帰国から二年──。
小笠原、ある真夏の日。
今日は日曜日だ。
窓を開けると懐かしいさざ波の音。
この宿舎では、そう……毎日がこんな潮騒を耳にして過ごしていたのに。今では窓を開ければ、船の汽笛が聞こえる感覚が直ぐに蘇ってしまう。……でも、聞こえない。
その窓辺でデジタルカメラを構え、吾郎はシャッターを押す。
今日は天気が良くて外に出れば汗が滲む。だが、珊瑚礁の海は夏の日射しに活き活きと輝いている。
吾郎はそれをファインダーに収める。その後直ぐに、机にあるパソコンに取り込み、編集し、プリントアウト。──葉書で。
その葉書の出来具合を確認し、満足しながら微笑みを浮かべる。それを手にして、吾郎はある女性の笑顔を思い浮かべる。
そしてまた、窓辺には白いソファー。
マルセイユ留学をしていた時に吾郎が持っていた少ない所持品の中でも一番大事な絶対に持って帰りたいものだった。今はこうしてちゃんと日本に持って帰ってきて宿舎個室の窓際に置いている。あの日のように……。
そのソファーに座ると、直ぐ傍には小さなテーブル。そこにはサインペンや、他に作った吾郎自家製の写真絵葉書が数枚……。そして缶ビール。
「やっぱり、日本のビールはウマイっ」
缶ビール片手に、吾郎はそのソファーでくつろぐのが日常になっている。
そのビールを楽しみながら、潮の匂いがする窓辺で、今日も自家製の葉書を数枚手にして眺める。
「うん、さっき撮ったのがいいな」
ここ数日で作った葉書。先ほど撮った珊瑚礁の海と青い夏空、そして白い雲。いかにも南国の夏を思わせるものを手にとって、吾郎はサインペンを握る。
『また小笠原に暑い夏が来たよ。俺、汗だく。日本の夏はビールがウマイよ。……でも時々ワインを飲むようになったかな。無性に恋しくなるんだ、なにもかも』
それだけを書いて、宛先を書く。
彼女への手紙。頻繁ではなく季節の挨拶程度、年に数回だけだす。しかもこんなどうでもいいような日常を少しだけ添えて……。
もうパリへの住所も暗記してしまった。それをさらさらと記して、終わり。後は軍内にある郵送課に出せば、エアメールで彼女のところまで行くだろう。
この二年、その繰り返し。
そのうち、セシルから一度だけ葉書がやってきた。今年の春のことだ。これは奇跡かと吾郎は飛び上がったぐらいだ。
最初の一年は音沙汰なかった。そんなことは吾郎も承知の上。一度、離れた別れた関係なのに、未練たらしく男がつきまとっているようにはなりたくなかった。単に、隼人が教えてくれたように『俺は元気。セシルも元気だといいな』という、ちょっとした声かけのつもり。なるべく深い内容にならないよう、他愛もないひとことになるよう心がけた。彼女がそれで少しでも一人きりじゃないということを感じて頑張れるなら……。もし、嫌なら嫌と言われても構わない。……認めたくはないが、新しい恋人が出来てその男を支えに新しく生きているなら、そのうちに向こうから教えてくれるだろうと……。でも、吾郎の一方通行の声かけには、彼女の喜びの声も疎ましく思っている声も反応はまったくなかった。
でも、今年の春。本島に桜の写真を撮りに出向いた時、皇居の桜を撮って送ったら、初めて向こうから葉書が来たのだ。
その葉書はエッフェル塔のセピアの写真。裏にはお互いの住所だけが記されていて、彼女からの一言はなにも書かれていなかった。それでも吾郎は嬉しかった。少なくとも疎まれてはいない……と思いたい。
今だって、忘れていない。他の女性から声をかけられることが増えたが、やはり興味が湧かなかった。
むしろ帰国してからの二年は、同僚との付き合いが楽しくて仕方がない。特に……御園若夫妻とは懇意にしてもらい、彼等のホームパーティに行けば、いろいろな人と顔を合わせるので、賑やかで楽しい。
メンテの仕事も順調だ。源中佐にも良くしてもらい、小笠原にやってきた新人メンテ員の強化講習や、新しい機材の展示会や説明会なども小笠原整備員の代表として行って欲しいという出張も増え、それを小笠原に帰ってメンテ員に講習するという仕事も任されていた。勿論、元サワムラ、現ファーマーメンテチームに属して、ビーストームの訓練に取り組んでいた。
小笠原で見つけたものは、まだ……ない。
師匠にも時々メールを送るが、彼からの返信も淡泊で多くは語ってはくれない。吾郎はそれでも良いと思っている。師匠は『自分で見つけろ』と言ってくれているのだと……。それでも近況だけ。
そして、お嬢さんとの約束がどうなったかというと……。
「岸本君ー、いるかいー」
急にドアをノックする音。
そして宿舎管理人の声。退官目の前の親父さんが今はここの管理を任されている。
「親父さん、なあに」
「これ、届いたよ」
管理人の親父さんがいつもの笑顔で、段ボール箱を置いていった。
吾郎は礼を述べ、それを部屋に入れる。
送り主は、実家の母だった。
帰国して直ぐに休暇をもらい、香川の実家に帰省した。
吾郎の実家は瀬戸大橋がある坂出市。
帰ると母は無事に帰った吾郎に安堵し、父は逞しくなった息子が少尉に昇進したことを喜んでくれた。
瀬戸大橋の写真もセシルに送った。その時は返事はなかったが……。『俺の実家』とだけ添えて送った。
そんな実家から届いた箱を開けてみる。
……なんだか、嫌な予感。
「うわー、まただ!」
吾郎は額を叩いて、床の上に座り込んだ。
箱一杯の『讃岐うどん』……。どんだけ送ってくるんだ! と、吾郎は脱力……。
そして直ぐに携帯電話を手にとって実家に電話をした。
「かーちゃん! なんで毎回、毎回、こんなに送ってくれるんよ!? 多すぎるゆーとるやろっ」
『なんね、あんたんところの大佐お嬢さんが美味しいゆーてくれるんやろ! この前だって、皆さんに配ってすぐになくなったゆーとったやないのっ』
「そやけどな〜。あれかて、配るの大変やったんやでっ」
『また外人さんに配ってみーよ。喜んでくれるかもしれへんやろ。父さんも、ぎょうさん入れときゆーたんよ』
っていうか。前より増えてるだろう! と吾郎は抗議。
だが母は『頑張って配りー』と言ってお終い。軍人さんはいっぱい食べるからこの前みたいに直ぐになくなるってと軽く言って電話を切ってしまった。
吾郎は溜息。まーったく……。母はあれから葉月にすごく気を遣ってくれる。以上に父も。息子をここまでにしてくれたと、なにか送ってくるたびに『それは御園さんに』と言う。まあ、本当に御園夫妻には毎回喜んでもらえるのでそれはそれで母の気配りは嬉しいのだが。
「ふー。お嬢さん、元気かな。丁度いいや」
葉月は昨年の春に無事に男の子を出産。暫く落ち着いてから、メンテの同僚と彼女の自宅にお祝いに駆けつけた時、その男の子を抱かせてもらった。もう〜びっくりするほど彼女にそっくり! 今ではその『海人君』に会うのが吾郎も楽しみだった。
葉月は規定の産後休暇が終わると直ぐに復帰。休み休みではあったが大佐としての大事なところは外さず、補佐達に支えられ直ぐに以前通りの大佐業務に戻った。さあ、そろそろ適性検査の為にトレーニング、そしてラストフライト! と、彼女も周りの皆も吾郎も張り切っていたら……。『二人目ができちゃった』宣言! まだボクちゃんが一歳にもなっていないのに年子妊娠発覚! これにはまたもや基地中が騒然とした。というか澤村中佐がかなーり冷やかされていた。
まあラストフライト、いつだっていいと吾郎は思っている。……というのも、この約束を果たしたら、俺には何があるというのだろう? それが最近の吾郎のちょっと気にしていること。つまりそれが『小笠原でなにも見つけていない』ということなのだと思っている……。
吾郎は再び携帯電話を手にして、葉月にメールを送る。
『お嬢さん、産休に入ってからどう?
また四国から讃岐うどんがいっぱい届きました。
持っていきたいけれど、いつお邪魔してもいいかな〜』
葉月は二人目の出産が目の前。つい最近まで、またもや大きくなったお腹を抱えて大佐室業務をこなしていた。
今度は女の子だとかで、吾郎は『瞳ちゃん』を懐かしく思い返し、また楽しみにしてる。
それにしても、小さなボクちゃんの子育てもあるというのに……。あそこは旦那さんがかなり子育てに協力しているので、なんとかやっていけているよう。二児のママになるのに、大佐室を回転させているお嬢さんにも、子育てを協力してくれているご主人の隼人にも、どちらもすごいなーと吾郎はいつも感心だ。
するとメールを送って直ぐに、返信ではなく電話がかかってきた。勿論、葉月だ。
『吾郎君、メール見たわ』
「うん。またいっぱい送ってきたんだ。消化に協力してくれると有り難いです〜」
『うれしー! カイもあのおうどんいっぱい食べるのよね。今からでもうちは大丈夫よ。あ、また、あれ……食べさせてよ。隼人さんもメールのこと言ったら、あれ食べたいって言うから』
「うん、じゃあ直ぐ行くよ」
『なんなら、小夜さん達も呼ぶわよ』
「本当? 助かる〜。小夜ちゃんも讃岐のうどん、懐かしがって食べてくれるから〜」
葉月と隼人が一声かければ、あちこちの隊員が大集合。
それなら箱ごと持ってきたらと葉月が言ってくれ、吾郎は早速、御園若夫妻の『白い新居』へと向かう。
帰国して落ち着いてから、車を買った。
国産の普通の車。島の中だからそれほど行くところもないと思っていたが、やっぱり持っていたら便利だ。
特に葉月の新しい自宅に行くには車は不可欠で、彼女の家で仲間が集まる為には他の仲間を乗せたり送ったりするのにも重宝される。
吾郎は母が送ってくれた箱を抱え、車に積んで海辺を走った。
御園夫妻の家も、藤波夫妻に負けず、とても癒されるお宅になった。
吾郎はこうして度々、通わせてもらっている。
・・・◇・◇・◇・・・
「こんちはー、吾郎でーす」
海辺の白い家に着いて、呼び鈴を押して叫ぶと、カメラ付インターホンから『ドア、開いているからどうぞ』の声。
白い玄関のドアを開けると……。
「ちゃー」
何故か、そこに海人が立っていた。
『ちゃー』はたぶん、こんにちはーの事だと吾郎は理解。
飛行機のプリントがされているタンクトップと、オムツだけという格好で、玄関マットの上に立ったまま、吾郎をじっと見ている。
栗毛はすっかり伸びて、艶々。まんまるのおめめが、吾郎を見ただけで可愛らしくにっこりとなった。
「うわーん、海人ー。おじちゃん、おうどん持ってきたんだヨー!」
あまりの可愛さに、箱を置いて海人を抱きしめると、途端にじたばた動き出した。どうもその箱が気になって仕様がないらしい。
その箱のあちこちを触って、海人は興味津々だ。
「カイ、いないと思ったら……! 最近、チャイムが鳴ると真っ先に玄関に行っちゃうのよね〜」
廊下にお腹が大きいマタニティワンピース姿の葉月が姿を現した。
「またお腹がおっきくなったみたいだねー」
「そうなのー。産休にはいるまでは皆、毎日見ていたから違和感なかったみたいなのに。ここのところ久しぶりに会うとそう言われるのよね」
「あんまり無理しないでね。海人の時も危なかったでしょ?」
「うん……」
切迫早産だとかなんだとかで、海人を産むまで彼女の妊婦生活には落ち着きはなかった。
それを踏まえてか、今回は前より大人しく慎重に行動しているよう……。その分、今回の妊娠中にはこれと言って皆をひやっとさせることはなかったようだ。
「旦那さんは?」
「うん、小夜さんとか五、六人が来てくれることになって、おもてなしの買い出しに行っちゃったわ。どうぞ、あがって」
「おじゃましまーす」
御園若夫妻の新居もだいぶ落ち着いた。
吾郎も引っ越しを手伝ったが、まだまだこの家は新しい木の匂いがする。
「そうだ、これ。この前バーベキューを庭でした時の写真ね。海人、可愛く写っているよ」
「わー。いつも有難う。吾郎君、すっかりカメラが趣味ね」
吾郎はそれはどうしてそうなったかを思って、ちょっと照れて『うん』と言ってみる。
パリにいる、まだ忘れられない恋人に数枚だけ送る葉書の為に、沢山のスナップを撮っているだなんて……。誰も知らない……。
こちらのお宅のキッチンに入って、吾郎はうどんの箱を調理台に置く。
これが、どこかの厨房? と、思うほどに立派な調理台で、調理器具もなんだかすごい。しかもこの家を訪ねるようになって初めて知ったのだが、これらは全て『隼人の趣味』というから驚いた。
「お嬢さんはそこで座って、ゆっくりしていてね。俺、うどん茹でるから」
葉月は海人の手をひいて、有難うとリビングへと消えていった。
ソファーでゆったりと座って、海人と一緒に楽しそうに写真を眺めているようで、吾郎も一安心。
それではと、『良く知っているキッチン』で、『良く知っている鍋』を使わせてもらう。というのも……この家に来てから『お料理は隼人の弟子』になってしまったのだ。
頻繁にある御園若夫妻の『ホームパーティ』。隼人がどんなに料理が得意と言っても、量が半端でないため『俺、手伝います!』なんて飛び込んだら、いつの間にか事細かに仕込まれていたというか……。しかもあの隼人。こだわりが素晴らしく、細かい! たまに甲板で一緒に整備をするがそこの性格がキッチンにもばっちり現れていると言っても良い。それで吾郎は思った。『なるほどー、師匠が気に入ったわけだー!』と。吾郎は真っ直ぐ馬鹿で気に入られたのだが、きっと隼人はクロードの性質に似ていると吾郎は思った。
「ただいまー」
うどんを大量に茹でていると、玄関からそんな声。
隼人だ。
「おかえりなさーい、パパ」
「たた!」
葉月のいつもの優しい声。家庭ではより一層やわらかい。そして海人もママの真似。『たた』は多分、『パパ』ってことだろう? 海人がそのまんま、ママより早く玄関にすっ飛んでいった。
「吾郎、来たみたいだな」
「うん。今、おうどんを茹でてくれているわ」
「達也がビールの買い出しに出てくれたから、あとで泉美さんと晃と来ると思う。吉田とテッドももうすぐ来るよ。テリーと柏木も、遅れるけれどくるって……あとは……」
廊下からそんな声が近づいてくる。
買い物袋を抱えた隼人がキッチンに入ってきた。
「吾郎、いらっしゃい。悪いね。突然」
「こっちのセリフっすよ〜。もう母の荷物、だんだんとグレードアップしてきて!」
「あはは! 毎回、なくなるからだよ。今回も、食べきってしまおう」
そうして隼人は颯爽と、黒いエプロンをする。
彼がこだわったという調理台にまな板を出して、包丁を握る姿なんか、なかなか。
「坂出発、ぶっかけうどん。今日みたいな暑い日はいいな。ただ『すだち』がないのが寂しいな」
「まだ季節じゃないっすからね〜。レモンで代用を」
「買ってきた、買ってきた。天かすも、かまぼこも、薬味もぜーんぶ。俺、ファンだもん」
隼人も気に入ってくれ、吾郎は『さすが、さすが』と拍手。
彼は手際よく、薬味に具材をざっと揃えてくれた。
「さて、カイのは別にしないとなー。讃岐のうどんはコシが強いから、軟らかく煮てやらないと」
隼人は小鍋を用意して、うどんを一掴み。息子の分もちゃんと別に作ってしまう。
吾郎も見てきたが、このパパが作った離乳食はすごかった。たぶん、この人、すっげー楽しんで作っているんだと思った。
「ミルク味がいいかな」
「っていうか、中佐! この前も、うちのうどんをイタリアン風に味付けしたでしょ! あれ、駄目!!」
「良いアイデアだと思ったんだけれどなー」
彼はどうも洋食派のようで、なんでもマルセイユ風、ニース風、イタリア風にしてしまう。
そのオリーブオイルをぶっかけたトマトうどんとやらが出てきた時は、吾郎と実家が近い倉敷出身の小夜が、吾郎より先に激怒したほど。さらに、和食派のお嬢さんにも不評だったという、隼人さん初の黒星? それからうどんと言えば、吾郎がいいと皆が言ってくれる。ただ、海外陣の者達には隼人のうどんが受けたようで吾郎はちょっとがっかり。
「はー。これ、師匠に食べさせてやりたいけど、それって御園中佐風がよろこばれるのかなー」
「かーもな。クロードキャプテンだってマルセイユの舌だもんなー」
いや、絶対に俺の郷里の味を、いつか……。吾郎はそう思っていた。
「今度、坂出に帰ったら、母に手打ちを教わる約束なんですよ」
「お、ついにそこまで来たな」
そしてそれは何故か。吾郎は何も考えずに隼人に嬉しげに告げてしまう。
「それで、マルセイユに帰ったら師匠や藤波夫妻にご馳走したいんですよーー」
と、言って……吾郎はハッとした。
さらに目の前のクッキング師匠も……表情が固まっていた。
吾郎の心臓もそこでばくりと強く打って止まったよう。その次には『すごい重要なことに気が付いた自分』を知って、吾郎の体温がぎゅうっとつま先から脳天まで上昇した。
隼人も驚いたのか、吾郎と沈黙の中、見つめ合っているだけ。だが暫くすると彼がいつもの穏やかな笑顔を見せてくれた。
「そうだな。きっとクロードキャプテン、喜ぶと思うよ。康夫に雪江さんもいつだってうどんが食べられて大感激だ」
吾郎はまだ固まっていた。
なにかすごいことに気が付いてしまった気がした……。
(もしかして、これが?)
『俺の答』?
まさか。でも……いつだってそう思っていたと言うことでは?
セシルだけじゃない。吾郎の中の『マルセイユ』。
いや、ここ小笠原だって楽しく過ごしている。もう、二年も経ったじゃないか!
『こんにちはー!』
玄関から、小夜の元気な声が聞こえていた。
「来たな。ちょっと行ってくる」
隼人は『気にするな』とばかりに、吾郎の肩を叩いて、気を遣うように玄関へとキッチンを出ていった。
大鍋の熱湯の中、うどんがぐるぐると回っている。吾郎は呆然とそれを見ていた。
「あの、吾郎君……」
そんな葉月の声が聞こえてきて、吾郎はハッと振り返る。
大きなお腹を抱えながら、彼女がゆっくりとこちらに歩み寄ってきて、吾郎に一枚の写真を差し出した。
いや、写真じゃない?
「これ、さっき頂いた写真冊子に挟まっていたんだけれど……」
葉月が手にしているのは『葉書』。
吾郎はそれに気が付いて、また身体の体温急上昇!
「わーー! 読んだ!?」
「よ、読んでないわ!」
「嘘だ! こんなの一目で解るじゃないか!」
「だって! 挟まっていたんだもの! ごめんなさい!!」
「謝らないでくれよー。俺が悪かったーー」
吾郎がここに来る前に、セシル宛に書いた珊瑚礁の葉書だ。
どうしてか、慌てていたのか? 葉月に持っていこうと急いで用意し写真冊子に挟み込んでしまったようだ。
「み、見なかったわ。見なかった」
「そ、そうだね。見なかった、お嬢さんは見なかった──」
二人でそうすることにした。
やがて葉月は小夜の顔が見えたので、そちらにさっと行ってしまった。
吾郎はすごい脱力……。
御園夫妻に、心の奥底を自分から大公開してしまった気分。
この二年。吾郎が小笠原でなにを思っていたか……。
吾郎自身も今日、気が付いた気がした。
(俺、マルセイユに帰りたい?)
この夏が終わって秋になる頃。
葉月は可愛い女の子を無事に出産。
出産後暫くすると、彼女はついにラストフライトに向けてのトレーニングを開始。適性検査を目指した。
・・・◇・◇・◇・・・
真っ赤なメンテ服、そして紺色のキャップ。腰には黒革の工具ポシェット。蛍光のベストジャケットを着込んで、耳には無線インカム。
小笠原の潮の匂いは濃い。
マルセイユより色濃い珊瑚礁の海がそう連想させるのか──。
「もしかして、あれは……」
小笠原総合基地の沖合に常駐している訓練空母艦。その日、吾郎は何故か訓練外の用件で甲板に来るように呼び出され、そこにいた。
その甲板に出向くと、他のチームのメンテ員が数名……。なんの用件で呼ばれたのかと疑問に思う中、甲板の車庫から、見慣れない機体が第一中隊源メンテチームの誘導で牽引されている。
吾郎はそれを見て、目を丸くした。まったく見たことがない戦闘機?
車庫の扉前では、あの隼人が赤いメンテ服姿で久しぶりに甲板の上に姿を見せていた。
先端が尖っている、どの機体よりもスリムで細長い……棒を思わせるかのような『白い機体』。どこか頼りない『お化け』? 『のっぺらぼう』? 吾郎の第一印象はそんな感じ……。見たことがないだけに、どこか不気味な姿だった。
「ついに来たな。通称『ホワイト』。まだ正式名は決まっていないらしいけれど、あんな真っ白なペイントで小笠原に届いたから、工学科のスタッフがそう呼んでいるみたいだな」
呆然と目を見張っていた吾郎の横に、赤毛の男が並んだ。
吾郎が所属している『元サワムラメンテチーム』の同僚、エディ=キャンベラ。
彼も吾郎と同様に招集されたメンテ員の一人のようだった。
「クロウズ社がこのために制作したのが、あれなのか。なんか戦闘機と言うより、宇宙に行きそうなかんじだと思わないか? エディ……」
「まだ試作品だろ」
「あそこまで形になっていて、試作品!」
「そんなもんだろう。一から作ると言い出して、早数年。戦闘機という概念をはみ出したいらしいから、ああなったのかもなあ。うー、早く触りて〜。中身、覗きてー!」
エディも興味津々なのか、目の前に『新しい相手』が現れたが如く、満面の笑み。
訓練校の成績が『AAプラス』という脅威の経歴を持つ、逸材。機械のことしか頭にないと有名で、根っからの機械屋。吾郎と歳は変わらないのに、既に腕は職人並み。この小笠原で機械に困ったら、エディを呼べ。とまで言われている。
正直、こんな男が既にいること、凱旋帰国と言われている吾郎にはちょっとショックだった……。
そんな彼なのだが。大きな欠点がある……。それがやっぱり機械しか頭にないこと。しかしそれを良く知っている葉月に隼人に、現キャプテンのファーマーキャプテンは、その欠点を見事に彼の特長となるように使いこなしていた。
彼の機械に対する情熱は誰にも負けないところも、吾郎は追いつけなくて……。『これはマルセイユにいたのでは知り得ない刺激だった』とエディとの出会いは衝撃的だった。しかし彼、本当に機械と向き合うだけ……。それ以外の仕事は皆無。これが欠点。機械整備以外のなにかがあるとエディは直ぐに『ゴロー、なんとかしてくれ〜』とやってくる。そんなエディを目にした他のメンテ員達は『ゴローならと、エディは認めてくれているんだよ』と言っているが??
隼人だけじゃなく、今日はマクティアン大佐も作業着姿で甲板に出てきている。
なんだが、吾郎に緊張が走った。
源中佐の『集合』のかけ声で、ばらばらに寄せ集められたメンテ員十数名が彼の下へと整列する。
中央に工学科大御所、マクティアン大佐。そして両脇に隼人が源が並んだ。吾郎とエディも肩を並べ、源チームと他のメンテ員と整列。
「本日はご苦労様。今日は諸君にお願いがあってここに来てもらったのだが……」
そしてそれから続く、マクティアン大佐の説明が始まった。
エディが言ったとおりに、今、吾郎達の目の前にそびえている未知の機体は『通称・ホワイト』という開発中のシステムを搭載する予定の新機種だという。
ただまだ何も乗っていない状態で、ただの飛行機に等しいとのこと。まだ先になるけれど、今からテストパイロットを探す段階に移行し、徐々にシステムを搭載していく予定だという。この形もエディが言うとおりに決定ではなく、これから幾度となく変更をしていく予定だけれど、クロウズ社と宇佐美重工が生み出した第一号が、細長いホワイトとして今ある形。
そしてマクティアンは、集まっている吾郎達に言った。
「源メンテチームを中心に、他に任せたいと思ったメンテ員を選抜。互いに他の業務があるので、ここにいる君達で交替で整備をしてもらおうと思っている」
吾郎は息を呑んだ。
新機種の整備を……この俺が!
隣ではエディの『やった』という声。彼は拳を握って『新しい相手』に触らせてもらう喜びで興奮していた。
吾郎の血も騒いだ。これでも機材に関してはかなり学んできた。小笠原では新しいなにかが出てくると、すぐに吾郎が民間企業の説明会に送り込まれるほどに……。元より機械屋。触るのが好きでこの道を選んだ。それも戦闘機。その夢が叶って、後は……お嬢さんとのラストフライト。その果てには? そう思っていた矢先に、こんな血が騒ぐ任務がやってくるだなんて!!
しかしだった──。
「では、今から御園君から今後の注意事項を踏まえた上での説明と手続きがあるのでそれを聞いて欲しい。正式に『ホワイトの整備員』となるには、その手続きが終わってからだ」
マクティアンの説明の後、赤いメンテ服姿の隼人が前に出た。
「では、今からプリントを一枚配るので、それを見ながら……」
源がそれを配り始める。
吾郎とエディの手元にもそれがやってきて二人で食い付くように眺めた。
箇条書きにされている中には、『機密を守る』ことに関しての注意事項が。当然だろう。他に漏れることがないよう、その人材選びにも今回は気遣ったはず。つまり吾郎とエディは開発チームから信頼を得ていると言うこと。それはとても名誉なことだ。
だがその中で、吾郎は胸がズキリとする箇所を見つけてしまった。
『こちらの整備士となった者は当分の転属はないものとする』
これも機密を守る為の──誓約ということらしい。
しかし他のメンテ員達は、目の前に新機種を見せつけられた上に『選ばれたメンテ員』となれば、それはもう、転属よりかはここで……と思った者が殆どだろう。誰もが意気揚々とした顔をしている。もうすっかりホワイトの『メンテチームの一員』になったかのようだ。
だが、吾郎は何故かそこで気持ちが沈んでしまった……。
そして悟った。
やはりそうか。いつかは帰りたいと俺は思っているのかと……。
だが、この仕事にOKのサインをしてしまえば、また数年は小笠原から出るどころか、隔離されることになるだろう……。
これだけの信頼、大仕事を目の前にしているというのに、吾郎の心の半分は既にどこかに飛んでいっているというのか。
「なにか異存があれば、相談に来て欲しい。やる気のある者はYESの欄に、ネームサインをして私御園か源メンテチームまで提出」
異存があって相談だなんて……。
たぶんそれは隼人に任された『もう逃げられないからやって欲しい』という『説得役』。説き伏せられるのだろうなと吾郎は思った。
この甲板に呼ばれて、ホワイトを見せられただけで既に『逃げ道』はなくなっている気がした。
数日後、吾郎は白紙の状態で隼人のその誓約書を提出した。
「やはりね。そうだろうと……」
「申し訳ありません……」
工学科の科長室。
隼人の隣の席に小夜がいたが、彼女はあまり良くない空気を察したのか席を立って、給湯室へと消えていってしまった。
お湯を沸かす音が聞こえてくる……。彼女がお茶を入れてくれているようだ。
隼人に小さな応接テーブルへと促され、そこで彼と向かい合う。
「解っていてもう一度、吾郎に言うよ」
「はい」
「自分達で開発しているものを、持ち上げるわけじゃないしまだ実現していないし形にもなっていないから大きくは言えないが、『もし』これが実用化に成功したら、間違いなく世界に配置される事になると思う。その機体を先駆けて整備できることは……」
「解っています。ただ、気持ちが……どうも……」
隼人の前で吾郎は項垂れた。隼人はやや呆れたような溜息。
しかも吾郎の目の前に、強引にその誓約書を突き返してきた。
「書くんだ。特に吾郎はそうして欲しい」
嫌だ。
「吾郎、書くんだ」
どうして。この中佐がこんな強引に? こんなの隼人じゃないと吾郎は幻滅しそうになるほどに、いつもはソフトでどんなことにも柔軟な対応をしてくれる彼に見えなかった。
でも彼が言った。
「いずれ、マルセイユでも必要になってくる。いいか、少なくとも『二年』。今は黙って俺についてきてくれないか」
頼む。
驚いた。あの隼人が頭を下げている!
吾郎は呆然と、その隼人を眺めていた。
後二年。それはどんな意味なんだろう?
そして吾郎が出した答は──。
Update/2007.10.28