-- エースになりたい --

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17.コード・ミセス

 

 そこはまったく、甲板上と同じ光景だった。

『はーい、甲板、映るからねー。すぐに発進が始まるから右手のランプを見てくれよ』

 ゴーグルのヘッドホンから若副社長の声が聞こえた。
 その途端に、四方を空の映像で取り囲まれ『浮いている』と驚愕していた英太の目の前に、甲板の景色が広がった。
 しかもさっとカタパルトが現れ、英太の目の端にはいつもの青赤の発進ランプが見える。それが既に点滅を始めていた。

『操縦桿を握って……』

 そこから急に、若副社長の兄貴である御園大佐の声に変わった。
 英太は言われたとおりに、疑似コックピットの操縦桿を握った。
 二つ目の赤ランプの点灯、点滅――。英太はいつもの呼吸を整え、タイミングを計ろうとする。
 ――青ランプ、点灯!

 それと同時に、操縦桿がぐんと重くなった。
 そしてガタンと言う振動。

『この疑似コックピットは回転をして遠心力は身体に実感できるが、機材自体が前進することは出来ないから代わりに操縦桿にある程度のG(重力)がかかる。いつも通りにしっかり握らないと、カタパルトから転落するぞ』
「イエッサー」

 大佐のアドバイスに納得して、英太は慌てて操縦桿を握り返す。
 これはちょっとコックピットとは違う感触。
 だが身体に伝わってきた振動は、よくある擬似的なもの故の粗雑さはなく、激しくてもソフト、そして細やかでリアルなもので驚いた。
 いつもカタパルトを走っている時のようなスピード感も、そして振動も、まったくと言って良いほどそのものだった。

 そんなことをしているうちに、いつものタイミングを英太は察知し、その重い操縦桿を上昇操作する。
 すると目の前の映像が見事に――。カタパルトが英太の目の前から下へと消えていく。そして今英太が座っているシートも、斜め上にきちんと傾いている。機体音も気流音もちゃんとヘッドホンから聞こえた。

「まじ。リアル」

 まったく同じとは言い難いが、それでもここが空の上でなくても、本物のコックピットではなくても、充分『現場』にいることを感じさせてくれた。
 そのままいつも通りに旋回の舵を切る。やはりシートの傾き具合も、ついてくる映像も感覚を体感できる。
 今度はきちんと機体に乗っているという囲いある映像。足下はきちんと床があるし、頭上はクリアなキャノピーの映像まで。そして英太は旋回をしながら見えた景色を眺めていて、気がついた。

「これ、横須賀ですか?」

 海岸線や建物、そして山の位置が、つい最近まで英太が毎日空から見てきた景色そのものだったのだ。

『そうだ。鈴木はまだ小笠原の空を知らないだろう。今日の所は、慣れ親しんでいる横須賀上空で訓練をしてみよう』

 その細やかさにも英太は絶句した。

『うまく飛べたな。では暫く遊んでみようか』

 あそぶ? と、英太は首を傾げた。

『今からいつも訓練で行っている演習を始める。まずは1:2ぐらいが良いだろう。敵方はこちらで選択する。では始めるぞ』

 いきなり?と思ったが、英太としてもまだこの感触に慣れていない。
 『遊ぶ』と言うなら、それぐらいで飛び回った方がこの『チェンジ』に慣れるだろう。今日の所はともかくそれで『慣らし』というところらしい。

『では、空母艦をめがけて防衛側を切り崩す。得意だろ。指示をする上官はいない。好きなように飛べ』
「ラジャー、大佐」

 大佐らしいその言葉に、英太はにやりと微笑み操縦桿を握る。

 コックピットはいつもと同じだ。操縦桿を握って英太は息を潜める。
 やがてデーターに点がぽつんぽつんと二点現れた。だがこの時、半透明のゴーグルの端に飛行機の小さな映像が映し出された。
 ホーネットの映像が二機。しかもその上に小さく英語で何かが描かれている。『ヒライ』と『ウォーカー』と読めたが――。

『気がついたか。今日の対戦相手だ』
「名前が……。これも疑似なんですか」

 するとふと大佐が不敵に笑ったような息づかいが聞こえてきた。

『ヒライは、これからお前が所属する『雷神2』のキャプテンだ』
「キャプテン――!?」
『彼は元ビーストームのパイロットでミセス准将と共に飛んでいた同僚、大ベテランだ。さらにウォーカーはダッシュパンサーの初代キャプテン。十年前、小笠原ではエースと呼ばれた敏腕パイロットだ』

 英太はそれにも驚いた。

「待ってください。それってただ名を付けているだけなんですか」

 英太にまたものすごい予感が――。
 そしてそれは当たったようだ。

『いいや。この『チェンジ』に乗ってもらった時に取った彼の飛行データーから、『チェンジ』がパターンを把握してデーターを元に勝手に飛んでくれる』
「ま、まさか――」
『そうだ。チェンジのすごいところは、ホワイトのシステムを搭載しているだけじゃない。パイロットの飛行データーをバンク出来るところだ』

 さらに御園大佐が勝ち誇ったように言った。

『引退したパイロットの協力で、チェンジに乗ってもらったデーターだ。ここでなら、引退したパイロットと対戦が出来る。どうだ? 興奮するだろ』

 対戦相手は『雷神2』の現役キャプテンと――。引退した初代小笠原エースパイロット!?

『ほら、ぼうっとするな! ヒライに煽られてお前、目の前にダッシュパンサーが……』

 驚いている間に、英太は板挟みにされていた。
 どんなふうに今自分が飛んでいて、そして自分がアタックされているかも分からなかった。
 一生懸命に操縦桿を握って気を取り直したのだが、急に頭がぐわんと揺れた。さらに鼻がつんとする。そして何かがつるりと落ちてくる感触……。
 まさかと思って、ゴーグルの真下にある鼻を触って見てみると、指先が真っ赤になった。

「うわっわーっ」

『ど、どうした鈴木!』

 それと同時にコックピット内が真っ赤に炎上し、激しく揺れた。
 どうも撃墜されたらしい。それも判って、英太は『くっそー』と操縦桿を横殴りしてしまった。

 コックピットは元通りに明るい空の映像に戻ってしまった。

『なにがあったんだ鈴木』

 心配する御園大佐に英太はちょっと気まずく答える。

「鼻血、出ました」
『はあ?』
「――興奮、しました」

 ヘッドホンから、大佐の『はあ』というあからさまなため息が聞こえてきた。

『お前、ハンカチとかティッシュとか持っていないだろう』
「失礼な。ハンカチは持っていますよ。いつ洗ったかわからないけど」
『汚いなーっ。ちゃんと毎日替えて洗え。と、とにかくそれで拭け』

 言われたとおりにポケットからくしゃくしゃのタオルハンカチを取り出す。
 いつか覚えていないが華子が『せめてこれだけでも持っておけ』とくれたものだった。本当に汚れたと思うまでそのまま。それで鼻を吹いた。

『こらー。ゴーグルを血で汚すなよ!』

 副社長の不機嫌そうな声も聞こえてきて、英太は『気をつけます』と言いながら、鼻血が止まったか確かめた。

『大丈夫そうか』
「えっと。止まりました」
『また出たら、出しっぱなしで操縦しないで教えること。いいな』
「オーライッ!」

 気を取り直してもう一度、カタパルト発進から。
 だが今度の英太はぞくぞくしていた。空に出て横須賀の港や海を見下ろしながら、英太は御園大佐に言う。

「大佐。さっきの対戦相手、替えないでくださいよ」
『さっそく、挑発的だな。今度は鼻血だすなよ』

 海上に出て、先程のように『ヒライキャプテン』と『元エース・ウォーカー』がレーダーに現れる。

「よっしゃ。遠慮なく行くぜー」

 英太は操縦桿を握る。
 もう胸がわくわくして、また鼻血が出そうだった。上官の指示もなく、こんな自由に戦えるだなんて最高だ!
 シートの回転は大胆で、伝わってくる振動は強弱繊細。
 空の映像も抜群で、操縦桿の重さも徐々に慣れてきた。

 その時、英太ははっとさせられた。それに気がついた時、英太の胸は訳もなくドキドキとときめいて、頬が火照るほどの高揚感とわけのわからない喜びを見つけた気持ちになった。

(まさか。葉月さんの飛行データーも?)

 引退したパイロットの協力でこのチェンジに乗ってもらったのなら、彼女だってきっと空部隊のトップである元パイロットなのだから、試しにでも一度は乗っているはずだ!

 英太の中の訳の分からない喜びはそれだった。
 それでは。このベテランパイロットのデーターをやっつけたら、いずれは……彼女のデーターと対戦が出来る? 横須賀の男達を震え上がらせたというパイロットの飛行はどんなものだったのか。

 ――知りたい!

 この前の、非常階段での彼女を英太は思い出していた。俺たちよりはずっと華奢なあの体つきで、どうやって男達を恐れさせる飛行をしたのか。知りたい!

 引退したパイロットの話は、昔話としてしか聞けない。
 だがこの『チェンジ』はそれを叶えてくれるのかと英太は飛び上がりたくなった。

『鈴木、なにをしている。始まっているぞ』

 はっとし英太は意識をコックピットに戻した。 

 迫ってくる二機をレーダーと目視を使って、位置確認する。
 『ヒライ』は後方に、『ウォーカー』は英太の三時の方向、右真横だ。
 三機で押したり引いたりの牽制、英太もいつもの感覚で操縦桿を絶え間なく動かす。

「抜群の感触だ」

 だんだんと集中できる環境だと、身体も馴染んでくるのが判った。
 それに対戦機の特徴も見えていた。
 『ヒライ』は決して積極的ではないが、だがその位置で全てのフォローを展開している。とても機敏で細やかな操縦。英太が引こうとするところに必ずいる。これを何度もやられたら苛立ち疲れてくる。精神的なアタックをかけられる、モチベーションと集中力にはあまりよくない影響を及ぼすような、そんなやっかいな飛行。
 これが今の『雷神2』のキャプテンの飛行? 英太は『地味だな』と眉をひそめた。
 一方、英太の真横や前方でプレッシャーをかけている『エース・ウォーカー様』は流石エースと呼ばれただけあって、英太が惚れ惚れする飛行を展開する。もうせっかちな英太としては『そこどけー!』と蹴散らしてやりたい程の大胆でそれでいて的確な切れのよい飛行だ。

 徐々に英太の機体に向かって、二機が狭まってくる。
 かなりのレベルだ。操縦桿を握る英太の手に汗が滲んできた。

『やはり。ベテラン、レベルが高すぎたか』

 そんな御園大佐の声が聞こえてきて、英太はかあっと頭に血を上らせた。

「まだまだっすよ」

 ――だが、そんな地味な攻防戦の末、英太はなんと『地味』と思っていた『ヒライキャプテン』のデーター機に撃墜されていた。
 すごい、ショック……。やはり御園大佐の言うとおりなのか。

『まだ行くぞ。今度は誰でもなく、『チェンジ』が作ったデーター機で行く』

 そこから無名の機体が今度は三機になった。英太にはかなりのショックだ。機械のデーターと戦わされるだなんて。彼女が遠のいていく感覚――。
 今度は幾分か、『突撃』できる穴を見つけることができ、英太はやっと空母艦をロックオン撃破出来た。

『とりあえず、着艦だ。今から鈴木のデーターを確認するから、着艦したらそのまま待機していてくれ』

 空を旋回し、自分の帰る艦を見つけて英太はそこへ降下、着艦体制に入る。
 着艦をすると、シミュレーション機が静かになった。でも英太は呼吸を整え、汗を拭う。
 その間、英太はとてつもない屈辱感にとりまかれていた。

 ベテラン二機にあっという間にやられて、大佐は急にデーターで作り上げたという名もない三機を英太に向けた。
 それってつまり――。英太には判っていた。『レベルを落とされたんだ』と。ベテランの二機と二度目の三機は明らかに動きが違った。三機の方がやりやすかった。イコール、英太には簡単に撃退できるレベルの三機をあてがわれたと言うこと!

「くっそ――! これがデーターで残るのかよ」

 それも屈辱だった。
 どこにこの悔しさをぶつけて良いのか。英太は操縦桿を握って唇を噛みしめていた。

『もう一度行く』
「イエッサー」

 ということは、これから英太が成功する度にレベルアップしてそれがデーターとして残ると言うことか? それならばと英太の目は目の前に映し出された空へと真っ直ぐに向かった。
 三度目のカタパルト発進。今度の英太は、操縦桿へと気力を集中させた。
 これはゲームのような遊びだが、遊びじゃない。やっとそれを感じ取った。

 何度も無名のデーター機を当てられる。
 英太はそれに対して、丁寧にかつ真剣に向かう。
 この機械の感触も慣れてきた。

 この日は午前いっぱい、何回かの演習をして慣らしで終わった。
 コックピットが真っ暗になり、周りの景色は元のシミュレーション機の箱に戻っている。
 ゴーグルを外し、シートベルトを外していると、この部屋のドアが開いて光が差し込んできた。

「お疲れ、鈴木。初めてにしては上等だ」

 御園大佐の労いの笑顔がそこにあった。
 だが英太はちっとも嬉しくなかった。今ここにヘルメットがあるならば、それを甲板に叩き付けてやりたいほどだ。
 そんな英太の不穏な様子に気がついたのか、御園大佐がふと致し方ないように微笑んだ。

「その様子だと、今日の実習の説明はいらないな。まだこれは本データーとして流れる訳じゃない。まだ慣れていないじゃないか」
「それでも悔しいっす。特に、レベルを落とされたのが」
「お前なあ。二十年選手のベテランパイロットに勝とうと思ったのか? 彼等にデーターでも勝てたら、お前は即キャプテンだぞ。まさか、それになれるとでも?」

 御園大佐は可笑しそうだったが、英太はますますむくれた。

「それでも……。勝てないと判っていても、悔しいっすよ。それに落とされたレベルがむっちゃ簡単だったのもむかついた」

 今度の御園大佐はちょっと驚いた顔。

「男だなあ。いいねえ」

 何故か満足そうに顎を撫で、英太を見下ろしていた。

「まあ、あのレベルに落としたのは悪かったな。俺はまだお前の演習を見たことがないんでね。判らなかったんだ。勘弁してくれよ」

 ちょっと申し訳なさそうに笑っている大佐を見て、英太も『わかりました』ととりあえず機嫌を改める。

「今日の実習はこれで終わりだ。ランチタイムが終わったら午後はまた講義室だいいな」
「えー。また室内に戻るんですかー」
「おさらいと、明日の実習でいよいよホワイトのシステムと平行して飛行するから予習だ。判っていないとまた撃墜されたデーターが残るぞ」

 そう脅され、英太はしゃんとしてシートから立ち上がる。
 御園大佐も、満足そうに微笑んでいた。

 だが英太は今日の『衝撃の事実』をここで見逃すことは出来なかった。

「大佐」

 彼の正面に向かうと、英太が殊の外息詰まった顔をしていたのか大佐も神妙な顔に。

「どうした。まだこの実習に不満があるのか」
「教えてください。データーには『コリンズ大佐』もあるのですか」

 その問いに、大佐がハッとした顔をした。
 だが彼は静かに応える。

「あるが。それがなにか?」

 英太はそれに驚いて確信した。だからここで思い切ってぶつけてみる。

「それならば、『御園准将』のデーターも!」

 これだけベテランが揃っているなら、彼女も絶対にある! そんな英太の確信。
 だが御園大佐は英太の望みが何であるか悟ると、いつもの穏やかな表情から一転、急に冷めた顔つきで英太を冷たく見たのだ。そんな大佐の豹変に、英太は少しばかりぞっとさせられる。
 それは出来る男が本来持っているシビアな姿勢で本気で向かっていると判ったからだ。そして大佐が言った。

「ない」

 英太は嘘だと思った。

「何故、隠すんですか」
「隠してもいない。准将とミラー大佐のデーターは保存しないことにしている」

 その言葉に英太はまたあることに気がついた。

「保存はしないけれど、ミセスとミラー大佐はこの『チェンジ』に乗っているってことですよね」
「二人の『遊び』、だ。訓練のデーターにはならない」
「嘘だ。あるんだ。乗っているからには絶対にあるんだ」

 食い下がる英太に、今にも怒りそうな顔になった御園大佐が静かに言った。

「ないものはない。午前はこれで終わりだ。午後の講義、遅れるな」

 それだけ言うと、大佐はいつもの和やかさもどこへやら。冷たく英太に背を向け、統括室へと戻っていってしまった。
 英太はそこに一人取り残される。

 絶対にあるはずだ。
 彼女のデーターがないってことはないはずだ!

 英太はそう信じていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 もうすぐランチタイム。今日は何を食べようかとミセス准将はデスクで考える。
 そろそろ秘書室から側近のテッドがお迎えに来る頃か……。

「またそれを眺めているのですか」

 葉月の手元にはまたもや『鈴木大尉の調査書』。

 それを知って、テッドは呆れた顔。
 それだけ葉月が何度も読み返しているということだ。しかも葉月は『今日こそ』と思って、わざと彼の目につくように広げているのだ。
 気のせいか、テッドが『勘弁してくれ』と言いたそうに眉間に皺を寄せているので、葉月は益々不信を抱く。

「いったい。私の調査になんのご不満が」
「いつもの貴方に不満はないわよ。これ、今回のこれだけ、どこか腑に落ちないの」

 葉月は調査書を指先でつまんでぶらぶらと振ってみた。
 懸命にやったことが凝縮されている物をぞんざいに扱う仕草に、テッドはさらに顔をしかめる。だけれど彼も、葉月のその仕草がなにを訴えているか分かってるのか。お説教のようなお叱りが飛んでこなかった。それも既に怪しく思う葉月。

 だけれど、テッドは葉月の側にあるセカンドデスクに座ると、黙ってディスクをノートパソコンのドライブに差し込み、書類を広げて黙ってしまった。
 葉月も諦めて、その調査書をぞんざいに扱ったことを詫びるように、丁寧に自分の手前に置き直した。

「これ、誰に依頼したの?」

 テッドが調べる訳ではない。彼の目に適った『調査のプロ』に依頼する。軍内軍外様々で、テッドはそのツテのネットワークを二十代の頃から確立させてきた。それも彼が『秘書官』を目指していたからなのだろう。そして今になってそれは他では敵わない情報網を持っている秘書官に成長していた。
 さて今回はどんな人に調査を依頼したのか。

 まだテッドは黙っている。

「そう。そうよねー、いえるわけないわよね。企業秘密ってところ? まあ、でも義兄様に頼んでみれば、もしくは……」

 テッドのプライドを傷つけたくないし、ここはどうあっても義兄に頼むなんて事は絶対にしないが、どうしても心が晴れない為にそんな『煽り』を使ってしまう葉月。
 そんな葉月をテッドがじっと見ている。怒っている?

「テルさんですよ」

 ため息混じりの声。怒ってはいないが、とても嫌そうな顔をされてしまった。
 しかしその返答に葉月は驚く。

「相田君に頼んだの。だったら、これはやっぱりおかしいわ!」
「いいえ。完璧でしたよ」
「嘘よ。じゃあ、この『事故』だけなのは何故? 相田くんならここもちゃんと調べているはずよ」

 また面倒くさそうに目を細め葉月を見るテッドが深いため息を……。

 『テル』は愛称。本名は『相田照美』。
 葉月が結婚した頃にある縁で出会った青年だった。当時から既に探偵まがいの仕事をしていたが、彼独自の調査した結果などで義兄も隼人も感銘していた男性だった。
 葉月も知っている。なにせ彼はその頃から隼人と連絡を取って、いつのまにか御園と個人契約をしている探偵になっていたからだ。葉月もたまに会うが、どちらかというと隼人を介しての方が多い。
 彼も結婚をして今は一男一女の父親。その世界では名も通ってきたプロの探偵に成長していた。彼は時々隼人と会っている。

 そんな彼が……。『事故』の二文字で済ませる?
 今度は葉月がテッドを見た。

「なにか抜いたわね」
「いいえ。そのままですよ」

 しらを切っている。すぐにわかった。
 だが、テッドとてそれは覚悟の上なのだろう。
 ということは……。隠していることが葉月にばれたとしても、それでも『抜いていない』と言い通すだけの意味があると彼が訴えているような気にもなってきた。

「どうして。私に知られると困るの?」
「では。『もし』――ですよ。もし、私が何かを隠している。それは何故か。貴女にはそれのほうが有利だと思えば、私はそんな報告でも厭わないですよ」

 葉月は『なるほど』と唸った。
 もし、それと知って、葉月が彼を扱えなくなる……。それは確かに困る。
 だけれど、彼の身の上になにかが起きている以上は、必ずどこかでそれは噴出するはず……。それを案じている。
 鈴木青年だけじゃない。他のパイロットにも生きてきた道はある。だがたいていは、空を飛ぶには関係のない個人の身の上が普通。彼等の飛行に彼等の身の上がネックになることはなかった。
 だが、鈴木青年は葉月の中では『この子は何かある』と思える飛び方だった気がしたのだ。そう……かつての自分のように、空のすべてに身体を叩き付けているようなあの荒っぽさ。それが気になって、調査をしてもらったのに……。

 それでも側近が『貴女のためです』と判断したならば、そうなのかもしれない。
 それは葉月に対する有り難い気遣いだ。

 今度は葉月がため息をついて、その調査書を閉じた。

「わかったわ。今は貴方の判断に従うわ」
「従うだなんて……」
「でも。やはりこれから彼と接して、どうしても知りたいと思ったら、また追究するわ」
「よろしいでしょう。その時が『もし』来たならば、今度こそ、きっちりとお調べいたしますよ」

 そこまでしらを切るか流石だと、葉月は呆気にとられてしまった。
 ということは、やはり『一部、報告不要』で抜き取られていると葉月は確信した。
 でも――と、葉月はやはり自分と重ねて思うところが。そうして思い耽っていると、流石のテッドが察するような一言を。

「過去があってもパイロットはパイロット。貴女もあの頃は、ご自分の身の上に起きたことについて、周りの親しい同僚達がどう思うどう伝えるかと、とっても悩まれたと思うのですよ」
「そうね……」

 テッドが言わんとすること、葉月も分かってきた。

「調べられて貴方の過去を知っているだなて顔。あんまりされたくないわよね。そうね、一番良いのは、この子自身が私に伝えてくれることなんだわ。重くて辛い過去ならなおさら……」

 だから、知らなくても良い。
 特に傷ついている者ならなおさら。葉月にはよく分かる。傷ついた時、一番願っているのは、そっとしておいて欲しいこと。そして手を差し伸べたときに、その手を掴んで欲しいこと。でもその手をなかなか伸ばせないこと。さらに伝えたときには、それを黙って聞いて欲しいこと。自分がそうだったから。だから、今はまだ……。

 閉じた調査書を脇に戻すと、テッドがホッとしたように微笑んでいた。

「では、ランチに行きましょうか。准将」
「そうね、テッド。行きましょう」

 これで調査書についての側近とのわだかまりはなくなった。
 その時がきたら、またその時だ。
 二人で出かける準備をして『今日はなにを食べるか』と明るく話している時だった。准将室のドアをノックする音。テッドがそれに反応して、彼が確かめに出てくれる。

「お疲れ様です。今、准将はいっらしゃいますか」

 そこに立っていたのは、夫の御園工学大佐。

 夫が妻の准将室をわざわざ訪ねてくるのも珍しいことだった。

 

 

 

Update/2008.8.3
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