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19.ウサギと一緒

 岩佐がやっと厳かに葉月と隼人に向かって頭を深々と下げている。

 そんな彼がやってきて、葉月は夫と共に立ち上がり、こちらも丁寧に一礼を返した。
 落ち着いている夫妻の様子を目にして、岩佐もホッとした穏やかな微笑みを浮かべている。
 ……先日、小笠原で見た彼とは別人のよう。葉月は初めてそう感じた。
 宝石展の準備をしていた短期間で、彼の中に何か変化があったことは、葉月にも通じてきた。

 その彼がちょっと照れくさそうに、葉月に向かう。

「如何でしたか。私の宝石展──。篠原会長のご指導もありましたが、僕の言葉であるのは確かです。そちらのお家のお話を聞いて、感じたことそのまま。まだ僕の言葉だと信じられないお気持ちもあるでしょう。でも、それは当然だと思っています」

 それは夫の隼人が『まだ心よりの言葉とは俺は取ることは出来ないよ』と言っていたように、彼はこちらの気持ちもちゃんと察している。

「でも、今日は僕にとっては再スタートの日です。ただ、その気持ちを葉月さんに見てもらえたならそれで良いと思っています。まだ信じてくれなくても……。今までの僕のことを思えば当然ですからね。でも……」

 岩佐の目が、葉月に向かって煌めいた。

「でも……。これからその信用を何年かけてでも取り戻してみせますよ。もう前の会社にも未練はありませんし、また新しい気持ちで作り上げる会社で出直します」

 もう、前の彼ではないと葉月は思った。
 そんな彼に、葉月が言えるのは……。

「さらなるご活躍をお祈りし、またお会いできる日を楽しみにしております」

 また、いつか。
 この度の出会いは最悪だったかも知れないが、お互いに得たものがある。
 次に出会う時は、きっと良きご縁。
 それをお互いに爽やかに迎えることが出来るのは、まだまだ先。その時を楽しみに、今日はお別れしましょう。

 そんな葉月の想い。
 でも、岩佐は笑顔で頷いてくれていた。

「よろしければ──」

 岩佐が、遠慮がちにその手を差し出している。
 つまり、せめて『握手』を、ということらしい。
 でも、葉月も笑顔で手を差しだし、彼の手を取っていた。

「指輪への言葉、有難うございました。あの指輪が世間に顔を出すこの時に、祖母の教えを説いてくれまして嬉しかったですわ」
「いいえ。こちらも数々の無礼をお許し下さい。ご両親にも改めてお詫びをする所存です。貴女も……お幸せに。それを今度は願いたく思っています」

 何年後にもう一度彼を確かめる……だなんて。
 葉月は、もう、これで充分だと思った。
 彼の笑顔は温かいし、彼の手も優しかった。
 彼はこの短い間に変われたのだ。
 彼はそれだけの『すごい男』だということを、葉月は認めていた。

 篠原が言っていた『自分の負を早く認めた方が、勝ち。近道』という言葉を思い出していた。
 岩佐は見事にそれを克服した男。
 これから、きっと。今まで以上の活躍をすると葉月は彼の手を握りながら直感していた。

「またいつか、さようなら。岩佐さん」
「またいつか、お元気で。葉月さん」

 もう、それだけ。
 岩佐もそれ以上は無粋と思ったのか、葉月の手を離すと、後ろに控えている夫には深々とした一礼を残し、後ろにいる先輩達にも頭を下げて去っていった。

 これで良かったのだ。
 そしてまた岩佐と言う男が、元々に『理解』を掴み取ってくれる素質がある男で良かったと思う。
 もう……『幽霊』の時のような、不毛な道をお互いに歩み続けるような出会いは嫌だ。
 あんなどうにもならない憎しみ合いなんか、もう、これ以上いらない。
 そう思ったから……。葉月はこの宝石展を望んだ。
 相手を叩き潰すことが勝利だとは思わない。
 相手を認めて、認められてこそ、なによりも得難いものが生まれるのだと思う。だから……

「あの岩佐さんがあのように変われるだなんて。まあ、ここは大佐嬢のお手並み、素晴らしかったわね」
「いやいや。私も宝石展をちゃんとやり遂げて欲しいという葉月さんの言葉には驚かされたけれど、かえってお互いに良いものを得られたという訳だね」

 蘭子も篠原も『良かった』と安心してくれたようだった。
 そして、蘭子の側にいる『執念の男』は……?

「御園レディのお手並みというより、レイらしい仲直りだったね。……うん、良かった。そうでなければ、ただ『諍い』が残るだけ。レイはその苦渋を誰よりも味わっているからね。一発殴れなかったのは、残念だけれど。それをしたら俺が無粋だね」

 彼もふっきれた顔で笑っていた。
 葉月と隼人はホッとして微笑みあう。
 なんだかこのお兄さんにも、明るい何かが舞い降りてきそうな笑顔を見せてくれているからだ。

 ところがだった。そんな丸く収まって爽やかにしているリッキーの隣にいる蘭子が、妙に冷めた目をしてリッキーを見ている?

「まったく、今回はこの中佐さんに散々に使われて、参っちゃったわ」

 蘭子の呆れた溜息に、どうしたことか、あのリッキーが落ち着きなく顔を逸らしてしまったのだ。
 そして『もう終わったから良いでしょう』とばかりに、蘭子は葉月と隼人に教えてくれた。

「もう〜。軍の大事なお仕事を休んでまで、私の所に押しかけてきて、『岩佐の要求を全て拒否してくれ』だなんて……。この人、何日も何日も、私の所に頭を下げに来たのよ」

 リッキーが頭を下げに来た……に、葉月は驚いた。
 だって、相手の女性は、リッキーが心に掲げている女性『皐月姉』と張り合っていたお嬢様で、リッキーも若い頃から『気位の高い、いけ好かないお嬢様』と毛嫌いしていたと聞かされていたからだ。いつも皐月姉を敵視して、口悪を叩いていた彼女を、姉の親友であった彼が快く思うことなどあるはずない。それは対していた蘭子も同じだっただろう。『あの男、皐月嬢にひっついて、こちらを良く思っていない。気にくわない』と。なのに……そこを心に残している間柄で今回は水面下で二人でそんな取り交わしをし、尚かつ、フィフティーフィフティーの譲り合いではなく、絶対に皐月の分身としてそうはしなくないだろうリッキー兄さんが、最大のライバルだった彼女に頭を下げて成立したというのだから。
 それで納得した。葉月のところだけが『逃げ道』とばかりに岩佐が一直線にやってきた時、このシビアなはずの蘭子がまるで全面的に御園の味方をするかのように『指輪を返しなさい』と言ってくれたのは、このお兄さんが必死に説得してくれたからなのだと。

「蘭子嬢! 言わない約束だったじゃないか!」
「そうでしたかしら? それに貴方、私にそんな口がきけて? ねえ、どれほどのこと、私が協力したかもっと言いましょうか? お高くついたのを貴方が一番ご存じでしょうに」

 それほどのこと。いったい、頭を下げる以外にどのような条件があったのかと葉月は計り知れなくてリッキーの顔色を窺うのだが、彼はなんだか照れたような顔のまま、葉月の方を見てはくれなかった。
 そして蘭子の勝ち誇った笑い声。

「ふふ、どんな条件があったかと思っているでしょう? たいしたことないのよ。ほら、この人、いっぱい使えることが判ったから。これからいっぱい使わせてもらう『契約』をしたの。ね、リッキー」

 リッキーをいっぱい使える……だなんて。軍の秘密隊員を束ねるやり手の秘書官を捕まえて、あっさりと言いのける蘭子の底知れない微笑みに葉月はおののく。
 それに蘭子の意味深な微笑みにリッキーはふてくされていたが、頭が上がらないといった顔をしている。
 これ、結構……見物かもと、葉月は笑いたくなって、それでもこのお兄さんが必死になってくれたから今日がやってきたのだと、なんとかその笑みを収めた。

「これで、私もやっと一息だよ。葉月さん、良かったね。これで私もレイチェルに顔が合わせられるよ」

 いつも白いスーツ姿の篠原も、葉月の側に来て優しく肩を撫でてくれる。
 蘭子から聞かされていたが、このおじ様が白いスーツを着続けているのは、自分の祖母が『貴方ほど、白いスーツが似合う人はいない』と言ってくれたからだそうなのだ。若い時は本当に素敵な青年で、精悍で意気盛んな顔つきに、その白いスーツはとても迫力があったと蘭子は言う。
 それがあの華夜の会で、この婿殿が同じように白いスーツを着てきたこと、ちょっとばかりご機嫌斜めになったとか。それで始終、ふてくされた顔をしていたのかと葉月は思ってしまう。
 でも、このおじ様も、やはり『男』だと葉月は思う。祖母を唸らせてきたに違いない。この度の再会で、この男性から教わった沢山のことは、これからの葉月にも役に立ってくれると思っていた。

「おじ様。いろいろと有難うございました。これからも……指輪のこと共々、よろしくお願い致します」
「うむ、有難う。私もね、彼女の孫達のこと、気がかりだったので、今回、この様な機会に巡り会えて良かったよ」

 そして篠原も笑顔で葉月に言う。

「もう、思い残すことはないよ。あとはあの指輪を一緒に守らせてもらうことだけは、やらせてほしいね。私は彼女を守れなかった男だから……」

 そこにいる白いスーツの老紳士は、まだ……終わらぬ恋に頬を染めている気がした。
 でもそのいつまでも初々しい笑顔。葉月はそこにこの男性の魅力を見た気がした。
 そしてきっと、祖母も……。気持ちには応えられなくても、この男性の魅力に実力を認め、いつまでも良き仲を深めていたのではないかと……。
 だけれど、その男性が『もう思い残すことはない』という晩年の中でもさらにその終わりを思い浮かべていることに、葉月は切なく目を伏せる。
 それは誰も止められない自然の摂理。一生を独り身で通した男性の思いが、今、ここでそれなりの形を整え終えようとしているのだと。
 だからとて、葉月はそんな篠原の思いを『長生きしてください』という言葉で、覆そうとは思わなかった。ただ、このおじ様のその中で『不幸の指輪を守ってきた彼女の意思を私も最後まで守りたい』と願っているようだから、このままこのおじ様が晩年の今に望まれたとおりに、その所有権は今暫くは預けておこうと葉月は思った。
そして葉月なりに思う、もう一つのことも……。

「おじ様、今度は私のヴァイオリンを聴いてくださいね」
「……本当かい! 嬉しいよ。じゃあ、また……『サロン』に来てくれるね?」

 あの煌びやかな『サロン』へ、再び?
 葉月は少し戸惑った後……。

「はい、是非」

 笑顔で答えていた。
 煌びやかでも慎ましくても関係ない。
 そこにそんな気持ちがある人々がいるなら……。

 葉月の笑顔に、何故か篠原は泣きそうな顔をして、葉月の手を握ってくれた。
 その顔は、今まで皆が畏れてきたドンではなくて……。懐かしい祖父母を思い出す、そんな祖父母と同世代である優しい老人の顔だった。

「それでは、私もまた、皆様との再会を楽しみにしていますわ。また招待状、出しますね」
「蘭子お姉様も、有難うございました」
「まあ。私のこと、お姉様と言ってくれるの!」

 葉月の『これからもよろしくお願い致します』という気持ちを込めていった言葉をそこに秘めて……。
 姉と張り合っていたと言うが、蘭子の思い出話の端々には、そんな姉がいなくなってしまった寂しさを思わせるものがあることに葉月は気が付いていた。
 ──『あれほどの女性。もう、いないわね』。先日の篠原が誘ってくれたサロン後の食事会で、そんな寂しそうな一言も、葉月は聞いてしまった。
 可愛い妹がいて羨ましかったという蘭子。兄弟姉妹がいないと言う蘭子。そして──やっと巡り会った夫と家を守っていく生活も失い、今は未亡人として息子を育てながら当主を努める身。そんな彼女の寂しさが垣間見えていた。
 だから……。そんな姉の思い出をそっと密かに紡いでくれていた女性だからこそ。これからも、近しい知り合いとしてでも親しくさせてもらいたいと葉月は思う。

「今度は一緒にお買い物しましょう。そうそう、貴女のおちびちゃんにも会わせてね。きっと御園の顔をしているのでしょうね」

 葉月が頷くと、蘭子はとても嬉しそうだった。

 それでは──と、篠原も蘭子も、一件落着とばかりにそこを去ろうとしていた。

「では、蘭子嬢。行こうか」
「ええ、そうね。リッキー」

 リッキーが何気なく腕を差しだし、蘭子がこれまた自然にそこに腕を通した。
 葉月は『あれ?』と思った。しかも後ろに控えていた隼人までもが……『あれ、なんか変じゃないか』と言い出した。
 そんな雰囲気に気が付いた若夫妻の怪訝そうな顔を見て、篠原がそっと笑いながら、葉月に耳打ちをしてきた。

「まあ、そういうことかもしれないよ。実はこの前、とあるレストランで二人で良い雰囲気で落ち合っているのを見ちゃったんだよ。おじさんは見てしまったことがばれないように引き返したぐらいだよ」

 葉月は『え!?』と飛び上がりそうになった。
 隼人も篠原が何を言ったのが気が付いたようで、はばからずに腕を組んで去っていく大人の二人の背をしげしげと眺めている。

「張り合っていたのはお互いに青い時。これを機に、皐月を懐かしんでいる内に、お互いの何かが埋まったのかもね」

 でも、篠原は言う。
 『真相』は分からないよ──と。

「未亡人と永遠の独身貴族。って感じだよなあ。合うのかなあ〜?」

 隼人の腑に落ちない顔。
 葉月もそう。
 それって、本当はどっちなの? それって、これからどうなるの?

 だけれど、酸いも甘いも噛み分けてきただろう大人の二人。
 どうやら、今日、揃って一緒だったのも、実は同じ目的と言うより『そういうこと』だったのかと葉月は思った。
 それでも、仲良く笑顔を交わしながら去っていくお姉さまとお兄さん。私達がこうして今、気持ちが通じ合って腕を組んでいるそれがなんなのだ。とでも言いたそうに堂々としていた。

 それはもしかすると、一時なのかも知れないし。
 それはもしかすると……?

 篠原と一緒に、若夫妻は笑顔で『大人の二人』を見送った。

 

「葉月」
「葉月さん!」

 静かになったかと思ったら、今度は優雅な階段から、華やかな夫妻がこちらに手を振って『葉月』を呼ぶ声。
 右京とジャンヌだった。
 二人もなにか満足したのか、とても清々しい笑顔を従妹夫妻に向けてくれていた。

「今から横須賀だろう。兄ちゃんも行くから車、乗って行けよ」
「チビちゃん達がいるのでしょう。私も会いたいわ」

 自分だけじゃない。
 一緒に苦しんできた従兄も、今はとても幸せそう……。
 葉月はそう思い、従兄夫妻にも笑顔で手を振り返す。

「うん。兄様、ジャンヌ姉様。一緒にパパのところに行きましょう!」

 そしていつまでも、どんな時も、その身を投げ出してくれる従兄への感謝の気持ちを心の中で葉月は囁いていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 早く帰ってこないかな──。

 もう、そろそろ『伯父さん』は限界かも知れなかった。
 いやいや。『お父さん』としても限界かも知れなかった。

 今、純一の目の前に『子供が三人いる』!

「しん兄ちゃん! みーつけたーー!! レンジャー1、しん兄ボスにアタック!!!」
「ぐうぅわわーー! カイレンジャーめ……うぐう・・・」
「いやーーん! しんおにいちゃま、おめめあけてーーー!」

 久しぶりの横須賀の別宅。
 リビングは『なんとかレンジャーごっこ』で、凄まじい盛り上がりを見せている。
 しかも、その脅威ときたら……。純一は溜息をこぼしながら、ただ一人、いいやこれでいいのだと受け入れようと小さく首を振る。
 とにかく。隣の御園両親はまだ子供を始終見ていられる状態ではないので、真一が帰宅してきたと同時に谷村宅へと子供達を預かった。
 息子が上手く遊んでくれることは良く知っていたので、じゃあ、好きにしろと任せてみると──。この有様。
 これって、どこかで見たぞ? ああ、そうか。やっぱり義妹と息子は『御園』なんだと純一は思う。
 その無邪気さ全開の、童心に返っての暴れっぷりは叔母に匹敵していた。
 そこで、今、純一はただひたすら義妹夫妻の帰りを待っている。

 夕方も近くなり、時計を眺める。
 もうそろそろかと言う時になって、玄関チャイムが聞こえてきた。

「パパとママかな」
「パパ!」
「まま!」

 子供達の方が素早い反応?
 あんなに元気いっぱいに機嫌良く遊んでいても、やはり純一なんかよりずっと待ち焦がれていたといったふうの輝く笑顔。
 その笑顔で、まだ純一がインターホンに出ていないと言うのに、海人と杏奈は玄関先にすっ飛んでいってしまったのだ。

「す、素早い。すごいパワーだな……」
「これだからオヤジは」

 チビ二人に気圧されている伯父さんを見て、息子の真一が呆れた溜息。

「俺もあんなふうに待っていたんだよねー。いつでも誰かの帰りを」

 置き去りにして子育てを放棄していた父親としては、息子のちょっと責めるようなこの眼差しと言葉には『ぐ』と唸って黙らざる得ない。

「まあね、俺の場合は『真父さん』とか『葉月ちゃん』の方ね。なんだか黒いオジサンがうろちょろしていたみたいだけれど〜。こっちの方はぜんぜん〜」

 待ってもいなかったよ。とでも言いたそうな息子の顔に、純一としても面目ないばかりなのだけれど、そこはこの父子らしく意地っ張り。『ふん』という顔つきであしらった。
 でもその後に息子の小さな一声。

「やっぱ。待っていたかな。黒いオジサンが会いに来てくれるの」

 その時の息子の顔。そんな顔で待っていたのだろうかと、純一は胸を詰まらせる。
 そんな顔を息子はしていたのだが、それでも直ぐにいつもの無邪気な笑顔を見せてくれていた。

「父親じゃなくても家族なんだろうなって思っていた。だから……チビ達がちょっとでもパパママを待っている気持ち、分かるんだよね〜」

 もうすっかり成人し、研修医として立派な青年になった息子の眼差しは、そんな時は幼い子供に戻ったかのよう……。

「悪かったと思っている」
「俺、謝れだなんて一度も言っていないからな!」

 いつもそう。純一が少しでも『側にいられなくて悪かった』という言葉を吐くと、息子は直ぐにこうして怒る。
 そして……純一は思う。このせがれにも、ちゃんと言っておこうと。

「俺はここにいる。もう何処にも行かない。だからいつでも帰ってこい」
「ど、ど、どうしちゃったの……!? 親父……!」
「まあ、小笠原でもいろいろ学んでいるってことかね」

 それでも息子は、目を丸くして驚いていた。

『おーい、純! 子供達は大丈夫かー』
『なーんだ。じいじだよ』
『おじいちゃま、あるいてもへいき?』

 どうやら、訪ねてきたのはチビのパパママではなく、お隣のお祖父ちゃんだったよう。
 海人のがっかりしている声を聞いて、『お祖父ちゃんでがっかりしている』と、純一と真一は揃って笑っていた。

「どうした、親父さん。子供達ならご機嫌だぞ」
「いやいや。うちの方に帰ってきたんだよ。葉月も隼人君も、そして右京とジャンヌも久しぶりに来たんだ。どうだ、皆で夕食でもしようじゃないか。寿司が良いな、寿司。純、どこか美味いところ出前とってくれよ」
「ああ、そうなんだ。揃ってそっちに帰ってきたのか。うん、分かった。そっちに行くよ」

 お祖父ちゃんが来てがっかりだったチビ達が、また大喜び。
 パパもママも帰ってきた! 鎌倉のおじちゃんとおばちゃんも遊びに来た! それで今日はいっぱいみんながいて、おすしのご馳走なんだってと大騒ぎ。

「ほらほら、チビ達。隣に行くぞ。兄ちゃんと行こう」
「まってよー。しん兄ちゃん!」
「おにいちゃま。あんな、だっこがいいーー」

 歳が離れてはいるが、玄関を出ていこうとする『チビ三人』は本当に兄弟妹のようだった。

「うっはー。なんだね、この凄まじい部屋は」

 ちょっとリビングを覗いた亮介が、その有様に目を覆っていた。
 そして純一はジャケットを手にしながら笑う。

「こんなの序の口だよ。伯父貴。小笠原の自宅は、隼人がいないともっとすごいんだからな」
「は? うちの娘は?」
「今日の真一と一緒だ。子供と同じになって散らかしている」
「なんと、まあ……。そりゃ隼人君が大変だ。特上寿司とってあげて」

 純一は『勿論』とこれまた、義弟の苦労を思いながらも笑った。
 そうしたら、その親父さんが今度は純一を優しく見つめている。

「お前もね。遠慮しないで特上にしなさい」

 純一はそこで黙り込む。
 その意味が……。同じ婿。表で頑張る婿だけでなく、裏でもめいっぱいに動いている正式ではない『裏婿』の気苦労も同じように労ってくれているのだと。

「なにいっているんだ、伯父貴。それなら皆、特上に決まっているじゃないか」

 ジャケットを肩に引っかけながら、純一はまだそれほど自由に歩けない亮介の腰を取った。

「悪いね、純」
「伯父貴、いつでも頼ってくれていいんだからな。今回のようなことは、もう無しだぜ。葉月だってほら、あいつなりにちゃんとやっているのだから」
「うん……分かっている。悪かったよ、心配させて」
「俺達も、いつまでも伯父貴のこと頼りにしているからな。元気で側にいてくれよ」
「ああ、分かっているさ」

 昔、ただ隣同士の『オジサンとボウズ』だった関係。
 それが今では亡き娘を挟んで、本当の親子同然だった。

『パパ、大丈夫なの? 純兄様、いるの?』

 玄関の外から、葉月の声が聞こえてきた。
 その元気な声。聞かずとも、今日の宝石展では良いことがあったのだと義理息子と義理父は微笑み合った。

 真夏の夕暮れ。
 港町が見えるこの家、この一家は、賑やかな夕べを迎えていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 だいぶ涼しい候となった頃。
 夏の暑さを冷ましたかのように、その島の海と空は、さらに青さを増している。

 彼が仕事をしているこの部屋に吹き込んでくる風も、心地良く、この部屋の向こうにある雑木林へと抜けていく。

 小笠原のオフィスで、純一はまた元の日常を取り戻していた。
 天使に囲まれる日々、義弟と喧嘩をしたり、ひっそりと家族を守る為の相談をしたり、そして──島の人々の笑顔に囲まれた日々を。

 今日もその部屋で、純一はただ一人の業務に勤しんでいた。
 すると携帯電話が鳴る。並べている中の、真っ青な携帯電話が……。
 『家族用』のもので、パネルをみると義弟の名が浮かび上がっていた。

「はい」
『俺だけど。今からそっちに行くから』
「おい? お前、今日は横須賀出張に行くのではなかったのか?」
『そうだよ。今から行くんだよ。だけれど、その前に義兄さんに頼みたいことがあるからこうして』
「なんだわざわざ。今、此処で言ってみろよ」
『言えないことだから、行くと言っているんだよ! とにかく行くから、開けといてくれよ!!』

 すると純一が言葉を挟む間もなく、隼人からぶっつりと電話を切ってしまった。
 純一は『なんだ、まったく』とぼやきながら眉をひそめつつ、切られた携帯電話のパネルを眺めるだけ……。やがて、仕方がないと腰を上げ、義弟が入ってこられるよう前もってオートロックを解除しておく。

 それにしてもすごい剣幕で怒っていたような気がしたが?
 なんだか純一はゾッとしてきた。
 あの義弟。近頃、益々『強くなってきた』のだから。
 今度は何を怒っているのだ? 違う、『俺は何を怒られるのだろう!?』。ある意味、息子の次に戦々恐々な気持ちにさせられた。

 そしてその義弟がやってきた。

「義兄さん。これ、置いていくよ」

 先ほどは怒っていたが、入ってきた隼人はそれほどの剣幕でもなかった。
 ただし、やはり純一はぎょっとさせられた。

「それ……」
「そうだよ。義兄さんが葉月に贈った『プルメリア』だ」

 それを何故に、今頃持ってくるのだ? と、純一は思った。
 義兄の『ささやかな愛』を含んだ贈り物と気が付いて、気に入らなかったのだろうか? ……だが、そんなこと面と向かって聞けるはずもない。
 そして隼人はさも当たり前のようにして、日当たりの良いテラスへとその大きな鉢植えを置いてしまった。

「……それが、気に入らないのか?」
「あー。気に入らないね」

 やはり、義妹ではなく、愛していた女性に贈ったということが……と、純一は思ったし、義弟の隼人もいつもの『義兄さんだから仕方がない』ではなく『やはり男として許せない』という顔をしているとしか思えなかった。
 だが、隼人のそんな顔は極一時。彼は純一の困った顔が見たかったのか、直ぐに笑い出した。

「ったく。兄さんはちっとも分かっていないよな」
「なにがだ」
「これ、誰が世話していると思う?」

 隼人のちょっと疲れた溜息を聞いて、純一はやっとハッとした。

「まさか、隼人が世話しているのか?」
「当たり前だろう。あのお嬢さんが、マメに植物のお世話が出来るとでも? 日常の主婦業だっていっぱいいっぱいなのに。それなのに枯らしてしまったら兄さん泣くだろう? 違った、葉月の方が大騒ぎになるに決まっている。なのに彼女は自分なりに世話しているつもりかもしれないけれど、あれで結構、やばいほど適当なんだよ。だから俺が手を加えているのだけれどね」

 純一は『しまった』と額に手を当てた。
 そうだ。義妹は父親の亮介に似てアバウトな娘だったと……。

「そ、そうだった」
「だろう? これで分かってくれた? 俺が出張中、この子の世話、頼んだからな」
「わ、わかった。承知した」

 それはもうこの義弟の言うとおり! こちらからお世話を致しますと頭を下げたいほどだ。

「じゃあ、『ホワイト』のシステムの構築、大詰めだから。今回は一週間の留守だから、よろしく」
「わかった。来年は機体に乗せられそうだな」
「一応ね。スケジュール通りに行けば、来年はクロウズ社のテスト機に搭載だな。頼むよ、兄さん」

 勿論と純一は強く頷いた。
 次世代と言われる義弟と若い工学者達の総傑作。それが着々と物質的にも形になり始めていた。
 何故か。連合軍工学科が新しく生み出そうとしている機体は『白色』がカラーにされている。
 いつの間にか携わっているメンバー達がこの機体を『ホワイト』と言っているが、純一にはそれを手がけている弟のイメージを思わせ、その呼び名も気に入っていた。

 義弟が眼鏡の凛々しい横顔、中佐の制服姿でアタッシュケースを手にし出かけようとしていた。

「家の方も頼んだよ。えっと、土曜日に限らず……ね」

 隼人の苦笑い。
 純一も一緒に苦笑い。

「ああ。あの凄まじい天使の嵐の後始末、引き受けた」
「なにが『天使』だって? あはは! あれは『ウサギ』だよ。『ウサギ』が小屋で暴れているだけだって。でも義兄さんが行けば、葉月もチビ達も喜ぶよ。 俺も義兄さんがいるから安心だし……」

 楽しそうに笑っていた隼人が、何故かそこで急に……何かを哀しむように俯いてしまった。
 そんな隼人が純一を真顔で真っ直ぐに見つめて言う。

「……まだ、眠れない夜があるんだ。まだ突然に、生々しいままに襲ってくるんだ。きっとずっとこのままだと思う。最近のごたごたが丸く収まったとはいえ、それなりに刺激されたみたいで──。この前の夜中、ちょっとあってね。彼女の様子、いつも以上に気を配っておいてくれないかな……。何日も、ひとりきりにしないでくれよ」
「そうか。……終わりはないのだな。分かった、気をつけておく。安心しろ」

 隼人のほっとした顔。
 自分の妻が、ある日突然バランスを崩してしまうことなど、もう熟知しているだろうが、だからこそ彼女を置いて長く離れることが一番不安のようだった。

 義妹だけじゃない。そんな義妹に降りかかる闇に義弟も長い間、対峙している。彼にとっても終わらぬ戦い。
 純一もそう思う。今は義妹夫妻を見守ることしかできないが、『きっと終わる』だなんてことはない。そのとおりなのだと神妙に頷いた。
 しかしそんな重い表情になった隼人ではあったが、彼はいつもの穏やかな微笑みを取り戻し言った。

「葉月が望んでいた『昔、幸せだった家族との毎日』が、昔の形とは違うけれどここにあると思うんだ」

 純一も『そうだな』と微笑み返す。義妹と同様に、義兄の自分もその幸せのお裾分けをもらい、楽しい日々を送っているから……。

「その中に、義兄さんは不可欠だ。葉月にとっては終わらぬ闇。そして葉月の光には義兄さんが必要なんだ。葉月にとって義兄さんは、生まれた時から傍にいる本当にそこにいて当たり前で、もう離れがたい存在なんだ。彼女にとって兄さんがいない世界なんて有り得ない。そんなの俺が彼女と出会う前から彼女の人生の一部だったんだから。夫になったからこそ、妻の傍にいつでもあった『当たり前』を大切にしたいと思うよ。だから……」

 そして義弟は真っ直ぐな黒い瞳を義兄に見せ、はっきりと言った。

「俺と義兄さんが一緒に見守っていかなくちゃ駄目なんだ。彼女の、これからも続く消えない闇を携えた道を──」

 隼人のその言葉は、彼が義妹の夫として一生誓っているもののように聞こえる。そして純一は無言でいるが、ここに共にいて義妹を一緒に支えていく者として受け入れてもらえたことを有り難く思い、そして義弟のそんな真っ白な気持ちを厳かな思いで聞き届ける。

「葉月を守りたい気持ちなら、お前にだって負けないと自負している」

 これは純一の誓い。
 滅多に言わないことを言ったせいか、隼人が驚いた顔。
 でもやがて、彼はいつもの笑顔になっている。

「俺だって、負けるもんか。なんたって、俺はウサギのご主人様なんだからな」
「だから、その『ウサギ』はなんなのだ? 前から気になっているのだが」
「さあ、俺も忘れた」

 本当は忘れていないだろうに、隼人は『ウサギ』と口にすると、いつだってそうはぐらかして一人で楽しそうだ。

「では、行ってきます。兄さん」
「うん、気をつけてな」

 颯爽と出かけていった義弟を、純一も笑顔で見送った。

 二人が共に守りたいもの。それを共に抱きしめていく。
 だが純一が守りたいのはなにも義弟と全てが同じではない。
 何故なら、義弟が守りたいものを一緒に守っていくことは、つまりは義弟を守ることにもなる。
 いつもそんな心積もりだった。

 これからも、この義弟と共に『御園』を守っていくことだろう。

 

 そして、天使の住処は、どうなっているのだろう。

 

 義弟の言いつけを守って、純一は一日置き、夕方、様子を見に行った。
 そして今日は『恐怖の土曜日』だ。
 天使の住処と思っていたが、義弟の一言『ウサギ小屋』というフレーズが頭から離れなくなった。
 さあ、その『土曜のウサギ小屋』とやらを確かめに行かねばならない。

 

「葉月、いるのか?」

 玄関から声をかけると、やっぱりリビングでは騒々しい楽しそうな声が響き渡っていた。
 もう見なくても見えている。その有様、今回はどのようになっていることやら。
 でも、純一は笑っていた。

「兄様、待っていたのよ」

 葉月が笑顔いっぱいに、純一を迎え入れにやってきてくれる。
 目の前に、いつでもこの義妹がいる。

 さざ波の音が一瞬だけ、二人の間に聞こえた。
 子供達の声も、なにもかも、その音が消え、そこに一瞬だけ二人の耳の中で冴えて聞こえるさざ波の音。
 二人きりになった時、良く側で聞こえていた音だった。
 鎌倉で共に育った時も。離れてたまの逢瀬を重ねた時も。そして、また共に年を重ねていくことになるだろうこの島でも……。二人の間にはいつだって、そんな潮騒があり、共に耳にして抱き合ってきた。
 今でも、そこに少しだけ宿る甘い瞬間。そっとお互いの眼差しに交え……。さざ波が聞こえなくなったその時には、今ある二人になる。

 俺はここにいる。
 これからもずっと──。
 葉月、消えたと思ったあの日々は、今ここにある。
 俺達、あのころのように笑っている。
 今度は『新しい家族』と共に、これからもずっと……。

 純一は、心で呟き妹に笑いかけるだけ。
 またいつか。そんな心の言葉を口に出来る日まで。

「おじちゃん!」
「おじちゃま!」

 義妹の背後から、ちいさな二人もとびっきりの笑顔で、純一めがけて走ってくる。

 

 そんな『天使達』と……。
 間違えた。『ウサギ達』と今日も一緒。

 

■W×B【婿殿ライフ】 完 ■ 

 

 

★この度も、四ヶ月ほどの長きに渡るお付き合い、有難うございました^^
 沢山の投票をしていただいたリクエスト続編第一弾【婿殿】でしたが、如何でしたでしょうか? 今後の参考にさせていただきたく、アンケートを実施しております。ご協力お願い致します♪

■W×B【婿殿ライフ】アンケート■(別窓)




★最後までお読み下さって、有り難うございました。皆様の一言お待ちしております。(^^)

 

Update/2007.8.13
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