あの優しい雨の日から、どれぐらい経っただろうか。
吾郎は今、グラウンド隅にあるベンチで一人座って夕暮れる空を眺めていた。
だけれど、そこでぼうっとしているのは一人の男を見守っているからだった。体力作りの訓練後、教官の協力で仕上げのストレッチをしている康夫を待っている。そんな彼を見守りながら溜息をついていた。
あれから……。連絡なんかしなければ、彼女からもコンタクトはしてこない。
それに吾郎はあの夜から、自分からも『連絡しよう、連絡したい』とも思わなかった。
ただ──『会わなくても良いから、もう一度、顔を見たい』とは思った。でもそこでこの先のことや、今、何が一番大事か、そしてそれに没頭することで日々は過ぎていき、そのうちに『一目惚れ』という一瞬の熱い嵐は、あっと言う間に過ぎ風化したように……。そうただそれだけのことだと……。
『違う!』──。
そこで吾郎はひとり首を振る。
嘘だ。夜になってやっと一日が終わり、身も心も穏やかに休める時になると決まって思い出すのは彼女。
あの日、抱きつかれた時の彼女のキラキラした顔とか。夕暮れの寂しい顔とか。キャンドルのほのかな灯りと雨音の中に現れた本当の彼女とか。そっと頬を染めて吾郎にどうして良いか分からない顔すらも……。
思い返せば吾郎の中では、数回しか会ったことがない女性なのに、それこそ毎日会っているかのような錯覚にさせられるほど心の中に息づいていた。
何故なのだろう──。
中学の時に、それなりの恋はした。当然、淡い恋心で終わった。単なるクラスメート。でも学校生活という日常の中、クラスメートとして話すだけで心が浮かれて。でも、告白は出来ない。そうして日々が過ぎ、彼女は地元の高校へ、吾郎は浜松航空基地の訓練生となって地元を出ていってそれで終わりだ。
今回だって、きっとそんなようなものなのだ。『真剣』だなんて……。数回会って、一度だけ食事をして。それだけで『僕はもう真剣に君を愛している』だなんて言えない。ただ衝撃的に印象づけられただけ。でも気になる人だから、彼女のことばかり見て、そうして彼女と一緒にいる時間を楽しんで。だから……彼女を見て感じたことを吾郎は伝えただけ。それだけ。分かっている。中学を卒業した時と一緒なんだと。彼女はこの異国の地で頑張り、吾郎はまた、ここの基地から卒業する日が来て出ていく。それなのだ。
でも、あの少年の頃と違うものを吾郎ははっきりと感じ取っていた。
やはり自分はもう大人の男なんだということを……。中学生の時のように『話すだけで楽しい』では終わらない、それ以上を望んでいる男なのだということを。
あの勢いとも言える口づけは、勢いなんかじゃなくて吾郎にとってはとても自然に出たそうしたかった気持ちだった。
そしてあの口づけがよりいっそう……。嵐が過ぎ去った心の片隅で静かに熱く、そして甘く、くすぶっている。
大人の男になった吾郎が得たものは、そうした熱い狂おしい思いだった。
それはまさに『恋』。
それも中学生の時のような淡いものではない、鮮やかなもの。
それを分かっていて吾郎は必死に消し去ろうとしている。何故なら、結果など判っているからだ。
それを忘れさせるかのように。
己はいずれ、彼女を捨てて日本に帰ることが決まっているのだと言い聞かせながら、吾郎は今、滑走路を走っている。
陸での最後の研修が始まっていた。
滑走路からの戦闘機発進。それを終えて、皆、空母艦の現役実務中のチームへと受け入れてもらい、最終実習──そして卒業という運びになる。
吾郎は新卒研修生の中に混ぜてもらっているだけなので、その『卒業』にはならないが、研修終了式には一緒に出席できる。
(来週は、いよいよ……)
今現在、実施している滑走路研修の動きと筆記試験の総合成績で、どのチームに配属されるかが決まる。
といっても、例年、大抵はクラス丸ごと、どこかのチームに受け入れてもらうというのが当たり前になっているそうだ。でも、その中で飛び抜けている者は……。
Aクラスの研修生とも話す機会があったが、彼等としては『チーム・クロードとの実習』は当たり前。そしてそれを彼等は楽しみにしていた。この研修が始まる前から割り当てられたクラスのランクで既に結果は出ているのだと彼等は思っている。だから吾郎もそう思っているのだが……。心の内は康夫以外には誰にも言っていない。誰にも分からないよう、吾郎は『きっと無駄だ』と誰もが思っているところを必死になっていた。
試験は英語で行われるのでそこは良いのだが、それでも吾郎は夜眠る時間を削って筆記試験に臨んでいる。……そうすれば、本当に疲れて眠れる。彼女のことを想いだしても一瞬。気が付けば、直ぐに朝がやってきて、また訓練着を着込んで滑走路に立っている。その繰り返し……。
「吾郎、どうした」
「中佐。いいえ、なんでも……」
「根を詰めすぎるなよ。お前、近頃筆記に向けて夜も遅いそうじゃないか。それで朝は滑走路だろう?」
康夫の心配してくれる気持ちは良く分かっていたが、吾郎は『そんなの俺だけじゃなくて、皆、一緒だ』と呟いた。
それも本当のこと。吾郎は現役本隊員で外の基地から来た研修生なので、いちおう『社会人扱い』で寄宿舎で個室をもらっているが、エミルなどの新卒青年達は三人から四人ほどの班に分けられて同室。そんなプライベートもままならない中、彼等も消灯時間が過ぎた暗闇の中、なにかしらの方法を使って勉強をしているはずなのだ。
でも、そう言うと、その道を同じようにくぐり抜けてきただろう大先輩の康夫も、分かっているという笑顔を暫く浮かべていた。
「どうだ、気分転換にうちに来いよ。雪江も吾郎が来るのを楽しみにしているからさ」
吾郎はそっと頷く。
彼の自宅にも何度かお邪魔している。そこで日本食をご馳走になって元気づけてもらっていた。
彼の妻は吾郎と同い年だが、とても利発そうでそしてセシルと同様に明るい女性だった。性格もこざっぱりしていて、そしてやはり、会ったこともない吾郎の事を自宅から察してくれたように、側にいてもさりげない気遣いは素晴らしい。だから吾郎も彼の自宅に行くと日本に帰ったかのような安らぎを覚えた。
「ふー、でも。隊長の家に行くと、瞳ちゃんがなー、いるんだもんなー」
「なんだとーー? お前、瞳が邪魔なのか! 瞳は可愛い良い子だぞ!」
「っていうかー。瞳ちゃんは奥さんの雪江さんに似て、おめめがおっきくてまつげがながくて柔らかい黒髪でそれはもう〜可愛いのだけれど。それにひっついてる親父がね〜」
『俺か!』と、康夫が突っ込んできたので、吾郎は激しく頷く。
とにかくもう……。あれは中隊の部下にはあまり見せたくない康夫の姿。瞳、ひとみ、ヒトミと、もうひっつきぱなし。しょっちゅうぶちゅぶちゅと白い頬にキスをしまくって、顔なんかデレデレしているのだから。しかもおむつを交換する時など『お前は男だから、見るな』と吾郎は別の部屋に隔離されたこともある。
「隊長〜。あんまりべたべたしていると、年頃になった時、めっちゃ嫌われますよ〜」
「ふん。瞳はマドモアゼルになるんだ。日本と違って、ああいうのは当たり前に育っていくんだよ」
そうかな〜と、吾郎は首をひねった。
しかし康夫が言うとおりに、このままここで育っていけば、瞳ちゃんは日本人として生まれても、育ちはフランス人になるのだろうなと、吾郎も思った。
「隊長は……帰国は考えたことはないんですか」
「今のところはないね。雪江の両親も既に日本に帰国したけれど、俺達、ここが好きだから。でも、いずれはと思っているよ。俺、兄弟がいないから千葉の実家は両親だけだし……。まだ元気だから好き勝手やらせてもらっているし、応援してもらっているけれどな。その時にならないと分からないな」
吾郎もそこで、国の母を思い出す。母も『父さんと二人でやっとるけん、大丈夫。あんたは心配なんかせんと、自分のことしっかりしんさいやー』といつも言う。母のあの柔らかい方言も、なんだか懐かしい。
今回もフランスのマルセイユに急に研修に行くことになってとても驚いていたが、それでも実はそれが吾郎が前々から願っていたことだと告げると、母は『気ぃつけて、行ってくるんよ。無理したらいかんよ。駄目でもええんよ。そんときは帰ってこんけん』と……電話の声だけで見送ってくれた。荷物を送れるのかと母は気遣ってくれたが、それはきっと一手間だろう。それに母が考えているのは食品じゃないかと思う。それはまたいろいろと規制もあって大変なことだろうと、吾郎は『送らなくてもかまんけん。気にせんといてや』と返事をしておいた。こちらに来て国際電話で二度ほど『元気でやっとるよー』という連絡はしている。
そんな母の元には父の他に地元で嫁いだ姉が側についてはいるのだが……。吾郎もいずれは、そのようなことを考える時が来るのだろうか。
吾郎の中には、どうあっても『日本に帰る』という観念が植えついている。
なのに、異国で不覚にも……心を占めていく女性に出会ってしまった。
「なあ、吾郎。お前さあ、そろそろ散髪に行けよ。それじゃあ、ついこの間までの俺みたいじゃないか。何かの真似かと皆が噂しているぞ」
「あ、ああ……そうですね」
「それだけ集中していると言うことは誰もが良く知っている。近頃のゴローの気迫はすごいと皆が言っている。その反面で心配しているぜ」
その通りで、今の吾郎は髪は伸びきったままぼさぼさで、さらに髭も数日に一度しか剃らない為にだいだいが無精髭面になってしまっていた。
彼が言うとおりに、さながら『野武士二世』にでもなった気分だった。
「そうっすね。筆記までにはきちんとしておきます……」
「そうしておけよ。来た時の若々しいだけの青年ではなくなって、男らしい面構えに変わった……皆がそう言っているし、俺もそうおもうよ。頑張っているもんな」
先輩の労いに、吾郎もそっと微笑む。
今夜は雪江が和食の夕飯をこしらえて待っているから、直ぐに行こうという。
その後をついていきながら、吾郎は伸びきってしまった前髪をつまんで眺めた。
彼女がカットしてくれた髪。基地の理容室なら、その気になればいつだって直ぐに足を向けることだって出来たし、何度も考えた。でも、出来なかった。逆にセシルの店に行くかどうかも正直、考えたりもした。でも彼女の真っ赤な店に行くことは思い描いても、やはり今は彼女に会ってしまうのは吾郎にとっては非常に勇気が要ることだ。勇気とはつまり……今ある自分の状況よりも、心の中にある鮮やかな思いを素直に認めてしまうこと。それが怖いから、彼女に会えない。会いたいのに会えない。今度会ってしまったらきっと……。だから、吾郎の黒髪は彼女に手入れをしてもらったままになっている。……彼女の柔らかい指の感触がまだそこにあるように感じている。
そんなふうに、結局は未練がましくしているうちに、『風貌が変わった』と基地中の者に言われるようになっていた。
でも、皆が風貌が変わったというなら、髪が伸びたというよりかは、吾郎が髭面のままでいるからだろう。でも……確かに『面構え』は変わったかと自分でも若干思っている。頬が痩けたように見えるのも、表情が引き締まったということもあるだろうが、根を詰めているのも事実。そして思い詰めているのも──。そしてだからこそ根を詰める、その繰り返しでここまできた。
髪はそれほど伸びてはいないと思う。それでもたいぶ……彼女がカットしてくれたスタイルは既に崩れていた。
(もうすぐ、終わるんだ)
筆記と陸の滑走路実習、そして最後の空母艦実習。
これを終えたら、吾郎はマルセイユを出て小笠原に帰る。
日本はもうすぐ春。吾郎の郷里は温暖な気候。一足早い春が来る。そろそろ一面の菜の花畑が見られる頃だろう。
そうだ。帰国したらまず、実家に帰ろう。
そして母ちゃんを安心させてやろう。
吾郎はそう決めた。
もうセシルには振り返っちゃいけない。
ゴールはすぐ目の前なのだから。
・・・◇・◇・◇・・・
そうだ。彼女だって吾郎がキスをしてもなんの音沙汰もないんだ──。それはもう、異性としてみられたからには会えないという暗黙の返答ということなんだと、吾郎はやはり何度も自分に言い聞かせていた。
筆記試験を数日後に迎えたある日のランチタイム。
いつものようにエミル達と賑やかにカフェに入った時だった。
「ゴロー、ちょっと……」
厨房窓から顔を出したフィリップに呼ばれ、吾郎はそこへ行ってみる。
すると彼が白いズボンのポケットから出した封筒を、吾郎に差し出していた。
「これ、セシルから。嫁さんに頼まれて、絶対にゴローに渡してくれって」
吾郎は彼女の名を数ヶ月ぶりに聞いて心臓が止まりそうになった。
「ど、どうして……。俺はずっと彼女には……」
数回しか会っていない。
でも心の中を徐々に占めていく女性。
そして、会っても意味がない女性。
なのに、忘れられない女性。
これほどに時間が経っているのに、吾郎はやっと悟った。
会った回数なんかじゃないんだと! それこそ一目惚れだったのだから、最初から回数なんか関係なかったんだと。
……でも、帰国することに変わりはない。
ここにどのような彼女のメッセージがあっても……。吾郎はそう思い、フィリップにその封筒を返そうとしていた。彼は不本意そうな顔……。
「どうしてなんだよ、ゴロー。見るだけ見てくれてもいいじゃないか」
「いや。もう俺、日本に帰るから」
「だからこそだろう!」
彼がなぜそんな怒ったような声になるほどに懸命なのかが分からない。
そんなふうに不思議そうにフィリップを見やると、彼の方がはっと我に返り頬を染めていた。
「……彼女、近頃のゴローと一緒で忙しかったんだ。半年に一度の美容室の料金サービス月間があったうえに、パリでのコンテストもあって後輩達の面倒を見たり手伝いをしたりして準備に忙しくて、さらにコンテスト前にはパリに泊まり込みで、暫くマルセイユにはいなかったんだよ」
「そ、そうだったんだ。頑張っているんだな。うん、彼女にこれからも活躍を祈っていると……伝えてくれよ」
するとまたフィリップが怒ったような顔になる。
「わからないのか? セシルはその間、ゴローのことを考えるのに丁度良かったと言っていた! 彼女がパリにいる間も、ゴローのことを考えていたということにならないか? それを開かずに返すだなんて!」
ずっと考えてくれていたセシルが可哀想だと、あの穏やかなフィリップが叫んだので、吾郎はとても驚いた。
気が付けば、カフェにいる隊員達も何事かとこちらを見ている。
吾郎はたじろぎながら、窓口にいるフィリップを隠すようにして小さな声で呟く。
「それでも同じ事だよ、フィリップ」
どうも彼の様子だと、彼はゴローとセシルの間で何があったかを知っているのだと確信。
しかも……その反応は、吾郎が喜んでも良いもののような気もする。
心が激しく揺れた。
なんだか心の中に、それこそ郷里の早春を思わす菜の花畑がざああっと広がっていったよう。
しかしその反面で、吾郎はセシルを恨みたくなる。
どうして今頃──。もうすぐ試験だと言う時になって、どうして俺の心を掻き乱すのだと!
するとフィリップが思わぬ事を言いだした。
「もしかしてゴロー。ハヤトのことを気にしたりしていないか?」
それにもとても驚いた。
でも……と、吾郎はここ数ヶ月を振り返る。
最初こそはセシルの中にいるハヤトを気にしたもんだけれど、キスをして自分の気持ちをさらけ出してしまったあの夜以降、不思議と『澤村中佐には勝てない』ということで苛むことはなかった。勿論、それも敵わぬもののひとつとして存在しているのは変わらないのだが、以前ほどではなくなった。
今、吾郎が一番に気にしていることは『帰国すること』だ。これを覆すことは決してない。恋をすることを許されていないわけじゃない。でもこれは吾郎が決めていること果たしたいこと、なによりも! そう決めているから覆せないのだ。
小笠原に帰って、このチャンスをくれたお嬢さんと澤村中佐にしっかりと恩返しをしたい、以上に、甲板要員となったなら何処よりも誰よりも何よりも、小笠原のあの海の上に立ちたい。何度だって夢見た。カフェで赤いメンテ服を着ている甲板メンテ員を見るたびに憧れた。空を飛んでいる戦闘機を見て、陸の上で輸送機を滑走路から飛ばしては溜息をついていた。そんな日々、ちょっとしたことで吾郎はチャンスを得た。いつの間にか見られていたのだが、吾郎の日頃の、ちょっとしたささやかなこだわりと心情をちゃんと見抜いてくれた見つけてくれた、そして見ていてくれたあのお嬢さんからもらったチャンスを、『帰らない』という結果で返したくない。だから……。
「そんなこと、もうたいしたことじゃないよ」
そう言うこと自体、もうフィリップに『セシルが好きだ』と言っているようなもの。
でも彼はなにもかも知っているようで、そこでほっとした顔を見せてくれた。
「だよな。俺だって、嫁さんがハヤトのことを言い出しても気持ちは変わらなかったもんな」
吾郎はそこで『なんだって!?』とまたもやここで久々の『亡霊様』に鉢合わせした気持ちになる。
つまり、フィリップが言っているのは? 『俺も吾郎と同じで亡霊ハヤトに会っているよ』と言うこと? イコール、彼の奥さんもハヤトが好きだったと言うこと!?
そんな吾郎の驚き顔すらも、フィリップはなにを言いたいか言わなくても分かっているとばかりにいつもの穏和な笑顔を見せてくれている。
「俺の場合は、黒髪の男が二人、目の前にいたよ。ハヤトより上の男がいてね。……まあ、その男、彼女の手の届かない人だったし、もう亡くなってしまっていないんだけれどね。その男とどうにもならないから同じ日本人のハヤトと……らしいんだ。そこらへんのことは、俺も深くは聞かなかった。最後は良いお友達。ずっと友達でいたい一番の人だからなくしたくないと、俺と結婚する時に彼女が言ったんだ。でも、俺、なんにも気にならなかったよ」
吾郎は呆然とし……。『そうだったんだ』と力無く呟いた。
「じゃあさあ、ゴローはもうハヤトじゃなければ、『帰国』してしまうから……ってことなんだ。それで終わりでいいのかよ?」
いいもなにも。それが吾郎がここ数ヶ月でやっと固めた、必死に固めた気持ち、結果……。
「まあ、それがゴローの出した答なら、俺もなにもいわないよ。だけれど、ゴローがセシルに対してどうしようもない気持ちをぶつけてしまっていたのなら、セシルの気持ちも最後に少しだけ見つめてあげてもいいんじゃないかな。最初にコイントスをしたのはゴローなんだろ?」
その言葉に吾郎ははっとし……。
そうだ。もし、セシルが吾郎のことを少しでも考えてしまうようなことになっていたというのなら……それは紛れもなく吾郎のせいだ。あの優しい雨の日の、吾郎の口づけがそうさせてしまったのだ。
彼女の気持ちも考えず、ただ吾郎の一方的な気持ちの押しつけのように……。
そして二人はそれっきりになり、吾郎の気持ちひとつで、終わったのだと思っていた。
じゃあ、セシルの方から吾郎の向けてなにかメッセージがあるというのなら、送った吾郎だってそれを受け止めるべきなのでは……?
急にそう思えた吾郎は、急いでその封筒を開けた。
中にはいつかフィリップからもらった割引チケットが入っていた。いや、すこしデザインが違う気がする?
そのチケットの下に、メッセージがある。
『そろそろカットが必要でしょう。小笠原に帰る前に格好良くカットしてあげる。私じゃないと駄目だからね。……最後に吾郎の可愛い笑顔をもう一度みたいなー』
そこには彼女の自宅に来いといわんばかりの、自宅マンションまでの地図が記してある。
「どうする? ゴロー」
吾郎はその封筒をグシャリと握りつぶした。
目の前のフィリップが、がっかりした溜息を──。
「なあ、フィリップ。惚れた女にされることで、男の決意がいとも簡単に崩壊するってアリかな?」
瞬時に彼は笑顔に変わった。
「あり、あり! ……好きが嘘じゃないなら、そのまま伝えれば、いいんじゃないかな。俺だって大決意で嫁さんに告白したんだから」
ちょっぴり頬を染めている彼。
そんな幸せそうな顔を見せられて、吾郎はちょっとばかり悔しくなる。
「メルシー、フィリップ」
吾郎はチケットを掲げた。
彼も笑顔で見送ってくれる。
それにしても『可愛い笑顔』ってなんだ!?
吾郎はチケットを握りしめ、ちょっとむくれていた。
しかし、あっと言う間に頑なな決意を崩壊させられた恋心は、あの水色の瞳に一直線!
その晩、吾郎は真っ先にセシルの部屋へと向かう。
・・・◇・◇・◇・・・
その晩は奇しくも、雨。
吾郎はやはりなにかあるのかと、勝手に思いたくなってしまう。
「待っていたわよ、ゴロー」
久しぶりの挨拶もなにもなかった。
彼女の部屋を訪ねると、彼女はそれだけ言って吾郎をリビングへと連れて行く。
そこには一つの椅子と、スタンドミラーのセット。そしてテーブルには沢山のハサミや櫛が既に並べられていた。
「どうぞ」
「メルシー」
久しぶりなのに、どうしてかあの晩のままのような気易さが既にそこにはあった。
しかし、セシルもそれ以上はなにもいわず、問わず。吾郎も同じようにどうしてこのようになったのか、どうして俺はここに来たのか。そしてこの長い間お互いにどうしていたのか。そんなことは二人とも言葉にしなかった。
ハサミを持った彼女の顔は、初めてカットしてくれた時と変わらない確固たる自分を強く秘めている魅力的な顔。夢を追い続けている、走り続けている女性の顔。
鏡に映るそんな彼女を、吾郎は一時も視線を外さすに見つめた。時折、あの水色の眼差しと目が合う。真剣に黒髪をカットしている彼女の、その強い眼差しと合う。だけれど吾郎と目が合ったと知ると、セシルはいつものチャーミングで無邪気な彼女の愛らしい目元に、ふっと崩れる。口元をふんわりとやわらかに崩し、セシルは吾郎に微笑みかける。そして吾郎も、胸が高鳴るままに微笑み返した。
それはさながら、既に彼女と触れあい抱き合っているかのような錯覚にさせられた。その胸の高鳴りはいつしか狂おしい思いに変わり、やがて熱い波となって吾郎の全身を荒らし始める。それを必死に堪え、彼女が最後だと……最後と分かってくれているその区切りをつけさせてくれるかのようなこのひとときを吾郎はしっかりと噛みしめる。
伸びきった髪は、吾郎が今まで試したことがないほどに短くカットされてしまった。
でも抵抗感はない。彼女が吾郎の為に選んでくれたカット。
それに見ればなかなか男前じゃないか。……独りよがりかもしれないが、吾郎は出来上がった自分の頭を見て、満足げに微笑む。
「だいぶ伸ばしたのね」
「あれから切っていないよ」
「だからって髭まで伸ばさなくても……。じっとしていて、ここも綺麗に剃ってあげる」
リクライニングの椅子ではないからどうされるのかと思えば……。セシルは躊躇うことなく、吾郎の頭を抱きかかえ、自分の膝の上に……。
こんなことは初めての吾郎の胸の高鳴りは、最高潮に達した。
しかし剃刀を手にしたセシルは真剣なまま。シェービングフォームを塗った吾郎の頬に真顔で向かう。
吾郎はそっと目を閉じる。柔らかい彼女の感触とぬくもりと、そして、吾郎を自分の手で綺麗に仕上げて見送ろうとしてくれるその心意気を側に感じながら……。彼女が出した答は、こういうことなのだと。……もしかして、澤村中佐の時もこんなふうに見送ったのだろうか。
どこか、自分のことではないのに吾郎は泣きたくなるほどの切なさを覚える。そっと目を開けると、吾郎をじいっと見つめている彼女の水色の瞳が直ぐ側にあった……。その目が潤んでいたので吾郎は驚き、そして胸がぎゅっと鷲づかみにされるほどの狂おしさにみまわれた。
「セ、セシル?」
「馬鹿ね、私。どうせ帰ってしまう男なのに、またどうしようもなく気になってしまっただなんて……。ゴローがいけないのよ」
彼女の膝枕で寝そべっている吾郎顔の上で、セシルが泣いた。
そして頬の上に、ぽつん、ぽつんと二粒だけの涙が。
吾郎は……もしかして、有り得ないことが起きたのかと驚きのあまり彼女をただみた。セシルはそんな吾郎の唖然としている顔が耐えられないのか、すぐに手の甲で涙を拭いて、最後の仕上げだと蒸しタオルで吾郎の頬を拭いてくれた。
涙目の彼女に手鏡を渡され、吾郎は出来上がった自分を見て驚いた。
「あれ? なんでここだけ残しているんだよ」
短いカット。そして顎の先に少しだけ残った髭。近頃よく見るスタイルだった。吾郎自身ももの凄い男っぽくなったと思うほどに、彼女が格好良く整えてくれていた。自分では絶対に『これでお願いします』とは言わないスタイル。
「ゴローの顎の形は、そういうの似合うのよ」
いつもの彼女の声ではなかった。
そして横顔も、いつもの明るい彼女ではない……。
吾郎がいつか見た、あの寂しそうな顔……。
「有難う、セシル」
「ゴローも、アリガトウ。私のこと、見てくれて」
そこはやんわりとした表情、しとやかな微笑みで呟く彼女。
「初めてよ。私のこと『寂しい顔をしていた』といった人、初めてよ。……そうね、そんな私もいるわ。商売柄もあるけれど、性格的にも私は明るくしているのが好きだし、そうしていたいと思っているの。それが自然だし。誰もがセシルは明るいと言ってくれるわ。でもね、そうよ……そんな私もいるけれど、知っている人はあまりいないと思う。……あのハヤトだってきっと知らなかったわ」
吾郎はだまって、寝そべったままセシルを見上げていた。
そしてセシルはそのままの寂しげな横顔を、雨が伝う窓へと向けて外を見つめている。
その間、吾郎も彼女のことを思いやる。でも、どうしても言わねばならぬ事があった。
「……俺は帰るよ」
「分かっているわ。それにハヅキと約束をしてチャンスを活かしにきたのに、これで帰らない男だったら、私、嫌だわ」
「でも、俺は……忘れられなかった。必死に忘れようと……」
そう言った途端だった。
寝そべっている吾郎の上にセシルが覆い被さり、吾郎にそっと口づけていた。
しかし、それも……この前の吾郎のように軽くふれるだけの……。彼女も気恥ずかしかったのか、吾郎の顔の直ぐ上で顔を背けてしまった。しかもその横顔に涙が伝っている。
「……それでもなお、帰ってしまう男でも構わないわという馬鹿な女がいたら、どうする?」
もう、駄目だと吾郎も思った。
彼女の栗毛の頭をそっと両手で引き寄せる。
二人の鼻先が触れ合った。黒い目と水色の瞳が今まで以上に深く絡まり合うように見つめ合う。
「それでもなお、その女を置いていくと分かっていて、愛してみたいという男がいても良いと思ってくれるかな?」
そしてセシルが大粒の涙をこぼした。
終わりが分かっていて、燃えてしまった心をぶつけ合う。
そんな恋を一瞬の恋を、二人は選んだ。
雨の音の中、彼女の膝の上で吾郎は熱い口づけを深く長く交わし合う。
心を燃やした女性との睦み合いの夜が更けていく。
その肌は、どこまでも柔らかくしっとりとして、そして本当に甘い味がした。
Update/2007.9.24