ある朝──。
「ボンジュール、中佐! 今日こそ飛ぶのかい?」
葉月が制服姿で出てくると、カウンターで新聞を眺めていた親父さんに話しかけられた。
「まだ分からないの。今、メンテナンスチームと実習中だから」
葉月が笑いかけると、本当に親父さんは嬉しそうに微笑み返してくれる。
「ウチの上を飛ぶときは“合図”でもおくれよ」
『そんなこと出来ないわよ』と、葉月は笑い飛ばしてレストランに入った。
ママンが忙しそうに動いているカウンターで食事をしていると、ママンに質問される。
「ハヅキ──とは、どんな意味なんだい?」
言葉どおり、葉月は八月生れ。今年の八月で二十六歳になる。
「日本には昔の言い方で月に名前が付いているの。八月は“葉月”そうね。緑葉の季節の月って事になるのかしら?」
葉月の言葉を聞いてママンはかなり感動したようだった。
「ジャポンはそんな季節感にこだわるようだねぇ。私は十月生れ。なんていうんだい?」
「“神無月”。この月には神様がある所に集まっちゃうの。だから、神様がいない月って事。ちなみに、その集まる場所がある地方では“神有月”っていうの」
「ふ〜ん。面白いねぇ。ジャポンは」
ママンは手を休めることなく笑顔で聞き入ってくれた。
何でも日本には興味が前からあるらしいのだ。
葉月が、ママンとそんな話をしながらいつもの締めくくりのミルクティーを味わっていると……。
「おや、葉月。 あれは隼人じゃないかい?」
ママンが向こうのガラス戸を指さしたので、葉月は振り返ってビックリする事に──。
隼人の通勤路はこのホテルをさしかかる。
自転車の彼がここを通る前に葉月は徒歩で出ていなくてはならないはず。
隼人が自転車に乗ったまま、窓ガラスを叩いて葉月に向かって腕時計を指した。
「嘘! 大変!! ママン、ご馳走様! ちゃんと付けておいてね!!」
葉月は慌ててリュックを手にし、レストランから石畳みの歩道に飛び出た。
「中佐が遅刻なんてかっこうわるいぜ〜」
隼人は、構わず先へと自転車で行ってしまった。
(もう! 乗せてくれたっていいじゃない!!)
──と、思ったが。そんな姿は他の隊員に見られるとやっかいなので、葉月は自分がうっかりしていたことだからと彼を追いかけるように走った。
「おや? 彼女、今日は早くなかったか?」
カウンターから夫がレストランに入ってきた。
ママンはそれを聞いて掛け時計に目線を運ぶ。
「あらまぁ、本当だわ。どっちが上官やら分かりゃしないね。隼人も案外、悪戯なんだねぇ」
ママンが可笑しそうに笑い出す。
「兄妹みたいに仲いいねぇ。あの二人は……」
先日。ひょっこり二人で小腹埋めにホットケーキを食べに来てから、この宿でも葉月と隼人の関係は温かく見守られていた。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
(はぁはぁ)
葉月は徒歩15分の道のりを走って『あと何分で遅刻!?』と、時計を眺めた。
「!」
(またやられた!!)
時計の時刻は、葉月が出かける時間より僅かに早い時間を示していた。
葉月は、いつもより早く出てきたのだとやっと気が付いたのだ。
(もう!)
膝に手をついて息を切らして立ち止まる。
ずっと前の基地の入り口で、隼人が自転車を停めた姿で『ニヤニヤ』と笑っているのが判って、葉月は悔しくてうなだれた。
(な、なんで? この私がこんなに振り回されるの!?)
とにかく──あれ以来、彼のペースにはめられてばかりだった。
『無感情令嬢』の冷たい冷静さなど保つどころではない。
やられては悔しくなってついムキになる自分がいる。
(こ、こんなはずでは……!)
葉月はさらにがっくりとうなだれながら、息を整えた。
彼と研修を始めて二週間があっという間にすぎていた。
その間、講義の見学は勿論のこと、他にも実習講義なども、隼人と共に指導をしてきた。
中隊本部では、隼人の補佐具合をチェック。
しかし、彼はパソコンを使って巧みにデーターを管理しているし、本部員の中でも年長者なので、しっかりした管理と康夫のフォローをしていた。
作業も的確。判断は康夫より上。
カモフラージュの研修だから、逆に隼人に指示することなんて島の中佐としてちょっとだけ──最新基地並みの管理を教えるだけで、隼人は直ぐに吸収してしまう。なんだか、彼の方がやっぱり先輩で厳しく教える事なんてなんにもなかった。
そして葉月が徐々に考えるようになったのは、『もし? 彼が側近だったら?』という思いが募ってきたことだった。
指導などカモフラージュ。逆に葉月が側近としての見定めにはまる始末。
そんなだから、隼人からは相変わらず、こうしてもてあそばれたり、茶化されたり……。
向こうは、葉月の涙まで見ているので、すっかり『兄貴』のつもりのようだった。
仕事以外では、こんなふうに人を食ったようなことをして、葉月の冷静さが崩れて行くのを見て楽しむ節が出てきているのだ。
葉月は、ふてくされて、ゆっくり歩き出す。
(なんなのよ〜。真兄様に似ていると思ったけれど……全然違う!)
葉月は甥っ子『真一』の父。初恋の義理兄と比べたことを後悔していたりする。
義理兄の真は、眼鏡をかけていて、いつも本を読んでいて静かで優しい人だった……。
葉月が年上の従兄と喧嘩してもいつもかばってくれていた。だから、もう一度、『全然違う!!』──葉月は心の中で強く言いきる。
前方の隼人は、既に姿が無くて警備口に入ったようだった。
密かに頭に血を上らせて、葉月が悔しがっている間にも……。からかっておいて、ふいっと姿を消してしまうなんて……!?
葉月はまた、悔しさに息巻いて歩き出した。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
「ボンジュール」
隼人はクスクスと笑いながら、いつも通り胸ポケットからIDカードを警備員に差し出す。
「ボンジュール。どうだい? 御園のお嬢さんって……」
警備員が隼人に興味津々尋ねる。
隼人の元に、将軍の娘が研修に来たことは、基地中に広まっていた。
皆、彼女のことにもかなり感心があるらしく、隼人を見かければこの質問がやってくる。
「別に。普通だよ」
隼人は、こう聞かれるといつもの無表情になる。
「何を気取っているんだよ。チャンスじゃないか」
これも必ず言われる。隼人にとっては耳障りなお言葉だ。
「ただの航空研修だぜ。関係ないよ」
「またまた、そんな事を言って。知っているんだろ? 彼女の元側近が彼女の元で功績を挙げて、その上、フロリダに行く時に『中佐』にしてもらって、今は将軍の側近だって事。気に入ってもらえば、隼人にだってチャンスをくれると思うぜ!」
隼人は益々くだらないと言ったような顔をする。
その中佐になった男の事は知っている。康夫から聞かされているのだ。
その男は『康夫の悪友で、葉月の側近で……』。そして康夫はいつもこうも言っていた。──『二人の結婚式の立会人は絶対俺と雪江』と。
二人は仕事もさながら、プライベートでも息が合っていると。
彼の名は『海野(うんの)達也』。
彼は、お嬢さんの側近として始終横にいて、恋人だったと言うことも有名な話。
その彼が彼女と何かあって別れて康夫はガッカリしていた。
海野は、彼女の元を離れてフロリダに行くとき『中佐』に昇進し、その上、フロリダの『ブラウン少将』と言う将軍の側近になったのだ。
そんな事実があるから、彼女の元にいれば『出世の近道』と皆が思っている。
そして、彼はフロリダに行って半年でその将軍の娘に気に入られて結婚もしたのだ。
康夫の元にその招待状が来たのだが……。『裏切り者。誰がいってやるか!! 葉月を捨てやがって!』と言って、フロリダには行かなかったのだ。
その時、隼人は『なんで。そんなにお嬢さんの肩を持つ?』と、ちょっと腑に落ちなかった。
雪江に、『康夫は男友達よりも、女の友達の方が大切なんてちょっとお嬢さんに構いすぎでは?』と、聞いてみた。
すると雪江まで、いつにないムスッとしたような怒った顔になり──。
「当たり前だと思う。達也君が悪いとは思っていないけど。康夫が結婚式に行くって言っても私は絶対に行かない。女として彼女の味方なの。私は!」
雪江は、そう言い切ったのだ。
同性から、こうして同情される何かがあったのだろうか? と思いはしたが。隼人としては、知らぬ人間のことなので、以後この事はなんにも心には残らなかった。
だけど彼女がこうして来て、近頃、自分が『チャンス』と言われ、その男が例に出されるとあの時の藤波夫妻の様子を思わずにいられなかった。
(彼女。恋人と別れて……。恋した上司にも死なれたと言うことか)
人が羨む家柄と経歴を持つ『軍人一家の令嬢』──でも、結構、何でも上手く進んでるわけでもないんだな。と、隼人はこの頃そう思っていた。
「彼女。結構可愛いじゃん。クールに見えたけれど、慣れてきたらそんなにきつくなさそうだし。あれは人見知りするタイプだな。最初は素っ気なかったけど」
警備員の一言で、隼人はハッと元の世界に戻る。
警備口の対向路で、彼女が行き交う車の後を縫って横断しようとしている。
それを警備員の彼が見つけたようだ。
こんなふうに……基地中の皆が彼女の思ってもいなかった『女らしいお嬢様の姿』に妙に浮き足立っていたのだ。
警備員の彼が、いきなり窓辺のガラスで髪を整えだした。『ちぇっ。どいつもこいつも』と、隼人は、鼻白む。
「いいよな。隼人は“ラストエンペラー”のジョン=ローンみたいだって、女の子達が言っているぜ。御園中佐は血筋も顔立ちもヨーロッパ系だけど、国籍は『日本人』。通づるところ有り余って気が合うだろ? 昔いた『遠野大佐』も、何故かマドモアゼル達に人気があったし。ここらでは『東洋人』は得だよな!」
同じ歳ぐらいのお馴染みの警備員に、映画俳優の『ジョン=ローン』と言われて、隼人は吹き出してしまった。
言っておくが、背格好は似ているかも知れないが、顔がそっくりだなんて事はない。
「俺が、ジョン=ローン!? やめろよ! 東洋人が珍しいだけだろ。俺から見たら、フランス人は『ハンサム』に見えるぜ! そっちだって、日本に行ったら大モテだ!」
きっと彼等には東洋人は皆、同じに見えるのだろう?
こっちだってそうだ。西洋人が同じに見えることがある。そんな程度だと隼人は笑い飛ばす。
「そうか? だったら。今度、転属があるなら『島』がいいかもな。彼女も、俺のことハンサムに見えるかな?」
葉月がやっと横断して、警備口にやってきた。
「ボンジュール」
目の前の彼が急に色気だってお嬢さんに満面のスマイルで『ボンジュール。中佐』と微笑む。
それを見て、隼人は呆れてしまった。
葉月の方は、隼人の悪戯のことでかなり不機嫌そうな顔。
彼女がIDカードを警備員に差し出す。
「中佐。フランスは如何ですか?」
警備員の彼が、何気なく会話を繋げようといていた。
「南フランスは、良く来ていたけれど、一人は初めてよ。町中の風景も『島』に似ているし。住民の方も優しいし。いい所ね。新鮮なお魚も食べられるし……」
葉月は、ここの警備口には人見知りはなくなったのか、にっこり優美な笑顔を見せる
「今日も、一日いい日でありますように」
彼も、にっこり笑顔で彼女にIDカードを返す。
「あなたも」
彼女のお嬢様スマイルに彼が満足しているのが隼人には分かる。
この頃こんな光景を見ると変にしらけてしまう。
「知っているか? 彼女、さっきまですごい顔で走って──」
隼人が、警備員の彼に『事実』として告げようとすると……。
「大尉。いい加減にしてよね!」
警備員の彼には解らない日本語で呟いた葉月が、隼人を睨みつけてきた。
「それに彼女、すっごい泣き虫……」
「大尉っ」
「……っい!」
そこで、葉月に靴の先を踏んづけられた!
そんなに痛くはなかったが……。彼女が、踏みつけながらも警備員には『営業スマイル』を無理して浮かべているのを見て、また、可笑しくなってきた。
警備員の彼は『?』とした顔で微笑みつつも、そんな二人に首をかしげていた。
早速、自転車に乗って、駐輪所に隼人が行こうとするところを、葉月が追いかけてきた。
「ちょっと! 大尉!!」
葉月がすかさず隼人の上着の裾を引っ張ってきた。
当然、隼人は前にこげずに、少しよろめいて自転車を停めた。
「なんだよ。危ないじゃないか」
「よく言うわよ! 最後のミルクティーを飲み損ねたじゃない!!」
「いいだろ、それぐらい? それにミルクティーってタマかよ」
隼人のニヤリとした意地悪い笑みを見て、また、彼女がムッとした顔に。
「失礼ね! 私は昔からミルクティーなの!!」
「煙草を吸って、『コーヒー』って、感じだけどね」
「もう! いいわよ!!」
葉月がプイッと栗毛をなびかせて離れていった。
本当は……。
隼人としては、そんな彼女の方が好きなのだ。
『お嬢様』と、もてはやされて、彼女がその枠にはめられて“冷たい顔”をしているよりも……。
ムキになって『人間らしい感情』を出している方が、隼人としても付き合いやすい。
日射しに透けると金髪にも見えそうな『不思議な栗毛』を、隼人は遠く見つめる。
そして、隼人は彼女の背中に、そっと微笑みかけていた。