36.アリア

 

 街のカフェを出た後……二人は再びミシェールの家に向かおうと

なんにも話し合っていないのに自然と駅へと足が向いていた。

葉月は話した後だからか何時になく顔色が悪くて

隼人は今にも倒れるんじゃないかと気を揉むくらいだった。

だからつい…。ヴァイオリンケースを持っていない手を掴んでしまう。

どうしたことかヒンヤリとしていて暑い夏の日射しの中、気持ちがいいと思うくらいだった。

「おじさま。きっと心配しているわね。中途半端に出て来ちゃったから」

葉月がやっといつものように微笑んでくれて隼人もやっと心が和んだ。

「それは。俺のせいだよ。意味もなく突っかかったりして」

「随分、居着いているのね? おじ様のところに」

「……うん。」

今度は自分のことを聞かれるのかと隼人は心穏やかでは無くなってきた。

でも。葉月はそれ以上なんにも聞いてこなかった。

丁度良くバスが来て、二人は乗り込む。

夕方の行楽帰りのラッシュで少しも席が空いていなかった。

乗車口の手すりに葉月が疲れたように捕まった。

隼人は葉月の背中にたたずむ。

丁度、隼人の鼻先に、葉月の栗毛が当たりそうになる。

背丈は、隼人の方がやや高いぐらいだった。

そんな葉月の後ろ姿が本当に小さく見えてくる。

飛行服に汗をにじませていたときはもっと大きく見えたのに…。

栗毛の中うつむいていて、葉月の表情は少しも見えなかったが。

やっぱり。『トラウマ』に触れたことはそれなりにいけないことだったらしく

葉月は脱力をしているようだった。

「大尉」

葉月が急に『職名』でつぶやいたので隼人はビックリしつつも“何?”と

葉月の顔をのぞき込んだ。

「もうすぐ研修も仕上がりね。康夫のチームも皆がその気になって

急ピッチで仕上がってきているの。」

こんな時に急に仕事の話をされて戸惑ったが

「そうだね。」と、答えてみる。

「休み明けに相談に乗って欲しいことが…。」

「相談?」

「そう。仕事の話。私、研修はきちんとやるから。

でも。どうしてもやっておかなくてはならないことがあって。」

うつむいたまま葉月は表情も見せずに話し続ける。

「そう?俺で聞けることなら」

今はそうとしか言いようがなかった。

「私ね。遠野大佐のことはもう。“ケリ”を付けたいの。

“自分”のために。そうして、彼が残していった“中隊のため”に。」

「その事で、俺に相談??」

葉月らしくないと思った。彼女なら自分で決めて前に進んでゆくと思ったからだ。

進めなくてもちょっと後押しをすれば自分でサッと行ってしまうような“中佐”と

隼人は認めているから、隼人に『相談』なんてちょっと腑に落ちなかった。

「だから。この週末は仕事の話は無し。おじ様のところで骨休めするわ。

昔のこと。楽しく想い出せる。もう、隼人さんは知ってしまったから

気兼ねすることないものね。」

『トラウマ』を引き出してしまって葉月という女を持て余していたこの隼人に

葉月の方から輝く笑顔をこぼしてくる。

(彼女はなんて強いのだろう)

隼人は、悪夢を少女の時に見たそんな葉月に気を配ってもらったことに

胸を突かれて申し訳なくなってきた。

「ゴメン。俺いけないことをしてしまった。本当はお嬢さんが何を考えているか

探りたくてパパに頼んでいたんだ。コソコソして…」

隼人は苦々しくうつむいて、目の前の葉月の栗毛をそっとなでていた。

「いいの。私と付き合うって事はいずれ誰もが知ること。

いつまで隼人さんに黙っていられるかと私も苦しかったから。

それだけ。“信用”したって事は信じてくれる?」

いつもの彼女が微笑んでくれて隼人はさらに胸を突かれた。

「俺だって…」

“信用しているよ” そう言いたいのにそれが言葉にならなかった。

初めて自分が弱い人間だと隼人は噛み締めた。

葉月からは悪夢を聞き出したのに、自分の心に隠し持っている“わだかまり”を

葉月には話せない自分がいたからだ。

隼人はそっと葉月の栗毛から手を離してうつむいた。

葉月がちょっといぶかしそうに首をかしげていた。

「今夜。隼人さんに一曲。プレゼントさせてね。

昔なじみ以外の人にヴァイオリン褒めてもらったの久しぶり。

“口止め料”よ?」

やっといつもの“生意気加減”のお嬢さんに戻って微笑んでくれる。

(俺は、プレゼントなんてもらう資格がないのに)

そう思いつつも。

葉月が大切に心の奥にしまっている“忘れた夢のかけら”の一部を

分けてもらえるような気がして、断る気も湧かなかった。

むしろ嬉しく思う自分がいたりする。

「どんな曲が好き?クラシック以外も結構出来るわよ?」

そんな風に慕ってくれることが…

なんだか少し心苦しく感じ始めた隼人だった。

 

 

 その週末の夜。

 

 フランス校元校長の自宅は緩やかなヴァイオリンの音が響いた。

あんな話をした後だというのに葉月は

パパとママンに、歓迎されていつも以上の笑顔を見せて食後の演奏に花を咲かせていた。

隼人もパパとママンと一緒に楽しんだのだが…。

葉月の笑顔を見るのが今度は辛かった。

基地では絶対に見せない無邪気な笑顔。

昔なじみのパパとママンはまるで遠くからやってきた孫でも可愛がるように

葉月を優しく受け入れる。

葉月も『小さいときのまま』なのだろうか?

見たことない警戒心のない彼女の楽しそうな姿が、

絶対に『軍人』としては見せない姿がまるで『虚像』の様に見えてしまう。

本当はあんな事さえなければあるべき姿だったはずなのに…。

隼人にとって彼女は『じゃじゃ馬嬢』

『淑やかな音楽家のお嬢さん』も受け入れられたとしても、

『置き去りにされた幼い葉月』をパパとママンが時間を戻すように

いたわっているような気がしてならない。それが見ていられない。

『十歳の葉月』が今ここに現れて、大人の女性の姿で

目覚めるその姿が痛々しく思えてしまった。

その夜。

葉月はアンジェリカが使っていた部屋に泊まることになり、

隼人は昔使わせてもらっていた部屋にこもった。

どうしても寝付けなくて、ベッドの上でゴロゴロしていて

いよいよになって致し方なくバルコニーの扉を開ける。

すると…。

微かに『G線上のアリア』が流れてきた。

言うまでもなく。同じ二階部屋にいる葉月が弾いている物だとは解ったが…。

ロマンティックで優雅なはずのアリアなのに

なんだかとても切なくて、ゆっくり流れてそれでも何処か甘やかで…。

少し重い音だった。

隼人が聞いたことない音色だった。

『もう。優しい気持ちでは弾けないの』

そう言っていたが、充分、芸術性はあると隼人は思う。

窓を開け放して、ベッドの上で彼女の演奏を聴いていると

本当に眠気が差してきた。

ところが、隼人の部屋の向かい部屋。老夫妻の部屋のドアが開く音がした。

オマケに一人でなく、二人分の足音がする。

「???」

隼人は気になってシーツを剥いで起きあがって部屋のドアをそっと開けてみる。

すると。ミシェールとマリーが葉月の部屋の前で寄り添って『アリア』を聞いている。

がたいのいいミシェールに肩を抱かれて金髪をおろしているマリーがすすり泣いていた。

「どうしたの?」

隼人がパジャマ姿でそっと小声で話しかけると…。

マリーは目頭を押さえてそっとパパから離れて部屋に戻ってしまった。

快活なミシェールのはずなのに、見たことない哀しい眼差しで

ドアの向こうから聞こえる葉月のヴァイオリンを聞き入っていた。

「本当に。葉月がヴァイオリンを弾いたのを見たのは久しぶりなんだ。

お前。聞いたのだろう?葉月から。」

そう言われて隼人はドキリとした。

隼人が知りたくてたまらなかったことは、聞き出してはいけないことで

そんな事を、コソコソとパパに聞こうとしていた自分を恥じていた。

それをパパに知られた気になったからだ。

「隼人になら。言うかとも思ってな。」

「ど、どうして?」

「これでもわしはお前を男として育ててきたつもりだよ。

この“ダンヒル家”の一員としてな。だから。

葉月もきっとウチの末息子を信用してくれるだろうと。

“一緒に連れてこい”そう言ったのは、

お前と葉月がどれ程の“信用”を培っているか見るためだった。

葉月がお前をキチンと“人”として認めていれば“話す”つもりだった。

だが。わしの出る幕はなかったようだな。」

(そうだったのか)

皆がそれぞれ訳があって“言葉”にしてきた事に対して、

隼人は一人苛立っていた自分をまた恥じた。

「サツキがいつも葉月にリクエストしていた曲だよ。

葉月にすれば…。鎮魂歌といったところかね。」

それを聞いて隼人は益々胸を突かれた。

葉月にとってこの「優雅な曲」が一番哀しい曲なのだと。

「葉月はいま。姉さんと話しているんだよ。

あんな事は…。二度とあってはいけない。

源助(葉月の祖父)もレイチェルも突然起こった孫の悲劇に

いつも胸を痛めていた。葉月はヴァイオリンを弾かなくなり

その代わり。じいさんに『武芸を教えろ』と言うようになり。

葉月がこうして小さいときのままヴァイオリンを弾くことは

本当に今となっては“希”な事なんだよ。

昔は、今みたいに綺麗に髪を伸ばしてレエスのワンピースを着て

それは可愛らしい笑顔を浮かべてヴァイオリンを弾いていたんだ。

彼女の父親の“亮介”の願いは葉月を『ジュリアード音楽院』に入れること。

それが口癖だった。姉のサツキは『御園』を継ごうと軍人に。

唯一可愛らしく育った“末娘”が奈落の底に突き落とされて

まるで“鬼”のように…。その葉月が今こうしてヴァイオリンを静かに弾いている

それが…。よけい哀しいよ。どうせ弾けるようになったのなら、軍人なんて…。」

いつも豪快に笑っているミシェールが声を詰まらせたので隼人は戸惑ってしまった。

それだけ…。

『御園家』と親しかった者には“酷な事件”だったに違いないことは隼人にも伝わってくる。

マリーもきっと。

今は亡き昔の友孫娘が穏やかに弾く『アリア』を聞いて

時の流れとか、今も残されて生きている彼女の悲しみとか…。

長女を失って年を経てゆく彼女の両親とか…。

何も知らずに育っている両親のいない彼女の甥っ子とか…。

そんなことを思いやって泣いているに違いなかった。

葉月が姉へと向ける夜空に語りかけるアリアは

その夜かなり長いことずっと響いていた。

隼人は、動こうとしないミシェールの肩を叩いて

部屋の戻って葉月が珍しく弾くという『G線上のアリア』を

眠れぬままジッと聞いてベッドに横になった。

 

 

 その次の朝。

 

 隼人がハッと目を覚ますと…。またヴァイオリンの音。

今度は一階からだった。

時計を見るともう11時。隼人は昨夜、朝方まで眠れなかったことを思い出し、

ビックリ飛び起きた。

着替えて顔を洗い、慌ててリビングに出ると──。

「隼人! 久しぶり!!」

長い金髪を優雅に広げる女性がいきなり抱きついてきて完全に目が覚めた!

「アンジェリカ!」

よく見ると、アンジェの一人息子と、旦那が既に家族の食卓に着いていた。

「久しぶりだね」

アンジェの優しそうな金髪の旦那がニッコリ微笑んでくる。

「隼人ったら!どうして葉月と一緒に仕事しているの黙っていたの!!

もう。1ヶ月も前に彼女が来ていたらしいじゃない!!」

マリーにそっくりなアンジェリカがプッとふくれて隼人を責める。

葉月は窓辺でヴァイオリンの構えをといてなんだか苦笑いをこぼしていた。

弟扱いされたところを見られたことに気が付いて隼人もハッと顔が火照るのがわかる。

「だって!こんなに親しいなんて知らなかったんだ!」

「それになぁに!私のヴァイオリンを彼女が使ってると思いこんでいじめたんですって!?」

(く〜!誰がそんなこといったんだ!)

隼人はこんなよけいな事言うのはただ一人!と。パパをにらみつけた。

案の定。パパは隼人から逃れるように視線をそらして何気なくカフェオレをすすっている。

「そんなことイイじゃないか。隼人も席に着いたらどうだい?」

いつもの如く。優しいアンジェの旦那がニッコリ席を促してくれる。

「ねえ!ねえ!葉月!あれ弾いて!あれ!」

アンジェが葉月に無理矢理リクエストをする。

隼人はいきなり賑やかな朝になって憮然としてママンが運んできてくれた

スープに口を付ける。

葉月がアンジェのリクエストで弾き始めたのは『ラバーコンチェルト』

「やっぱり!覚えていてくれたのね!!」

いかにアンジェが葉月のヴァイオリンに感化されていたかがありありと伝わってくる。

隼人は憮然としつつも。

あんまりにも優雅な葉月の演奏に聴き惚れてしまった。

もちろん。他の周りの大人達もゆったりと朝食を味わい始めていた。

「彼女のこんな音。また聞けるなんて…」

いつも明るいアンジェさえもがそんな感慨深げなやるせない笑顔を浮かべて

隼人の横に腰を掛けた。

「隼人。彼女をよろしくね…」

そう言われてドキリとした 。

よろしくね。と言われても別に彼女とはずっと一緒にいるわけでもないからだ。

でも一つ。

葉月と康夫のように離れていても、「信用」出来る仲でいられるだろう気持ちは

既にキチンとあったりするのは隼人自身、自分でも解っていた。

アンジェの小さい息子が葉月の妙になつき始めていた。

「僕も弾いてみる?」

朝日の中ニッコリ彼女がアンジェの息子にヴァイオリンを持たせる。

「こうして音が出るのよ?」

葉月が初めて見せる『母性』に隼人は驚いてしまった。

(ああやって“真一君”と過ごしてきたのかな?)とも思えてきた。

「私。ヴァイオリンもって帰ろうかな?」

アンジェが隼人の横でぽつりと呟いた。

アンジェの息子は葉月にヴァイオリンの弾き方を教えてもらって

すっかり興味が湧いたようだった。ママンのアンジェと同じだった。

この休日も。

隼人は決して『職場』では見ることない葉月を知ったのだった。