その日の午前中、欠伸をした後に溜息。
──と、いうことを何度繰り返したことだろうか?
隼人はそう思いながら、なかなか進まない事務作業と向かい合っていた。
だけれど、キーボードを無意識に打ちながらも、目の前のディスプレイには、どうしたことか『奥さん』の顔がぼわんと浮かぶのだ。
「うーん、駄目だ」
という一言も、ここ数日繰り返していた。
すると溜息が伝染したかのように、今度は隣で黙々と仕事をしていた後輩が……。
「あの……。ちょっといいですか? 中佐」
「ちょっとよくない。吉田が言いたいこと分かっているって」
毎日毎日一緒に仕事をするようになった長年の後輩、もっというと今は隼人の右腕と言っても良い補佐の彼女がむすっとした顔で隼人を見ている。
「あの、先ほどの書類……二カ所ほど間違いが。それから、昨日も二〜三件、間違っていたので直してマクティアン大佐に出しておきましたから。それから、一昨日はひどかったですね。五件ほど。書類だけじゃなくて、スケジュールの時間割を間違えたり、講義室も間違えて入ったりしたと他の教官が言っていましたよ。中佐にしては珍しいって」
「……ああ、その日が一番重症だったから」
「重症ですね。確かに」
小夜の冷めた声。いつも、そんなことを口を酸っぱくして彼女に指示して育ててきたのはこの隼人自身だった。
慌て者で落ち着きがなくて、があっと一直線の熱血女で……。『もっとじっくり腰据えて、やる前に深呼吸!』と毎度言いつけ、彼女は三十を超えた頃に見事にそれらを克服し、立派な職務女性に成長を遂げた。
隼人が思っていることも、先にやろうと考えていることも、彼女はさっと察知して見事なサポートをしてくれる。
そのオフィス系で初めての『教え子、一番弟子』とも言える彼女に、『近頃の立て続けミス』を示唆されると師匠としてどこかに穴があったら隠れたくなってしまう程に……『重症』だというのを認識したのは、昨日のことか?
だが、隼人は隣の彼女には隠そうとも思わないし、隠しても『ばれる』と分かっているから、平然とした姿を見せているのだが。
その一番弟子の吉田小夜が、今度はちょっと心配そうなしおらしい顔で隼人を見ていた。
「なにかありましたか?」
数日経って、やっと彼女がその一言を隼人に言った。
彼女が『上を目指したい』ともがいていた『女の子』だった頃なら、後先なく『なにかあったのですか!!!』と一直線に突撃してきただろうに。落ち着いたオフィスレディに成長した小夜は、隣の直属上司である先輩の様子がおかしくなっているのを分かっていても『いったん距離を置いて様子を見る』と言うことも見事に身につけてくれていた。
この数日の、彼女のさりげないフォローには感謝している。小さなミスでも『澤村中佐らしくない』と彼女の横顔がとても不安そうだったのも分かっていた。
そして日々の積み重ねで、実は気が置けない間柄になっていることも、隼人の口を軽くさせてしまうことがある。そんな信頼している彼女だから、隼人はついにここ数日、自分を狂わせている原因を呟いてしまう。
「恋している……かな」
小夜の表情が唖然と固まった。そしてこれ以上『こんなオジサンとは目を合わすまい』とばかりにあからさまに視線も逸らされてしまう。
そんな小夜の横顔、その頬は引きつっているようだ。
「は、はあ。それはそれは、確かにそこまでおかしくなるのも頷けますねえ……」
いったん力を緩めていた指の中にあるペンを握り直した小夜の手が、小刻みに震えていた。
それは戸惑っている訳でもなく、おかしくて笑っている訳でもなく。……つまり『わなわな』と怒っているが為の震えなのだと隼人も解っている上で、もう一言付け加えてみる。
「言っておくけど。吉田に……じゃないぜ?」
「あったり前じゃないですか!!! 怒りますよ!!!」
あ、昔の……。本来の彼女の顔がわあっとこちらに向けられ、隼人はついに笑い出していた。
「真面目に心配しているのになんですか!! 私をからかうのが楽しいなら、出ていってください! じゃない、とっとと『大佐室』に行って、スッキリしてきてください。いい迷惑です!!!」
隼人は『悪い、悪い』と笑って謝りつつも、『大佐室に行ってスッキリして来い』の言葉に、この後輩彼女にはなにもかも見抜かれていることに逆に驚いた。
「まったくもう。結婚して数年経っているご夫妻のくせに『恋』ってなんですか。そんなに数日間、葉月さんのことばかり? 信じられない」
「あれ? 俺まだ、誰に恋をしたって言っていないぞ? 俺の恋って奥さん以外にあるかもしれないって思わなかったのかよ?」
「思いません。だって、葉月さんより『隼人さん』の方がベタ惚れじゃないですか。『澤村』って男にふられた女の証言ですからね。私の方が確かな見解だと思いますよ」
『ベタ惚れ』って……言うなよ。と、隼人はひっそりと耳を赤くしていたようだ。
まあ、この後輩彼女に至っては、本当に隠しようもないから『恋している』なんて言ってみたのだが。半分は、そう曖昧に呟いてみて、彼女を慌てさせて面白がるのも目的だっただけに、ここまで的確に『今の俺』を指摘されてしまうとぐうの音も出なくなってしまった。
「まあ、正解なんだけどさあ。まさかなあ、結婚してこんなこともあるだなんて思わなかったからさ」
「嘘。いつだって『ラブラブ夫妻』のくせに。毎日が『恋』なんでしょ!」
隼人が降参して『正解』と認めた途端に、小夜は『もうこの話は終わり』とばかりにしらっとして事務作業に戻ってしまった。
そこで後輩彼女にも放られてしまい、隼人は再びデスクに頬杖……また溜息をこぼし、欠伸をしてしまった。
「恋煩いの溜息だけならともかく。その欠伸はなんなのですか」
「これは『夫、恋してしまう』の後遺症。それ以上は夫婦の秘密」
「……ったくもう。それほどに安泰なら安心しました! のろけるなら、外に出ていってください。今日は冷たいカフェオレの方が良いかもしれません。カフェで一息どうぞ」
欠伸の訳に『夜の営み』が絡んでいることを察した小夜は、さらに冷たい声で隼人を切り捨て、今度こそいつもの仕事姿に戻ってしまった。
隼人はまた溜息。今度は恋煩いじゃなく、後輩にまで呆れられてしまった己の有様に……。
もう隣の彼女も、ぴくりとも反応してくれなくなった。
隼人もまた、『あの晩の妻』を思い出しながら、また集中など出来やしない仕事に戻ろうとしたのだが。小夜がその横顔のまま、静かに呟いた。
「私、結婚したら『恋』じゃなくなると思っていました」
……結局。彼女はそうして最後は一緒になって考えてくれる。
きっと。大佐室の方では、この後輩彼女の恋人が、同じように妻と接していることだろう。
自分達夫妻は、この後輩カップルにこうして支えてもらっているのだと思う。
だから、今度の隼人は真面目に答える。
「俺もそう思っていたよ。ましてや……俺もあと数年で四十代、『一通りは味わった』はずのね。恋人と結婚して数年。確かに、お互いに子供を挟んで生活感が滲む中、恋人の時のような気持ちはあっても、あの頃のように無駄なぐらいどうしようもなく熱くなることも、痛いほどに思い詰めることもなくなったもんな」
「未婚の私としては、それは『恋から愛、そして家族へ』と感じていましたけれど」
「俺も……。その流れを実感していたよ。世間で言われているあのことって『なるほど。こういうことなのだなあ』とね……。当たっているもんだなあと」
そしてまだまだ恋人と婚約する気配もない小夜が、ちょっと不思議そうに聞いてきた。
「なのに。また恋人の時のように『燃える』ってことが、起きちゃったのですか?」
そして、隼人は黙り込む。
ただ、小夜の顔を見て。
その顔はどういった顔だったのか? いつも側にいる小夜がまた不安そうな顔になり隼人を見ている。
「……たぶん。俺じゃなくて、奥さんの方がいつまでも『恋』には近いと思うんだ。それに感化されただけ」
「葉月さんが『恋』……って……。あの、それはもしかして……」
隼人は小さく微笑んで、小夜に『その先は言わないで欲しい』とばかりに無言で首を振った。
小夜が今度は哀しそうに俯いた。
昔の若い彼女だったら、ここでひどく怒り出していたことだろう。
──葉月さんはひどい。澤村中佐と結婚して夫婦になったのに、まだ裏切っている。
そう葉月を非難し叱責していたことだろう。
だけれど、今の彼女はもうそれはしない。それどころか哀しく俯いたまま、どこか葉月のことを思いやってくれているような切なそうな顔になっていた。この可愛い後輩の、人の感情を我がことのように思える力は誰にも負けない。そこは元気で落ち着きがない若い女性だった時から変わらない彼女の一番素晴らしいところ……。でも、やがて小夜は呆れたような溜息をついて笑っていた。
「私も大人になったかも知れませんが。……でも、やはり葉月さんの『それ』については、理解できません。でも否定しません」
「うん、……なんていうか、有難う」
「ふふ。有難うって。中佐らしいですね。奥さんの気持ちを形を歪めず受け止めて、それどころか『守っている』のだもの。……でも、私はそんな『隼人さん』のことも『変なの』とは思っていますが、やっぱりそれが隼人さんなのだと思っていますよ。それと同じ。葉月さんも……それだから、葉月さんなのだって」
隼人が思っていることをそのまま理解してくれている愛弟子。
自分の中では決して納得することが出来ない『心情と愛の在り方』でも、親愛なる先輩夫妻の在り方は、側で目の当たりして見守ってくれている分、恋人のテッドと共に深い理解を寄せてくれていた。
「……きっと、葉月さんのことだから。ふと湧き上がってしまっても、その時は誰よりも熱く『二人』を愛しているんだろうなって。長年、側にいさせてもらっている後輩は思っているんですよ。旦那さんは奥さんを、義兄さんは義妹さんを。だけれど葉月さんは『旦那さんも義兄様も……』って、すごいエネルギーですよね、きっと。しかも片方は、ずうっと胸の奥に秘めて決して見せない愛し方なんですもの。ひた隠しにして相手にもぶつけないで、何処かでひっそりと愛して。そして旦那さんのことも真っ正面から愛してって……」
隼人は大人になった小夜のその言葉にかなりどっきり、彼女が困ったり怒ったりするのを楽しんでいた調子良い口が止まってしまった。
なかなか、葉月以上に『女の子』だった小夜が、こんな『愛』を語るなんて驚きだった。……いや、きっと隼人がいつまで経ってもマスコットのような『可愛い女の子』と思っているのがいけないのだろう。勿論、仕事も気配りも、女性的な部分も、彼女はすっかり成長し素敵なレディになったのは分かってはいるのだが。きっと義兄が葉月のことをいつまでも『おちび』と思っていたり言っていたりする気持ちは、これと同様なのだろうなと思う。そんな中でも、彼女の成長を目の当たりにする時の中では今回は大きな衝撃だった。
実は、そう。隼人が数日前から『恋煩い現象』に陥ったのは、まさにそれなのだ。
あの晩の……。奥さんの、『今私は燃えている』という愛され方に隼人はどれだけ身を焦がしたことか。まさに『このウサギめ。久々にやってくれたな!』といった感じだった。その向こうに『義兄』がちらついていても、彼の代わりにされているとか、彼への想いを振り払う為に夫を愛しまくるとか……。決してそのような『情熱』ではないことを隼人は良く知っていた。
彼女が愛に染まる時。あんなにゆったりじっくりと温め合うような触れあいの中、彼女の心がちゃんと満ちあふれている瑞々しいまでの姿が、どれだけ熱くて綺麗なものか。隼人はそんな葉月を夜の肌から知ることも出来るのだが、きっと……義兄の場合は、肌に触れられなくても肌を見なくても、そこに立っている義妹が義妹ではなくなった『匂い高き女性』として目にすることだろう。
あの日、何があったか隼人は知らない。でも、二人の間で何かがあったのだろうと思う。そしてそれが夫に対する裏切りに発展していないことも分かっていた。裏切ることの重さをとことん味わった妻は、二度と義兄への男性としての思慕で彷徨うことはないと思っている。だから、彼女は胸の奥に片隅に義兄への愛の花を、誰にも見つからないよう知られないようにと咲かせているのだから。しかしその花がぱあっと乱れ咲いて、葉月の心の中に湧き起こった突風がその花びらで彼女の心を一瞬にして埋め尽くして、熱い恋しい香りでいっぱいにしてしまうこともあるのだろう。
きっと、そんなことが起きたのだ。
あの晩の妻の柔らかい愛は、決して、片方をひた隠しにするものではなく、片方を振り払う為の乱暴なものでもなく……。小夜が言うとおりに隼人の目の前に柔らかい愛を見せてくれたその前に、もう……妻はどこかで、もう片方の愛をどこかに解き放ってきたのだと。そしてそれは義兄の心でも体でもない、どこか他の場所に。だから隼人の目の前にしっとりとした裸体で現れた時の葉月は、『空っぽ』で真っ白になっていると感じられた。だから、そう思いながら隼人は妻の愛を受けとった。
義兄が向こうにちらついていることを日頃は見ないようにしているのに、妻に愛されている最中、そんな彼女を眺めながらも隼人はその時はごく自然に義兄のことを考えていた。夫の上で揺らす白い身体と濡れた瞳の悩ましい顔。自分が今愛している男『夫』が、自分という妻の向こうに別の男を見透かしていることを分かっている顔で静かに微笑んでいた。そして隼人もそんな妻の身体を『彼女の愛の形』を確かめるように静かになぞって、微笑みかける。
もしかすると、『考えるもんか』『考えてはいけないわ』などとお互いに清くあろうと禁じている時なんかよりも、ずうっと近くに感じずうっと深く繋がっているような気がする。そんな一夜だった。
隼人の方はそんな『愛』をみさせてもらったのだが、純一も何かの『愛』を見たはず。きっと、隼人と同じように今頃『恋煩い』をしているに決まっている。……あんな『俺達の葉月』をみせられてしまっては。
つまり……。そういう『熱にうかされて』という数日。
今まで小さな余波は何度もあったが、まさか結婚して『これほどの大波』がくるとは予想外。
毎日、毎日、奥さんの女性としての顔がちらついて仕方がない。もっといえば、あの晩の全てが。しかも数日が経っても、奥さんはしっとりと甘く色めいた匂いを漂わせていて、見ているとどうしようもなく胸がときめいた。本人はそんな愛色に染まりながらも、ちょっと切なそうに落ち込んでいる顔を見せることもあるのだが。それがまた……どうしてそんな顔をしてくれるのだと、見ているこっちも若い青年に戻ったように切なくなってしまう。
近寄って抱きしめたいのに、抱きしめられなくて。でも夜になり、そんな愛の匂いを振りまいている彼女が横にいたらどうしようもなくなって……。あれから数日は毎晩、強く甘く匂う彼女の肌に手を出していた。『おかしいわね、私達』と笑っている余裕があるところを見ると、切ない想いは引きずってはいても、今回の激しく巻き起こった愛の嵐から逃げず、自分を誤魔化さずに『覚悟を決めて』正面から向かっているのだと伝わってきた。
それがまた、なんというか、『置いて行かれたくない』とか『お前の情熱に俺も負けるものか』なんて感化されたりして。本当にどうしようもない状態なのだ。
(ここ数日、義兄さんの姿も見ないし……)
おそらく向こうも、葉月を見ると大変な状態になるのだろう。
暫くは、義妹の葉月が見えないところに隠れてしまったと思われる。
「吉田。ほんと、俺、冷たいものでも飲んで頭冷やしてくる」
「そうしてください。中佐のそうした恋する顔、久しぶりに目にして見物でしたけれど……ちょっと見ていられません」
可愛かった小夜ちゃんは、今は、しとやかレディの小夜さんの笑顔で隼人を送り出してくれた。
・・・◇・◇・◇・・・
勤務時間帯で空いているカフェテリアで、ほっと一息。
一人でアイスカフェオレを、窓際の席で輸送機の離陸を眺めながら味わう。
まあ、こうしていても……結局、このカフェに人が来るたびに『ウサギが来たかも』なんて目線を向けて気にしているところが、また『重症』。
それでも、今は仕事が手元にないから支障もないかと、隼人はまた溜息をこぼしてひたすら窓の外の景色だけに集中した。
ところが、この後直ぐにこの人もまばらなカフェテリアに現れたのは期待していた妻ではない、他の人物だった。
その男に隼人は窓辺を眺めている背中に声をかけられた。
「良いご身分だな、隼人。お前、御園の一族らしく『サボタージュ』が上手くなったんじゃないか?」
この基地で、この様な姿を一番見られたくない男の声と気が付いた隼人は、苦笑いで振り返る。
「れ、連隊長……」
「俺もこの特等席、座って良いかな?」
金髪の若将軍、ロイがそこにいた。
隼人にとっては彼も『一応』義兄という関係に……。
彼はいつもの側近を従えてそこに立っていた。
しかし、この日のお供はどうやら水沢少佐のようで、彼はトレイに二つの珈琲カップを乗せてロイの隣に立っている。
隼人は『そっちも隊員勤務中の自由なお茶をしているじゃないか』と思えども、言えるはずもなく。笑顔で『勿論、どうぞ』と向かいの席を勧める。
ロイが水沢を伴って窓際に座る。
「申し訳ありません。サボっている訳ではないのですが〜」
と、隼人はちょっと言い訳がましく言ってしまったのだが、珈琲を飲み始めたロイは笑っている。
「分かっているって。不規則に動き回っている訳も。ちゃくちゃくと進んでいるようでなにより」
「有難うございます」
四中隊を卒業し、工学科に来てから数年。地道にその準備に着手している。
もちろんロイは隼人のその動きに合わせて、バックアップをきちんとしてくれていた。
空部隊が出来るということは、陸部隊も出来ると言うことだ。小笠原の中隊割りも編成も大きく変わる。隊員達全員が大異動ということになるだろう。フロリダ本部をお手本にそれぞれの本部隊を設置して……という大がかりな作業の最中。他の隊員達が日常業務をこなしている間、隼人はそれと見せかけて一人で奔走していた。だが、一人じゃない。後ろにはこうしてロイもいるし、空部の関係では佐藤大佐がいる。そして工学科に所属している中での融通はマクティアン大佐が。
「まあ、自由にやってくれ。俺はお前には全面的に任せてOKだと思っているから」
ロイの全面的信頼の言葉に、隼人はやっとほっとした笑顔を浮かべる。
サボタージュではなく、休憩と見てくれたようだ。隼人は再び『有難うございます』とロイに礼を述べた。
するとそのロイが、珈琲カップを傾けつつ外の滑走路整備員が走る姿を見下ろしながら、ぽつりと言う。
「マクティアンももうすぐ退官だな。いよいよか。隼人、今度こそ覚悟を決めておけよ」
ロイのその言葉に隼人は固まり、返事はしなかった。
『覚悟を決めておけ』──。つまり、マクティアン大佐が退官した後は、『工学科科長室の長は、お前だ』とロイが言っているのだ。それだけじゃない。老年の大佐が去った後、その席はまるまる隼人に受け継がれるという話も打診も既にあった。つまり『大佐に昇進する』ということだ。
「お前のことだから、葉月が大佐である以上中佐でいたいといいそうだが。これからお前がやろうとしていることに対しては、その大佐というポジションは大きなプラスになると分かるだろう? 葉月に一日でも早く空部隊を送り届けたいなら、大佐になった方が良い。それぐらいは分かっているな」
分かっている。やや、違和感があるし、自分の理想とは離れてしまうが……マクティアン大佐が退官する以上、今の隠れ蓑のような中佐のポジションに甘えることはもう出来ないだろう。工学科に異動する際に、ロイに釘を刺されたのはそこだった。『マクティアンが退官後は工学科はお前に任せる。いいな』。その言葉に頷いて、四中隊を出してもらったのだ。
「分かっています。ですが、そのままでは私は納得しませんので、彼女のこともお願い致します」
ロイがそこでいつにない真顔に固まる。
彼は珈琲を飲みつつも黙ってしまった。
つまり、隼人が今『連隊長』に堂々とお願いしたのは『彼女と同じ大佐では困る。それなら彼女を昇進させて欲しい』という大それた事だった。幾ら義兄弟の間柄とはいえ、簡単に言ってはいけないものもある。これもそのうちの一つだと隼人は分かっていて言っている。
「それはそれというところだな」
「いえ、私は譲りませんから。もし同じ大佐になっても、それは一時期であると思っていますからね」
だからとて退くつもりもなく、隼人はロイに念を押す。
ロイも軽々しく答えられない立場であるからぼかしていることを、隼人も重々承知の上。だがそれでも『きっとこの人も分かってくれている』という過信も禁物だ。だから毎回、大佐昇進の話が出ると女性将軍誕生の話を付け加えて押しているのだった。
「お前、本当に相変わらずだな」
しかしロイは最後に楽しそうに笑って、珈琲を飲み終えたようだ。
その間、隣にいる水沢少佐はいつもの如く黙って静かに微笑んでいるだけだった。
その水沢を見た時、隼人はふと思った。
そういえば? 義兄だけじゃなく、近頃、ホプキンス中佐の姿も見ていない気がする……? と。
「あの、ホプキンス中佐はどこかへ出張にでも? 近頃、見かけない気が……」
すると、ロイだけじゃなく、いつも微笑んでいる水沢までもが、ぎくっとしたように同時に固まった。
「ああ、まあ……。しゅ、出張かな」
ロイの妙な誤魔化し笑い。
なんだか胡散臭いなあと隼人は感じた。
しかも直属の上司が、しかも自分の周りを自分の片腕として守って固めている主席側近を捕まえて『出張、かな』とはなんだと隼人は眉をひそめた。
それにいつも落ち着いている水沢の、ちょっとしたその動揺ぶりも……気になる。
「さてと。ヒロム、行こうか」
「は、はい。連隊長」
おまけに二人でそそくさと去っていこうとする。
隼人の昇進には威厳ある顔で諭していたロイが、今度は妙に情けない去り際をみせているではないか。
「あの、婿として聞きますが。また、なにか?」
今度は隼人が確固たる顔でロイを見ると、流石の彼がちょっとおののいた顔。
それを見せられる方が、隼人にはどっきり大事のような予感!?
「隼人、悪い。俺にも止められないリッキーがいるんだ。これに関しては俺はタッチすらさせてくれないんだ!」
ロイは途端に、妻の美穂に言いくるめられているような弱腰のお兄ちゃんになってしまって、隼人の方が唖然とした。
しかも隣にいる水沢までもが、ロイの味方をするように『そうなんだよ、御園君』とうんうんと頷いているのだ。
「今回のことで、秘書室ももう大変だったんだよー。あのリッキーが私情を挟んで勝手な行動をするなんて、俺はやっぱり『皐月』は恐ろしいと思う!」
あのナンバーワン秘書官のリッキーが、それほどになっていると聞いて隼人は驚いた。
しかもその原因が、彼が今でも胸に掲げている『皐月クイーン』のせいだと聞いて、御園の婿としてまた驚く──。
「たぶん、もうそろそろなんじゃないかと」
「なにがですか!?」
それ、義兄の純一からも聞いていないぞと、隼人は席を立って去っていこうとするロイを引き留める。
そしてその話を聞いて、隼人はさらにさらに驚き……。しかし……。
「分かりました。それでかまいませんから、こっちによこしてください」
と、啖呵を切っていた……。
いや、その話を聞いて『ついに来た』と思えたからかもしれなかった。
受けて立ってくれた隼人に『心苦しさが軽くなった』とロイがすがってきたのには、本当にどれだけのことが連隊長室と秘書室であったのかと思ってしまった。
まったく……。恋煩いの余韻に浸りすぎて頭を冷やしに来たのに、また落ち着かなくなってしまった。
ロイと別れた後、隼人は工学科に戻る。
帰る道、『そういえば、近頃、義兄さんから連絡がなかったのはこれもあったのか』と思ったり、『ホプキンス中佐なら、任せても良いと義兄さんは思ったのか』とか色々と頭に巡った。
そしてその『リッキーの出張』とやらは、早速、その日の午後、隼人のところにやってきた。
午後の講義を一つ終えて、科長室に戻ってきた時だった。
小夜がとても緊張した様子で、小さな応接テーブルにお茶を出しているところだった。
彼女が隼人を見た途端に、ほっとした顔をするほどに、なにやらあったらしい。
そして隼人がその応接テーブルにいる客を見ると……。
そこには、あの岩佐と篠原会長が並んで座っていた。
隼人は驚かなかった。午前中にリッキーがどんな『出張』に行っているか聞かされていたから……。
しかし、彼の側には今まで笑顔ばかり見せていたリッキーが決して見せたことのない凍った恐ろしい顔をしていたのだ。
「御園君、こちらのお二方がお会いしたいというので、ここまでお連れしたよ」
「そうですか」
口調はいつもの彼だったが、一語一語がとても強く聞こえる。
どこか怒りを抑えているかのような……。
リッキーだから、この軍内まで彼等を引っ張ってきたと隼人は思えた。
彼等自ら、ここに足を運ぶように。それがどうやらホプキンス中佐の誰にも譲れない『出張』だったようだ。
さて、この二人、何をしに来たのか。
そして、婿殿、どうする?
隼人は自問した。
Update/2007.7.4