さて、今抱え込んでいる研修をどこで区切りをつけてしまうか。
そしてクロードに組まれてしまったスケジュールを、何処で区切って断るかだった。
お世話になったこの基地やメンテの先輩達、そして師匠の迷惑にならないよう、いま任されているものに対しては無責任にならないようにして、ここを出ていきたいと思っている。
だから今度は、ジャン先輩のところに、吾郎は相談へと出向いた。
すると彼は班長席で、電話中だった。
「だからな! 本当は俺が欲しいのに、あのキャプテンが俺のところに欲しいとか言いだして、こっちは大変なんだよ!」
そんな彼と吾郎の目が合う。
吾郎は彼に会いに来たという会釈をしたのだが、彼が顔をしかめながら受話器を指さした。
口が『ハ・ヤ・ト』と動いたのが分かった。どうやら電話の相手は小笠原の隼人のようだ。
「いいか。今、マルセイユではゴローを欲しいところばかりなんだよ。あったりまえだろ。あのクロードキャプテンが育てたんだぞ。近頃なんか、俺のチームで預かっているのに、それを無視をしてゴローを自分の手元に貼り付けているほど可愛がっているんだぞ。もし、ゴローにもマルセイユに残る意志があるなら、俺が欲しいぐらいだ! そうだ。今、俺のチームにいるのは事実。このままいさせてしまえばいいんだよな〜。クロードキャプテンには絶対に渡さなければ、今のまま俺のチームにいるゴローでいけるじゃないか!」
なんちゅーことを、この人は言い出すのだ! と、吾郎はその評価は嬉しいが、受話器の向こうにいる隼人に『俺が帰れるようにしてくださーーい!』と叫びたくなった。
近頃ではあのクロードが手放さないという噂が基地中に広まってしまい、メンテチームの誰もが吾郎にアプローチをかけてくる始末。でもそこはあのクロードがトップメンテ員の権威で威嚇し、吾郎を絶対に誰にも渡さない状況に固め始めていた。
ジャンが言うように、もう吾郎個人には殆ど、このジャルジェチーム関係の仕事は入ってこなくなっていた。それをジャンは口惜しく思っているのだ。
確かにクロードだからこそ、吾郎をここまで育ててくれたと誰もが思っている。だけれど、そういう逸材であることをジャンも分かっていたのに、いつの間にかそこをクロードにさらわれていたところは、まだ彼に比べたら若輩のキャプテンとして負けたのだと、最近は悔しがっている。
「もうーー! 俺が欲しいっ! お前が俺のところに送りつけてきたんだから、俺がもらってもいいだろう!?」
そんな『欲しい、欲しい』を異様に繰り返しているジャン。
そして受話器の向こうでも、なにやら隼人の騒がしい声がジャンの耳元から漏れて聞こえてきた。そしてまた始まるジャン先輩の『欲しい、帰さない。ゴローはもうマルセイユに捕まった』の大連発。そんなふうに二人の対話を見守って待っていると延々と……。周りのメンテ員達が徐々にこちらに視線を向け、さらにはその根元である吾郎をじいっと見ているではないか。
堪らなくなった吾郎は『もう〜なんの言い合いを同期生同士でしているのだーーっ!』と、ついにジャンから受話器を取り上げてしまった。
『絶対にやらない! 岸本は大佐嬢の秘蔵っ子なんだぞ! 何度言ったら分かるんだ? やらないったら、やらない。返せったら、返せ!!!』
そんな隼人の叫びが聞こえてきた。
あの落ち着いている中佐が、大人げなく叫んでいたジャンと同様のテンションでわあわあと叫んでいた声に吾郎はびっくりした。
それと同時に、そこまでして、あの隼人が吾郎を帰国させるように必死になっていることにも、さらに大佐嬢の秘蔵っ子とまで言われて、あちらでも吾郎を大切にしてくれていることを知った気がして、吾郎は照れて顔を赤くしていた。
「やーだねっ。ゴローはマルセイユの方が良くなったと言っているんだぞー。本人の意志を尊重しようじゃないかーー」
受話器を取り上げられても、ジャンは吾郎が掴んでいる受話器に向かって、隼人の喚き声に負けずに叫んでいた。
『なんだと? いいや! 岸本に聞けば分かるはずだ。彼の意志を尊重するなら、きっと小笠原に帰ってくる!!』
隼人はそれだけ言うと、ガチャリと電話を切ってしまったようだ。
吾郎は唖然として、受話器を見てしまった。
「ひえっ。あの冷静沈着な澤村中佐が……切っちゃったよ〜。どうするんですか、ジャンキャプテン!」
だがジャンは腹を抱えて大笑いをしていた。
「あー。面白かった。いつも澄ました顔をして慌てないハヤトがムキになるんで、ついつい俺も煽っちゃってさーー」
「煽っちゃって……じゃ、ないっすよ! キャプテンは俺を小笠原に帰してくれる人だって思っていたのにーーっ!」
「まあまあ。でも……これで分かっただろう。小笠原でも必死にお前を確保しようとしているのだって。あの隼人があれだけ焦っているのは、あいつもクロードキャプテンの『執念』を身をもって知っているからなんだよ。さらに言えば……。自分が作ったチームより、チーム・クロードの方がはるかにレベルが上。そこから誘いをかけられた程のメンテ員に成長したことは嬉しくおもえど、お前がそちらに行ってしまうんじゃないかって思っているんだよ」
それは心外だと、吾郎は顔をしかめた。
「俺は小笠原に帰らないと、前に進めない男なんすよ!? 帰るって、何度も言っているじゃないですか」
吾郎が『前に進めない男』と叫んだ途端……。セシルと別れてしまったことを知っているジャンは、そこは急に大人の顔で『分かっている』と静かに微笑んだ。
「分かっている。ゴローとセシルのことを思えば、俺は軍人としての立場より、ハヤトから繋がってきた友情の方を大事にするよ。ハヤトをからかっていただけだよ。あいつだって、俺の前では人よりムキになってくれるだけ、そのうちにまた折り返し……」
と、ジャンが言った途端だった。
先ほど切られた電話がまた鳴っていた。
「きっとハヤトだ」
なにかが通じ合っているような、同期生の笑顔。
ジャンがその電話を取ると、本当にあちらから電話を切った隼人が直ぐさま掛け直してきたようだった。
「なーんだよ。降参の電話か? あはは! 安心しろよ。ゴローは帰るって言っているから」
今度はジャンも軽やかに笑い、そして受話器の向こう側からも笑い声が聞こえてきた。
同期生っていいなと吾郎は思った。そう言えば暫く、エミルとも会っていない。
帰る前には、彼にも会いたいと吾郎は思った。
そして吾郎は強く思う。
小笠原でもあれだけ強く吾郎の帰国を待っている。
ジャンが言ったとおりに、隼人があれだけムキになっているのも、吾郎を取り返しにくい状況になってきて焦っているのもあるのだろう。あの中佐が焦るほど。それほどにクロードの威力が増しているということになるのか……。
ここは己で決着をつけねばならない……。
吾郎はそう思った。
そして吾郎はついに、クロードの元に向かう。
反省をした。周りの上官達が何とかしてくれるだろうと思っていた甘いところがあったのだ。
やはり自分で意志をはっきりさせるべきだった。
どんなに恩がある師匠でも……。彼の期待に応えられなくても……。
・・・◇・◇・◇・・・
吾郎はその足で、クロードがいるメンテ本部室へ向かった。
そこでクロードはトップクラスの『チーム・クロード』の管理だけでなく、マルセイユのメンテ部隊全体の指揮を執っている。
本当に、この部隊のメンテ部のトップにいる男なのだ。
「なんだ。ゴロー。ここまで珍しいな」
いつもは甲板か、チーム・クロードの班室か吾郎が本来所属させてもらっているジャルジェチームの班室で打ち合わせをしている。
だが、今日は直々に彼を訪ねてみたのだ。
彼は『中佐』だ。
康夫と同じ地位にいる。だから彼も康夫と同じような個室を持っていた。
だが、彼はいつものメンテ服姿。制服を着ている姿を見たことがない。油やすすが付いた汚れたメンテ作業服のまま席に座って、資料に目を通しているところだった。
「キャプテン、お話があります」
吾郎は彼の前に背筋を伸ばして立った。
座っている彼は下から吾郎を見上げているが、その目が何かを既に悟っているかのよう。それを待ち構えている鋭い眼つきだと吾郎は感じた。
幾度となく師匠のその目に威嚇されながら、吾郎は鍛えられてきた。その目の恐ろしさを吾郎は良く知っているから、怯んでしまう。
しかし、言わねばならない。
そう、『真っ直ぐ馬鹿』はここにぶつからねばならなかったのだと、やっと分かったから。
「俺、小笠原に帰りたいんです。帰してください!」
吾郎が頭を下げても、クロードは何も言ってくれない。
それどころか、吾郎がいつまでも頭を下げていても、彼は再び手元にあった資料をめくって眺めることに戻ってしまったよう……。ページをめくる音が、何度も繰り返された。やがて吾郎は辛くなって、頭を少しだけ上げ、彼の顔を確かめた。直ぐに彼の目と合う。そして彼がいつもの強面、冷めた表情で言った。
「お前を帰すつもりはない」
冷たく鋭い声。
彼はそのままの表情で、淡々と自分のやるべきことに戻っていく。資料をめくって、吾郎とはもう目も合わせてくれなかった。
吾郎は途方に暮れた。メンテ員のトップにいる彼だから、ジャンが向かっていってもきっと一蹴してしまうだろう。さらに康夫と対立しても、既に連隊長のバックアップを取り付けてしまっている彼の方が、同じ中佐としても有利な立場になっている。このまま流されていってしまうしか吾郎には手がないのだろうか?
そんな困惑の果てに、やや絶望感を滲ませ始めた吾郎をクロードはいつもの顔でちらりと見た。
そして溜息ひとつ。資料に向けて落としたかと思うと、改めて一言……。
「今は、帰すつもりはない、だ」
今は? 吾郎はどういうことか……と声にならず、きっとそんな訳の分からない困惑するだけの表情だけを見せていたのだろう? クロードはそんな吾郎の様子に呆れたような顔をして、さらに言ってくれた。
「小笠原に帰るまで、まだやっておいて欲しい研修が残っている。それが終わってから帰したいと思っているよ」
「……残っている研修?」
するとクロードが、資料を席において、ゆっくりと立ち上がった。 そして今度は真っ正面から、吾郎を見据える。あの威厳ある眼差しで。
「最後に、ひとつの研修をお前一人にやってもらう。つまり、今まで俺のアシストをやってきた訳だが、俺なしで指導しろということだ。それに対し、俺の合格を得ること。それだけのことをこなせなくては、あのハヤトの元に返す気にはならない。あの男に、クロードのところから帰ってきた男がどれほどのものか、いいか、ゴロー、俺とお前の集大成を見せてやるんだ」
吾郎はそこまで思い入れを持って育ててくれていたことを……今、ここで痛感した。
「キャプテン……俺……」
「お前が自分から、俺に帰りたいと直接に申し出てくる日を待っていた。そして……その日が来て欲しくないとも思っていた。そして……それが言えない愛弟子だったら、それもがっかり情けないなあと……思っていたところだ」
良く言いに来てくれた。
クロードは最後にそう笑ってくれた。
吾郎の目から熱い涙がいくつもこぼれてきた。
このまま『お前は帰さない。俺のところに残れ』と言い続け、帰国を無視し続けていれば、この男は流されるまま俺の言いなりになる。それを狙っていたのも確かで嘘ではないという。しかし、そうでなければこの男は俺のところにはっきりと断りに来て自分の意志で旅立っていくだろうと……。師匠はそれも、吾郎の男としての最終テストをしていたかのよう。そして彼は、愛弟子が自分の意志をはっきりと師匠の元に申し出てくる男であると信じて待っていてくれたのだと……。
「最後の、師匠からの試験。俺、やります……」
「そうか。分かった。今度は俺からハヤトに、いやサワムラ中佐に伝えておく。それが終わったら、必ず帰すと……」
どこか寂しそうなクロードの横顔。
だけれど彼がキャプテンではなく、吾郎の師匠として見せてくれる穏やかな微笑みを浮かべてくれていた。
そんな彼に、吾郎は深々と頭を下げる。そして日本語で丁寧に伝える。
「メルシー……。いえ、有難うございます。キャプテン」
彼はもうにこやかだった。
「アリガトウ……とは、日本でのメルシーという意味か? そうか。だったら、俺はその言葉を一生忘れないだろう。アリガトウ、ゴロー」
吾郎は再び、涙を拭っていた。
しかし今度は笑顔で……。
その後、吾郎は隼人に二度目の『まだ帰れない』のメールを出していた。
隼人もクロードから聞いたのか帰国が遅れることはがっかりしていたようだが、納得してくれた返信があった。
『クロードキャプテンから直々の連絡があった。思った以上の指導をしてくれていたので驚いているよ。まさか、あのキャプテンがそこまで育ててくれただなんて……。しかしその分、帰ってきた時の即戦力、頼もしく思っているよ。まだ修行中だったんだな。なるべく早く帰って欲しいが待っている……』
葉月も隼人から聞きつけたのか、吾郎宛にメールを送信してきてくれた。
『吾郎君、帰国の為に今あるマルセイユでのスケジュールを無にしないよう、無理はしないで下さい。私のフライトは春頃、予定をしています。それまで復帰のトレーニングをしています。ですから吾郎君もじっくりと帰国に向けての準備をしてください。……聞けば、そちらでトップのメンテ隊長が直々に指導をしてくださったとか。それほどの隊長に目をつけてもらっただなんて、送り出した私には嬉しい限り。やっぱり吾郎君だったわ! と、喜んでいます。その隊長とよく話し合って、最後までマルセイユでの業務を全うしてください』
葉月の時間をもたせてくれる言葉に安心し、吾郎はマルセイユでの修行最終段階に入った。
・・・◇・◇・◇・・・
「うーん、では、今日はここまで!」
真夏になり、吾郎は車庫にいた。
そこにはホーネットが三機。それを相手に、新人メンテ員が学びに来る『整備のおさらい研修』を受け持っていた。
工学科の教官がサポートに付いてくれているので、いざという時は助けてくれるが、概ね黙って見ているだけ。それでも安心して、吾郎はのびのびと『教官業』をやっていた。
車庫の片隅にある、教壇がわりの机の上に置いてある資料を束ね、吾郎はクロードが待つ中佐室へ向かう。
今そこが、吾郎の居場所。最後に置かれた場所だった。
「きょうかーん! 待ってください〜」
『教官』と呼ばれて、吾郎は振り返る。
先ほどまで研修で講義をしていた若いメンテ員が数名、吾郎の背を追ってきていた。
吾郎は苦笑い。どうもその『教官』と言われるのが未だに慣れない。しかし研修を受け持った身になった以上、吾郎はそう呼ばれるのだそうだ。確かにクロードも、時には、キャプテンとか中佐とか呼ばれることはあっても、受け持っていた研修生には『教官』と呼ばれていた。
『いいか、ゴロー。お前は確かにメンテ員だが、指導する立場になれば、そこは教官だ。それを肝に銘じてな……』
腕のあるメンテ員は、いずれはその道を辿っていく。
そして研修をすれば、責任を持って人に技術を教えるのだから、責任ある学びを自らがするようになる。だから、教えてもらう以上の精神力がいる。師匠が一年前から吾郎に教え込んでくれたことだった。
「どうした? 今日の講義で分からないことでもあったかな?」
ホーネットの性能に、システムに、整備。それらは隅から隅まで学んだ。
その全てを吾郎は今、『教官』という形に集結させて、若いメンテ員達に教えていた。
いつかのエミル達を思い起こさせるような青年達が、ちょっと気恥ずかしそうに躊躇いながらも、吾郎に聞いてきた。
「あのっ! キシモト教官は、オガサワラからやってきて、直ぐにあのチーム・クロードに認められたって聞きました!」
「どうやったら、あのチームに認められるんですか?」
「俺達、チーム・クロードが夢なんです!」
最近、この質問が多すぎる。しかし吾郎は毎回そっと微笑む。
こんな時、毎回、二年前の自分とエミル達を思い出す。
無理だと思っても、もしかすると……という期待を胸に、自分達がやれることだけを精一杯にやった日々を……。
目の前の、まだ甲板に立ち始めたばかりの彼等も、あの頃の自分達と一緒なのだと思った。
既に彼等はチーム・クロードではないメンテチームに所属している本隊員だが、それでもまだまだ彼等は目指しているのだろう。こうしてクロードがやるはずだった研修を受けにきた中には、一目でもクロードに自分達を見てもらえるチャンスだと思って来る者も多い。実際に吾郎がクロードの側にと最終的に寄せてもらったのも、研修荒らしをして、彼の目に留まったからなのだろう。
まだトップへの道を諦めていない彼等に、吾郎は言う。
「クロードキャプテンの好みは、『真っ直ぐ馬鹿』かな。とにかく真っ直ぐに突き進む奴がいいみたい」
彼等は、『どういう意味か』と、少しばかり飲み込めなかったようだ。
でも、吾郎はそこで彼等に手を振って『ただ一生懸命にやればいいんだよ』と言って別れた。
まあ、その一生懸命が……なかなか、何度もくじけそうになるのだが。
今日もマルセイユの空は青い。
吾郎は手でかざし、こよなく愛することになったこの街の空をみあげた。
もうすぐ、二年になる。今となってはこの空の色も、風の匂いも、すっかり吾郎の身体に五感に馴染んでいた。
そして心の奥で疼く、水色の瞳の彼女。でも彼女はいつも明るく笑っている。そして今もパリで、一人でもあの笑顔でいると吾郎は信じていた。
・・・◇・◇・◇・・・
「なかなか、工学科の教官もゴローがあそこまでやるとは……と感心していたぞ」
「有難うございます、キャプテン」
近頃、クロードは吾郎の『有難うございます』がお気に入りのようだった。
しかもどうしたことか、隠れ親日派になっているようで、密かに康夫のところに日本語を聞きに来たり、気になる日本のことを質問に来るとか。なんで、弟子の俺に聞いてくれないのかと口惜しいところだが、康夫が言うには『あれはお前が帰ったら、日本に遊びに行く気でいるぞ』と言うことらしく、それを吾郎に知られたくないのだそうだ。だから吾郎も知らぬ振りをしていた。
「それから、研修生達からも『身近に感じられる人でいい』という評判だ。まあ、そこらへんの兄貴ってところなんだろうな」
「そこらへんの兄貴ですか〜。まあー俺ってそんな感じですよね〜。威厳ゼロ? 師匠の愛弟子なのにな〜」
「いいのではないか? お前らしさが出ているって事だろう」
クロードはいつもの師匠の時に見せる穏やかな笑顔を浮かべていた。
そんな彼が、いつになく……吾郎にふと背を向けて、窓の外の景色を眺めている。
吾郎はいつも彼の背を見つめているだけ。大きな師匠の背中を。彼がいつもその背から、吾郎に何を伝えたいのかを……吾郎はいつも探っている。
その背が、今日は思わぬ事を言いだした。
「合格、だな」
昼下がりの日射しの中、クロードが呟いた一言……。
吾郎は聞き逃してしまったような気がして、もう一度言って欲しいとばかりに、彼に問い直そうとした。
だが、師匠は再びこちらに振り返ると、机の上にあるカレンダーを手にとって、眺め始めた。
「この研修はあと二日。そうしたらお前はもう自由の身だ。まさかここに残りたいと言い出すとは思わないが、それもまだOKだぞ?」
クロードがにやりと笑った。
だが、吾郎はついにその瞬間が来たと知り、ただただ固まっているだけだった。
それでも師匠は続ける。
「出来れば……。夏組の甲板最終実習研修の手伝いは最後にして欲しいのだがね」
「そうですね。最後にマルセイユの甲板は走っておきたいです」
「そうか」
クロードはいつになく、目尻に皺を寄せる微笑みを見せてくれた。
吾郎が最後に一緒に甲板を走りたい意志を忘れずに見せたからだろう。
さらにクロードは驚くことを言い出した。
「だったら丁度良い。その最終甲板実習に間に、『フジナミ新チーム』が訓練でデビューするはずだ」
「本当ですか!?」
「ああ。ついにフジナミもホーネットに乗り換えたな。彼と一緒にホーネットに移行した元チームメンバーと、新人の若手を交えたチームに構成され、また注目されている。彼等はまず訓練でフライトのチームワークを揃えてから、実務任務へと移行していく予定だ。その手始めのフライト、俺達の手で飛ばすことが出来るぞ」
ついに……。康夫はパイロットに復帰したのだ!
適性検査もパスした後、康夫はホーネットに移行する研修を受けていた。その間あっと言う間に新チームを作ってしまい、またパイロットの間では『サムライの突撃が始まった』と囁かれ、その新チームの勢いに注目しているところ。
これで康夫を飛ばしてから、小笠原に帰ることが出来そうだ。彼とも約束したこと。最後に、吾郎が帰る前に実現させてくれるだなんて『さすがサムライ兄貴、隊長!』だった。
サムライの復活! 彼も二年ほどブランクがあるが、ついにその日を勝ち得たのだ。
(そうだ。きっとお嬢さんも、きっと……)
吾郎は、その日が来ることを……いつになるか分からなくても、信じていた。
きっと小笠原に帰ったら、それを信じながらのメンテ員としての日々を送ることになるだろう……。
「そうだな。……では、この頃どうだろうか」
「そうですね。俺も、二年いましたから……いろいろと帰る準備が欲しいですし……」
クロードがカレンダーに丸印をつけながら呟いた。
『ついに帰るか……』と。
その日は、二年前──。吾郎がこのマルセイユに来た頃と同じ、秋の中頃だった。
小笠原に帰ったら、丁度式典が終わっている頃ではないだろうか……。
急にお嬢さんの、愛らしい笑顔が浮かんだ。
彼女、奥さんになってどうなっているかな? 相変わらずなのかな? そして婿養子になったという、澤村、もとい、御園隼人中佐の旦那さん振りも楽しみだった。
吾郎の心は、小笠原に向かい始めていた。
でも……だった。
一人、部屋に戻ると、吾郎は毎日、あのソファーに腰をかけていた。
「持って帰ろう、これ」
女々しいかもしれない。未練がましいかもしれない。
でも吾郎は、このソファーとは別れられそうになかった……。
ここに座って、彼女がそうしていたように吾郎は窓の外を見る。
彼女の、爽やかで甘い匂い。忘れていない。今だって彼女を思い返せば、吾郎の鼻先にはその香りがふっと蘇る。
もし……。彼女が俺のことを忘れていなかったら。
もし……。俺が彼女のことをずうっと忘れなかったら。
そうしたら、もう一度、出会えるような気がしていた。
そうでなければ、彼女はパリで新しい男を愛しているだろうし。
そうでなければ、吾郎も小笠原で新しい女を愛し始めているだろう。
でも、だ。もし、だ。そうでなければ、きっとまた巡り会う。
吾郎は妙にそれを信じていた。
だから持って帰る。
このソファーは彼女そのもの。
今でも思う。このソファーに座った時は彼女と並んで座っているような気になれると……。
これはマルセイユでの一番の想い出。まだ手放せそうにはなかった……。これだけは……。
・・・◇・◇・◇・・・
帰国への準備が着々と進む中、吾郎はマルセイユ最後の甲板を走っていた。
「ゴロー! ここへ来て、こいつら見てやってくれ!」
「ラジャー! キャプテン!!」
夏組新卒研修生達の、最後の実習、空母艦研修。
まだ右も左も分からない、講義室で詰め込んできた知識と車庫の訓練だけをやってきた彼等が戸惑いを見せながら甲板を走り回っていた。
「どうした? どこが分からない?」
吾郎は若い青年達の側によって、手が動かないままの彼等の困惑してる顔を見た。
彼等の手を取って、『これはこうすればいい』と手早く教える。
甲板の上で戦闘機が動き出したら、あとはスピード。ひたすら手順を頭に叩き込むしかない。いかに安全を保守しながら、その動きが『自然』となっていくかだ。
彼等はまだ甲板の上で流れている空気には属していない。甲板要員は最後にはこの上を流れていく『空気』にならなくてはならない……。吾郎は彼等にそう教えた。
今はまだ、それが出来なくても、いつかは出来るよ。なにごとも、訓練、訓練。そう言うと、彼等も肩の力が抜けた表情になる。訓練生だった時のことを思い出したのか、手元だけじゃなく周りの状況を把握しようと『甲板の流れ』を見始めた。
吾郎の後押しで、若い青年達が次の『空気の中』へと意気揚々と走っていく。その背を見送って、吾郎は微笑む。
「なーんて。俺も『のたくた出来ない子だった』って、師匠に言われたんだもんねー」
訓練、訓練──なんて、偉そうなことをいっちゃったな、ボク。ボクの場合は、研修、研修だったかな。吾郎は一人笑っていた。
最後の甲板では、既にチーム・クロードのメンテ員になったかのよう。いつのまにか先輩達は吾郎といるのが当たり前になっていたようで、『帰国する』と言ったら、『このチームに入るんじゃなかったのか!』と怒った人もいたぐらいだ。それでも誰もが最初から、吾郎はいずれは小笠原に帰ると分かっていたこと。それが来ただけのこと。中には『いつかは戻っておいでよ』と言ってくれた先輩も……。基地で顔見知りになったメンテ員に、工学科の教官達も『クロードがあれだけ熱心に育ててくれたのは、ゴローだけだったのに……帰るのか』と不思議がった。
さらに、昨日のこと。ただ廊下を歩いていた時、マルゴにあった。彼女は鍛えた腕っ節でいきなり吾郎の首をひっつかんで突撃。『私に何も言わないで帰るのか!』と目くじらをたてた。
彼女も吾郎も毎日ではなくなったが、ジム通いは続けていた。時々顔を合わせては、彼女からはフランスのあれこれを教えてもらった『お姉さん』。そうだ、マルゴ姉さんときたら、もう一人の『お兄さん』も忘れちゃいけない。パイロットの『ボリス』も吾郎の帰国に驚いていたとか……。彼とは甲板で顔を合わせることもあったのだが、そんな時はメンテ員とコックピットに乗り込んでいるパイロットというポジションの為、手振りと目配せの挨拶を交わすだけ。だからマルゴの口から吾郎の帰国を知って『あいつなんにも教えてくれなかった!』水くさい、と怒っていたそうだ。
『貴方ね、もうすっかりマルセイユ基地で愛されているんだから。出ていくなら、ちゃんと出て行きなさいよ』
マルゴに釘を刺され、吾郎は『お別れご挨拶リスト』を作ったぐらいだ。
それを眺めて、改めて思っていた。『俺、いつのまにかこんなに沢山の人と関わり合っていたんだなあ』と……。
隼人が残していった交流にただ流されていた頃とは、もう……違う。吾郎が築いたもの、隼人とは違う吾郎だけの……。だから『名残惜しい』。それが本心だった。
しかしその時は刻一刻と近づいてきていた。
そしてこの日、吾郎は最後の節目を迎えようとしていた。
一機のホーネットがカタパルトへと向かっている。
「ゴロー。カタパルトへ来い」
師匠クロードの声が、無線から聞こえた。
吾郎は『ラジャー』と応え、カタパルトへと走る。
走っている吾郎の頭上をホーネットの輝く先端がゆっくりと旋回しながらカタパルトへと向かっていく。
コックピットにいる男が、吾郎を見つけたのか、グッドサインを出していた。
──康夫だ。吾郎も敬礼をしてカタパルトへと向かった。
ホーネットの先端は、まるで輝くくちばし。
そのくちばしを、今日も青い地中海の空へと掲げ、もう今すぐにでも翼をはためかせて飛び立ちそうな出で立ち。
吾郎はそれを見上げた。そして光り輝くコックピットに威風堂々としているサムライ。
『イエーイ、葉月に自慢してやる。俺が先に吾郎に飛ばしてもらったんだってさー!』
相変わらず、いつもの豪快さで康夫は『わははは!』と勝ち誇った笑い声をコックピットで響かせていた。
まったく……。本当にお嬢さんとなんでも張り合うんだなと、吾郎も苦笑い。
だが冗談はここまで。吾郎は顔を引き締め、インカムヘッドホンのマイクを口元に寄せる。
カタパルトの先端まで視線を走らせ、地中海の煌めく海原へと見据える。
「管制、確認を願います──」
あのクロードが、吾郎の足下に跪いて、発進のサポートをしてくれている。
師匠はただ黙って……。吾郎の最後の、そしてサムライ兄貴とのこの二年の約束を果たす瞬間を、吾郎と康夫だけに委ね、見守ってくれている。
管制、上空OK。
パイロット、発進、OK。
カタパルト、発進、OK。
全ての確認を終え、ついに戦闘機のエンジン音が高鳴る。
甲板に巻き起こる旋風。スチームカタパルトの蒸気がホーネットからの気流に煽られてぶわっと消し飛んでいく。
吾郎は身をかがめ、康夫がいるコックピットを見上げた。彼がグッドサインを出しているのに、吾郎も同じ仕草で応える。赤ランプの点滅……。敬礼をした康夫に吾郎も敬礼を返す。
『行ってくるぜ、吾郎!』
「藤波中佐、復帰、おめでとう──!」
その途端、轟音を響かせ銀色のホーネットが甲板を滑り出す。
瞬く間に機首を上げ、康夫を乗せたホーネットが空へと向かっていく。
──終わった。
吾郎はそう思った。
後に続くホーネットの発進も滞りなく吾郎は進めていたが、心の中ではそう言っていた。
そして最後のホーネットを見送った時、クロードも吾郎の横で一緒に空を見上げて、言った。
「次は小笠原の空だな」
吾郎は小さく頷く。
本当はこの人の側で、学びたいことはまだまだあった。そんな気持ちでいる。
だがやっぱり師匠だった。彼は吾郎の背をいつものように、優しく後押しをするような手つきで叩いて静かに言った。
「小笠原の空にもなにかがあるだろう。お前はきっとそれを見つけると思っている」
そして思わぬ事を彼が囁いた。
「待っている。いつでも帰ってこい」
何を言ったのかと……。本当は聞こえていたけれど、その言葉を彼は信じているのかと、吾郎は驚いた。
でも彼はいつもの寡黙さで、それだけいって背を向け、次の作業へと戻っていく。
師匠がそんな本音を吐いてくれた会話はこれが最後。
帰国するまでの間も、二度と、この一言は口にしなかった。
マルセイユでの全てが終わった……。
マルセイユの空を見上げ、吾郎は思う。
小笠原の空で何を見つけるだろう……。
もしなにかを見つけたら、知らせたい人達がいる。
ここ、マルセイユの……。
・・・◇・◇・◇・・・
潮の匂いが変わった。
慣れていたはずのその匂いは、新鮮だった。もう吾郎が知らない、初めてかいだ匂いのよう……。
その日、吾郎は新しく与えられた寄宿舎の部屋を出る。彼女の新しい側近とか言うテッド=ラングラー少佐からの知らせをうけて、四中隊へと向かった。
四中隊棟の正面玄関に辿り着くと、そこには端整な顔立ちの栗毛の青年がいた。彼は補佐官らしく、現場畑の吾郎とは違い身なりも雰囲気もぴしっとしていて品が良い。流石、お嬢さんが新しく側に置いた男だなあと一人で納得、頷いていた。
「おかえりなさいませ、岸本さん」
しかも流暢な日本語、さらに丁寧な物腰……。吾郎の方が照れてしまい、なんだか締まりのないお兄さんのよう……。
「大佐がお待ちでございます。ご案内致しますから、どうぞ」
「有難うございます」
かえって日本語が溢れているところに戻ってきたのが違和感だった。
あんなにフランス語が溢れていたのに。しかもマルセイユ特有のあの威勢の良いなまりのあるフランス語が懐かしい。
ラングラー少佐のエスコートで一緒にエレベーターに乗り込んでも、彼は丁寧に吾郎を中へ先に誘導し、自分は角に乗り込みボタンを押す。動きはまったく『秘書官そのもの』だった。お嬢さんがしっかり仕込んでいるのだなあと感心しきり……。
しかも彼。『いい匂いがする!』。同じ男なのに、この違いはなんなの、なんなの! 吾郎は一人、ラングラー君の凛々しい澄ました顔を真似しながらも、心の中では大騒ぎ。
「とても楽しみにしておりましたよ。大佐嬢」
またもや素晴らしい好青年の笑顔で、しかも素晴らしい発音の日本語で話しかけられて、吾郎はどっきりとした。
「は、はあ、ええっと、俺も楽しみにしていましたー」
吾郎はあせあせと取り繕って自己嫌悪。
秘書官として精進している青年との違いと言えば、こういう品格というのか? とにかく吾郎は甲板で肉体と技術を駆使する機械屋。汗と先輩達の怒声にもまれてきた体育会系。なのでどうもキャリア組の彼等の品の良さが苦手で弱い。
でも彼はそんな吾郎を見ても、爽やかな笑顔。
「本日は別室をご用意しましたので、大佐嬢とゆっくり、語らってくださいね」
え、そこまで。と、吾郎は思った。
でも〜。ああ、いよいよあのお嬢さんと再会。
マルセイユと別れてきた寂しさはあるけれど、やっぱり彼女と再会できることに吾郎の胸はときめいていた。別に異性としての変な意味ではなく、こう……仲の良い同級生の女友達に久しぶりに会う気持ちだ。
四中隊本部にやってきて、彼は本部事務室ではなく、その隣にある扉の前に立ってノックをした。
「大佐、岸本様をお連れ致しました」
岸本様……って。なんかいちいち照れるなあ〜と吾郎がまた一人で悶えていると、奥から『どうぞ』というあの柔らかい声が聞こえてきた。
ここで吾郎もどうしてか、ラングラー君を見習うほど背筋が伸びた。
彼が『失礼します』と扉を開ける。
四中隊本部事務室隣にある、ミーティング室。そこにあるひとつの机に向かい合って座れるように椅子が二つ。その机の前に、栗毛の女性が立っていた。
「ご、吾郎君……よね?」
そこにいる女性は吾郎を見て、とても驚いていた。
かもしれない。吾郎の風貌はここを出ていった時の頼りない青年ではなくなっている。髪型もスタイルも体型も……。一目ではあの吾郎とは分からないだろう……と、吾郎は昨夜からも『彼女、驚くかな〜』なんてわくわくしていたぐらい。
しかしそれは目の前の彼女だけじゃない、吾郎も彼女を見て固まった。
「お、お嬢さん?」
そこには二年前に別れた時よりも、ずうっと女っぽく綺麗になった彼女がいた。
長く伸びた髪は綺麗に毛先まで手入れされていて、彼女は少しばかりの化粧もしていた。
そんな彼女の方がすぐに慣れたようで、早速吾郎に微笑みかけてくれる。
「おかえりなさい、吾郎君! やっと会えたわね」
その笑顔にも驚いた。あの冷たい横顔を見せていた彼女から出てきた笑顔とは思えないほど……明るい笑顔。
でも直ぐに分かった。彼女、幸せな結婚生活をしているんだと。
じゃない! 吾郎はもっともっと彼女に言いたいことがある。
吾郎は先ほど固まったまま、今まで以上に優雅な女性としてそこにいる彼女を指さして後ずさった。
吾郎が震えながら指さしたのは、葉月のお腹! 軍内でもあまり見ることのないジャンパースカート姿もさることながら、そのお腹がちいさくぽっこりと突き出ている。
「お、お嬢さん……もしかして……」
すると彼女が頬を染めて、俯いた。
「えっと……、うん、澤村の子。来年の春に生まれる予定なの。最近、すこし目立ってきたから……」
吾郎は『なんだって〜? なんですってーー!』と目を点にした。
帰国した最初の衝撃。大佐嬢がママになっていた!
Update/2007.10.22