-- エースになりたい --

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14.愛とは如何に

 

 俺、絶対にもてあそばれている――!
 工学科科長、御園隼人大佐。彼が直々で、英太の研修をマンツーマンで受け持つことに。その驚きの中、初日の講義がスタートしていた。

 ある程度、新機種ホワイトについての『誕生するまでの経緯』などが御園大佐から語られる。
 乗る機体の『誕生エピソード』も乗る者として知っておくことは必要だ。特に何処の企業がどのようにどこまで、どんな考え方で携わっているか――。パイロットが機体を操縦し乗りこなすには関係ないだろうか、まだ新機種として安定していないホワイトを乗り続けて行くには、パイロットも『製造事情』は把握しておいて欲しい……。御園大佐のそんな話に英太は耳を傾け、メモを取った。
 だが最後。彼が『今日の宿題』なんて、まるで小学校の教師のような顔で英太に告げた。

「本日の宿題。『愛とは如何に』! 作文にして提出だ」

 突拍子もないお告げと、とんでもない内容に、英太はつい声を上げてしまった。

「なんすか、それ! 空部の研修にはまったく関係ないじゃないっすか!」

 だが、御園大佐はまじめくさった顔で教壇をばんと手のひらで叩いた。
 教壇から、正面に座っている英太を見下ろす目が既に……英太が畏怖し始めている大佐の眼。
 その『おちょくっているような宿題』。でも、もしかして、もしかして、彼なりの『目的』があるのかもしれない? この前の謹慎処分五日間を平気で食らったときのような、なにか、誰にも分からない、でも誰かを密かに手元で操っているかもしれない、そんな彼なりの作戦が。
 だから、英太は彼の意図を黙って聞こうと構えたのだが。

「愛なくして空を飛ぶな。パイロットには大事な課題だ」

 なんだ、そりゃ。
 それにまじめくさった顔は単なる『はったり』だったようで、御園大佐はまたなにか悪戯を企んでいるような『にんまり顔』で英太を見下ろしている。
 その顔の楽しそうなこと、楽しそうなこと。

「おちょくり宿題は、拒否させて頂きます」
「研修中のお前に拒否権はないよ。提出しないと、もう少しで始まる『シミュレーション訓練』に移行しないで、今度は基礎知識のテスト開始。遅れるとお前だけ、来月からの航行には参加できないよ」
「ひっでー! 横暴大佐!」
「おい。『仮にも』、俺は大佐だぞ。口を慎め、ここではともかく、外では絶対に慎め! 俺をちゃんと大佐としてたててくれないと困るぞ!」

 仮ってなんだよ。しかも俺を大佐としてたててね、なんて……下っ端のパイロットに真顔で頼むなよと、英太は御園大佐の変な自己評価にがっくりさせられる。
 堂々とした大佐じゃん。なんでそんな自分で『仮』なんて言うんだよ――。そして英太は心の中で密かにつぶやく。

『俺、大佐のこと、すっげー男と思い始めているんだぜ?』

 近頃の心境だった。
 彼はあの日から変わらない。
 そして再度、こうして教壇に立った彼を見て感じて、英太は改めて実感した。
 もしかして。この人なら、今度こそ――。

 横須賀で感じていた疎外感を、変えてくれるのかもしれない。
 そんな気にさせられていたのだ。
 なんと言っても、彼が大佐でありながらその気さくな……そうまるで『兄貴』みたいに感じてしまってどうしようもないのだ。大佐だと分かっているのに、気が付けば、ちょっと年が上の先輩かなという感覚にさせられている。

(そうだな。このへんてこな宿題ももしかすると……)

 彼なりの、若い青年と上手く繋がろうとする中年男性がひねり出したコミュニケーションなのかもしれないと思わされた。

「分かりました。明日、提出……」
「今日の夕方な。今から考えれば、書けるだろう。書いて、工学科科長室まで提出だ」

 うわー。まためっちゃくちゃ言うわなー。このおじさんは……。
 英太はもう呆れて反抗する気もなくなったので、『はい。教官』と手を挙げておいた。
 すると御園大佐は、どうしたことか、なんだか嬉しそうな顔をする。その顔、英太にはちょっと意外で心に入り込んでしまった。

「まだ少し、時間があるな。じゃあ、ホワイトの概要は説明済みだと思うから、少しだけシステムについて説明しようか」

 英太は彼が作ったレジュメに向かう。
 持ってきたノートに向かってメモを取る。

 先ほどまで若い英太をからかって楽しんでいたふうの、ちょっとちゃらけた大佐はいったいどこへ?
 チョーク片手に黒板にいろいろなポイントを記し、すらすらと説明する眼鏡の横顔は、まさに『教官』だった。
 これまた『手慣れているなあ』と、どうしてか英太はいちいち惚れ惚れしてしまうのだ。

 なんだか、すっかりこのおじさんに『先導権』を握られている気分になってしまった。
 こんな上官、初めてだ。これは横須賀から出てきて、ちょっと良かったなあと思っている点。

 この人なら、ついていっても良いかも。
 この人なら、信じられるかも。

 でも英太はまだそう感じただけで、許していないし、認めてもいない。
 何故なら――。前、そう思っていた上官に裏切られたという思いがまだ根深く残っているからだ。
 もちろん、橘部隊長の職務としての判断には恨みなど持っていない。
 ただ、時には。上官は、そんな冷酷な判断を強いられると言うことだ。それがまた英太という『一隊員』に降りかかってくるかもしれない。
 大佐ならなおさらだ。英太を切るときは、この人ならばっさりと切るかもしれない。
 だから情は挟みたくない。前みたいに。青臭い情などいらないはず……。

 でも英太がそう頑なに閉ざそうとしている心に、何故かこの御園大佐は上手くその隙を縫って入ってくる。
 まるで、英太の心をよく知っているかのように。何故なのだろう?

 彼の説明はテンポ良くわかりやすい。でも、気を抜いたら置いて行かれる緊張感を与えるスピードと、真剣な目線に英太はさらわれていく。
 後で知ったが、若い頃、マルセイユの航空部隊で教官をしていたと聞いて納得したほど。彼は教官としてもベテランのようだった。

「では本日はここまで。夕方までに宿題提出な」
「わかりましたー」

 愛についてだなんて。ほんとふざけている。
 適当に書いて出せばいいやと、英太は思っていたのだが。

「おい。今、適当に書いてとにかく出せばいいやと思っただろう」
「ま、まさかー!」

 心の声を聞かれていたようで、英太はどっきりとさせられた。本当に油断ならない大佐だった。

「まあ。本当にお前の中にある形を一行でも良いから書いてくれないか」

 そこだけ何故か、彼が真剣な顔。

「とにかく『愛』と聞いて、連想した言葉だけでも並べてみな」

 また大佐の顔で。
 彼のその顔が、ちょっと怖い。
 だから英太はまたただ黙って頷いてしまった。

 それに。科長室、ちょっと覗いてみたい。
 この人の言いつけで行けるのだから、気兼ねなく訪ねることが出来る。

 奥さんは高官棟の『准将室』で将軍様生活をしているのに、夫のこの人はどんな事務室でどのような顔で、どのような部下を持ってそこにいるのか、英太はとても興味があった。

 御園大佐が出て行った後、英太はもらった原稿用紙を目の前にして、宿題のテーマについて考えてみる。
 だけれど、どう考えても……。まともに書けそうにもない漠然としすぎているテーマだ。しかもやっぱり若い青年をおちょくっているとしか思えない。

 それでも英太は意を決し、ペンを握って升目に向かった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 復帰、第一日目。さらに研修一日目。
 講義室を出て、隼人は一息つきながら、首元のネクタイを緩めた。

 滑り出しは上々。あの暴れん坊を如何にコントロールするかを、相原に任されてからいろいろと考えてきたが、ほぼ隼人が考えていたとおりになっているようだ。

 あの暴れん坊に、上官面は皆無だ。
 もちろん、軍人としての上下間を弁える礼儀は身に付いているが、要はもっと深層に触れる『信頼感』。これが難しいのではないかと隼人は引き抜き後、懸念していた。
 特に、長沼や相原から聞かされていた橘部隊長との確執。これを彼は心の中では橘という男自身を許してはいるが、『組織として起こりうる性質』に対してはまだ絶望したままだと隼人は思っていた。

 それなら。彼と一緒に『組織』という枠をはみ出してみたらいい。
 彼単独なら問題になるだろうが、今、隼人が持っている権威をここで使えば、あのとんでもない飛行力を秘めている青年の力を引き出せるのではないか――。そう思っての『悪戯』だった。
 また上官との『連帯感』を感じて欲しかったから、隼人は暴れん坊に合わせた悪戯を試みた。
 また……。これから彼をコントロールして行かねばならない『妻』の、それなりの姿も知っておいて欲しかった。隼人に連帯感を持って欲しかったように、妻にも。
 彼、鈴木英太はきっと――。妻のことをとても印象深く心に宿しているだろうが、それでも葉月には近寄りがたく、やっぱりあの人も他の上官と一緒で隊員のことは『駒』としか思っていないと不信感を抱くのではないかと思っていたのだ。
 だが葉月としては、あの態度と接し方は当たり前なのだ。そして隼人も、准将たる物はそうであって欲しいと思っている。それに妻も、そうすることでしか接することが出来ない身分を、大佐だったときより不自由に思っているに違いないと隼人は感じていた。
 だから、そこをフォローして……。

「御園大佐」

 科長室に戻る道筋。他の講義室が並んでいる中、一つの部屋のドアが開いた。
 そこで待ち伏せしていた女性を見て、隼人は驚く。

「葉月。お前……」

 隼人はあたりを見渡して、誰もいないことを確認。
 すぐさま、妻が現れたドアへと飛び込んで、扉を閉めた。

「なんだよ。一人で来たのか」
「そうよ。テッドを連れてきたら目立つでしょ!」

 どうやら抜け出してきたようだった。
 隼人はちょっと呆れて、でも相変わらずそんなところは、自由気ままに動く奥さんに笑ってしまっていたのだが。よく見ると、葉月はとても不機嫌な顔をしていた。

「なんだよ。なにか怒っているのか」
「ずうっと怒っているわよ」

 ああ、あのことね。と、隼人は奥さんから視線を逸らしてとぼけてみた。
 もちろん、そんな旦那さんの態度に、葉月はふくれっ面に。その顔がまた、准将ではなく奥さんの顔だったので隼人は笑いたくなったが、この場面では必死に堪えた。

「さっき知ったの。貴方、また鈴木君にちょっかいだしているわね」

 『鈴木君』。妻は准将ではない時、彼をそう呼ぶようになっていた。
 そしてここまでお忍びで押しかけてきたのは、どうやらそれを知ったかららしい。
 隼人はまた黒髪をかきながらとぼける。まあ、奥さんが今日知って、また怒ってやってくるのは予想していたが。早いなあと。

「なんで。俺だって工学科の一員で、教官だって出来るぞ。他の者は別の業務で忙しそうだから〜」
「とぼけないで! なんなの。滑走路の悪戯のことも、はっきりした理由――謹慎五日の間に、自宅で絶対に話してくれると思ったのに、ちっとも話してくれなかったし!!」

 つまり。葉月がこの一週間、こうして『ずっと怒って機嫌悪い』のはそういうことだった。

 謹慎の五日間。隼人は家事に徹した主夫になった。
 子供達の送り迎えや、掃除洗濯。そして夕食はここぞとばかりに豪勢にしてやった。
 すると帰ってきた葉月が顔をしかめる。『こんなに豪勢に手をかけてくれたのは、私が容赦なく貴方を謹慎にした当てつけなのか』と。もちろん、そんな気持ちは隼人にはないが、理由を話さない夫にいらだっている妻がそんな言葉を投げつけても仕様がないなと気にはしていなかった。
 その上、隼人は夜もしっかりと妻を愛してあげた。というより、隼人がまだ理由を言いたくない中で奥さんの苛立ちをフォローできたこれが、夜のお楽しみだけだったからだ。
 しかも不本意ながら、隼人の方が奥さんに巻き込まれて頑張ってしまったのだ。これはかなり『うっかり』。それが、またどうして隼人はそこまで『頑張ったか』というと。

 あの悪戯をした夜。妻から隼人を求めてきたからだ。
 だいたい、葉月から誘ってくるときの『雰囲気』と言うのがある。
 男の隼人がそれとなく葉月に触れて、なんとなく夫妻の睦み合いが始まるのとは違い。元々その手では上手く伝えることが出来なかった葉月の名残なのか、彼女からあからさまに求めてくることは滅多にない。日常的には夫に気が付いて欲しいというサインを送ってくるだけで、最初の頃はそれを良く見逃していたと気が付かされた。
 今は結婚して十年。だいたい分かるようになった。

 ベッドに横になった時、葉月はこう言う。
 『ねえ、貴方』――。背を向けて、隼人を呼ぶ。隼人が『なんだ』と返すと、決まって彼女は背を向けたまま『なんでもない』と言う。
 これがサインなのだ。なんでもないけれど、気が付いて欲しい。そんな葉月の求め方。
 それだって滅多にないのに、あの日の夜は葉月から隼人を欲しがるサインを送ってきた。

 ただ、この晩。隼人には予感があった。
 そして予感は当たった。
 隼人が愛撫すると、妻の反応はまさしく『あの時を彷彿とさせる反応』をした。
 それだけ彼女は……。最初から既に興奮して身体がすでにその準備を整えていたのだ。
 すっかり燃えていたそこを隼人が少しばかり激しく愛撫すると、葉月はいつもより激しく悶えた。そしてあっという間に、快楽の波にさらわれていってしまったのだ。それだけ彼女の身体は熱い愛撫を待っていたよう。それはまるで夫に慰めて欲しいと言わんばかりの、身体になっていたようだった。
 だから、隼人はそんな妻を胸の下に抱いて、聞いてみた。

『なに。昔のように、コックピットで激しく揺さぶられた身体を持て余したみたいになったのか?』

 イコール。それは隼人が予感したとおりに、妻があの青年のとんでもない飛行を目にして『コックピットに乗っているのと同じ興奮を覚醒』させていたと言うことだ。
 そしてまだ物足りなさそうな妻が隠すことなく、涙目で隼人を見つめて言った。

『そうよ。貴方が私にあんなものを見せたせいよ。だから、ちゃんと責任取ってよ』

 今度は葉月から隼人に抱きついて、大胆に求めてくる。
 肌と肌を合わせれば、今の葉月はもう隼人という男に遠慮はない。自分の男だから、どれだけ求めても私の自由とばかりに、夫を握りしめて熱くてどうにかなりそうな甘美で淫らな洞窟へと誘い込む。
 それを隼人はまだまだ落ち着いた眼差しで、じっと眺め……。そして心の中で楽しんでいた。
 夫に抱いて欲しいと求める時はまだまだ遠慮がちな妻が、事を始めたらこんなに大胆に俺を求める。あの頑なだった若い頃の彼女からは考えられない行為だった。 
 でもそれで、妻のひんやりとした指先に握られ誘われるのを見て、隼人は興奮する。でも妻が誘うまま、眺めて動かない。

『やっぱり。あの鈴木は……お前にとって特別になりそうだな』
『やめて。こんな時に他の男の人の名を言わないでって……いつも言っているでしょう?』

 近頃の夫の意地悪は、妻が夫に夢中になるそのときに、他の男の名を挟むことだった。
 そして隼人はそこで妻が怒るのを目にしてちょっと満足する。どこか男として情けないと思う部分もあるが、隼人もいつまでも若いときのように、彼女の為に聞き分けの良い理解ある男や夫でいたいために『ここでは敢えて探らない』なんて、格好つけの我慢などもうしない。こういう時だからこそ、妻に正直に自分の気持ちを投げかけてみる。それだけじゃない。そこにはちょっとしたお楽しみも含まれていた。少しだけ鎌をかけて妻の反応を試して、楽しんで、そしてどこかで安心をする。そんな自分本位に妻と向かう。

 妻の指先が、隼人の先が、そこに触れた時。二人は何かを確かめるように一時見つめ合う。
 そこでやっと、隼人は妻に覆い被さり主導権を返してもらう。

『俺も興奮したもんな。横須賀であの男の飛行を見たとき――』

 そこで妻の中に自分からぐっと入り込む。
 ――『あっう』。
 葉月が背を反って、儚くうめき、隼人の腕を掴んで爪を立てる。
 そして一気に妻の腰を押さえつけて上へ上へと責め立てた。

『どうだ。コックピットと同じか』
『あ、うっんっ・・あん……。う、うん……一緒……一緒……よ』

 同じである訳がないのに、妻はそう言ってくれる。
 そして結合の快楽を堪能する行為でも、妻は最後、その瞬間を迎え満足そうに果ててくれた。

 そんな燃える妻を久々に抱いて、まあ……隼人も年甲斐もなく火がついてしまったわけで、『謹慎中はほぼ毎夜』だったという訳だ。

 それでも『本当はなにが目的だったのか』と真っ正面から尋ねてきた葉月には、『今はまだ言えない』とばかりに隼人は話を誤魔化してきてしまったのだ。
 そして、謹慎が解けて一週間。また月曜日となり本日。妻も気にしていただろう鈴木英太の研修が本格スタートしたと思ったら、いきなり担当替え。しかも夫の隼人がまたしゃしゃり出ている。
 それを今朝知って、ついに堪りかねここまでやってきたという訳だったようだ。

「貴方、何故、教えてくれないの? 処分にはしたけれど、私は鈴木君が言ったとおりに、貴方にはなにか目的があってと信じているのよ」

 自分より立派な准将の肩章をつけている上着を着ている妻が、本当に泣きそうな顔で夫に答えを求めるその顔。
 そんな昔から変わらないウサギさんの哀しい顔を素直に見せられてしまうと、隼人もちょっぴり申し訳ない気持ちになってしまう。

「お前、俺がやることは何の為であるか――信じてくれないのか」
「信じているわよ。でも、あんまり無茶なことをしないで。貴方……大佐になってから少し無茶をしすぎよ」

 その度に、基地では准将である妻に咎められ、それを目にした隊員が『またおちゃらけている旦那が、奥さんに叱られている、尻に敷かれている』と囁く。
 だけれどそれは妻の本意ではなく、ただ隼人が大佐という立場を使って自由に動き、申し訳ないがそこは葉月に出過ぎのところは隊員達の規律に関わらないよう止めてもらうという形になっていた。
 昔は、逆だったのだけれど。今は隼人が大胆に動く。というのも……。

「本当なら、お前がやっていそうなことだよな。俺、そう思うからそうしているだけだ」
「……分かっているわ。私が前みたいに動けなくなった分、貴方が私のように動いてくれているの」
「誤解するなよ。お前がしそうなことは既に、『俺もやってみたいこと』だってこと」

 そう言うと、妻がやっと笑った。

「だから、私たち夫妻だって……言い切っても良い?」

 その笑顔に、旦那さんは一撃撃沈。
 ここが人目に付かなさそうで、でも場合によっては人目に付きそうな危険な場所と分かっていて、目の前の……変わらぬウサギさんを抱きしめてしまっていた。

「は、隼人さん」
「葉月、信じてくれ。俺がお前の為にならないことをしていると思っているのか?」

 抱きしめられて戸惑っているミセス准将。でもその顔は、昔からずうっと変わらない隼人が妻にしたウサギの顔。その顔で葉月がそっと首を振る。

「思っていないわ。貴方のことだから……きっと。でも、訳を教えて」

 胸元から真っ直ぐに見つめられて、隼人も胸が熱くなる。
 こういう時、互いの年齢を忘れる。
 葉月はあの時、マルセイユで出会ったままの女性だし、隼人は隼人であの頃の青年のままでいる気持ちになれる。
 そのせいで、もうちょっとで口元が緩んでなにもかも喋りそうになったが、なんとか堪えた。

 そして抱きしめていた妻を離し、今度はちゃんと大佐の気持ちで彼女に告げた。

「お前が感じていることが俺には分かるよ」
「分かるの……?」

 そこで妻がちょっと答えにくそうに黙ってしまった。
 それを見て、夫の隼人は確信する。彼女自身、言葉にはしずらい感覚を得ていて、そしてそれがなかなか人には告げられないような気持ちであるのだと。それは鈴木英太の過去を先に知っている隼人だからこそ、そして妻の過去と寄り添ってきた男だからこそ分かることだった。

「俺はお前をずっと見てきた男だ。だから分かるんだよ」
「それも、私たちが夫妻だから?」
「そうだ。そして仕事でも、密かにパートナーであるんだから。お前がどのような気持ちで、彼を引き抜いたかも……。まだなんとなくだけれど、俺には少し見えてきた。お前もそうだろう? まだ漠然としてるんだろう?」
「そうね。なんだかまだもやもやしているけれど、何かを感じ始めているわ」

 夫妻だからこその、会話が続く。

「俺もまだ漠然としている。だけれど、これだけは押さえておきたいところは、お前、雷神の総監であるミセス准将に手渡す前に、鈴木に試したり叩き込んだりしておきたくてね」
「……それが。あの滑走路の? 貴方なりのなにかのテストだったの?」
「まあ、そんなところかな。でも感触はあっても、確実な手応えはまだないね」

 夫がなにかを始めていることをやっと知ることができ、葉月が少しホッと一息ついた。
 それを見て、隼人もやっと分かってくれたかと一安心。そんな妻に、准将にきっちりと言い伝える。

「ですので、准将。研修の間は、私にお任せくださいませ」
「そういうことであれば――」

 急に上司と部下に戻るが、それすらも夫妻の間では慣れたシフトだった。
 准将に戻った妻に、隼人は真剣に告げた。

「貴女の手元に、きちんと鈴木をお届けしますから。待っていてください」

 御園大佐としてのプライドを、そこで隼人は妻に見てもらいたいと思っている。

「そう。楽しみにしているわ……澤村……」

 そう呼ぶのがちょっぴり躊躇うような葉月の声。
 でも隼人は笑っていた。

 なんとかミセス准将、もとい、奥さんの機嫌が直って、二人はそっと講義室から廊下へと共に出た。
 人はいない。隼人はこちらへ帰らなくてはならず、葉月は反対の道を行かねばならない。

「では、よろしくね。貴方」

 妻の顔で、葉月が隼人にパイロットを任せてくれる顔。
 そんな葉月に、隼人は笑って手を振ってみる。

「准将、愛していますよ。任せてください」

 澤村という立場で、ミセスに愛を告げてみた。
 無論、これはいつもの『悪戯』だ。
 人気がないとは言え、往来の通路だ。どこから人が出てくるかも分からない講義室の廊下で妻が飛び上がる。

「あ、あな・・・た。いえ、大佐、なにを言い出すの!」
「私の愛を、信じて下さいますよね。准将」

 彼女は頬を染めて、あたりに誰もいないかを確かめ、そのまま背を向けて早足で去っていってしまった。
 隼人はちょっとだけ舌を出して、妻の背を見送った。

「これぐらい言わないと、また文句がある度に抜け出して工学科にこられたら困るからな」

 上手な夫に、悪戯でやり返される。
 ここに来たら、御園工学大佐にさんざんに茶化されて、居ても立っても居られなくなる。だから、退散するしかない。ここは、たとえミセス准将でも管轄外。ここは隼人の城だ。他の城主にはとっとと出て行ってもらう。
 そういう悪戯だったわけだ。きっと妻も今の『准将、愛しています』は夫から言われる愛しているとは全く違う『からかい』だと分かっていることだろう。

 階段を下りようとしている妻がちょっとだけ振り返った。
 そんな妻に、隼人はまた、意味深なにこやか笑顔をみせながら、手を振ってみた。
 たちまち、ウサギさんは何かを恐れるように飛んで消えていった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「うう、出来た。もうこれでいい」

 鈴木英太、二十五歳。
 空に夢中になっている日々を必死になってこなしているのに、新しく担当になった研修教官の大佐様に『愛』について考えさせられる。
 本当に一行だけ書いて、あとは夕方出せばいいやと思って放っておいたのだが、やっぱりまた気になって原稿用紙に向かっている。
 そこで腕を組みながら首をかしげながら悶々と考える。愛についてというよりかは、あの大佐の意図はなんなのか。だった。

 それを何度も思っては原稿用紙につづる文章が変化する。
 妙にまじめくさったのが出来て、自分で大笑いしたり。かと思えば、こんな課題を出したのは何故なのか、大佐への文句や質問になっていたり。どれもこれもまとまらない。
 結局、最後に書けたほんの少しの文章。納得と言うより時間切れ。それを手にして英太は研修用に当てられている講義室から工学科科長室へと向かう。

 場所を確認すると、講義室がある階より一階下だった。
 階段で下まで行こうと、廊下の角を曲がったときだった。

 踊り場で女性が一人、うずくまっている!

 英太は驚いて、駆け寄った。

「だ、大丈夫ですか?」

 うずくまっている女性の背を撫でてみたのだが、彼女はうんうんと唸っているだけ。しかも顔色が良くない。

「立てますか? 誰か呼びましょうか?」

 だが、彼女はそれすらも答えられないようだった。
 そのうちに、その女性はぐったりと廊下に伏せってしまう。つまり朦朧とするまま倒れてしまったのだ。
 英太は驚いて、また彼女の身体を揺すった。それと同時に、反射的に彼女の肩章を目にする。
 女性の『大尉』。ネームプレートは『工学科 吉田』とある。さらに英太は気が付いた。彼女が抱えていた書類と一緒に握りしめている小さなポーチに、妊婦姿のイラストが描かれているストラップがついていた。

 ――『子供がいるのか』!?

 もうそれだけで、英太はがあっと彼女を抱きかかえて立ち上がっていた。

「お、おちつけ。そ、そだ。科長室!」

 英太は今から向かおうとしていた科長室を目指す。そこにはきっと御園大佐がいるはずだ。
 階下に降りて数メートル。科長室を見つけた!

 英太は『吉田大尉』を抱えたまま、片足でドアを蹴破る。
 あまりにも唐突な侵入に、科長室の誰もが驚いた顔。

 そしてその部屋の奥にある大きなデスクに、その人はいた!

「大佐! 妊婦さんがそこの階段で倒れていたんだ!!」

 するとそこの部屋にいる男達全員が、とても驚いた顔で立ち上がった。
 それだけじゃない。あの大佐がその彼女を見るなりとても青ざめた顔に。
 そしてあの食えない大佐が叫んだ。

「よ、吉田!!」

Update/2008.7.9
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