-- 蒼い月の秘密 --

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12.夜のイルカになって

 

 今夜の妻は急速だった。以上に、夫より先に行こうとする。

 火照っている妻の肌は、仄かな明かりの中でも薄紅に染まっているように見えた。
 葉月と絡まるような口づけをとことん交わし合い、やがて隼人の唇は彼女の耳を愛し、首筋を這い、時には強く吸って、始まりの挨拶のように丹念に愛撫する。
 いつも少しずつ湿り気を帯びてくる白い肌。しかし今夜は彼女から求めてきただけあって、葉月の肌はもうすっかり隼人の手に吸い付くかのようにしっとりと柔らかになっている。その肌をいつも通り、いつもの手順で愛撫する。それでもほんの少し『激しく、強く』を意識して。そんな愛撫を施される葉月の声は悩ましいままに、吐息混じりに熱帯びる。儚そうに掠れる甘い喘ぎ声は絶えることなく続き……。ただ声を出すだけでは事足りなくなると、葉月は隼人の唇に吸い付き、時には『気持ちよすぎて堪らない』と言いたげに隼人の肩先に噛みついて、隼人の口先舌先が鎖骨から乳房の谷へと降りていくと、狂おしそうに夫の黒髪を掻き乱し、なのに押しつけるように抱きかかえたり――。
 やがて彼女が待ち望んでいただろう潤う泉へと、いつも通りに隼人は向かおうとしていた。

 柔らかにふわりとカールしている栗毛の茂み。そこをそっと手のひらで丸く撫でるのも、隼人にとってはもう『いつもの手順』に含まれている彼女への愛しい行為だった。
 くるんと丸まっている栗色の毛先はどこか儚く細く、なのにそこに彼女の身体の芯からとろりと溢れてきた銀色の露をつけて輝いている。仄かな照明の中でも、その茂みの毛先が濡れて艶めいているのを隼人は確かめた。
 まずは隼人の指先が――。きっと熱くとろける寸前までに濡れているだろう秘密の園へと向かおうとしていたのだが。

「待って……」

 葉月の手が、隼人の手首を止めている。
 寝そべったまま隼人の手元まで慌てるように伸びてきたその腕の先を、隼人は訝しげに見上げた。そこには間違いなく、今にも愛し抜いて欲しいとばかりに目を潤ませて、快楽を欲していると分かる葉月の顔があるのに。

「どうして」

 これから、いつも通り。お前が望むままに欲しているままに愛してあげようとしているのに。
 待っているんだろう? これもしてほしいんだろう? いつものことじゃないか。頬を染め息を弾ませている葉月を、隼人は無言で見た。
 ほら。その顔。頬を赤くして、狂おしそうな吐息を緩く開いた唇からこぼして、今にも泣きそうな顔。その顔でいつも『いや、やめて』と切ない声で哀願するように呟きながらも、俺の指先に夢中になって悶えてくれるじゃないか――。俺だってそんなお前を眺めたいんだよ。そんなお前をいつも愛おしく思って、こんな時でないと甘えた声で俺の名前を呼んでくれない悩ましい声を聞きながら、お前を狂わせてみたいんだよ。それを今からしようとしているのに。

 そんな隼人の不満そうな顔を、葉月は潤んだ眼差しで見つめているだけ。
 でも、どうして葉月がその待ちかまえていただろう隼人の指先を止めてしまったのか、そして彼女自身が今夜はどうしたいのかが直ぐに隼人の目の前で起きたのだ。

「……なにも言わないで、聞かないで」

 隼人を見つめていた葉月の瞳が、そっと恥じらうように逸らされる。
 見ないで、見ても黙ってみていてとばかりの仕草に、隼人は一時首を傾げたのだが、その次の瞬間『あ』という思わぬ声を隼人自身が漏らしていた。
 ――妻の、葉月の手が、逆に熱く固まっていた隼人のそこをぎゅっと掴んでいたのだ。――不意打ち。だから隼人は思わぬ声で呻いてしまったのだ。

「お、お前、今、こんなことしなくても。お前からは、後からでもいいから」

 いつもお前が先で、途中からお前が俺を愛してくれて、それで最後は一緒になって――。
 どんなに妻から求めてきても、隼人の頭の中は『いつも通りの慣れた無難な手順』しか思い浮かんでいない。
 なのに今宵は、やはり何処か違う。妻が、いや、彼女が違う。
 その通りに、いつもの手順をひっくり返すかのように、まだ暖まっていないひんやりとした指先が柔らかに夫の熱くなった塊を愛でてくれるのだ。
 不意打ちだからこそ、突然に隼人を襲った熱い嵐のようだった――。良く知っている妻の指先のはずなのに、その冷たさが余計に隼人のそこを熱く狂おしく包み込んでいく……。

「葉月、う……ん、いい」
「本当?」

 妻の裸体の上に被さって制していたはずの男が、下にいる妻の手に捕らえられてしまっていた。
 冷たい指先が撫でていく跡は、まるでひやりとした細い糸で少しずつ縛られているような……そんな感触を覚え、なおかつ、隼人はその行為と幻覚に恍惚となる。
 今夜は妻の指先だけで、隼人はじんわりと身体が火照り、汗が滲み出てくる快楽を感じていた。指先だけでこんなに――。

「なあ、いつものように……してくれないか」

 やや屈辱を感じながら、隼人は手順を乱す妻に、やがてしてくれるだろう行為を求めてしまっていた。
 隼人が望んだとおりに、葉月がこっくりと頷き、くったりと寝そべっていたシーツから起きあがる。
 隼人の太股の間に視線を落としながら、葉月は長い栗毛をそっとかき上げる。それを見ただけで、隼人はもうどうにかなって、そのまま葉月の頭を思うままに求めるそこに宛いたくなったぐらいだ。
 それでも堪えに堪え、葉月自身がゆっくりとその唇に含んでくれるのをじっと待つ。

「う……っ」

 隼人は呻き、自分の足の間に顔を埋めてくれた妻の頭をつい……強く押し当ててしまっていた。
 それに我に返り、いつもどおりに、そっと労うように柔らかに葉月の栗毛を撫でる。
 もう慣れた妻の口先。自分の硬く熱くなった塊を小さな舌で優しく愛撫されることは、結婚前の頑なだった葉月には希でも、今はもうこのなにもかもが夫の隼人のもの。なのに今夜はこんなに我を忘れるように俺を愛してくれるだなんて――。そう思っただけでも、もう隼人も荒れ狂って、葉月になにをしだすか分からなくなりそうだった。

 『いいよ、そのまま。いや、俺も……今夜はもっと強くしてくれてもいい』――。
 ふいに口からはそんな言葉がこぼれていたようだ。
 あの葉月が。なかなか心も身体も開いてくれなかったあの女が。今はこんなに俺を愛してくれている――。
 どんなにエロティックであられもない、隼人しか知らない葉月でも、それでも隼人は葉月のその背に口づけ腕の中に囲い込む。

 今宵の妻は、激しい。
 ストレス解消って、お前が夫の俺に雄々しく貫かれて砕け散りたかったのではないのか?
 隼人はいつの間にか妻の手に墜ちている気にさせられていた。
 ……指先が。先程まで、妻を狂わそうとしていた指先が震えながら葉月の栗色の茂みを負けずと分け入っていくのに、力が入らない。
 『もうそこでやめてくれ』、そうでないと、お前になにもしないうちに俺が果ててしまう。――まさにそれほどの勢いを、今宵の葉月は秘めていたのだ。

 でも隼人は思った。

「そうだな。朝まで、朝まで、まだ長いもんなあ……」

 妻の栗毛を力無くくしゃりとかき混ぜながら、隼人はすっかり柔らかい唇に取り込まれ流されていた。

 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 シーツは海。そして私と貴方は気ままに泳ぐイルカのよう。
 夫の欲望をその唇で誘い出している妻という、とてつもなくエロティックに荒れ狂った女になっているのに、葉月の頭の中はそんな風景が浮かんでいた。

 海なのにどこまでも白くて、そしてくるくると絡み合うようにイルカになった夫と漂っている。

 ――『もう、勘弁してくれ』。
 そんな夫の切ない声も葉月には聞こえているのに、聞き流して夢中で愛していた。
 口の周りがすっかり濡れてしまっても、葉月は続けた。
 どうしてなのだろう。うんとめちゃくちゃに愛して欲しかったのに、いつの間にか夫をめちゃくちゃに愛していた。

「もういい」

 気がつくと、隼人に無理矢理、引きはがされていた。
 その時にやっとはっとした。そして年甲斐もなく徐々に頬が熱くなって恥じている自分がいることを知る。
 でも隼人がとても愛おしそうに、起きあがった葉月をしっかりきつく抱きしめてくれていた。

「そんなに、なにもかもを忘れたかったのか」

 隼人の肌は今でもとても艶やかで張りがある。甲板で力仕事も良くやっているから、出会った時とそれほど体型も変わっていない。
 葉月はとても慣れてほっと出来るその広い胸に、ようやっと休んでいた。

「このまま、こうしていたわ。ずっと――」

 抱きしめてくれる隼人の腕の中、胸の上、葉月は静かに目を閉じてそう言った。
 また――。白い光がこぼれる海中、そして二頭のイルカがまた気ままに戯れている光景が浮かぶ。

「このまま、貴方に愛し抜かれて、私も愛し尽くして、夜明けなんか来なければいい」

 このまま貴方と私だけ。心地よい海の中を絡まって気ままに泳いでいたいわ。
 それはただベッドの上で、ひたすら共に官能的に貪ることを意味しているのだと、葉月も気がつく。

「じゃあ、とことん忘れてみるか」

 目の前で、葉月を大きく包んでくれている男性の目が急に輝いたように見えた。
 ――『今度はお前、葉月の番だ』と、隼人にシーツの上に押し倒された。それどころか、彼の大きい胸が葉月が身動きできないほどに組み伏し、息苦しいほどにのしかかってきた。

「や。貴方……」

 もっと優しくしてよ。
 そう言おうとしたのに、それを悟られたかのように隼人にすかさず唇を塞がれていた。
 息苦しいほどの口づけは、それまで葉月が夫に従わずに彼を翻弄してしまった仕返しか。そんな隼人の執拗な口づけは、まるで『お仕置き』のよう。葉月は暫し逃れられなかった。
 すっかり彼の男としての本能に、葉月は火をつけてしまったらしい。
 ちっとも手加減をしてくれない彼の大きな体に伏せられたまま、葉月はうつぶせにさせられ、そのままシーツに頬を埋めさせられる。

「は、隼人さん……っ」

 葉月の背に、今度の隼人はすっぽりと覆い被さり、そして葉月の両手をひとつに束ねるかのように大きな手で握りしめ固定してしまう。そのまま自由が利かない体勢に整えられると、先程、葉月が見事に制してしまった『いつもの行為』、あの続きを隼人の指先が始めようとしていたのだ。
 下腹部の、自分の茂みの中を、夫の逞しい指が分け入って、そしてその入り口で自分のパートナーである『つがいのイルカ』が今宵もどれほどに受け入れてくれるのかと確かめている……。これだけお仕置きのように身体の自由を奪いながらも、隼人のその指先はいつもどおりに労りに満ちていて、そして優しかった。
 すでに濡れそぼっていた葉月にとっては、その指先の行為は、身体の奥底で待っていた女の炎を燃えさせるには充分すぎる快感。

「あ、ああっん……」

 ついにこぼした声に、耳元にある夫の唇がふと緩んで、熱い息の笑みをこぼしたのが分かった。
 そのままいつもどおりに彼の指先が、葉月の中へを潜り込んでくる。
 いきなり貫く日もあれば、焦らすようにじりじりと入り込んでくる日もある。今夜はやっぱり意地悪な指先で、じっくりとその動きを予想させないとばかりに、行ったり来たりを繰り返された。
 もう葉月も堪らなくなって、そのまま白いシーツに頬を沈め、ぐっと堪えながらも小さく喘ぎ続けた。

「今日はどっちがいい?」

 今度はしっかりと大人しく従順に悶えている妻を眺めている隼人が、どこか満足そうに耳元で囁いた。
 どっちがいい? それがなにを問われているか分かっていて、でも、葉月はそのまま目を閉じて隼人の指先の動きだけをひたすら追い堪能する。

「どっちも嫌。ずっとこのままがいい……」
「そんなわけにいかないだろう。もう、すぐなんじゃないか」

 また意地悪な隼人の指先。
 葉月がいつまでも溺れていられるように、じりじりにじらしているくせに。急に激しくして今にも葉月が果ててしまいそうなラストを迎えさせるような……。

「あ、はあ……。だめ。まだ、だめ」

 彼の胸の下で、葉月は身体をよじらせる。
 本当にそのまま果ててしまいそうだった……。
 そんな状態に彼女の身体を追い込んで、隼人はさらなる主導権を取り返そうとしていた。

「どっちがいいか。俺の指が良いか、それとも俺の……」
「うっ、あ……」

 今度の葉月の答は『どっちでもいいわ』だった。
 だけれど、もう声が掠れて言えなかった。でも隼人はしっかりと耳を寄せて聞き取っていたようだった。

「俺の勝手で良いんだな」
「い、いいわ……。貴方の、好きにして」

 そこまで言わせて、やっと隼人が勝ち誇った笑みを見せる。
 葉月の中を今宵はどのように掻き乱して落とそうとしているのか……。
 指先、舌先、そして彼に貫かれて、葉月はやっと果てる。彼もやっと果てる。

 互いの身体は、じっとりと汗ばんでいて、そして激しい呼吸で皮膚が動き乱れ、それでも二人は重なり合いもつれ合って抱き合っていた。

 ぐったりしている葉月の指先を、いつのまにか隼人が握りしめて口づけている。
 なにをしているのだろうかと思いながら、葉月は共にくったりとしたまま寄り添い寝そべっている夫の顔を見た。

「やっと、暖まったな。指先」

 じんわりと暖まった指先は、じんじんとしびれていた。
 時々こんなに激しく抱き合うと、そうして指先がしびれてしまうことがある。その時は、彼が言うように暖まっている。いや、熱くなっている。
 なのに隼人は、いつもの彼らしい優しい微笑みで、ほっとしたようにいつまでも口付けてくれていた。

 朝までなんて、もういいわ。

 そう思ったのだけれど、隼人の方はもう許してくれなかった。
 その後も暫くは、葉月は仕返しのようにされて、隼人に攻められた。
 でもそれはそれで、葉月が願っていたことでもあった。
 いつまでも、いつまでも、このままでいたい。甲板も忘れたい。しがらみも忘れたい。ただの葉月になって、ただ隼人さんに愛されたい。そして果てたくない。ずっと貴方の指先に惑わされて、ずうっとこの官能的な白い海で戯れていたい。時々、無性にそう思ってしまい、欲してしまうのは何故なのか。いつまで経っても葉月には分からない。
 それでもそこに、必ず一緒に泳いでくれる対の人がいる。

 今度の隼人には、どこまでも身体を開かれ、どこまでも指先で愛でられた。
 そして葉月も彼に従うばかりでなく、自分もどこまでも身体を開いて、彼が満足するまで指先を受け入れ、感じ取ろうとした。

 二人が眠りについたのは、きっとその後――。
 それでも小笠原の早い夜明けで、夫妻の寝室から見える空は、うっすらと明るくなっていた。
 なのに、激しく抱き合った後も、二人はいつまでも指先や腕を絡め合って、互いの肌のあちこちをくちづけあって、他愛もなく囁き合っていた。
 どちらが先に眠ったのか。

 いや、きっと自分が先に眠ってしまったに違いないと葉月は思う。
 いつもそう。隼人は、夫は、ずっと昔から葉月が寝付くまでは寝ない人だったから。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ピピピ……と微かに聞こえるアラーム音。
 なにか違和感を覚えながら、葉月はその音を捕まえようとするかのように手探りで手を伸ばした。やっと見つけ、止めた時計――。

 ん? 目覚まし時計?

 そう気がついた時に、葉月の目がぱっちりと開いた。
 あれ? 私。目覚ましなんか使っていたかしら?
 はたと我に返り、自分が今、本当に目覚まし時計を止めたのかと、手を伸ばした先を見る。
 時計は窓からの逆光で、目覚めたばかりの葉月には直ぐには何時を指しているか判断することが出来なかった。
 それでもだった。葉月はいつも目覚ましでなんか起きない。何故なら、昔から身体が勝手に同じような時間に目覚めるからだ。
 夫より早い日もあれば、遅い日もある。つまりそれは、葉月の場合は一定の時間に起きているのに、夫の方が気まぐれに早起きをしたり、宵っ張りで寝坊をしたりするからだ。
 一定的に目を覚ますのは妻で、葉月の方が早く起きた日は勿論目覚ましなど要らないし、隼人が早く起きた日は彼が一声『朝だ』と報せてくれる。それでも葉月は一定時間に目覚めるのに……。

「なあに。貴方、目覚ましをかけたの?」

 無理もないかな。眠ったのは夜明けだった。
 睡眠時間ほんの数時間。夫も、流石の妻も寝坊すると案じて目覚ましをセットしてくれたのかと思ったのだ。
 だが、寝返りを打って確かめた隣には、誰もいなかった。
 昨夜愛し合ったままにシーツが乱れ、夫が脱ぎ去ったバスローブがそのまま無造作に置かれているだけ。シーツもバスローブもとても真っ白に輝いていた。
 ――その煌々としている日光が降り注いでいる、寝室。ものすごく明るくて、真っ白で、こんなに明るい陽射しに溢れているこの寝室で目覚めたことなどあったかと思った時。ふと思い浮かんだのは、土曜や日曜の目覚めだったりして。
 葉月はがばっと起きあがった! そしてすかさず、違和感を植え付けた目覚まし時計を見た。
 夫がいざというときにと買ってきたウッディ調の白木時計。

「……じゅ、十時!?」

 その時計をどこかに投げつけたいほどに握りしめ、葉月は叫んでいた。
 どうして? 何故、こんな時間に自宅の寝室に一人で残されているの?? 流石の葉月もかなりのパニック状態。栗毛をくしゃくしゃと掻き乱し、そしてなにがどうなっているか判断も付かないまま取り乱しそうになった。
 なにせ本当に栗毛は乱れていて、裸のままシーツにくるまれているだけの状態で、肌は汗ばんだままじっとりしているままで……。とにかく昨夜、愛し合ったまま乱れたままの状態で夫に置き去りにされている。
 そして葉月の脳裏に、本当に我を忘れて夫とどこまでも愛し合った宵が鮮明に蘇ってきたのだ。
 この寝坊はその代償? でも待って。隣に同罪になるはずの『相棒のイルカさん』がいない!
 困惑したまま、握りしめていた目覚まし時計を力無くカウンターに戻そうとした時。その時計が置かれていただろう場所に、一枚の便箋があることに葉月はやっと気がついたのだ。
 おもむろにとって、眺めてみると、案の定――隼人からの伝言だった。

 

おはよう。珍しくお前が起きなかったから余程だと思って、そのままにしてしまった。
准将室には、俺から適当にテッドに言い訳しておく。テッドならなんとでもしてくれるだろう。
どうせなら、朝寝坊も『ただの女』として堪能してはどうだろうか。
それぐらいたまにはいいだろう? いつもきちんと目を覚ますお前が起きなかったんだから。
実は俺もほんの少し遅刻することにしておいた。その間に、お前のブランチを作って、キッチンに置いておいたよ。
目覚ましで目覚めたなら、もうすこしゆっくりして出てくればいい。
もうすぐ航行に出るんだ。これぐらいいいじゃないか。
ゆっくりアロマの風呂に浸かって、優雅に重役出勤でもしておいで。

 

 隼人からの提案に、葉月は呆気にとられた。
 でも――。やがて肩の力が抜け、葉月は静かに微笑んでいた。

「そうね。それもいいかも……」

 平日の朝寝坊だなんて、あり得なかった。
 昨夜、一緒に白い海を泳いでくれた葉月の相棒イルカさんは、こんな人。こんな男性、こんな旦那様。
 すっかり日が昇りきった真っ白な午前の光に包まれている葉月は、その光に夫を感じていた。彼に抱かれているような光。

 彼の言葉通りに、葉月はお気に入りの花の入浴剤の風呂にゆっくり浸かって、昨夜の愛痕を洗い流した。
 バスルームも真っ白な光の中。本当に優雅な気分。本当にたまには良いわよね? 気分もかなり良くなって、葉月はバスローブを羽織ったまま一階のキッチンに降りる。

 テーブルには夫がこしらえてくれたワンディッシュのブランチ。
 ハムやトマトのサンドに、オムレツ。そしてちょっとしたマリネに、小さなデザートのフルーツタルト。
 そこにもメモ用紙があり、『オムレツと、フルーツタルトは海人がこしらえた』とあった。それはパパの筆跡だったが、『お母さんがすこしつかれて、お昼からでかけるってお父さんから聞いたから。タルトには生クリームをいっぱい絞っておいたよ』と息子のいじらしい筆跡のメモもあった。
 葉月はそれにも幸せをいっぱいに感じて、今度は泣きそうになってしまった。
 夫の、昨夜の……どこまでも愛してくれる激しさも。こうして気遣って休ませてくれる優しさも。そして、夫と息子が肩を並べて、すっかり寝入っている妻と母を思って労って作ってくれた食事に。

「パパ、カイ君。頂きます」

 色々なことに感謝をしながら、葉月は合掌しつつ、大事にそれを頬張った。

「美味しい〜」

 身体は、昨夜の無茶でところどころ痛かったり気怠かったりするけれど、それでも心の中は真っ新に生き返った心地だった。

「本当に幸せ。これならもう甲板なんて忘れたいだなんて言ってはだめね」

 そう今日も訓練には出られなかったけれど、また明日からはみっちりと――。
 そう思い描いた時、急に葉月の頭の中は、真っ白になった! 葉月の手から、持っていたフォークがからんと白い皿の上に落ちたぐらいに茫然とさせられていた。

 訓練!!!!!
 ――といえば、今は『鈴木大尉』!!

「――やられたわ!!」

 誰もいないキッチンで、今度の葉月はフォークを握ったかと思うとテーブルに投げつけていた。

「あと三日の約束! これで一日延びたってことじゃないの!!」

 きゃーーと、葉月は栗毛をかきむしって、喚き散らしていた。
 総監である自分がなにが理由であれ、彼との対決である訓練を一日欠場したのだ。
 あと三日、いや二日。彼の最後のテスト飛行とばかりに自分から突きつけておいて、監督不在でも言い渡した三日はカウントされるだなんて対等に勝負を切り出したのに、それはあまりにもアンフェアというもの!
 つまり欠場した以上、今日の一日はカウントされない。鈴木青年にとっては明日から後二日の期限。今日は棚から落ちてきた貴重な一日になったわけだ。
 しかも……。妻を寝坊させてくれた優しい旦那様。その夫が彼の訓練教官! それが目的だったのかー! 葉月は暫し一人で悶えた。

 あの夫! どこまでが本当の愛で、どこまでが『ライバルのミセス准将』の裏をかく為の行動なの!?
 でも昨夜は葉月から『とことん愛して!』と飛びついて隼人を引きずり込んだわけだし、昨夜の彼にそんなしたたかな計算はなかったと葉月は信じている。いや信じられた。
 それなら朝? 葉月が起きなかった。その時、この『朝寝坊もただの女で』という気遣いが先に浮かんだのか、それとも、それより先に『これはいい。こいつが寝ている間に、鈴木のホワイト基礎訓練が出来る』と思ったのか!

 それでもどう考えても、これは『御園大佐の勝ち』だった――。
 葉月はがっくり項垂れ、そのまま力無く椅子に座り込んだ。
 暫し、ぼうっとして……。葉月はフォークを拾って、黙々と食事を再開する。

「いいわ、もう。美味しいから。嬉しかったから」

 この家ではそう思うことにした。
 ただ、この家を一歩出たら、あの上手な旦那様大佐を追撃せねばと心が燃えていた。

 

 

 本日は晴天。やや寝不足。それでもどこか心身はすっきり爽快。
 なのに隼人の目前には、とっても不思議そうなパイロット青年。直属の教官である隼人になにかを求めるかのように、何度も顔を見る。

「どうしたんだ。鈴木」

 彼は甲板を見渡すと、また隼人の顔を不思議そうに見ている。

「あの、今日はミセス准将が不在って……」

 彼は今、自分を追い込んでいる最強の女上官の存在をとても気にしている。
 彼女の厳しい目に追撃されるかのような三日間を過ごさねばならないからだ。しかも今日は二日目。あと一日。
 なのに。その三日間を言い渡した本人であるミセス准将が『今日は内勤が忙しくて訓練は欠場』となったからだ。
 彼にとっては一日、寿命が延びたことになる。

「チャンスだろ。一日延びたんだ。さあ、鬼の居ぬ間に訓練と行こうか」

 隼人は訝しそうな青年の背を白い戦闘機へと押した。
 だが、鈴木青年はまるで彼女を待っているかのようにして、まだ甲板を見渡している。

「いつも甲板にいる人のような気がしていたから」

 この青年にとって、俺の奥さんはもう、それほどの存在になっているのかと思わされる。
 それが嬉しいような、嬉しくないような複雑な気持ちもある。だが、御園大佐である隼人はふと笑う。

「甲板では天下のミセス様だもんな。でも彼女にも隙有りってところだな」

 そうそう。自宅での『葉月ちゃん』は、割と可愛げがあって隙だらけなんだよなー。
 心で呟いて、さらに隼人はにんまりと一人でほくそ笑んでいた。
 それにも鈴木青年はとても不思議そうだった。

 

 

 

Update/2009.1.6
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