-- A to Z;ero -- * 砂漠の朧月夜 *

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3.その唇の端に

「おそらく、今度こそご自分達の手でお嬢様をお守りし、幽霊を追いつめる決意と覚悟をされたのでしょう。お二人は揃って『遅すぎた、今更だけれど』と後悔するようにそう言っておられました」

 芝庭のベンチに辿り着き、その横に車椅子を停めてくれたジュールがそう言った。
 葉月はただうなだれ、言葉も出ない。

 遅い──確かに、そうかもしれない。その昔、両親が仕事の都合で来日の予定を変更させた為に取り残された姉妹二人が襲われるハメになったのだと、葉月は両親を恨んだこともあったぐらいだ。だけれど、今回、殺されかけたことについては、両親が仕事を続けていたせいだとは思わない。
 けれど両親は『もっと早く自分たちの手で犯人を捕らえるべきだった』と後悔しているのだろう……。その気持ちも分かるが、決して、そのせいだとは思っていないのに。『今更』だとも思っていないのに……。
 もし、葉月が両親を心より恨んでいたとしても、それはもう溶けて無くなってしまったと言っても良いぐらい。それほどに、今回の療養生活は葉月にとって『戻ることが出来た日々』でもあった。それなのに……。それとも、やっとこうなれたのは両親が仕事を捨て葉月の看病を第一に一緒に暮らしてくれたからなのだろうか?……だとしたら、なんて皮肉なことなんだろう。

 そんな葉月を見て、やるせない溜息をこぼしたジュールが隣のベンチに腰をかけた。

 黒いスーツをきりっと着こなしている彼ににつかわない愛らしいバスケットから、水筒と花のナフキンに包んだ菓子を出している。

「申し訳ありません。楽しいお散歩にしようとお嬢様が仰ったのに」
「ううん。教えてくれて、有難う」

 葉月はジュールに心よりの感謝を込める笑顔を見せる。
 ジュールもそれを見て、ホッとしてくれたようだ。
 気を取り直すかのように、ジュールはすぐにお茶を入れ、お菓子を葉月に差し出してくれた。
 葉月はマドレーヌをつまみ、ジュールにも食べるように勧めたが、彼が『甘い物は苦手です』と辞退してしまった。葉月もそれ以上は勧めない。

 黙って頬張る間にも、葉月とジュールの周りには、ほのかに暖かい春風が取り巻いてくる。

「春が来たのにね……」
「そうですね」

 あまり多くを言い合わなくても、葉月の思っていることはジュールは解ってくれているだろう。そして、葉月もジュールが言ってくれそうなことも解る。
 そう思うから、ただ静かな間の中で甘い菓子を紅茶の香りを楽しむだけで心が和んでくる。そして同じように感じ合う哀しみも同じように噛みしめあえる。
 父があのようなことを、葉月にワザと聞こえるように言って、娘に知っておいて欲しいことを教えてくれたから、余計なのか──。本当に彼が身近な『家族』に思えてくる。今まで『彼はどうして義兄にも私にも一生懸命になってくれるのだろう』と不自然に思っていたことさえ、自然と馴染んできて、かえってしっくりと落ち着いた気がした。

 

「仲間に入れてくれ。なんて、言い難いなあ」

 

 そんなからかう声が聞こえ、二人は一緒に声が聞こえた背の方へと振り返る。
 そこにはネクタイを緩めている純一が立っていた。

「兄様」
「おかえりなさいませ、ボス」

 二人一緒に振り返ったそこに、ニンマリと意味深な笑みを浮かべている純一が居るのだが、それを見た途端にジュールがサッと立ち上がってしまった。

「では、わたくしはこれで。お嬢様、ごゆっくり」
「ジュ、ジュール?」

 ジュールとちょっとでも良いから親交を深めたいと思っての散歩だったのに、彼は純一が来た途端に暖かさと柔らかさを垣間見せてくれていた『お兄さんの顔』から、冷徹な『黒猫部下の顔』になり、その場を躊躇うことなく純一に譲り渡し去っていってしまった。
 唖然としている葉月の側に、当たり前のように純一がやってきて、しかもジュールが座っていたそこにこれまた当たり前のように腰を下ろしたのだ。

 葉月がムッとしているのを純一は知ったのか、ヤレヤレと言いながら肩をすくめている。

「俺がチビに怒られるハメになってしまった」
「せっかくジュールと、ゆっくりとお話が出来たと思ったのに……。『仲間に入りにくい』と感じたなら、雰囲気を察して、空気を読んでよ」
「はいはい。そうだな、俺は昔から、お前には『デリカシーがなさすぎる』と言われていたもんな」
「そうよ、そうよ! お兄ちゃまは昔っからよ」
「なんだ、今に始まったことではないと解っているなら、いいじゃないか。お前、慣れているだろ」

 葉月は『なんですってっっ』と、顔をしかめた。
 『お前、慣れているだろ』? ですって? と、葉月は頬を引きつらせる。
 確かに、慣れすぎていて『苦労したわよ』なんて言いたくなったぐらいだが、堪えた。
 黙り込んだ葉月に勝ったと思ったのか、純一は笑いながら葉月が楽しみにしていたオレンジのタルトを頬張ってしまった。ジュールがそれを選んでくれたのは、葉月が気に入っていたことを知っていたからなのに。それを隣の義兄は何も知らないのかそれとも知っているからなのか? そうしてチビ姫の『女心台無し』にしてくれるのは、昔から。わざとなのか自然なのか悪気がない顔で平気でする。
 ついに葉月は腹が立って、隣にいる純一の肩をバシリと叩き倒していた。

「お兄ちゃまの、バカっ!」
「お。なんだよ、お前は──? 結構、力が戻ってきているじゃないか? あ、なんだ。もしかしてこれを楽しみにしていたのか?」

 やっぱり。ワザとじゃなくて自然だったらしい。余計に腹が立ってきた。

「今頃、気がついたって遅いわよ」
「まだ半分かじっただけだ。それ、食え」
「いらないわよ! バカっ!」

 これまた罪のない顔で、かじりかけのタルトを葉月に突き出してくる。
 こういうところだけ、変に『馴れ合った兄妹』なのだから……。
 バカ、バカと葉月が言い続けていると、急に純一はかじりかけのタルトをじいっと見下ろし、俯いてしまった。

「……そうだな。俺は本当に気がつくのが遅い、鈍感な野郎なんだ。若い頃からずっとだ。もう少し気の利いた男だったら……あるいは……」

 今度は違う意味で、葉月は黙り込む。
 確かにこのお兄ちゃまはあるところでは『鈍感』で、気がつくのが遅すぎる出来事が沢山あった。今回の『幽霊が元同僚』であることも、いずれはこの義兄の言うところの『遅すぎた出来事』の中に組み込まれていくことだろう……。
 だけれど、葉月はそれは純一のせいだとは思っていない。ある意味では、それも『お兄ちゃまらしさ』であると思っている。どんなに哀しいことを引き寄せてしまう男性であっても、それは彼の生き方の中でほんの少し拘った結果だったり、ある時は自分に正直すぎただけだったり、ある時は名の如く純粋すぎたり。ただそれだけのことなのだろうけれど、やはり世間では『ただそれだけ』では済まないのだろう。そして、こんな葉月が『ただそれだけ』と言えるのも、それは隣の男性を心より愛しているから、許せることなのだろう?
 葉月はふとそう思ったので、隣で我が事をしんみりと振り返っている義兄の手に取り残されたままのオレンジタルトをサッと奪っていた。
 そしてそれをすかさず、口の中へと放り込む。

「まるで、お兄ちゃまの躊躇いみたい。残りの半分、私が食べてあげる。次からは一気に全部食べないと、すぐに他の人がぜんぶ食べちゃうんだから」
「……そうかもな。お前には、そうして半分しか食べさせてあげられなかったかもな」

 それは、昨年のことを遠回しに言ってくれているのだろうか?
 葉月には、ふとそう思えたのだ。

「ううん。私は今、お兄ちゃまの手の中にあるものを頬張ったように、お兄ちゃまが与えてくれたものは、半分でも全部……食べられたもの。お兄ちゃまの手にあったもの、全てよ」

 後悔はない。
 あの時、全て出し切った。
 思うような結果ではなかったのだけれど。でも、葉月にとってはあの時全ての力をぶつけていた。
 純一だけじゃない。隼人にも。そして自分にも。
 ──そして何もかもなくなった気持ちで小笠原に帰った。
 無くなったのは、失ったのではなく、無に戻れたという意味。
 そしてそれは彼の愛を全て受け取ったという意味──。

 純一が口にした表現に則って、遠回しに『貴方の愛、全てを受け取った』と言ったつもりだった。
 さすがにちょっと、照れくさくなってきて、葉月はちらりと横目で純一を見る。
 あんなに『愛している』と、たったそれだけの言葉を何度も彼にぶつけたのに、何故だろう……。こんな遠回しでも『愛を……』と口にする方が照れくさいだなんて……。もしかすると『愛している』なんて、たった一言は簡単でいてそれで難しいのかも? 隼人と紡いだすべてをそこに凝縮させた結婚のように、そうでないのなら、目の前の人を結びつけるだけに囁いてしまう一言だったのだろうか? すくなくとも、昨年の葉月はそうだったのかもしれない。

 純一は、聞こえないふりをしているのか……。葉月が言った言葉は聞こえなかったように無関心な顔で空を眺めているだけだった。
 やがて、彼の長い指が黒いジャケットの胸ポケットへと伸びる。そこには煙草がある。それを義兄がつまみ出そうとしていたので、葉月はまた横からその手を叩いた。

「痛いだろ」
「禁煙!」
「どこにも書いていない。それに携帯灰皿を持っている」
「そういう問題じゃないでしょ! こんな綺麗な芝生の上で吸わないで」

 純一は渋い顔で『お前も吸っていたくせに、なにを』とぶつぶつと言いながら煙草をしまう。
 葉月は葉月で、『また話を濁したわね』とふてくされた。

「綺麗な芝か……」

 また純一は遠い目で芝の広場を眺めている。
 今日はちらほらと病棟患者も散歩に出てきていた。
 葉月も義兄と一緒の方向を、目を細めながら見つめる。今度の純一は遠い目でも、口元は穏やかに緩んでいたから……。

「覚えているの?」
「勿論。天使が居た場所だからな。むしろ、お前はここには二度と来たくないのではと……。この病院を選んだ時にそこは気になったもんだ」
「一度終わって、始まった場所だから」
「そうだな。そこには天使がいて、お前を進むべき道に導いてくれたのだろう」
「私もそう思う」

 義兄は葉月とまったく同じ事を考え、感じてくれていた。
 それだけ解れば、もうなにもかもが充分に満たされたような気にもなれて、葉月は微笑んでいた。

「……怖かったけれど。嫌な場所ではなかったわ」
「そうだな。ここは綺麗な、場所だ」

 お前にとって、ここは尊い場所になったのだ。──義兄の心からそんな声が聞こえてきそう。
 天使がいなくなったけれど、ここはまた彼が舞い降りてきてくれる場所のようにも思える。シャボン玉、みえないけれど、葉月の目にはいつでも綺麗に舞っている。儚く潰れて消えることなく、いつまでも七色に輝いているその姿は、まるで天使の羽のようだ。

 その時、この陽気な日和の中、突然に強い風が横から吹いてきた。
 日射しは暖かなものに変わっても、ひとたび強い風が吹けば、それはまだ冷たいものだった。
 その風が葉月の長い栗毛を横にさらい、そして膝にかけてあったタータンチェックのブランケットがふわりと飛んでしまった。それが純一の足下に落ちる。
 彼はベンチから腰をかがめて、それを拾い上げ立ち上がった。

「まだ風は冷たいな。帰るか……」

 義兄は車椅子に座っている葉月の目の前に跪き、丁寧な手つきでそのブランケットを膝に掛け直してくれる。
 葉月はその優しい大きな手を見つめていた。──その手が、どれだけこの傷ついた心と身体を存分に受け止めて慰めてくれ、癒してくれたことか。その手がなければ、今の葉月はなかったと自分で思う。
 葉月はそっと彼の手に自分の手を重ねる。

「兄様──」

 葉月の瞳、途端に熱くなったのが自分でも分かる。
 ずうっと前から、焦がれる思いで彼を見つめてきた視線を、今も……忘れずに、こんなに鮮やかに蘇らせてしまうほどに『覚えている』。
 だが、純一は目の前で真っ直ぐに熱く潤んでいるだろう義妹の瞳を見て、何かを感じ取ったのか、すっと手を除けようとした。だが、葉月はそれも許さず、ぎゅっと義兄の手を掴み、離さなかった。

「……葉月、離してくれ」
「いや」
「離してくれないと、立てないだろう。帰れないではないか」
「帰れなくても良いわ」
「いい加減に……」

 『しろ』と純一が呟いた時には、葉月はそのまま彼の首に掴まって抱きついていた。

「葉月……。お前……なにをしているか分かって……」
「分かっている。兄様に抱きついているのだって。いや、私、離さない」
「だから、そういうことは、俺には──」
「どうして? 私は大好きなお兄ちゃまを抱きしめているだけよ」
「葉月──!」

 戸惑っていた純一の声。彼はそれを振り払うように、葉月を力一杯に自分から引き離した。
 だけれど、葉月の目の前には純一の顔。髭のなくなったお兄ちゃまの顔。ずうっと昔から愛してき人の顔。
 葉月は躊躇わずに、そのまま目を閉じた。純一の息遣いが止まったのが分かる。
 二度とあってはいけない、義妹の求愛。そしてそれを二度と受け入れてはいけない義兄の想いが交差する。

 ──けれど、お兄ちゃま。そうじゃないの。

 葉月は目を閉じ、そこから天使がいる空から降り注ぐ光を感じながら、そっと艶めく唇を開き、小さく呟く。

 ──愛しているという言葉って、ただそれだけじゃないって。兄様が教えてくれたのよ。

 そのまま、純一の頬に唇を寄せた。
 彼がますます硬直したのが分かる。
 それにも構わずに、今度は純一の唇の端に軽く口づけを押す。
 そこでやっと純一の顔から離れる。

 義兄は少しばかり呆然とした顔で、葉月が軽く押した唇の端を指で確かめるように押さえていた。

「懐かしいでしょ。そこが私の場所だったものね」
「そ、そうだったか、な」

 忘れた振りしてとぼける兄様の顔。でも覚えているようで、葉月はちょっと笑ってしまった。
 義兄はいつも義妹の求愛を素直に受け入れてくれなかった。男女の交わりの際に高揚の波に押されて交わす口づけはしてくれても、愛の挨拶のような口づけは決してしてくれなかった。
 そして葉月も……。そんな兄と分かっていたから、強引に口づけをしてしまうと大好きな彼に逃げられてしまうような気がして、いつも彼の唇の端に小さく口づけてきた。義兄はアメリカ育ちの義妹の『単なる挨拶』にしか思っていなかっただろうが、葉月にとっては胸が張り裂けそうな思いでやっとしていた『小さな愛の挨拶』だったのだ。

 それは曖昧に『男女』と『義兄妹』の関係を彷徨っていた時のこと。
 昨年、彼が迎えに来てくれた後、二人はついにその一線を越え『男女』として愛し合った。その時、葉月の唇は迷うことなく純一を真っ直ぐに捕らえ、そして義兄も真っ直ぐに義妹である葉月の唇を、恋しい女を捕まえるように情熱的に愛してくれた。

 ……でも、葉月の唇はそこに戻る。
 そしてこれからも、葉月の義兄への口づけは、愛の挨拶はそこに交わされるだろう。

 目の前で、いつの間にか二人は静かに強く見つめ合っている。
 お互いの瞳の奥に、何にも囚われずに愛し合ったあの短い日々が蘇っているかのようだ。

 葉月はその黒曜石の瞳に、柔らかに微笑みながら告げる。

「義兄様、愛しているわ。そして、有難う」
「……急に、どうした」
「もう一度、言っておきたかったから。最後に真っ正面から言わせてもらえなかったから。……そして、生きているから」
「葉月」

 何故か、熱い涙が急にこぼれてきた。
 ──生きているから。
 その一言に、珍しく純一の顔が泣きそうに崩れていく。だが彼特有の意地っ張りで、唇を噛みしめ堪えている。その顔も良く知っている。その顔も愛してきた。
 でも、その愛しているはこれが精一杯だった。

 愛してくれて、有難う。
 私をここまで導いてくれて、有難う。
 この人にはそれだけはしっかりと言っておかなくてはならない。
 愛しているも、有難うも別れの前に言ってはいたけれど、でも最後は義兄の勝手で眠らされることで別れてしまったから。別れの言葉を言わせてもらえなかった。
 あの時、葉月が決めていた別れの言葉。それが今言った言葉だった。
 結婚したから言えた言葉じゃない。あの時も今も、それが彼に言える言葉。
 危うく命を落としそうになって、二度と言えなくなるところだった。
 だから、今! 生きている今だから、言っておきたい。

 気がつくと、純一に抱きしめられていた。
 暖かくて、大きくて。憧れていた胸の中に。
 それはいつまで経っても変わらないものだったと知って、葉月はまた泣いていた。

 そして彼を抱き返す。

『義兄様、私がついているわ。今度は私が兄様を守ってあげたい』

 まだ言えない。けど……言わねばならぬことがある。
 貴方の哀しみを、今度は私が抱きしめたい。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 昼下がり──。庭先には花が、そして小径には春の草花がささやかながら微笑み始めている。
 それは花だけではなく、庭の向こうで息子と一緒に笑っている義妹も……。

『しっかり! 葉月ちゃん、頑張れ!』
『お嬢様、ゆっくり、ゆっくりですよ』

 車椅子に乗っている栗毛の義妹は、『旦那さんが帰ってくるまでに立てるようになるのだ』と本気のようだ。医師でもあるエドを付き添いに、そして側で甥っ子である真一が声援を送っていた。
 彼女の母親は『無茶だ』と言い、彼女の父親は『無理しないように』と言い、そして義兄である純一は『やってみればいい』と言った。
 当然、義妹は誰の言い分も聞かない。彼女は言いだしたら結構、突き進んでしまう。それが『御園の女故か』と、幼少の頃から『彼女達』と関わってきた一人として思ってしまうのだ。

 エドの手添えで、ゆっくりと腰を浮かす義妹。

「ああ、見ていられないわ。もう、純ちゃんなんとかならないの? 何故、止めてくれなかったの?」
「あはは。おばさん。誰が言っても駄目だって解っているくせに。俺なんかじゃ駄目だよ。そうだなあ、隼人が言えば、あるいは?」
「そうだけれど……。これじゃあ、隼人君が帰ってくるまでに、あの子、また無茶して倒れてしまうかも知れないわ!」

 登貴子はそれでも、娘を手放したのだという心構えは変えないつもりのようだ。
 遠くからはらはらした顔をしているだけで、駆けつけて止めようとはしない。
 以前なら、目の前で娘がそうしているなら止めに入っていたはずなのだが……。

 この義理の母になるはずだった女性も、立場は嫁だがすっかり『御園の女』でありながらも、娘のことになると母親一筋、いつだって心配をしている。
 それ故に、純一は娘の為だと時には警戒され、時にはとても頼られ……。だが最後には信頼してもらっていた。長年、この一家と寄り添ってきた。それこそ生まれた時からだ。気がつけば、少し離れている隣家であった御園家の右京といつも一緒にいた。今は、正式ではないが真一がいる為『婿』のように接してもらっている。

『おしい! 葉月ちゃん』
『お嬢様、胸が痛むでしょう。今日はこの辺で……』
『そ、そうね』

「はあ、やっと諦めたようね。純ちゃん、お願いね」

 急に始めたリハビリを、葉月がやっとやめたのでホッとしたようだ。
 登貴子はそのまま、そこにいなかったことにするかのように、娘が戻る前にリビングを出ていってしまった。

「お願いね、純ちゃん……か」

 純一はふと呟いていた。
 昔からそう言われてきた。どうしてか『頼むな、純』、『お願いね、純ちゃん』と。
 彼女を愛していることを見抜かれているかのように……。それはそれで純一としては任されて誇らしかったり、どこか腑に落ちなかったりしたものだ。

 昔からそうだ。谷村の家にいたときも『頼むな、純一』に『お願いね、お兄ちゃん』だった。
 むしろ、そう言われ続けてきた長男の心に遠慮をしていたのは弟の真だったか。

『兄ちゃん、俺、我慢できるよ』

 体が弱い分、両親の気は弟に向くことが多かった。だけれど純一はそんなことは弟が生まれた頃から、彼の身体が弱くなくて丈夫であっても同じ事だったと思っているし、当たり前のことだった。

『お前はなにも気にしなくていいんだぞ』

 その度に、弟は申し訳なさそうな顔をする。
 そしてまさか──。弟と一人の女性を挟んでその思いをお互いに黙って推し量るような日々を送るようになるとは。
 弟の頑固で純粋で真っ直ぐで……それでいて強い強い想いを知っていた。純一が御園の女に敬意を持ちながら、ただそれだけのことだと思いながらも、『皐月』という幼馴染みの彼女を『美しい尊い女性だ』と自覚する前から、『弟は皐月だけを深く愛している』ことを先に知っていた。
 だが、その女性が一心に見つめていたのは『兄』の方だった。
 純一が自覚するずっと前から、『弟は彼女を愛している』という事実の方がずっと純一を占めてきた。それしかなかった。それが事実だった。

『真お兄ちゃまは、きっと皐月お姉ちゃまの事が大好きなのよね』

 ある日突然、純一の傍にいた『チビ姫』が大人の口振りでそう言ったのには驚いた。
 彼女はいつも無愛想に突き返す純一よりも、穏和に接してくれる真が好きだ好きだと言っていた。時には『真兄ちゃまのお嫁さんになる』と大人達に言って驚かせていた。だけれど──どうしてか小さな彼女は、気がつけば純一の傍にいる。そしてこんな生意気を言って、驚かせてくれた。

『でも、姉様はね。もっともっと好きな人がいるみたい。誰なのかしら? ね。お兄ちゃま』
『知るか。馬鹿者』
『どうなっちゃうの?』

 どうなっちゃうの? の一言には、流石の純一も閉口してしまい、最後には笑い出してしまったくらいで……。
 そうして小さな義妹は、いつだってこの偏屈な義兄を癒してくれてきた。
 その時から、このチビ姫が大人になったらどうなるのかという心が芽生えていたと思う。

 そんな考え事──。
 どうしたのか……。近頃、あまり思い出したくなかった『鎌倉の日々』が妙に鮮明に蘇る。
 ふと気がつくと、珈琲の香り。目の前に白いデミタスカップがある。

「よろしかったらどうぞ。エスプレッソです」

 ジュールだった。彼がにこりともしない冷たい顔でカップを差し出している。
 なにを拗ねているのだ……と、長年家族同様に過ごしてきた兄貴分としては、そう感じた。
 カップを受け取りながら、純一は尋ねる。

「なんだ。お前も拗ねているのか?」
「なんのことですか」
「葉月と二人だけのところを、俺が邪魔をしたから。葉月にも『空気を読め』と散々言われたぞ。だけれど、『あれ』は『二人だけのところを見られて、照れて去っていた』という事は、お前の名誉を守るために言わなかったからな」
「だから、なにを照れていたのですか」

 あくまで白を切るつもりの可愛くない弟分に、純一はチッと小さく舌打ちをする。

「なんでかな。俺には可愛くない弟ばかり増える」
「貴方が意地悪なお兄さんだからでしょう」

 ……顔をしかめる。なんだかその通りのような気もしてきた。

 純一は縁側に腰をかけて、義妹と息子の楽しそうな姿を眺めていたのだが、ジュールもそこの窓枠に背をもたれ小さなカップの一服を始めた。
 彼も向こうの嬢様と坊ちゃんの楽しそうな情景に目を細めていた。

「貴方も、もっと肩の力を抜いたお兄様でいられたらいいですね」
「どうかな。自分がどんなもんだか良く知らないからな」
「皆、そうですよ。でも……近頃の貴方は幸せそうだ」

 その一言に、純一は表情を固める。
 そしてそうなのだろうか? と、自分の頬をぺちりと軽く叩いてみた。

「お気づきじゃないのなら、私が教えて差し上げますよ。貴方、すっごく幸せそうな顔で、義妹様と真一様を眺めていましたよ。貴方の幸せも、そこにあったようですね……。それとも? 義妹様の『愛』に気がつきましたか?」

 なんだか勝ち誇った顔で、座っているこちらを見下ろしているジュール。
 それにも純一は表情を固め、もう一度、今度は反対側の頬を叩いてみた。

 『愛』か……?
 そうかもしれない。
 『義兄様、愛しているわ。そして、有難う』
 たったあれだけで、俺は幸せを感じているのかと。

 弟分に『お前はあの時、照れていた、照れていた』とからかい楽しもうとしていたのに、返り討ちにあっていた。
 もしかすると今の純一は、ちょっとばかり頬を染めているのか? 妙に顔が耳が熱い。
 またどれだけの優越感を誇る顔で弟分が見下ろしていることかと、彼をちらりと見ようとしたのだが……。予想とは反する、真顔で純一を見下ろしていた。

「頼まれていましたレストランの予約、ランチでしておきましたから」
「そうか」
「三人分です」
「三人?」
「お嬢様からそう頼まれたのです。真一様も一緒に、三人で出かけたいからと」
「なるほど……」
「なるほど、なんてのんきに言っている場合ですか? 近頃の貴方達父子を案じてくれている変わらぬお嬢様のお気遣いですよ。お嬢様から言われるかと思いますが、貴方から真一様を誘ってあげてくださいね」

 また、義妹にそこまで心配をさせていたかと心では心苦しく思いながらも、顔では何も感じてない顔を見せる。
 勿論、金髪の弟分はいつものことでありながら呆れた顔をしていた。

「兄貴、貴方、本当に葉月様に愛されていますよ。それだけは、忘れないでください。『なにがあっても』、後戻りだけはしないで欲しい。俺はもう、貴方の後戻りには付き合いませんからね」

 何故か彼はとても怖い顔で純一に釘をさしてきた。
 なんの釘さしか解らない純一が首を傾げ『なんのことだ』と問う前に、ジュールはさっと身を翻しキッチンへと戻っていってしまった。

 ──『何があっても』

 妙にそこを強調しているように思えたのだが……。

「兄様、みてくれた?」

 葉月が真一が押す車椅子で、笑顔で戻ってきた。
 息子はまだぎこちない態度だが、間にいる若叔母が兄様、兄様と華やぐ笑顔を見せていると、自然と彼も表情をほころばせている。
 彼女は──『俺達』にとっては、そんな大切な女性、そして、家族だ。

「ああ、見ていた。土曜日までに立てたら、きっと隼人が喜ぶな」

 花嫁になってしまった妹が、幸せそうに微笑む。
 今、彼女の心に真っ白な男が現れたことだろう。
 その男性の為に煌めく瞳で生き始めた彼女、義妹。

 それでいい……。
 お前が幸せなら、それだけでいい。

 その夜、ジュールに言われたとおりに義妹が『三人ででかけたい』と純一に言い、そして『パパから誘ってあげてね』とも言われた。
 真一もなんとなく若叔母の気遣いを察していたのか。『葉月と三人で出かけよう』と誘うと、こっくりと素直に頷いてくれた。
 その息子が言った。

「初めてだね。葉月ちゃんと三人で出かけるなんて……。葉月ちゃん、ずっと前からそうしたかったんじゃないかな」

 息子がそう言い、純一も頷いていた。
 そしてその向こうに『俺もずうっと前からそうしたかったんだ』と言っているようにも聞こえた。

 そうしよう、せっかく一緒にいるのだから。
 大事な人が生きているのだから。

 純一がそう言うと、息子が久しぶりに嬉しそうに笑ってくれた。
 明日は、三人で出かけることになる。

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