じていたってこと」

 また大佐が『そうだよ』と頷いた。だが、華子は絶句。この大佐の考え方――思いもつかない考え方。会った時からそうだった。なんだか知らない大人だと思ってたけれど。
 でも、と華子は思い返す。大佐のそんな考え方が、今日、ここまで、華子を引っ張ってきてくれたのだ。

「後悔はしていない。妻とはあの時散々傷つけ合ったけれど、でも……騙しあって暮らしていく嘘の夫妻にならなくて済んだと思う。ただ……俺の、エゴがね」

 そう。今回も大佐の一方的なエゴだと、華子も思っていた。
 『こうすれば、良くなるんじゃないかな』――大佐はそう思って、二年間で変化を遂げていた英太とそれを知らなかった華子を引き合わせてくれた。そして大佐は思っただろう。『これで半端な幼馴染みの関係を解消して、本当の男と女になってくれるのではないか』と。

「今回もそうだ。ごめんな、華ちゃん。良かれと思っても、俺の思うとおりにならない違う結果もあり得るだろうと覚悟していても。それでも良い方へ転がってくれるだろうと勝手に思い込んでいたこと。こうなれば良い、こうなってくれるだろうなんて、俺のエゴだった」

 その通りだった。華子が大佐に言いたい『抗議の文句』だったが、言い放ちたい本人が既にそのことで心を痛めている。

「本当、大きなお世話だったわよ。でも……大佐のその気持ちは『優しいエゴ』ね。きっと、奥さんもそう思っているよ。きっと……それで良かったんだと思っているよ。私、わかる。葉月さんが谷村社長と男と女になれず、義兄妹でいること、わかるよ。大佐の『優しい思い切り』で、葉月さんと義兄さんははっきりした答を出せたんだと思う。そして、私もね……大佐のおかげ」
「華ちゃん……。有り難う」
「私も……」

 華子は深々と御園大佐に頭を下げた。

「有り難うございました。私も前に進めそうです。大佐がここに連れてきてくださらなかったら、あのままだった。そんなの嫌だと思えたから」

 何故か、あの御園大佐が泣きそうな顔になっていたような? なにか誤魔化すように眼鏡をかけて黙ってしまった。

「私も、パイロットみたいになりたいなあ。英太みたいに、飛びたい」

 空など飛べるはずもないが、華子のハートは空を飛びたい気持ちだった。

「きっと、飛べる」

 最後に生真面目な顔で、華子を真っ直ぐにみる大佐。
 馬鹿みたい。そんな馬鹿みたいに真面目な顔で、信じているといわんばかりの顔に、ついに華子は泣き出してしまった。

 お兄さんもオジサンも通り越して。彼が父親みたいに見えた。親馬鹿の、子供を真っ直ぐに信じているだけのパパみたいな顔……こんな顔なんだろうと思ってしまった。

 

 その日の正午半、華子は御園大佐一人に見送られて、小笠原を後にした。
 空にいる英太に黙って、甲板にいるミセスに御礼も告げられず。

「葉月は大丈夫、ちゃんとわかっているだろう。英太にも……上手く伝えておく」

 後は大佐に任せ、華子は横須賀へと。新しい自分を思い描いて。

 

 

 

 

Update/2010.9.10
TOP | BACK | NEXT
Copyright (c) 2000-2010 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.