夜中の一時──。
冷え込む中、純一と一緒にひたすらアパートを見守っていると、夜が更ける中、一人の男が見張っている部屋に入っていく──。
『ボス、あの男が部屋の主です』
幽霊の娘の尾行を続けていたと言うカルロからそんな連絡が純一の元に届いたそう……。
隼人はそれを純一から聞き届け、緊張を募らせる。
「一人、アパートの側で待機してくれ。俺が指示する」
『では、私が参りましょう』
カルロ自身が出ていったようだ。
だが、部屋の中の灯りが乱れるような動きもなく、葉月からの連絡もない。
隼人は携帯電話を握った……。
「部屋の主であるあの男が、葉月がいてどのような反応をするかだな。何か知っているか、知らないか」
「娘が頻繁に寄っているなら、それなりに親しいだろうし、何も知らなくても彼もある程度は気がつくと思うけれどな……」
『ボス、物音はまったくしません』
「そうか、分かった」
純一のホッとするような深い溜息が、隼人の隣で聞こえる。
隼人も小さく溜息を落とした。
小一時間ほど経っただろうか?
突然、純一のジャケットの胸元からバイブレーターの振動音が車内に響いた。携帯電話が何かを着信したようだ。
純一はそれでも落ち着いた手つきで、いつものような仕草で携帯電話を手にし、そしてパネルを開いた。どうやらメールのようだ。隼人は『葉月からか』と尋ねようとしたのだが、純一はそのメールを何度も読み直すようにして、少し戸惑った顔……。
「義兄さん? 葉月から?」
「ああ」
そうして彼は隼人にその携帯電話を見せてくれた。
そこには確かに葉月からのメールで、さらに驚くことが記されている。
【なんとか大丈夫です。彼女は眠ってしまい、今同居人の彼と話したところ。娘は葉山方面に時々行っているよう……】
「葉山……? もしかして……」
葉月が皐月と襲われた別荘がある場所ではなかっただろうか?
ひやりとしながら、隼人が純一に確かめようとすると、彼は既にもう一つの携帯電話を手にして何処かにかけていた。
「ジュール、俺だ。葉月は無事だ。向こうとはなんとか折り合いをつけているようだ。伯父貴とおばさんにも安心するように伝えてくれ。今、葉月が情報を掴んだ。至急、万全の体勢で確かめに行ってくれ」
そして純一の目が光る。
「葉山だ」
なにかシンとした空気が流れたような気がした。
向こうのジュールも驚いているのだろうか?
やがて純一がやっとと言った感じで続きを話し始める。
「葉山のあの別荘の事だろう。そこに娘が通っているらしい話を聞き出せたようだな。いいか──確かめるだけだ、まだ、近づくな! 気をつけろよ」
隼人は息を呑む……。
ついに、幽霊が居そうな場所が判ったのだと! しかも、なんてことだろう!? 幽霊は犯行現場をアジトにしていたと言うことになるのでは?
きっと御園家の誰もが近づきたくなかっただろうその場所……。
葉月から『葉山の別荘』と言う言葉は何度か聞かされていたが、御園の者がその別荘をどうしたとかどのようなことで過ごしていたとかは一切、耳にしたことがない。葉月に取っては事情を説明すること以外では思い出したくもない、口にもしたくない抹消したい場所に違いない。
その場所がまるまま残されている事を知り、隼人は戸惑う。では、今……それを知った葉月はどのような思いでいることだろうか……?
「知らなかった。その別荘、まだ残していただなんて──」
「噂も流れたんでね。売りたくても売れない。実際に事件が起きた場所だ」
「義兄さんは? それからは……?」
「一度も行っていない。更地にしても良かったんだが、流石に誰も……な」
それもそうだろうと隼人も思う。
だからか。だから幽霊は人も寄りつかないその場所をアジトに選んでいたというのか!?
その感覚に隼人は凍り付く。どこまでもどこまでも幽霊はこちらを欺き続ける残酷な男。
隣にいる強靱と思っていた黒猫の義兄さえ、拳を握って震えているではないか……!
彼はそれでも何とか突き抜けていきそうな怒りを抑えている様子で、拳を握ることでそこに溢れそうな怒りを集中させている。『くそっ』と小さく吐き捨てた彼の額はうっすらと汗を滲ませている。そしてやっとの思いで彼はその拳を解いた。やがて、彼は落ち着くための深い深い深呼吸を一度すると、ふうっと肩の力を抜いてシートに背を預ける。
「だが、チビが無事で良かった」
「義兄さん。朝になっても出てこられないようだったら、俺が行く。いいだろう?」
「そうだな。夜明けだ。それまで様子を見よう。朝になれば葉月も限界だろう。隼人は娘にまだ顔を見られていない。少しは警戒を解くかも知れないな」
暫くすると、また純一の携帯にメールが入る。
二人で覗くと【後は同居人の彼に彼女のことを任せ、私は眠ります。朝、もう一度彼女と話してみようと思いますが簡単には手放さない感じがあります】と、打ち込んできた。
どうやら同居人の男は、こちら側の話が分かる感覚の男のようで隼人はホッとする。
とりあえず、葉月は眠りにつくことが出来たようだ。
「朝、話がまとまるなんて待てないから、迎えに行く」
隼人がそう言うと、純一も頷いてくれる。
だが、彼は隣でまんじりともしない様子で夜明けを待ち構えている。
何度も時計を見ては溜息を繰り返し、時には外に出て煙草を吸いながら、アパートを眺めている。
紺色の真っ暗な空に、小さな三日月が煌々と輝く夜。
隼人はそんな義兄と一緒に、妻が手元に帰ってくるその瞬間をもどかしいまま夜明けを待つ。
・・・◇・◇・◇・・・
目が覚める──。
美波はハッとして起きあがった。
まだ夜明け前。部屋は暗かったが窓の外は白み始めているようで、ほんわりとした茜色の光が滲んでいた。
「起きたのか」
そんな男の声に驚いて美波が振り返ると、キッチンの側にある椅子にグラス片手に座っている翼がこちらを見ていた。
「翼、帰ってきていたんだ」
「さっきな。これはどういう事かと思いながらね」
少し怒った顔の翼が、指さした先……。
それが分かって、美波はより一層に目が覚めた!
翼がなんでも散らかしているテーブルの片隅に、毛布でくるまって眠っている栗毛の女性。
(そうだ。連れてきたんだった……!)
やっと思い出す。
そして美波は慌てて、自分の身の回りを確かめる。
あった……。彼女から取り上げた携帯電話があった! 胸をなで下ろし、そして翼をもう一度見つめた。
「ええっと。ちゃんと彼女の了解を取って連れてきたんだ」
「どこの誰だ」
「それを知りたいから連れてきたんだ。あの病院に入院している人」
「病院? あの情報屋に調べさせたあの一軒家にいるとか言う、お前が気にしていた女ということか?」
美波は正直にこっくりと頷いた。
翼はちょっと驚きの顔を見せている。きっと美波が正直に答えたからなのだろう。
だが、彼の顔はもっと険しくなる。
「と、言うことは彼女は身体の何処かを治療中と言うことだ。彼女の身体に何かあったらどうするんだ?」
「うるさいなー、もう。ちゃんと自分でやるよ! 迷惑なんかかけないから!」
翼は暫く黙りこくって、いつものように『分かった』と諦めたように呟き、顔を逸らしてしまった。
その顔を見ると心苦しい物ががある。迷惑をかけないと言って、既にかけているのだけれど、『自分でやる』と言った範囲のことは本当に一人でやってきたつもりだ。
その通りに、次の手を打たねばならない。
美波は彼女から取り上げた携帯電話を手にして、部屋を出た。
夜明けの空を眺めながら、翼の部屋の玄関正面、その手すりに寄りかかりながら、取り上げた携帯電話のパネルを開ける。
「ったく……。どういう登録だよ?」
昨日も、とりあえず彼女の新婚の旦那にだけは連絡をしようと思ったのだが、それらしき男の名前を見つけることが出来なかった。
なんと言っても、まともな名前じゃないのだ。
『ハヤブサ』とか『吠える犬』とか『小さな青』とか『九州男児』とか訳が分からないのだ。
そうだった。彼女は軍人だった。美波はやっと気がつく。きっとこれは彼女独自のコードネームのつもりなのだろうかと。
「参ったなー。変なところにかけたらとんでもないし……」
するとその時だった。
今まで鳴りもしなかった携帯電話が鳴ったのだ。
まるで美波が彼女の携帯電話を持って外に出てきたのが見えたかのように……!
分かっていたが、痛感した。自分は昨夜からずうっと見張られている。そして彼等がそれを美波に警告するように電話をしてきたのではないか?
パネルを見ると表示は『ハヤブサ』だ。出るべきか、出ぬべきか……。暫く迷っていると、留守電に切り替わる。美波は何を録音するのかと耳を当てたが、切れてしまった。そしてまた、鳴り始める。それはまるで美波に『取れ』と言っているようだった。
「はい……」
『俺の奥さんを返してもらおうか?』
男性の声。美波は流石に硬直した。
『君には君なりの目的があったと理解したい。だけれどうちの奥さんは今やっと車椅子で外に出られるようになった身体なんだ。君にも分かるだろう?』
見られていると分かり、美波は通路の壁から外へ、どこに彼等が潜んでいそうか見渡した。
「返してもらおうか」
『返してもらおうか』──受話器を当てている耳に聞こえた機械を通した人の声と、生で耳に届いた音が重なり、美波はヒヤリとしながら階段へと目を向ける。
そこには黒い携帯電話を耳に当てている軍人男性が立っている。
黒髪の、眼鏡をかけた日本人。
美波が固まっていると、彼は怒ったような顔で携帯電話をぱたりと閉じた。
「妻を迎えに来た」
(だ、旦那だ……!)
美波は後ずさる──。
その眼鏡の彼の顔が本気で怒っているからだ。
「ちょっとした『お痛』だったと、今なら見逃してやる」
「なんのことだ」
「言い逃れが出来るとでも? それは妻の電話だ。証拠に今、俺がかけたら君が出ただろう?」
美波は彼女の青い電話をぎゅっと握りしめる。
「いやだ。彼女とはまだ話が終わっていない」
「なんの話かこちらが納得いくように説明してもらおうか」
「あんたなんかに話すもんか。例え、あの人の旦那でも、私はあの人の口から聞きたいんだ!」
すると、目の前の男性がちょっと呆れた溜息をこぼしている。
黒髪をかいて、少し考えこんでいる。
──とても落ち着いている人だと美波は思った。
一目見た時はあの綺麗な人の旦那さんにしては、地味だなあと思ったけれど、こうして眺めれば眺めるほど、その『妻を返せ』と詰め寄る時に漲らせている『俺は夫だ』という強い姿勢、そして感情的に若い美波に噛みついてこない落ち着き振り、そして冷静さ──、あの彼女の側で彼女を懸命に守ろうとしている男の姿を見せられた気がして、『お似合いの夫妻なんだろう』としっくりとした気持ちになってくる。
黒い前髪をかき上げながら、暫し、考えていた彼が再び美波に向かってきた。
「じゃあ、奥さんに聞いてみよう。俺も立ち会う。それでどうだろう?」
今の気持ちでは、自分と彼女の間には『誰にも入って欲しくない』と言う気持ちが強い。
だけれど、あの栗毛の彼女もなかなか強情で、昨日の様子を見ていると簡単には喋ってはくれない気持ちでいることは分かっている。きっと、今日も彼女は簡単には口を開かないだろう。彼女とさえ向かえば、直ぐに判明することと考えた美波は、そんな自分のことを今後悔しているのだ。やはり感情的になって追いつめられて、後先もなく彼女をさらってしまったことを……。もっと冷静になって順序を踏むべきだったと。
なによりも、彼女は今は怪我人だ。あまり長くこちらの手元に置いて何かあっても美波はより一層後悔する事態を招きかねない。
そして彼女はそれを厭わないだろう。身体がおかしくなっても、美波には言いたくない顔をしていた。
だったら……彼女が信頼しているだろう目の前の夫が現れたら……? 出口のない行き止まりの壁にぶち当たっている美波は、壁の上からこの男が手を差し伸べてくれているのではと思ってしまった。だが、簡単に信じるものかと首を振り……でも、と、迷っていた。
「美波、彼女が目を覚ました……ぞ」
迷っているその時、翼が玄関のドアを開けて、顔を覗かせた。
彼は黒髪の夫を見つけて、やや驚いた顔したのだが、玄関の扉をより一層広く開け、その男性に静かに言った。
「うちの美波がご迷惑をかけました。ご主人ですね? どうぞ、奥さんならお元気ですよ」
落ち着きならこちらのお兄ちゃんも負けてはいなかった。
そして初めて見た男が出てきても、黒髪の旦那さんも表情一つ変えない。
そんなヒンヤリとしている男二人に、美波は迷っているまま挟まれていた。
「有難う。では、お邪魔致しますよ」
「どうぞ」
もう美波の意志など関係ないとばかりに、男二人の間で話が進んでいること、持って行かれたことに美波は初めてハッとする。
「翼! なに、勝手なことをしてくれるんだよ!!」
そう叫ぶと、翼は知らぬ顔をしていたが、その黒髪の男性が怒った顔で振り返った。
「彼に感謝するんだな! 君は自分が何をしたのかちっとも分かっていない!!」
なんであんたに説教されるんだと頭に血が上りそうになる。
そんないけ好かない男が、翼の家に当たり前のように上がり込んでいくのにも、すごく腹が立ち、美波は構わずにその眼鏡の旦那に噛みつこうと後を追った時……。
「隼人さん……どうして?」
「葉月! 良かった、大丈夫か!?」
リビングの入り口に、彼女が姿を現した。
彼女は目の前に現れた旦那を見て、すごく驚いた顔。それもそうだろう。旦那が一直線に妻を返せと飛んできたのだろうから。
そしてその旦那は彼女を確認するなり、大きく腕を広げ、その腕の中いっぱいに彼女を抱きしめたのだ。
「まったく、お前はどうしていつもこう、俺をハラハラさせるんだ」
「来てくれたの? 有難う。私なら、大丈夫……」
彼女もその腕の中に抱きしめられると、あの庭にいた時のような綺麗な女性の顔になって、しんなりと夫の腕にもたれかかっていた。
なんだかそれを見ていた美波はだんだんと馬鹿らしい思いに駆られてきた。
「帰れば、帰ればいいじゃん……」
ぽつりと呟いた美波を、翼も抱き合っている夫妻も振り向いた。
そんな三人に美波はさらに叫んだ。
「もう、いいよ! 帰ればいいじゃん! どうだっていいよ!!」
美波の目に今見えるのは、確かに愛し合っているあの二人の暖かい抱擁、抱き合う姿。あんな怖い顔で必死に迎えに来てくれる旦那の顔、そして旦那の顔を見てとても安心した女性の顔に戻る彼女の顔。
あの二人にとって、今、美波がどうしても欲しいものなど『どうでもいいくだらない事』なんだ。ああして幸せになった人にはどうでも良い喋るにも値しないことを要求していたんだって……!
そんな思いが……。きっと、そう思っていたのにそれが心から溢れ出てきてしまった。
彼女が羨ましくて、でも彼女はきっと苦労したんだろうって、それも知りたかった。どうしたら他の女の子のようすんなりと幸せになれるの? それも聞いてみたかった。でも、目の前にするとそれが彼女だけの物だと分かるのはとても惨めな思いだって初めて気がつく。
居たたまれなくなり、美波はそこを走り去ろうとしたのだが、翼に腕をぐっと強く握られてしまい引き留められる。
「もう……いい。もう……いい」
「美波……」
子供のように泣いていたのだろうか?
今まで彼の前でも突っぱねていたから、そんな美波の崩れた顔を見て翼は戸惑っている。
だけれどもう、美波は限界なのだ。何かが、崩壊していくのが分かる。
「いいわ、それなら今度はちゃんと私に会いに来て。あんな訪ね方はもう無しよ。可愛く訪ねてきて──」
ふと気がつくと、彼女は旦那さんに支えられた格好で美波の目の前にいた。
胸を押さえ、少し汗をかいている。
「ごめんね。今日は帰らせてくれる? 痛いの」
でも美波は子供のように首を振る。
今ここで彼女を手放すと、二度と会えない気がしたのだ。
だって彼女はあんなに厳しい警護に囲まれ、彼女が動くとまたそれだけの人数を連れて動くのだから……。
だけれど彼女は静かに美波に笑っていた。
「待っているわ。そうね、私だって貴女と話してみたいわ……」
「本当に?」
栗毛の彼女がこっくりと頷く。
それを見ていた旦那さんが、ちょっと呆れた溜息をこぼしながら携帯電話を手にした。
「君の番号を教えて」
「え? 俺ですか?」
「ああ、俺の携帯の番号をそっちに送るから。うちの奥さんを訪ねる時は彼と一緒に来るのが条件。さらに連絡を先に入れてから来ること」
眼鏡の旦那さんがそういうと、翼が急いで携帯電話を手にして番号を交換した。
それが終わると旦那さんは、奥さんの彼女をお姫様のように抱き上げる。彼女も彼の肩に寄りかかって、しっかり捕まって……。でも、顔色が良くないことに美波は初めて気がついた。
「あの、ごめんなさい。お大事に──」
美波がそう言うと、彼女と旦那さんは顔を見合わせ、次には二人揃って微笑んでくれていた。
「奥さんと待っているよ」
「待っているわ」
旦那さんが眼鏡の奥から滲むような優しい眼差しの微笑みを見せてくれて、美波は驚く。
そして、素敵な人だなと初めて思い、あの綺麗な彼女に愛されているんだって、ちゃんと分かった。
「良かったじゃないか、美波。明日にでも会いに行ってみよう。その時、もう一度、ちゃんと謝ろうな……」
美波は自分がただただどうしようもない子供だと、涙をこぼし続ける。
翼がその胸に抱きしめてくれる。
知らなかった。この人の胸がこんなに必要だったなんて……。
美波は初めてそう感じていた。
・・・◇・◇・◇・・・
隼人の腕に抱えられ、葉月はアパートを後にする。
聞けば、純一と二人で一晩中見守ってくれていたとの事。そして朝になり、葉月の身体を心配し、まずまだ顔を見られていない隼人が様子を見に出てきたとのことだった。それでなんとかなりそうだったら純一が後から踏み込む準備を整えていたのだと……。だが、隼人の目の前に美波が出てきて、葉月の電話をいじってどこかにかけようとしていたので、隼人が試しにかけると彼女が出たとのことだった。
「彼女、元々、旦那の俺に連絡するつもりだったんじゃないかな」
「きっとそうだわ。あの子、誘拐犯になれないわね」
「……そうだな」
二人はふと黙り込む。
あまりにも可愛らしい子だったから、複雑すぎるよね。と言いたい心情をまだ言葉にすることも顔に出すことも、そしてそれを話すことも恐れていた。
だから、葉月はそこから目を逸らすように違う事へと話を変える。
「兄様、怒っていた? 助けてくれようとしていたのよ。なのに私の思いつきにつきあってくれて……」
「いや、心配していたよ。すごい神経をぴりぴりさせて目を光らせていた。絶対にお前から目を離すもんかという気迫、凄かったぜ」
「そう。あの……」
夜明けの道、アパートの敷地を出て狭い住宅地の道を力強く歩く隼人の顔を見上げる。
紫色と紺色のグラデーションの空に、金や銀の星が小さく輝き、そしてうっすらとした三日月が隼人の頭の上にある。その綺麗な情景の中、隼人がいつもの笑顔で『なに』と見下ろし、葉月の目を真っ直ぐに見つめている。
「ごめんなさい……」
色々なごめんなさい。
勝手に無茶をしてごめんなさい。
義兄様と黒猫の皆を巻き込むような行動をしてごめんなさい。
そして最後は、本当は引き寄せてはいけなかったかも知れないあの子を、私の懐に入れてしまったこと……。
「今更なんだ。今までも散々あったことだろう? 『ああ、またこういうことか。ウサギらしい』と思ったぐらいだ」
「貴方……」
「なんだ、奥さんになったら少ししおらしくなったのか? こんなに大人しくなるならもっと早く結婚すれば良かったか」
「なに、それ!?」
葉月が驚いてむくれると、その綺麗な夜明け空の中にいる隼人が可笑しそうに笑う。
「……しかし、まあ。とんでもないものを拾った気分だな。ウサギ専売特許と言っておこうか?」
隼人の大きな溜息──。彼が言いたいことを葉月も察し、俯いてしまう。
「優しい子」
「みたいだな」
「そうでなければ良かったのに……」
そうでなければ……。
心でそう呟けば、もう、葉月の胸は張り裂けそうな思いで溢れる。そして涙がこぼれてくる。
「何故? 私は楽にさせてもらえないの? 何故? 楽に憎ませてくれないの? こんなの……」
「葉月、お前は苦しいだろうけれど、でも、あれで良かったんだ」
そして隼人も静かに葉月に言った。
『彼女に罪はない』──。
分かっている、分かっているから葉月だってあの子に笑った。あの子に、待っていると言った。その向こうに彼女にとって酷な宣告があり、天がそれを告げるのは父親でなく被害者であるお前なのだと言っている気がする。
なんて酷い宣告を突きつけられたことだろうか。
自分がどうなるか分からない。何処までも捕まらない幽霊にぶつけることも出来ず、その娘を身代わりにして、彼女を傷つけるかも知れない。そうでなければ、葉月には酷い心の闘いが待っていることだろう。それでもあの子に罪はないのだと、誰もが言う。
「ほら、義兄さんだ。兄さんも一睡もせずに、一晩中、お前のことを見守っていたんだ」
歩く道は少し遠回りだったが、そこは壁一枚向こうがそのアパートの敷地内という場所だった。
純一が黒い車の後部座席に扉を開けて姿を現す。
だが、葉月の姿を見ると直ぐに駆け寄ってきた。
「義兄様、ごめんなさい。私の突然の思いつきに合わせてくれて……」
「いや。俺こそすまなかった。ジュールとの連携が上手く繋げられない間に、あの娘が飛び込んでくることになって。その前にもっとしっかりしておくべきだった」
「ううん。私が義兄様に事実を告げるのを長く躊躇っていたから……。ジュールはしっかりと手を打ってくれていたもの。だからこうしてあの子に接触できた訳だし」
もっと早く義兄に告げていれば、美波があのように警告の襲撃をしたり、葉月をさらうような状態になるまでに追い詰めなくて済んだのかも知れない。そして幽霊をもっと早く見つけることが出来たかも知れない。
そう思っていると純一が、葉月が着ているシャツの襟に触れて困惑している。
「お前、昨日、着ていたブラウスはどうした」
実はあのピンクのブラウスは純一と真一が選んでくれた物だった。
「えっと、その……」
男二人に押し倒されて破られただなんてとても言えそうもない。
「その彼女に連れ去られる途中に何かに引っかけて破れちゃったから。彼女の同居人のシャツに着替えさせてもらって」
「そ、そうか。それならいいが……」
だが純一の顔は妙に強張ったまま、葉月が着ている男物シャツの襟から手を放さなかった。
「なんだよ、義兄さんまで。じゃじゃ馬の手に乗ってしまった人がそんな顔をするのは反則、反則!」
なんと隼人はそんな戸惑う純一の手を、さっさとお構いなしに妻から払ってしまう。
純一は小さく舌打ちをし、『うるさい』と葉月から離れ、車へと戻っていく。
「早く帰るぞ。きっとオジキとおばさんに俺達はこっぴどい説教をされるぞ。チビ、覚悟しておけよ」
「はあい……」
何故か葉月はしゅんとうなだれてしまった。
特に母はすごく怒ってるだろうなと。……口が裂けても『幽霊の娘とまた会うかも知れない』なんて言ってはいけないだろうと葉月は思った。
暖まっている車に乗せられ、朝焼けの中、病院へと戻る。
・・・◇・◇・◇・・・
美波が巻き起こした『誘拐劇』はあっさりと幕を閉じようとしている……。
しんとした車内では、誰もがいろいろなことを模索している無言の空気。
だが、と葉月は助手席に乗り込んだ義兄の横顔を見つめた。
「義兄様、失敗したわね」
「いや、これでいい。本当にあのままお前が『幽霊』のところに連れ去られていたらと思うと、そちらの方がどうしようもなかったかと思う」
「……でも、きっと。あの男は、この一夜のこと、娘がしたことを見ていた気がするの」
「……そうだな。俺も、そう思う」
純一はそれだけ言うと、黙り込んでしまった。
先輩と分かっても純一は『幽霊』と言う。まだ彼が本当に先輩が長年追ってきた幽霊なのか認められない気持ちが見えている気がした。
だけれど、葉月以外にあの男と離れていても通ずる者がいるとしたら、それはもう、この義兄しかいないと思う。
彼が何処かで見ている。
娘がしている事と、その娘に振り回されるように踊らされている御園一族。
今回の事も、彼はきっと『俺がいると思ったか。残念だったな』と笑っている気がする。
それでもこちら側は、どこにいるかもなにをしているかも掴みきれない『幽霊』を思うと、娘が来た時に『藁にもすがりたい思い』で彼女に従ったのだ。
だが、失敗した。
そして葉月が思うのは……。
「酷い……。あんな優しい娘を利用して、私達を引っかき回したとしか思えないわ」
葉月が唇を噛みしめていると、肩を抱き寄せてくれている隼人も頷きながら言った。
「俺もそう思う。当然だが、俺は幽霊は冷酷な男だと思う。娘は父親を慕っているように見えるけれど、それは子供として当たり前の感情だ。それを受け入れている振りをして、娘の気持ちを利用し操って、こちらがどういう警護と動きをするか試したんだ思う」
隼人のきっぱりとした幽霊という男の位置づけ。
葉月もそう思う。
だが、やはり純一は黙り込んでいた。
「俺は賛成はしたくないけれど、葉月はあの娘を預かろうとしているよ、義兄さん」
まだ、そんなことは言っていないのに!
葉月が心にうっすらと描き始めた事を、夫の隼人がズバリと言い除けたので驚き固まった。
幽霊の、宿敵の娘をこちらに引き寄せる。それは御園側としては人質にもならない余計な話、つまり父親の瀬川もそれはそれで見切りをつけて去っていってしまう可能性が高いのだ。そして美波自身はどんな父親でも彼が何処かに消えてしまうことは、望んでいないだろう。美波の願いはただ一つ。父親が元に戻って犯罪を犯さない人になること、もっと言えば『お父さんは、そんなことはしない』と証明したいのだ。だけれど残念だが、それはもう手遅れ。彼女があの父親についていく運命の向こうには、今以上に酷な人生が待っているだろう。それに瀬川も突然に帰ってきて娘を引き取ったようだが、どこまで本気だか……。
彼女の純粋な娘としての願いを思うと、あまりにも可哀想だ……。
そう思ったから、葉月も。
それにあのように彷徨っている彼女の痛々しい姿は、訳や事情は違えど昔の自分を思い出す。
葉月をさらっていく時のあの気迫──。自分が持っている内に秘めているエネルギーを爆発させて、尖った目つきで思わぬ行動に打って出るあの顔、あの声。
それが葉月の目に焼き付き、耳に声が残り、まるで自分を見ているかのような錯覚に陥った。
──答が欲しい。誰か答えて、教えて。どうして誰も私の欲しい答を、私が安らぐ答を教えてくれないの、見せてくれないの? 誰か教えてよ、私はこの目で見たいんだ!!──
あの子の目からそんな叫びが聞こえてきそうだった。
──どうしたら、私は安心できるの?
彼女の彷徨い。美波のそんな思いを受け止めたから、葉月は『待っている』と言えたのだ。
確かに、葉月がそう言う前には隼人はもう、あの子に『奥さんと待っている』と言っていた。
そう、あの時にはもう、隼人は妻の気持ちを察してくれていたんだと、葉月は隼人を見つめる。目があった隼人は、照れを隠すためか真顔でそっぽを向いてしまったけれど。葉月は少しだけ嬉しい笑顔を浮かべ、彼の肩にもたれかかる。そして膝の上にある彼の手をぎゅっと握りしめた。
だけれど、宿敵の娘である美波を我が家へ出入りできるような状態を招いてしまったこと──。妻となるはずだった愛する女性を殺されてしまった義兄は、どう思うだろうか?
葉月はじいっと黙って目をつむったまま何かを考えている純一を、息を潜めるように窺っていた。
ふと目を開けた純一の眼差しがフロントミラーに映り、それが後部座席にいる葉月の視線とが鏡の中で合わさった。義兄は何かを察したかのようにまた目をつむってしまう。だが、溜息を一つついてやっと一言。
「葉月、お前の勝手にしろ」
「いいの……?」
「思うところはあるが、『娘は一応無関係』だろ。お前もそう思っているから、そうするのだろう?」
「あの子が望まないなら、手は差し伸べないつもり。でも、あの子があんな行動を起こしたのは、私に助けを求めに来たような気もして……」
また純一が黙り込んでしまう。
鏡に映る彼の表情は、眉間の皺を深く刻んだ苦悩の顔。
それほどに幽霊の娘が自分の陣地内に入ってくるのが嫌ならば……と、葉月は隼人と顔を見合わせる。
きっと隼人も『あの家ではなく、外で会うように持っていこう』と思っただろう。
だがそうではなかったようだ。
「あの娘が『瀬川アルドの娘』と紹介されたなら、『流石、先輩の娘』と言えそうだ。だが、『幽霊の娘』というなら、認めたくない。幽霊の娘が、大事な義妹に許されるというのも複雑だ」
瀬川という先輩の娘なら、納得できる娘だった。
だが、幽霊の娘が心優しい純粋な娘とは認めたくない。ましてや、傷つけられた生き残りの義妹に受け入れられるだなんて……。
義兄のその気持ちは、葉月にだって存在する。
そこを口惜しく思いつつも、自分たちにも『やってはいけない』行為があるのだ。それが罪のない娘を父親同様に憎むこと。
葉月はその辛い問題を、天から授かった気持ちでいるのだ。
「まだ若いから詰めも甘いところがあるが、単独であれだけやってのけた頭の良さも、あの運動神経も。そして……顔も、特に目なんか……」
気のせいか? 鏡に映っている目を閉じている義兄の瞼が光っているようにも見える。
「目つきなんか、先輩にそっくりだ。あの子は、本当に先輩の子なんだな。そう、思う……」
「純兄様……」
「義兄さん──」
純一は一度だけ、鼻をすすると唇をぎゅっと噛みしめ、そのまま窓へと顔を逸らしそれっきり。
『先輩の娘さん? 良い子ですね。先輩の子だ!』
なにもなければ、そう言いたそうな純一の声が、笑顔が、葉月には浮かんでくる。
葉月も一緒に涙を流す。そしてそれを隣の夫が柔らかく抱き留めてくれていた。