ついに帰る日が来た。
「マリア、大丈夫?」
「うん。平気よ。葉月」
大佐嬢である葉月が、マリアがフロリダまで帰る手続きを一手に引き受けてくれた。
どんな飛行機で帰らねばならぬのかと案じていたら、葉月が手配してくれたのはなんと、純一のプライベートジェット。彼女等がアンディの結婚式でフロリダまで来た飛行機で送ってくれるというのだ。ひとつの部屋のようにゆったりしているし、黒猫傘下の医師も同乗してくれると聞いて、マリアもほっとし、あとは本当に彼女に任せっきり。マリアはただ、葉月が教えてくれた日時に合わせて、荷造りをしただけだった。
そうして帰る日が瞬く間に来て、葉月が宿舎まで迎えに来てくれたのだ。
お腹に子供がいる為、葉月がスーツケースを引きずってくれている。
マリアは手荷物の小さなバッグだけを握りしめ、葉月の後をついていくだけ。
お腹に子供がいると判って数日。
連絡がつかなかった彼が見つかってみれば、いつもの如く仕事でとても忙しい状態のようだったから、短い報告だけをして、それからはまた今までと同様にコンタクトを取らないよう心がけた。
でも……。葉月が言ったとおり、『つわり』が日に日に頻繁になってくると、その度に少しだけ不安になったり寂しくなったりする。
あのジャッジ中佐の妻になると決めたのなら、こんな事だって自分一人で頑張って、そして子供を守っていくという決意がなくてはならない。そうでなければ、あの男の妻に相応しくはないのだとマリアは言い聞かせる。
でもやっぱり、心細い。彼に今すぐ抱きしめてもらえたら……。あの優しい声で『マリー』と甘く呼んでもらえたら、それだけで安心できるのに。
今までは彼がいなくてもなんとか乗り越えられてきたことが、このように弱気になってしまうのは、妊娠のせいなのだろうかと思わずにはいられないほどに情緒は乱れるばかりだった。
「マリア。無理しない方が良いわよ」
「無理なんてしていないわよ。もう仕事もしないで宿舎でごろごろしていただけ。じっとしているの苦手だから、もう懲り懲りよ!」
いつもの強気で意地を張ってしまったが、葉月はもうマリアの本心などしっかりと判っているよう。ちょっと致し方ない顔で『マリアらしいわね』と笑っていた。
「でもね、マリア。私が言っているのは身体の事じゃないのよ。気持ちのこと……」
マリアはどきりとさせられる。
こんなに心細くなって、マイクに寄りかかって存分に甘えたくなっているだなんて気持ち。もしや見抜かれているのかと感じた。
そして葉月はその通りの事を口にした。
「マリアはいつも『私は平気』、『私はなんとも思わなかったから気にしないで』とか『それっぽっち大丈夫』と、他の人が気にしないように明るく収めてしまうでしょう」
「そ、そうかしら?」
やはり、見抜かれていた。
しかしながら、マリアは見抜かれて当然かもしれないとも思った。何故なら彼女は既に立派なママだ。妊娠中のこんな気持ち、良く知っているからこそ見抜いているのだと思う事が出来る。だからマリアは素直に、葉月が言ってくれる事に耳を傾けてみる。
今度はつい──。いつもはちゃんと明るく流せるところで、つい切り口上になってしまい、マリアは我に返った。これも妊娠のせい!?
「ご、ごめんなさい。葉月……!」
「ううん。そんな言い方で、はっきりと言って欲しかったの」
葉月はどこか満足そうに笑っていた。
「いつもマイクと喧嘩しているマリアは、私達よりずっと大人のマイクと対等になるようにしているんだと思うのだけれど。そうじゃなくて、子供みたいに甘えたくなっちゃう時──そんなふうに、どんどんやって欲しい事を口で言って甘えてみたらいいと思うわよ。マリアは、マイクの事を仕事人間と思っているみたいだけれど、ほんのちょっと違うのよ」
どこが違うのかとマリアは首を傾げてしまう。
あの男の命は、中将秘書室の秘書官であること。
それのどこが違うのかと思ったのだが……。
「マイクはね。『守りたいものを懸命に守る』。それが彼の生き甲斐なの。私の両親が軍にいた時は『御園を守る』、今はマリアのパパがボスになった『ブラウン中将室を守る』。──今度はね、『妻とベビーを守る』になると思うわよ。あのお兄さんは『守る人』なの」
それを聞かされて、マリアは初めてはっとさせられた。
そうだ。彼はいつだって『守る』ということに懸命な人だと。
「秘書官でありたい訳じゃないと思うの。守りたい形が今までは中将室にあっただけなのよ」
そうかもしれないとマリアも思った。
でも──。あの彼が仕事より家族だなんて、考えられなかった。でもそこはマリアも覚悟している。そこにはやはり『基地一番の秘書官』と誉れるジャッジ中佐でいて欲しいという願いがあるからだ。
「マイクだって本当はマリアからいっぱい甘えて欲しいと思っているはずよ」
「そうかしら。自立している方が、あの人の負担は少ないと思うけれど……」
「私なんて、十代の頃から、マイクにはいっぱい甘えてきたけれど、どんなことも受けとめてくれたわよ。それこそなんでも。いつだって甘えさせてくれて、上手につきあってくれたわよ。とっても面倒見の良いお兄さんだったもの」
それは、葉月が妹分だからよ──と、マリアはそう思っているのだが。
「まあ、でも……。マイクが本当に何を大切にしてくれているか、直ぐに判るわよ」
妙に勝ち誇ったような笑みを、葉月が浮かべていた。
彼女は、ご機嫌な鼻歌交じりで歩き進んでいく。
マリアのスーツケースをごろごろと引いて、女子宿舎の廊下をどんどん進み、ロビーまで持って行ってくれる。
もうすぐ外に出る。葉月がそのまま宿舎のドアを開けた。マリアも彼女が開けてくれるドアを出て、宿舎を後にする。
これから基地を出た外にある民間の空港に向かうのだそうだ。純一のプライベートジェットはそこから飛び立つ手続きをとってくれたとかで、今からはそこへと葉月と隼人が送ってくれる。隼人は外で車を用意して待っていてくれているのだそうだ。
そのお迎えの車が待つ外へと出た。
そこにはジープが一台と、黒塗りの車が一台停まっている。
「ほら、お迎えよ」
外に出て直ぐに、葉月が満面の笑みで正面に停まっている黒塗りの車を指した。
そこには純一がいて、隼人がいて、そして見知らぬ黒いスーツの男性が一人、二人。そして、もう一人。最後の男性は軍服だった。しかも黒髪の……。
その黒髪の彼と目が合って、マリアは心臓が止まったのかと思うぐらいに驚くことに……。
「マリー!」
黒髪の、目が青い、マリアが良く知っている人。
先ほどまで、直ぐに私を抱きしめて安心させてと欲していた人。
マリアの瞳が一気に熱くなった。そしてあっと言う間に熱いものが沢山溢れ出てきてしまい、黒髪の彼が駆け寄ってくる姿が滲んでしまった。
「ね。仕事ばかりのお兄さんではなかったでしょ」
傍に寄り添っていた葉月が笑顔でそう言って、マリアの背をそっと押してくれた。
『有難う、葉月』──。マリアはそれだけ呟くと、そのまま真っ直ぐに向こうから駆けてくる男性へと、自分も駆け寄った。
「マイク!」
手と手が触れ合うと、彼がすかさずマリアの指を握りしめ、力一杯にその胸の中へと捕まえてくれた。
「迎えに来たよ。マリー」
マリアも、今度こそ。今度こそ、自分から彼の胸の中に飛び込んだ。
いつだって突撃の女。これからは、彼の胸の中にも遠慮なく突撃する。
愛しているから、突撃する。
それが彼が良く知っているマリアだから。
・・・◇・◇・◇・・・
黒い車の、ゆったりとしている後部座席へとマリアは乗り込む。
「マリー、気分は大丈夫かい」
その隣にすかさず乗り込んではマリアの肩を抱きしめてくれるマイクに、ちょっと照れくさくなって小さく頷く。
「兄様、ゆっくりお願いね」
「ああ、任せろ」
助手席には葉月が乗り込み、運転は純一が自らやってくれるようだった。
この黒塗りの車の前方に止まっていたジープに隼人が乗り込む。まだマリアが知らない黒いスーツの男性二人と一緒に……。御園の誰かなのか、軍の隊員なのか分からないが、彼等もついてくるようだった。
純一が自ら運転をしてくれる車、その前のジープが先導するように動き出した。
こちらの車が動き出すと、マリアの肩を抱いているマイクがその胸にきつく抱きしめてくれる。
目の前に、葉月と純一がいるが、二人は兄妹らしい他愛もない会話をしながら前を見ているだけ。その隙に、マイクにこれでもかというくらいに腕の中に囲われる。
制服の広い温かな胸が、先ほどまで情緒を揺らしてばかりだったマリアを無条件にほっとさせてくれた。
マリアもその胸に、そのまま抱きついて、頬を埋めた。良く知っている彼のトワレ、そして彼独特の匂い。ここはまだ小笠原なのに、もうフェニックスの家に帰ってきたかのような気持ちにさせられ、マリアはまた涙をこぼしていた。
「マリア。無茶な仕事を、まるで賭け事のように押しつけてしまって後悔している」
「ううん。確実に私のステップに繋がったのよ。なのに……。最後までできなかった事だけが……」
「言わないでくれ。可能性がある事を軽視した俺が一番悪い。しかもこんな遠い場所で、マリア一人を不安にさせる状況をつくってしまったの全部、俺だ」
違うわ。違う。
涙がこぼれるばかりで声にならないマリアは、とにかく彼の胸で懸命に首を振った。
「……最初から、私が。自分の中にある本当の気持ちを素直に伝えていれば……」
「いいや。俺がマリアのペースを掻き乱してしまったんだ。でも、待てなかったんだ。本当に──」
「貴方ももう、何も言わないで……。私、今、とても幸せ」
今度はマリアから、両腕いっぱいにマイクに抱きついた。
彼の手が、優しくマリアの栗毛を撫でる。『俺もだよ』と囁いてくれるマイク。マリアはその顔を見上げて、微笑み返した。
彼もまた、幸せそうに微笑んでくれている。マリアはもう、ただただ彼に抱きついて抱きしめられて、今まで自分の中で頑なに守っていた砦が今ここで崩壊していく感触を覚えた。
警備口を出た純一の車は、前方を走るジープの後を追うように海岸線を走る。
基地を後にして民間空港に向かう道沿いは、フロリダの海にも負けない珊瑚礁の海。
この小笠原に来るたびに、マリアはこの海を見て感激するのだが、今回もこれで見納めかと外を眺めつつも、その前方のジープが見えるたびに心にあるものがひっかかる。
特に。軍服ではない金髪の男性と隼人は後部座席で親しそうに顔を向け合い会話をしているのが見て取れたからだ。
「あの、あちらのスーツの男性達は?」
肩を抱きしめたまま離してくれないマイクに尋ねてみたが、彼はちょっと困った顔になり、何故か純一を見た。
するとハンドルを握っている純一が代わりに答えてくれる。
「俺の補佐をしている『黒猫の部下』だ。二人がフロリダまで送ってくれる」
『え』と、マリアは固まった。
純一の飛行機だから、彼が乗って送ってくれると思っていたからだ。
『黒猫』の存在は既に知っている。彼等なくして御園は有り得ないとマイクが言うくらいに、影からのバックアップ力は強大なものなのだと。しかし、その彼等が『裏に近い人々』ということもマリアは分かっていた。
『黒猫族』を目にしたのは、『純一』が初めて。だから、それもあって『怖かった』と言うのもある。
けれど、純一はまだ『御園の婿』というファミリー的な匂いがあるから『裏世界の男』というイメージからは緩和されているが、『彼等』は……マリアにとっては本当に今までなら無関係の……遠い世界の……。見知らぬものにマリアは徐々に恐ろしくなってきてしまう。
「マリア、大丈夫よ」
また、妹分の葉月に本心を悟られてしまい、マリアはびっくりおののいた。
「あの『お兄様達』はね、私にとっても家族同然なの。ほんっと、ここにいる純兄様やマイクより、ずうっと優しくて頼り甲斐があるわよ」
「なんだと、チビめ」
「なんだってレイ? この優しいお兄さんを差し置くだなんて心外だなっ」
いつものイタズラお嬢ちゃまの顔になった葉月。
純一とマイクが直ぐさま反論。
でも、マリアは『優しい男性達』には見えなかった。
「それでも。なんだか、ほら……雰囲気が……独特というか……」
「それぐらいじゃないと、黒猫さんにはなれないのよ。ね、兄様」
基地の道をゆっくりと車を走らせている純一に、葉月が可愛らしい妹の顔で微笑みかける。
純一はその時、いつもあの怖い顔をどこへ捨て去ってしまったのかと思うほどに、優しい笑顔に変わる。マリアはそれを、もう何度も見てきた。
純一はその顔で、フロントミラーで目が合うマリアにも微笑みかけてくれた。
「俺の兄弟と言っても良い。長年共にしてきた男達だ。他の男共にマリアの事は任せられなくてね。パイロットも俺のファミリーだ。安心してくれ」
純一がそこまで言うなら、まあ、ちょっと腑に落ちないところもあるが、なんとか納得したマリア。
隣に寄り添っているマイクも、まだマリアが安心していないことを見抜いているようだった。
「マリー。俺も彼等とは付き合いが長いし、親しいんだよ。いいかい。これから俺の奥さんになると言う事は、御園の影を支えている彼等とも親しくなると言う事なんだよ」
──『俺の奥さんになる』!
分かっているのに。
自分から『結婚する』と彼に言い切ったのに。
でも改めて彼自身の口から結婚をするのだという言葉が出てきたことに、マリアはどうしてか驚いてしまっていた。
「あの、それって。私がマイクと同じ……御園の、仲間になるってこと?」
一人だけ途方に暮れたように呟くマリアに、助手席の葉月が振り返り、そして純一もマリアと目が合うフロントミラーをちらりと見た。
「今更何よ。マリアったら。ねえ、純兄様」
「そうだぞ。マリア。ブラウンの親父さんが若い頃から、御園とブラウンは元々深い縁じゃないか」
それはそうなのだろうけれど──と、マリアの思うのだが。そうではなくて、この隣にいる御園家の核心を担うブレーンでもあるマイク=ジャッジの妻になると言う事が、どんなことなのか。それを『黒猫』と対面できる位置に来た今となって、初めて肌でひしひしと感じてるのだ。
それは本当に『表』と『裏』の境界線に限りなくいるということ。
この夫になって欲しいと思った男性が、実はそこにいるということ。
そして、それはこれからは自分も。もしかして将来……お腹の子も?
「マリア。怖がらなくて良いのよ。そうね、こう言えばいいかしら。貴女のお父様であるリチャードおじ様ほどの地位にいることは、『ただありのままに』という心構えでは直ぐに潰されてしまうものなのよ。それに『中将』という地位はリチャードおじ様だけのものではないのよ。マイクのように、周りにいるブレーンも含めての『一組織』。お父様が転落する事は、お父様を守っている沢山の部下達も墜落していくことを意味するの。黒猫はそれを守ってくれるのよ。貴女はこれから中将のお嬢様であるだけじゃなくなっていく。貴女の力だけでは子供を守っていけない事も出てくると思うわ。それは私もね。『地位を持つ』とはそんなことなのよ。家族で守っていかなくちゃいけないの。黒猫は、私達の家族だわ」
葉月の言葉に、マリアは自分がこれからどのようなところに流されていくのか、初めて知らされた気がした。
それはとてつもなく恐ろしい事であり、そしてそれは逃れられないものでもあるということを実感させられた。
でも、怯えるマリアに葉月は大佐嬢の顔で言った。
「私も子供がいるから同じよ。先の見えない事が私も怖い。自分だけの事ならどうにでも。でも、子供が傷つくのは自分が傷つくより怖いものよ。きっと、これから先、ずっとこれが続くわ。だから、マリア……一緒に頑張ろう」
自分だけじゃない。一番仲良くして欲しいと願っていた女の子も、母親になっても同じ不安を常に持っているのだと分かって、マリアはやっと微笑みを浮かべる事ができた。
「おい、マイクもなんとか言ったらどうなんだ。お前、妹分の葉月に嫁さんのケアを任せっきりだなんて、不甲斐ない旦那になりそうだな」
淡々と車を運転する純一が唐突に言い出した事に、マリアの肩を抱いているマイクがハッと飛び上がったように背筋を伸ばした。
「マ、マリー。全力で守るよ」
取り繕うマイクに、マリアは苦笑い。
でもこれはマイクから聞くよりも、葉月から聞いた方が安心できる話ではあった。
「マイク、おっそーい」
それでも葉月も、しらけた目でマイクを非難。
しかし次には、またイタズラお嬢ちゃまの意地悪な笑みを浮かべる葉月。
「それにしても。マイク兄様が、こーんな大胆だなんて知らなかった!」
「レイ。それは……。いや〜、どうしてこうなったのかな、お兄さんも分からないんだよー」
葉月がにやにやと、マリアの肩を抱いたまま離さないマイクを見たり、マリアが無意識に手を置いているお腹を見たり。
いつも生意気な口で切り返してくる葉月には仕事以外では弱いのか、マイクは照れるばかりですっかり小さくなってしまっていた。
「マイクもパパね。おめでとう!」
「頑張れよ。マイクもマリアも」
二人の祝福に、マイクとマリアは顔を見合わせてやっと微笑み合っていた。
そう。私はこれから、どんなことが起きてもこの子を守っていかなくちゃいけない。
自分の力なんてちっぽけなもの。足りない事もあるだろう。それが不安……。自信なんて絶対に持てない。
でも、私には家族がいる。血縁でなくても、ファミリーとして頼れる人々がいる。
・・・◇・◇・◇・・・
車は小笠原島内にある、民間空港へとたどり着いた。
この島にある唯一のエアポート。小さな滑走路が一本あるだけの……。
しかしそこには立派なジェット機が一機、悠然と太陽の下光り輝き君臨していた。
それを見たマリアは唖然とする。
御園とか黒猫の規模が想像つかなくなってきた。
「悪いが。時間が押している。直ぐに搭乗してくれ──」
純一が厳しい表情でマリアではなくマイクを急かした。
マイクもその意味が分かっているようで、マリアをエスコートする手が少し焦っている。
黒スーツの男性二人も、タラップへと駆け足で行ってしまった。
『きっちりとした時間割』は、他の航空会社との掛け合いもあり、厳守との事。
車を降りたマリアは、直ぐに離陸するとのことで慌ただしく中型のジェット機へと促されてしまった。
まだ、葉月と隼人とじっくりとお別れを言っていない。
ひとときもマリアを離さないマイクの足もタラップへと向いているのだが、でも、二人の背後を見送る御園若夫妻へと振り返ってくれた。
「レイ、隼人君。業務上でも騒がせた上に、慌ただしいままこうして帰ってしまうだけで申し訳ない。でも今回は本当に有難う」
葉月と隼人は揃って『とんでもない』と笑った。
マリアもしんみりする間もないこの時間を口惜しく思いながらも、別れを告げる。
「葉月……。いろいろ有難う」
「いいのよ。御礼は無事についた報告をしてちょうだい」
「隼人中佐も、有難う」
「俺も奥さんと同じ。元気な子が生まれた事を報告してくれたら、それが一番安心だ」
『元気な赤ちゃんを』──。
夫妻が口を揃える。
子供を一人得るまでに、様々な困難を乗り越えてきた二人の言葉に、マリアは神妙に頷いた。
今度はいつ、この小笠原に来られるのだろう。
今度はいつ、この大好きな妹分と会えるのだろう。
それが遠くなるような気がしてしまう程に突然の帰国になってしまい、マリアはここにきて急に後ろ髪を引かれるような思いに駆られた。
葉月の姿が遠くなってくる……。でも、マイクがマリアを連れて行く力にも逆らえず、瞬く間に飛行機のタラップに連れて行かれた。
そこには先ほどの黒スーツの男性が二人、物腰低い姿勢でマリアとマイクを待ち構えていた。
純一は入り口のタラップまで付き添ってきてくれたのだが、マイクとマリアがタラップをあがっても、彼だけは階段の下に立ち止まりあがってこない。
「ジュン、兄様……」
彼との別れが来た事を知ったマリアが振り返ると、純一が微笑みを見せた。
「マリア。俺は『お騒がせ女』には慣れているつもりだったが。思わぬ驚きに唐突さ。皐月を思い出すようで楽しかった。また会おう」
軍人ではないけれど、黒いスーツ姿の純一が敬礼をしてくれた。
「お兄様も、有難う。フロリダにお仕事に来た時には、絶対に私に会いに来てね。絶対よ」
会いに来なかったら、もの凄く怒るからと付け加えると、純一はそれも楽しそうに笑い飛ばしてくれた。
「会いに行く。まあ、マイクを困らせるような刺激が強い突撃も程々にしておけよ。赤ん坊に触るぞ」
『なによ』とマリアは思わずむくれてしまう。
いつも葉月には意地悪な切り返しをしている純一。しかしそれは義妹に対する親しみを表すものだとマリアも既に知っていた。
それがついに自分の所にも根付いてきたかのようだった。だから、マリアは最後には純一と一緒に笑っていた。
「元気な子供を。祈っているぞ、マリア」
「有難う、純兄様──」
純一との別れを済ますと、金髪の男性に『お急ぎください』と急かされた。
マイクと共についに機内へと踏み入れる。
「ジュール、エド。頼んだぞ」
「お任せください。ボス」
「行って参ります、ボス」
出入り口の扉を兼ねているタラップドアがついに地上から離れ、閉まろうとしていた。
滑走路の向こうにいる葉月に隼人、そしてタラップの下まで送り届けてくれた純一の姿が徐々に見えなくなってくる。
その扉はついに閉じられる。マリアはここでちょっと涙を浮かべてしまった。
「ではお部屋までご案内致します。こちらへどうぞ」
金髪の男性の、優雅な身のこなしを目にして、マリアは固まった。
先ほどまで、凄く怖い裏世界を行き来している黒猫の男と思っていたのに、葉月が言ったとおりにこの物腰の柔らかさはその仕草ですぐに伝わってきた。
そんな彼等も迫る離陸時間にむけて、テキパキと動き始め、マリアはあっというまにゆったりとしているリクライニングソファーのようなシートに座らされてしまった。
隣には勿論、マイクが座る。
「手短に同乗する者を紹介させて頂きますね」
戸惑っているマリアの前に、金髪の男性と、そして栗毛の男性、さらには白いパイロットのシャツを着ている栗毛の女性が並んだ。
「私はジュールと申します。こちらはエド。このジェットをフロリダまで操縦するパイロットのナタリーです。私はナタリーの副操縦士を務めますので、飛行中はコックピットにおります。飛行中のお世話はこちらのエドが──。彼は医師です。マリア様の体調管理と接待をさせていただきますので、なんでも遠慮なくお申し付けください」
『ジュール』という彼がそこまでいうと、栗毛のエドとナタリーも共に深いおじきをしてくれた。
マリアもなにか御礼をと思ったのだが、彼等はそこまでの挨拶が終わると、さあっと行動に移ってしまった。物腰柔らかいけれど、素っ気ない?? 隣で肩を抱いているマイクが、そんなマリアを見て致し方ないとばかりに笑った。
「彼等はジュン先輩の側に常にいる本当のブレーン。徹底振りは半端じゃなく、あれだけの人材はおそらく軍隊にもいない。俺も勝てないんだ」
それだけシビアな人達だという事らしい。
あとでマイクから聞かされたが、こんなに腰が低い接待をしてくれたのに、三人とも大きな企業をいくつも担う実業家と聞いて驚いた。
徹底することがどのようなことなのか。下積みで掴んだ感覚を基礎にいつまでも忘れないことが大事なのだという事を、彼等を見ていつでも思い出すとマイクは言った。
「では、出発いたします」
エドも後方のシートに座り、シートベルトを締めている。
いよいよ出発──。
滑走路の向こうに、小笠原の海。
動き始めた飛行機の窓から、遠くで見送る御園若夫妻と純一の姿が見えた。
また今度。マリアは窓に顔を押しつけて小さく呟く。
『離陸の助走に入ります──』
スピーカーからパイロット・ナタリーのアナウンス。
黒猫ジェットがエンジン音を呻らせ、がたがたと小刻みに揺れ始める。
どんなにゆったりとしている室内でも、やはりそこは他の旅客機と同じで、マリアは少し怯える。
お腹の子──。
ちょっとの揺れでも落ちてしまわないか。
ちゃんとしがみついてくれているのか。
そんなちょっとしたことが何でも不安になってくる。
「大丈夫だ、マリア」
気が付けば、隣に座るマイクがマリアの手をしっかりと握りしめてくれていた。
飛行機が滑走路を走り出す中、彼が頼もしい眼差しでマリアを見つめてくれている。
窓辺の景色が瞬く間に過ぎていく様を見れば、黒猫ジェットが如何に恐ろしいスピードで走っている最中か、また不安になっただろう。
でも──。今のマリアが見ているのは、いつしか愛するようになった深海の瞳。それをただただ見つめているだけで、彼の言葉通りになんでも大丈夫のような気になってくる。それだけ、安心感を覚えさせてくれる彼の眼。
離陸へと走るジェットの騒々しいエンジン音の中、二人は見つめ合う。
「マイク。うん、そうね。大丈夫」
彼が握ってくれた手を、マリアもしっかりと握り返した。
「マリア、俺とこれからもずっと暮らしてくれるよな」
「勿論よ。貴方がうるさいと言っても、あの家にいるわ。絶対に出ていかない」
『マリアらしい』とマイクが小さく吹き出した。
飛行機の窓から、滑走路先端の海が見え始める。もう、離陸目の前──。
「俺はそんな君に降参したんだよ。どうにでもしてくれ。マリー、君はもう、天敵の男に勝利したんだよ」
ふわっと機体が浮かんだ間隔。
それと同時に、マリアの頬は彼の大きな両手に包まれ、唇を塞がれていた……。
深く強く分け入ってくる彼の口先──。マリアもそれにしっかりと応える。
飛行機が飛び立つ感覚なのか、自分が愛する人と繋がった瞬間だからなのか分からない。それほどに、マリアの心と身体も空へと飛んでいく気分。
二人一緒に飛んだ。
マリアはそう思えた。
飛行機は珊瑚礁の海の上を旋回する。
まるで今日の二人を祝福してくれるかのような美しい海を目にして、マリアは微笑む。この上ない幸福感がやっと自分のまわりを存分に取り囲んでいた。
「これ。マリアへのクリスマスプレゼントだ。君と約束していた二人だけのパーティーで渡す予定だったんだけれど」
上空へと機体が安定すると、マイクが小さな箱をマリアに差し出していた。
真っ赤な包装紙に、金色のリボン。マリアはそれを早速開けてみる。
──分かっている。きっとこのタイミングで贈ってくれるのは『指輪』だと。
マリアの帰りを待ちながらも、既に指輪を用意してくれていた事も嬉しかった。
しかし、マリアはその箱を開けて驚いた。
「まあ、これって!」
「気に入ってくれたかな?」
『気に入った!』と、マリアは喜びいっぱいの笑顔をマイクに向けた。
箱に入っていたのはダイヤモンドの指輪だけじゃなく、小さなベビーリングも並んでいた。
「出発する前に、慌てて買って包み直してもらったんだ」
「かわいい! やーん、素敵なクリスマスになってしまったわ」
やっといつもの調子で騒々しいマリアに戻ったが、今日のマイクはそれもとても楽しそうに眺めている。
そんな彼がふと呟いた。
「まったく。マリーにはやられてばかりだ。本当にマリア様のお腹にベビーが舞い降りてくるとは。流石、クリスマス。もう、これ以上の驚きはないね」
──俺への贈り物はこれ以上のものはない。
あの青い瞳で彼がマリアを見つめる。
これは本物のマリア様の仕業。
マリアはふとそう思いながら、お腹をさすった。
天敵同士。いつでも意見が対立する。
冷静沈着にシビアな切り返しで、いつもマリアを泣かせるジャッジ中佐。でも、それがいつでもマリアを前に進ませてくれた。
彼の後を追いかけているようで、先を歩く彼の背を一生懸命に追っているようで、でも時々彼が振り返ってマリアの側へと歩み寄ってくれた。それが……後ろまでわざわざ歩いて引き返してくるような気がして、マリアはまた彼に前に戻ってもらうようそこからさらに後退、逃げてきた。
だけれど今はもう──。
「さあ。帰ろう、マリア」
「うん。私達のフェニックスの家にね」
帰るところは同じ家。
結婚してもしなくても。
二人は今、そこに共に向かう。
並んで飛んでいる、青い珊瑚礁の上──。
Update/2008.3.10