「どうも、上手くいっているみたいよ」
夏も終わりに近づき、もうすぐこのマルセイユに来て一年が経とうとしている時だった。
ある夕方、藤波夫妻の自宅にお邪魔している時、雪江が唐突にそう言った。
「なにが上手くいっているんですか?」
キッチンで天麩羅を揚げている雪江に、吾郎は問い返した。
今、吾郎は藤波家にお邪魔している。康夫に誘われ、まだ仕事をしている彼に『先に行ってくれ』と言われてここに来た。
テーブルには、そうめんが用意されていた。熱い夏の日の夕べ。吾郎は大感激で、早速ダイニングテーブルに座って、先にご馳走になっているところ。
隣の椅子では瞳ちゃんが、手づかみでずるずるとそうめんをすすっている。吾郎はそれを見守りながら、雪江がなにを言い出したのか分からなくて、箸を止め、首を傾げていた。
天麩羅を揚げている雪江が、背を向けたまま教えてくれる。
「葉月ちゃんと隼人さんよ。海野君からの近況知らせのメールに書いてあったの。どうも最近、元に戻って二人とも良い雰囲気で、前よりずっと良い感じだって」
それを聞いて吾郎は思わず、テーブルから立ち上がった。
「まじっすか!? うわーー、安心したあーー」
夫が未だに『パイロット復帰までは雲隠れ』なんて意地を張っているので、小笠原の友人に関しては、全て雪江が中継の連絡係。そんな彼女からの情報だから、間違いないと吾郎は喜んだ。
「でしょう? 私もほっとしたわ。……まあ、でも最後はきっとこうなると信じていたけれどね」
雪江もとても嬉しそうに微笑んでいる。
聞けば、この夫妻が縁を取り持つ結果になったとか。
二人のことを良く知る夫妻だからこそ、康夫は葉月をマルセイユに呼び寄せ、そして康夫は補佐をしていた右腕であった隼人を潔く、彼女の元へと送り出したのだと。だからこそ、あの二人が小笠原で上手くいかなくなったということを耳にしても、どこかどっしりと構えていたような気が吾郎にはしていた。
その通りで、雪江は余裕の顔。──『大丈夫。時間はかかるかも知れないけれど、あの二人はお互いがお互いに必要なのよ』──私、解るの。と、大人の顔で落ち着いている雪江は、吾郎が二人の状態を知った頃、そう言っていた。
「はい、どうぞ」
「いっただきまーす!」
出てきた天麩羅を、吾郎はガツガツと食べる。
「は〜、美味い! 雪江さんの日本料理がなかったら、俺、もう〜。夏にそうめんなんて絶対に食えないと思ってた〜」
「やあね、大袈裟よ。吾郎君たら!」
落ち着いた雪江は、やっと瞳の隣に座って、娘の愛らしい口元にいっぱい貼り付いている麺を、綺麗な指先で丁寧に取っている。
「吾郎君は、何事もなく上手くいっているみたいね」
「えへへ〜……。でも、手放しで喜べない状況なんですけれどね」
それが何であるか。雪江は既によく解ってくれている顔。陰りある微笑みを静かに浮かべている。
セシルとの恋仲は、すぐにばれた。というより、吾郎とセシルが一緒にいるところを、ホテルアパートの部屋に訪ねに来た康夫に見られてしまったのだ。
別に誤魔化す必要もないので、きちんと紹介した。そしてセシルも……。康夫はとても驚いていて、最初は違和感がいっぱいだという顔をしていた。というのも、彼もここが長い。それ故に、セシルと隼人が恋人同士であり良き友人だった良い時を見ていただけに、驚きだったようなのだ。
しかしそれも、暫くすると笑顔で受け入れてくれるようになった。
近頃では吾郎と一緒に遊びに来るようになったセシルを見て、『彼女のあんな可愛い顔、初めて見たな〜』と、康夫はしみじみと呟く。それだけ彼女も吾郎に心を開いてくれている証拠だと、康夫は言ってくれた。
でも近頃の彼は吾郎にこう言う。『お前、帰る時どうするの』と。『彼女とも付き合い長いからさ。あんまり哀しい思いされると辛いんだよな。勿論、お前もだよ……』。そして最後にこう言う。『なんとかなるようにしろよ』──と。解っていると吾郎も神妙に答える。その会話の繰り返し。
だが、雪江は違うようだった。彼女は康夫のように『なにか上手くいく方法がどこかにあるはず』という漠然とした望みだけを見据えてはいないようだった。
「仕様がないわよね。それでも好きになって、目の前にいたら傍にいたいという気持ちなんだもの。自然な気持ちで結ばれたんだから、今ここで強がって離れることもないと思うし……」
「本当の気持ちに嘘はつきたくなかったんで……。でも、僕の我が儘を突き通してしまった中に彼女を巻き込んでしまったことは……」
「ううん。セシルはとても幸せそうよ。彼女のあんな顔、見たことないもの。彼女、明るいけれど……やっぱり女だてらに実業家として頑張っている分、無理に肩肘を張らなくちゃいけないこともあって、本当は無理していることいっぱいあると思うの。それが吾郎君と付き合うようになって、心の支えが出来たというのかしら……。今までも綺麗な女性だったけれど、それとはまた違う可愛さが見られるようになって、素敵になったもの彼女」
傍で静かに見守ってくれている人にそう言われると、吾郎も嬉しい。
しかも吾郎と付き合い始めてから、『初めて見るようになった』という彼女の様子に姿のことを聞くと、それも嬉しい。
「でも……」
雪江がまた、哀しそうに俯く。
「でも、だからこそ。怖いのよね、貴方が帰る時が……。でも、私もセシルと同じ考えで、貴方は帰るべき人。帰らなくちゃ駄目よ。約束が、じゃないわ。貴方の中で、それが始まりであったのだから、帰らないときちんと気持ちとしても終わることが出来ないでしょう」
全くその通りなので、吾郎も微笑みだけ浮かべ、そっと頷いた。
「でも……。俺なりにいろいろ考えていますよ。ただ、まだ彼女には言えないだけで……」
「そうね。なにもみすみす諦めて手放すこともないとは思うわ。貴方がどれだけ彼女を愛しているかだけでも、ちゃんと伝えるのよ」
「はい、そのつもりです……」
吾郎はちょっと照れながら、笑う。
雪江は吾郎と同い年。だが、既に結婚し母親でもあるせいか、とてもしっかり者でお姉さんのような存在だった。
「まあ、でも吾郎君なら、セシルにちゃんと気持ちは通じるわよ」
「……ですかねえ〜」
「だって、あっと言う間のいつの間にか恋仲になっていて、私も康夫も驚いちゃったんだから。あれでもセシルはすごく身持ちが堅いのよ」
それも吾郎は分かっている。セシル自身も言っていたが、仕事が先だって男性に心が許せなかった年月が長かったようだったから。
「葉月ちゃんと隼人さんにも、二人の素直さがあればねえ……。でも、あの二人は無理ね」
「はあ……そうなんですか?」
とても苦々しい顔で、雪江は疲れた溜息をこぼしている。
余程、心配していたのだろうなと吾郎は思った。
この家に来ると、勿論、葉月や隼人の話題も上るが、たまに吾郎でも『あれ?』と思うような不自然なところで話が終わることがある。
でも康夫特有の賑やかさで、直ぐに次の話題で盛り上がってしまうので、吾郎も上手く流されてしまう。だが、振り返ればそのように何か意図があって話を逸らされた気にもならなくもない。そんな瞬間が幾たびかあった。
パイロットになった理由とか、何かに縛られている訳とか。葉月自身が仄めかしたこと自体を、この夫妻は良く知っているという確信が、近頃の吾郎の中に芽生えていた。
雪江がついに、それに関するようなことを呟き始めた。
「素直になれない訳があるのよ。特に、葉月ちゃんね。隼人さんもそれがある……と言った方が良いわね。貴方達と違って『本当の心』の前にいくつもの壁があって、それを自分で除けられる時もあれば、相手に除けてもらうこともあって、それがいくつもいくつも。それでも二人で一緒にお互いの力を合わせて取り払っていったと思うのよね。だけれどなにもかも取り払って、初めてお互いの心が裸になった。その裸の心で初めて向かい合ったら……」
別れることになった……。
雪江はそこで黙ったが、吾郎の頭の中にはそんなことが浮かんだ。
その『素直になれない』とか『裸の心になった時に、別れることになった』という中に、葉月が仄めかしていた『彼女の理由』がそこにあるのだと吾郎は思った。
そして吾郎はそれについてはこちらから問わない。きっと問うてはいけないこと。でも藤波夫妻の口が、吾郎を目の前にしてどこか緩くなってるような気もしている。吾郎にはまだ言えないと葉月がメールで書いていたということを報告したからだろう。『葉月がそんなことを書いたのか』と康夫も驚いていたから。でも、まだ吾郎には言えないと言う葉月の気持ちを考慮しているから、口が緩みそうになっても藤波夫妻はすんでの所で、言葉を飲み込んでいるようだった。
「でも、私はあると思うわ。好きだから別れてしまうって──」
「……かもしれませんね」
雪江の、どうしようもないけれど、そんなこともある。と考え込む横顔が、吾郎には綺麗な大人の女性に見えてしまっていた。なにか想像も出来ないような沢山のことに触れて、噛み砕いてきた大人の女性の顔。なにかを思いやって、心配して、そしてただ待っている。そんな優しい彼女の顔。
そして吾郎も、そんな雪江の横顔を見て同じように思う。──だよな。ただ好きになることなら、どんなにも──と。後はお互いがその時出会った時に持っている物、抱えている物、背負っている物、手放せない物を、どんなふうにして好きになった相手とバランスが取れるように、持ち続けるか──。あるいは『捨てられるか』。恋人になるとは、そんなことも含まれているのだろう。
そしてそんな葉月と隼人の『好きだけれど、別れてしまう』という出来事が──。吾郎の中でも、徐々に他人事ではなくなってきたような気がするこの頃。
「よー! 帰ったぞーー!」
そんな声が玄関から聞こえてきた。
雪江は瞬く間に笑顔に。そして隣にいる瞳もパパの声が聞こえたせいか、椅子の上でジタバタと暴れ始めた。
「あ! 吾郎ー! てめーーっ、俺より先に天麩羅を食ったのか!」
「ういーーっす。美味いです〜、お先に〜」
天麩羅は揚げたてが美味いのに、それを何故に主人が帰ってくるまで待っていられないのだ! という、亭主関白な文句が雪江に飛んでいくが、彼女は知らん顔。
康夫はこのように亭主関白なところがあるが、いつも雪江がこうしてサラリとかわす。この夫妻特有の姿も、近頃では見慣れてしまい、吾郎も瞳と一緒にただ笑って楽しんでいた。
「なぜ、部下に先を越されなければならないのだー」
「でも、さっき揚がったばかりで、まだ熱々っすよ」
「そういう問題かーー」
でも康夫はそう言いながらも、瞳を抱きしめて『ただいま〜。ひとみー』と頬にキスをしている。
いつもの光景に、吾郎は苦笑い半分、微笑ましさ半分の気持ちで、賑やかなファミリーの中にいさせてもらっていた。
「そう言えばさ。葉月の奴、またとんでもないことをやろうとしているみたいだぜ」
やっとテーブルに落ち着いた康夫が、海老の天麩羅をかじりながら急にそう言う。
吾郎は『彼女が何か?』と聞くと、彼はとても真剣な顔になって、食べかけの海老を皿の上に置いてしまった。
「母艦航行、その実務中に、小笠原の一部のパイロットを訓練として乗せて欲しいだなんて大それた申し込みをあちこちにしているらしいな」
「じ、実務中の航行母艦に、実務の手伝いじゃなくて『訓練』で乗せてくれ!?」
吾郎は気が遠くなりそうになった。
ほんっとうにあのお嬢さんは、なんて大胆なことを考えることかと……!
「うちのマルセイユ部隊にも、地中海を実務航行している空母艦に、パイロット数名を訓練相手として乗せてくれという申し込みが来たってさ。俺、彼女と個人的な付き合いがあるから『これはいったいどういうことなのか。彼女の思考がよく分からない。どんな考えの持ち主なのか』なんて、艦長達から、困惑した様子の連絡があったから確かだ」
康夫は深い溜息で、また、天麩羅を箸でつまんでいた。
驚いた吾郎だが、次第に……それは喜びのような物に変わっていく。
彼女も、限界のような物に挑戦している。コックピットに戻れないことなど苦にもせず、今自分が出来ること、やりたいことに精一杯に──。
きっと彼女も『ダメモト』であちこちに申し込んでいるのだろう。でも彼女なりに、やることに意味があると思っているのだろう。
いつもそうだ。彼女のそんな姿に吾郎は前へと進む力を分けてもらえる。
そして、それだけのパワーがあれば、彼女はきっとコックピットを取り戻すだろうと、信じることが出来た。
だが横ではまだ、康夫の深い深い溜息。
「なんすか、隊長。この頃、そんな溜息ばかり」
きっと葉月が前へ前へと行く姿に、彼は焦っているのだろうなと吾郎は思いつつも……。
出会った時のような荒んだ姿は見られなくなり、今では彼も前向きにコックピットを取り戻そうと一歩ずつ進んでいる。実際に、リハビリはほぼ完了している。あとは、適性検査をパスするだけの段階に来たとか……。それでもライバルの彼女が、コックピットではなく今度は指揮官として大胆な挑戦をしていることが羨ましいのだろう。
「いや、俺は俺だからな」
「そうっすよ。適性検査ももうすぐなんでしょう? 俺との約束も忘れないでくださいよ。俺、出来たらこのマルセイユで隊長の機体を飛ばしたいと思っているんですから」
『そうだった』と、康夫が静かに……微笑んだ。
いつもは賑やかな彼が、こんな時は落ち着いた大人の男の横顔で、静かに眼差しを伏せる。
と、思ったら……。
彼が急に、何かを決起したように、箸をぱちんとテーブルに置いた。
ピンと空気を通り抜けていったその音に、キッチンにいる雪江も振り返り、瞳はぴたりと動きを止めた。吾郎も同じく、康夫を見る。
「よっし。決めた! チーム解散!!」
吾郎も雪江も『はあ?』と、眉をひそめた。
この青年中佐も、お嬢さんに負けず劣らず、なにやら唐突なことを叫んだぞと吾郎も思ったのだ。
「今の俺のチーム解散! 俺はホーネットに乗り換える! そして新しいチームを作る!」
ひー! こっちもなにか本気になっちゃったぞ! と、叫ぶ康夫の隣で吾郎はのけぞった。
恐るべし大佐嬢。
葉月のパワーは、マルセイユにも行き届いているのだと、彼女は知っているのだろうか?
ああ、なんだか。会いたくなったなーと、吾郎は賑やかに議論を始めた藤波夫妻を傍目に、天麩羅をかじった。
・・・◇・◇・◇・・・
吾郎の研修荒しは続く。
メンテの強化研修は、自主的に受けるもの。自分に足りない何かを学ぶ為、さらに強化する為、新しい機器に関しての勉強をする為、等々。様々なカリキュラムがあり、どこかのメンテチームが受け持つこともあれば、工学科の教官が受け持つこともある。
「来たな、ゴロー」
近頃はすっかり顔なじみ。
またチーム・クロードが受け持つシステム研修に参加。
甲板で顔を合わせ、クロードがいつもの呆れた顔をしていた。
「まったく。まだまだ学びたいことがあるからここに残るという熱心な気持ちは良く分かっていたつもりだが、まさか、片っ端からメンテ研修を受けるとはね」
「ちゃんと実務の仕事もしていますよ。ジャンキャプテンのチームで。それに俺が出来ることで思いついたのが、これだったんですよーー」
「分かっている。まったく……」
それでも彼はいつも熱心に教えてくれる。
今度は妙な特別扱いは無しで、真摯に向かってくれる。
「ゴロー、また来たな! これで幾つ目だ」
「いい加減にしないと、帰国できなくなるぞーー」
チーム・クロードの先輩達とも、すっかり顔馴染みだった。
キャプテンを始め、いつにまにか『ゴロー』という愛称で呼ばれるように。
そして先輩達も、吾郎の熱意を受け止めてくれ、真剣に指導してくれる。
五日間の研修。それもあっと言う間に終わるが、吾郎にとっては一つ一つが、新しい知識と経験となる貴重な体験だ。
「だいぶ手際も良くなったし、もう甲板要員としては一人前だな」
甲板要員となって半年。
研修荒らしと呼ばれるようになり、数え切れない研修をこなしてきた。
ジャルジェチームの中で日常業務の経験も積んできた。その上で、強化研修を数こなす。そのうちに、吾郎の手にはあらゆる技術が、そして頭の中には知識が蓄積されていた。
「どうだ、そろそろ。研修荒しをやめないか」
クロードの言葉に、吾郎はびくりと固まった。
まさか。まさか。吾郎が密かに目標にしていた言葉が……来るのかと。
とても緊張した。その言葉を聞いてしまったら、吾郎としてもどうなるか……分からなかったから。
「研修を受けて己を強化するレベルはもう超えていると思う。どうだ、今度は『研修をする側の手伝い』をしてみないか?」
……違った。
俺のチームに来ないか? ……では、なかった。
半分、がっかり。しかし、何故か……。半分はほっとしていた自分が、いた。
それでもクロードが言い出したことにも、吾郎は驚いていた。
「そ、それは、『指導をする』ということですか?」
「いや、そこまではまだ無理だろう。だから、俺の手伝いってところかな。つまり今度は研修をする側になってみないかと言うことだ。教えてもらうことより、教えるという視点に変えると、また違う意味で学ばなくてはならないからな。出来れば……今後の研修は俺が選びたい」
え、選びたいって? と、吾郎は絶句した。
今度こそクロードが直々に、吾郎個人に指導したいという申し出でもあるからだ。
「フジナミとジャンには俺から言う」
「いえ、しかし……」
「まったく、フジナミもそういうところがあるが、ゴローも同じだな。サムライは真っ直ぐな馬鹿なのか? 馬鹿みたいに片っ端から研修を受けるだなんて。半年黙って見ていたが、こうも効率も何も考えずに突っ走っているのはある意味立派だが、もう見ている俺としては我慢ならんね。受けて良い研修と受けなくても良い研修を俺が選ぶ。空いた時間は、俺の手伝いだ。いいな」
吾郎個人ではまだそんな返事が出来ないので、答えられずに戸惑っていたのだが、クロードは『もう決めた』とばかりに、それだけ言い切ると去っていってしまった。
この後、ジャン先輩から聞かされた。
クロードは『サムライに惚れ込んだ』のだと。
後に吾郎にとって、彼が最高の恩師となる。
その始まりだった。
・・・◇・◇・◇・・・
日が経つのはあっと言う間で、マルセイユもすっかり秋。
吾郎がここにきて一年が経とうとしていた。
部屋に戻って、一番最初にするのは、窓際に置いた机の上にあるノートパソコンのスイッチを入れること。全て立ち上がるまでに着替えを済ませ、窓際の机に腰をかける。
そしてメールチェック。葉月からは相変わらず、大事な連絡をやり取りするだけだが、隼人からは月に一度、近況伺いのメールが来るので、吾郎もそれに返信する。他にも、近頃は息子を案じた為か、田舎の母が決起してパソコンを始めたとかで、拙い母のメールも舞い込んでくるようになった。それもあるので必ずチェックする。
……すると、この日は珍しく葉月からまた、メールが。
『お元気ですか。もうすぐ、シアトル湾岸部隊が航行している空母艦に乗り込みます』
彼女がついに、目標を達成しようとしている知らせに、吾郎は喜びを感じた。
指揮側に降りても、自分なりの目標を掲げ、彼女はついにそれを達成させたのだ。
吾郎も今、クロードのアシストについて、車庫で戦闘機整備研修の指導の手伝いをしているから、指揮側の目線という気持ちがまた新しい経験となる日々を送っている。それを葉月にも今回の返信では伝えようと思い描いた。
さらに嬉しい気持ちで読み進めていくと、吾郎にとって衝撃的なことが記されていた。
『この航行が終わったら、コックピットに戻ろうという気持ちでいます』
その言葉に吾郎は驚く……。
そして……何故か焦った。
まだ、心の準備が出来ていない──という、そんな気持ち。
『細川中将からも許可を得ています。それでもまだ、きちんと決まったことではないので、航行から帰ってきてから詳しく連絡をします。吾郎君はどうですか? まだ納得が出来ないようでしたら、貴方なりの正直な気持ちを教えてください。私の気持ちは固まりました。でも吾郎君にも納得できる形で帰国をして欲しいので、私はそれまでいつまでも待ちます』
そこで葉月のメールは終わっている。
だが、吾郎は暫く、茫然としていた。
何故? これを待っていたのでは?
葉月がコックピットを降ろされたと聞いた時だって、ひどくショックで、ジャンのところに訳を聞きに突撃したぐらい。
まだ彼女がコックピットには戻っていないようだったから、それに安心してマルセイユでの研修荒しの日々に没頭していた。
いや、違う。
没頭していたのは、もっと、他のこと……!
吾郎の中に、それが何であるか判明した時、胸の中にズキリとした物が走った。
そこに今、見えるのは……セシルの笑顔!
『もうすぐ、その時が来る』という衝撃の痛みで胸を押さえ茫然としていると、ドアのチャイムが鳴った。
『ゴロー、ボンソワール』
セシルの声。
吾郎は一呼吸置き、開いていたメーラーを落として、玄関へ向かった。
扉を開けると、いつもの黒いスーツ姿の彼女が、いつもの笑顔で立っていた。
「あーん、今日も疲れた。ゴロー、ただいまあー」
吾郎を見るなり、セシルはいつも甘えた声で抱きついてくる。
「お帰り、セシル。今日もお疲れさま」
吾郎もそれが嬉しくて、安らぎを求めて訪ねてくる彼女を優しく抱きしめて迎え入れる。
「セシル。夕飯は、食べた?」
「うん。美容室のスタッフとね」
吾郎は『そう……』と、窓辺に見える夜の港を、遠く眺めてしまっていた。
「どうしたの? なにか、あったの?」
「ううん。なにもないよ。……今夜は?」
彼女はここによく泊まっていく。
それだから、狭いクローゼットには彼女の着替えが溢れ始めていた。
「うん、泊まっていく。ゴローと一緒に眠りたいもの。シャワー、借りるわね」
「ああ、いいよ」
その途端に、セシルはベッドの傍でジャケットを脱ぎ、タイトスカートを脱ぎ……。白いブラウスのボタンを外し、下着姿になる。
それももう見慣れた光景。吾郎にとっては彼女の日常の姿。
いつも綺麗にセットされている髪のヘアピンを一つ外し、二つ外していくと、ぱさりと長い髪が彼女の頬を覆って、日常の彼女の横顔が見え始める。
今日は藍色のシックなスリップドレス。彼女の栗色の毛先が白肌の上と藍色の生地の上でキラリと揺れている。そんな彼女と目が合う。既に吾郎にはそんな姿を見られることさえ日常になっている彼女は、にこりと微笑む返してくる。見つめられて、満たされている女性の顔。幸せそうな……。ここにくると彼女の表情が変わる。かっちりとしている黒いビジネススーツを着てオーナーの顔をしている彼女はいなくなる。丸みを帯びたやんわりとした愛らしいセシルという女性になって、吾郎に存分にその全てを託してくれていた。
俺達、いつかは別れるよ。
分かっているわ。それでもいいの。
そんな合い言葉で始まった二人。
でも、心の奥底でそれを前提にしながらも、近頃ではその言葉をお互いに言わなくなったのも事実。
そして、より一層に深く深く結びついてく幸せな実感に浸っていた。
吾郎はふと、部屋の電気を消した。
急に真っ暗になってセシルが『どうしたの』と訝しそうな顔。
暗がりの中、ベッドの傍にいる彼女の前へと向かい、吾郎はそっとセシルの髪に触れた。
「セシル」
そして彼女の頬に口づけ、肩を抱きしめ、そのまま傍にあるベッドに押し倒した。
「ゴロー……。まだシャワー……」
「いいよ、関係ないよ。今、俺、無性に……」
セシルが欲しいんだ。
吾郎は静かに彼女の耳元で囁いた。
静かでも、吾郎の手は忙しく彼女のスリップドレスをまくり上げ、ショーツを巧みに脱がして、素肌を求める。
いつも甘い匂いが漂う形のよい乳房を、夢中になって愛した。
急速に求められ、言葉も出ない様子のセシルは、そのまま吾郎に従うように喘ぐままに……。
「ゴ、ゴロー……。ど、どうしたの? な、なんかすごい……」
彼女の身体が、ぎゅうっと熱くなったのが分かる。
特に頬が、吾郎と寄せ合う頬が熱くなっていた。
吾郎の様子がいつもと違うことを分かっていながらも、吾郎がいつも以上に勢いよくセシルに向かってくるので、彼女もそのまま吾郎に抱きついて任せている。
あっと言う間に彼女の中に入り込んだ吾郎は、彼女とその合間を愛の囁きで楽しむ間もなく、ただひたすら力任せに彼女を愛した。
鍛え抜いた身体で、細身の彼女に向かうと、彼女は悲鳴に近い声を一瞬上げる。それが恥ずかしかったのか、彼女は枕に顔を埋め、枕の角を唇で噛みしめ、必死に吾郎の勢いを受け止めようとしてくれている。そんな彼女を見ても、吾郎は、今日の吾郎は優しくなれそうにはなかった。
(ごめん、セシル)
声にならなくて、でも、懸命に彼女を愛した。
いつものゆったりとした彼女を癒したい愛し方じゃない。でも、これは吾郎なりに『これだけ力一杯愛したい』という気持ちの表れ。
ベッドの上で悶えている彼女の背筋が、汗で滲み始める。『あ・・・んっ! ゴ、ゴロー……すごい、も、だめ、だめ……』と、首も腰も振る彼女の色っぽい尻の間も、しっとりと滲んでいる。彼女も彼女なりに、こんなに一方的に勢いを注ぎ込んでいる吾郎の愛を、身体でも心でも感じてくれているよう……。その汗にも、栗色の茂みから溢れてきた蜜にも指を滑らしながら、吾郎も息を切らしながら彼女を愛し抜く。
好きだ、大好きだ、セシル、好きだよ。
何度もそう呟きながら、腰を動かした。
暗がりの中で、彼女にぶつけてしまったものは……?
吾郎は自分の中で、そう問いかける度に、頭を振っては彼女の中に全てを注ぎ込んだ。
一頃して、彼女の横に果てた吾郎が倒れ込むと、遠い船の汽笛が聞こえてきた。
二人の荒い息づかいも、落ち着き始め、静かな夜の間が流れ込んでくる。
素肌のセシルが吾郎の顔を不安そうに覗き込む。
「ゴロー。私をもっと抱いて……」
どんなに吾郎に可愛らしく甘えてくれるようになっても、いつも明るい彼女が……。初めて泣きながら吾郎に抱きついてきた。
そして今度は彼女から激しい口づけ。
いつまでも彼女の唇が吾郎のあちこちを愛撫し、今度は吾郎を許さないとばかりにいつまでも離れなかった。
彼女の中にも、同じ不安があって……。
そして吾郎は、吾郎自身の不安を彼女にぶつけてしまうことで、同じように彼女が封印していた不安を煽ってしまったのだと……反省をした。
でも、まだ言えなかった。
冬が来たら、俺達、別れる時が来るよ──。
まだセシルには言えなかった。
葉月からきちんとした連絡が来るまでは、今少し、今少し。
なにか、なにか、いい方法が思い浮かぶかも知れないからと……。
・・・◇・◇・◇・・・
でも、気持ちなんて。
ひとつしかなかった。
セシル、一緒に日本に帰りたいよ。
それを言いたい。
でも言えるはずもない。
彼女は今年も、パリのコンテストに参加すると留守の日々が続いていた。
吾郎としても、この前のように彼女の前で不安定になるぐらいなら、少しの間でも彼女と離れている方が心の整理がつくだろうと思っていた。
しかし、なんだろう。
ほぼ毎日と言っていいほどお互いの部屋を訪ねては会っていたせいか……。
「ふー、やっぱりいないのはさみしいーー」
本当に寂しい毎日を送っていた。
確か、去年の今頃。一目惚れをしてしまった彼女のことをなんとか諦めようと言い聞かせながら新卒研修に没頭し、セシルはセシルでこの間に気になる男性となっていた吾郎のことを一生懸命に考えてくれていた時期だったと思い出す。
そんなもの思いが、彼女がいない方がより激しくなっていた。
かと、思ったら……。襟首がぐいっと引っ張られ、吾郎は『ぐえ』と喉を詰まらせる。
何事かと見上げると、そこには強面のクロードが襟を引っ張り上げて吾郎を睨んでいた。
「おい、ゴロー。お前、気合い入れろよ。あと十分で車庫での整備研修が始まるのに、資料が揃っていないぞ」
「うわっ、キャプテン! す、すみません。今、準備しますから!!」
クロードのアシスタントの日々は続いていた。
彼が受け持つ機種別整備の研修が、新人向けに行われていた。
吾郎は慌てて班室まで走り、忘れていた資料を研修現場の車庫に持っていく。
「どうした。最近、気もそぞろと言った感じだな。研修荒らしの時の集中力はどうした」
「いえ。はあ……」
本当に揃っているかと、束ねてある資料を手に取り、クロード自身が確認をしている。
いつもは吾郎を信頼してくれていたのか、確かめるなんてことはしていなかった。なのに今日はしているので、吾郎も反省しきりだ。
しかし、彼らしい表情も変えない横顔で、今、吾郎が考えていることの中のひとつを言い当ててきた。
「そろそろ大佐嬢、コックピットに戻るんじゃないのか?」
「え! なにか知っているのですか?」
「いや。噂だよ。彼女、誰もが出来っこないと高がくくっていた実務航行の空母艦に乗り込んでの訓練計画。ついに実行しただろう。指揮側としての行動力はこれで一応は次第点がもらえると思うんだよ。それにまだ若い。まだまだコックピットもいける。指揮側としての指導ならまだまだこれから後だって充分だろう。今回、彼女は上の無茶な要求にそれなりの形で応えた、いや、やりかえしてやったんだろうな。……まったく、あのお嬢さんには参るよ。これでは、彼女がコックピットに戻りたいと切望したら、上だってどこかで区切りはつけてやるべきだろう。あやふやにして彼女を引き下ろしたんだから、きっちりとけじめをつけるのは今度は上の番だ」
吾郎は『なるほどー!』と、唸った。
それで葉月は、不本意ながらも指揮側で出来ることを先にやってやろうと頑張ったのかなと……。確かに葉月の報告では『細川の許可も得た』とあったから。やはりそうか、そろそろ本当に彼女は復帰するのかと、吾郎はしんみりと考え込んでいたのだが、横でそんな吾郎を見ていたのか、クロードが笑っていた。
「なんだ。見ていると、『大佐嬢がコックピットに戻るのは困る』と言った感じだな」
この一言にはかなりドキリとさせられた。
以上に、それが図星だと分かってしまった吾郎の胸に、葉月に対して申し訳ない思いが湧き上がり胸が痛んだ。
だがさらに、吾郎のそんな本心を見抜いているのかクロードがそこを畳み掛けるように続けて言う。
「本当は帰りたくなくなったのではないか?」
「いえ、俺は絶対に……!」
「それなら、なにも帰るという形でなくても。一度だけ小笠原に帰って彼女を飛ばす。そんな約束の果たし方でも良いのではないか?」
「いえ。俺は……サワムラチームに、入る約束で……!」
すると、ついにクロードが言った。
「俺のチームに入るより、すごいことなのか」
彼の落ち着いた顔、冷ややかな、自信たっぷりの目。
吾郎はそれに吸い込まれそうになる。
彼の目が本気だった。
だが、彼は途端に笑い出す。
「冗談だけれどな。まだまだ新卒一年の新人メンテ員を投入するつもりはないからな」
だが、吾郎の手先は震えていた。
彼が半ば、その気でいるのではないかと……そんな気にさせられる気迫があった。
そして、それが冗談でほっとしていた。
また思う。
結局、なにもかも中途半端じゃないか。
帰る時はいつだと決めていた。葉月がコックピットに戻る時、または、吾郎の目標が叶った時。今、その両方が目の前でちらつき始めている。
なのに……。その瞬間が来て欲しくないと思うのは、彼女と別れてしまうからなのだと。
そして訳はともかく、吾郎がマルセイユにまだいたいという本心は『師匠』に見抜かれていた。
「とにかく、今ここで集中してくれないと困る。今までのなにもかもを無駄にしないように取り組むことだな」
「ウィ……。キャプテン」
その通りだと、吾郎は項垂れつつも、気を引き締め直す。
数日後、セシルがパリから帰って来るという連絡があった。
丁度、週末の休暇に差し掛かっていた為、吾郎は前の晩から彼女のマンションで帰りを待つことにした。
ところが。彼女が帰ると連絡してくれた前日の土曜日にマンションを訪ねたというのに、そこには既に彼女がいた。
「セシル、帰っていたのか……。びっくりした」
セシルは吾郎を見ても、いつものように直ぐに抱きついてくるような元気もない様子で、ぐったりとあの小さなソファーに座っていた。
「ど、どうした? とても疲れているみたいだね……」
いつものはつらつとしている彼女の明るさも、愛らしさもどこにもなく、彼女は本当に疲れ切った顔で項垂れていた。
いつ帰ってきたのか判らないが、髪もくしゃくしゃで、スーツは着っぱなしといった感じでシワだらけになっていた。
帰ってきて直ぐにその椅子に座って、ただぼうっとしていた……そんなふうにもみえなくもない。
目の下には隈もできていて、いつもの綺麗な彼女ではなく、眠ってもいないようだった。
「な、なにか……あったのかな?」
恐る恐る聞いてみる。
出かける前は、とても忙しそうにしていたし、コンテストに参加する意気込みで彼女は輝いていた。
とりたてて高望みをしている訳でもなく、参加することに意義があるのだと。彼女らしい爽やかな前向きな姿勢で、毎年、後輩達と臨んでいると聞かされていた。しかしパリで行われる年に一度の大きな大会らしく、毎年参加はすれど、入賞したことなどは一度もないらしい……。
去年だって、帰ってきて直ぐの彼女にあって恋人同士になったのだが、もっと彼女はさっぱりとした顔をしていた。それとも? 帰ってきて直ぐはこんな顔をしていたのだろうか?
吾郎はそっと傍によって、彼女の足下に跪く。
そして優しく彼女の膝小僧を撫で、力無く開いている手のひらを握りしめた。
「お帰り……。疲れたんだね」
彼女がやっと吾郎を上から見下ろし、目線を合わせてくれた。
その途端、彼女から表情が生まれる。でも、その顔は泣き顔で、直ぐにさっと窓辺へと背けられた。
頬に伝う涙。喉の奥で押し殺している泣き声。それを見て、吾郎もとても哀しくなり、そっと彼女を抱きしめる。
「……入賞なんて……しなくてもいいって。でもいつかは近づきたいって……」
彼女のその言葉に、結果が出ないコンテストに参加することに疲れてしまったのかと、そう思った。
だから吾郎は言葉にはしなくても、『セシルはいつも頑張っているよ』と心で呟いて彼女をさらに強く抱きしめる。
でも、セシルが涙を蕩々と流しながらやっと口にしたことは、まったく違うことだった。
「パリで一緒に働いていた同期の美容師が、優勝したの……」
それがショックだったのかと、吾郎はそう思ったのだが……?
「彼と私、働いていた美容室ではちっとも上達しない落ちこぼれ同士だったの……。私より先に、彼が辞めていったぐらいよ。なのに……」
自分より先に脱落した同志が、返り咲いた姿を見てしまったと言うことらしい。
「彼は私のことを勿論覚えていてくれて、言ったわ。セシルはビジネスで成功したみたいだから良かったじゃないかって……」
……ショックだった。
セシルはそれだけ言うと、吾郎の胸に抱きついてきてわんわんと泣き始めた。
この時、吾郎は思った。
本当は彼女。ビジネスじゃなくて、腕やセンスで一番になりたくて、それに少しでも近づけるように頑張っていたのだと。
「彼、うんと努力したに違いないわ。私はパリから逃げてきたけれど、彼は一度は負けてもパリで踏ん張ったんだわ!」
そしてセシルが一番、悔しいのはそこだったのだろう。
自分はパリで頑張るのを辞めて、マルセイユに帰ってきた。
でも彼は違った。だから、彼にはあって当然の結果。そしてセシルにも──。
「そ、そんなことないよ。セシル、セシルは、あの店でマルセイユの街の人々を……」
格好良いカットをして幸せにしているんだ。……そう言いたいけれど。今のセシルには『その次元の話ではない』と吾郎は急に悟ってしまった。
吾郎にはファッション界のことは分からない。でも、この商売。実益になる客商売となる顔を持つ反面、もっと抽象的な芸術面での名声も彼女達美容師の大きな夢なのだろう。その美への追究を忘れないことが、大事な大事なプライドなのだろうと。それを『それがなくても大丈夫』だなんて、機械いじり屋の吾郎には言えなかった。
セシルは吾郎の胸でひとしきり叫んで泣くと、『ごめんね、今日は寝るわ』といつものベッドに横になってしまった。
安心したのか気が済んだのか。彼女は直ぐに泥のように眠り込んでしまった。
吾郎が着ているシャツに、彼女の涙が染みこんでいる……。
知らなかった。
彼女はマルセイユでビジネスを成功させ、そして沢山の人々に喜んでもらえる仕事をして、それで満足なのだと思っていた。
でも違ったのか? やはり美を求める者達はいつだってその頂点を諦めずに目指しているものなのだろうか。
少なくとも、まだ若いセシルには捨てきれない夢だったようだ。
吾郎は益々思う。
このまま、彼女に『日本に来い』だなんて言えないと──。
・・・◇・◇・◇・・・
さあ、その日がそろそろ迫ってくるのではないかと、吾郎は構えていた。
悶々としたままに日々が過ぎていく。
だが、クロードキャプテンに釘を刺されたように、吾郎は師匠の側についての修行に専念する。
そしてセシルも、あれっきり嘆くことはなく、いつもの元気で明るい『マスカレード』のオーナーに戻って頑張っていた。
ある日、康夫を通じて日本海で『不明機侵入、国内巡回空母機と接触』という事件が起きたことを聞かされる。
葉月が乗っていた日本海を航行していたシアトル湾岸部隊の空母艦だったと聞き、吾郎は肝を冷やした。
その陣頭指揮に大佐嬢が立っていたという噂も流れてきたが、康夫のところにも確かな情報は流れてこなかったという。
やがて、無事に沖縄で彼女が下船したという知らせだけが届いて、康夫と共にほっとした。
それからそれほど日も経たないある日のこと。
クロードと甲板で新しい研修の打ち合わせを済ませて陸に上がるなり、康夫が探していた直ぐに来るようにと呼んでいるとジャンに言われ、彼の中佐室へと向かった。
プライベートでは親しくしているが、隊長室へ出向くことは余程でない限りあまりない。
まさか──。葉月がついにコックピット復帰へ?
吾郎は複雑な気持ちを抱え、康夫を訪ねた。
ところが、訪ねてみても彼にはいつもの覇気がなく、中佐席で項垂れていた。
「隊長……。あの、なにかあったのでしょうか?」
「……が、……れたと」
彼が何か呟いた。
小さな、元気のない声で。
吾郎は中佐席に近づいて、『聞こえなかったのですが』と問い返した。
やっと彼が顔をあげた。
だがその顔を見て、吾郎は固まる。
悲痛な、既に目を真っ赤にして泣いた後の顔だったからだ。
「な、何かあったのですか?」
「葉月が……」
「お、お嬢さんが?」
──何者かに、横須賀基地で刺され、重体。明日をも知れぬ状態。
小笠原の海野中佐から、極秘でそんな報せが入ってきたと、康夫が絶え絶えの声で教えてくれた。
何故? いったい、何が起きた?
まさか、あのお嬢さんが──!?
吾郎の中に浮かんではいけない一文字が容赦なく浮かんだ。
──『死』?
Update/2007.10.15