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9.空軍夫妻

 静かに待っていると、隼人がジュールを連れだって部屋に戻ってきた。

「お目覚めでしたか。本日はお疲れのようでしたね」

 いつもの穏和な様子でジュールが微笑みかけてくる。
 葉月も『そうね。でもだいぶ休めた』と微笑み返すと、ジュールがホッとしたようにベッドへと寄ってきてくれた。

 彼の小脇には、封筒。
 それを見て、葉月は『やはり調査は終わっていたのだ』と悟ったし、悟ったこともジュールにしっかり見抜かれていた。
 そんな彼が、その封筒を葉月の前にあるベッドテーブルに置いた。

「ご報告が遅れたこと、お詫び致します」

 彼が丁寧に頭を下げる。
 だけれど、それを聞いて葉月は気がついた。

「もしかして、私達の結婚が終わってからと時期を待っていてくれたの?」
「勝手ながら。その方が中身を知るには宜しいかと思いました。申し訳ありません──」

 葉月は一時、黙ったが……。でも次には彼に笑っていた。

「気遣ってくれたのね、有り難う。貴方がそう判断したなら、きっとそれは適切だと思うわ」
「いえ、本当に勝手ながらの判断とさせて頂きましたので」

 知れば知るほど、心穏やかではなくなることが多いのだろう。
 それを抱えたまま婚姻を迎えるよりかは、待てることなら後で知っても遅くはない──。調べた結果内容を見て、彼がそう判断していたのだろう。

「では、早速ですが──」

 ジュールが封筒を再び手にして、中身にある調査書のような書類束を取り出し、葉月の前に広げた。
 幾つかの写真入りのページに、細かい文章が並んでいるページ。だけれどその調書は、薄っぺらいものだった。

「当然のことながら、ボスと同僚であった時の過去しか足がつきませんでした。申し訳ありません」
「いいわ。それでも、ちょっとでも分かれば……」

 葉月が覗き込む時には、隣には隼人も寄り添ってくれていて、彼も一緒に覗き込んでいた。
 ジュールの報告が始まる。

「彼の名は瀬川アルド。南米系のハーフです。父親が日本人、母親が南米人のようですが、幼い頃から母親は日本で暮らしていたようですね。国はブラジルです。ボスの職場では『アル』という愛称で呼ばれていたようです」

 幽霊の名は『アル』。
 葉月はそこにある純一が持っていなかった写真なども載せられているページを見つめ、あの特徴的な眼の色で『確かにこの男だ』と頷いた。

「兄様は、姉様と同じ大尉で本部員だったのよね」
「はい。葉月様と同じようにフロリダの特別校を出て、ボスも将来有望視されていた逸材として、横須賀一番の本部にて若きエリートの仲間でした」
「この『アル』は……この男は、その義兄様の先輩だったと言うことは、同じ本部で」
「ええ。歳はボスより五つほど歳上だったようです。彼はもっと『有望視』されていたエリートの筆頭だったようですよ」

 それを聞いて、葉月は息が止まるほど驚いた。

「有望だったのに──?」

 何故、あのような事に手を染め、尚かつ、消息を絶ったのか……。
 いや消息を絶ったのは当然か? 犯行を隠し通せないと思って、軍を辞めたのか……。
 葉月がそう思っていたと同時にジュールが察したように答えてくれる。

「事件後。皐月様殺害後ですね──。暫くは軍に在籍しております。皐月様が証拠を残さずに亡くなられたので、捜査は難航。現在は迷宮入り事件扱いですね。それだけ足がつかなかったせいか、暫くは落ち着いて軍で素知らぬ顔をしていたことでしょう……」

 ボスの目の前で……。
 ジュールのそんな声が聞こえてきそう。
 葉月もそう思って、唇を噛みしめる。

「皐月様、殺害後の三ヶ月。この時に軍を退官しています。軍側は惜しみ、何度も引き留めたようなのですが、本人の意志が強く、彼から気強く軍から消えていったようですね」
「その時は、義兄様はもう──鎌倉を出てしまっていたのね」
「はい。きっと『幽霊』に惜しまれながら……ボスは何も知らずに見送られていたことでしょうね」

 『なんて奴だ』──側にいた隼人が舌打ちをした。
 それは表情も変えないジュールも同じ気持ちなのか『まったくですね』と共に頷いていた。

 葉月も溜息をつきながら、その報告書にある若い幽霊の顔を見つめる。
 確かに。十歳の時に見た男の顔だ。でも、写真の顔は全然、『あの時の顔』ではなかった。この顔なら『好青年』だ。
 どちらが彼の正体か? 無論、葉月の答は『悪魔の顔』をした男の方にしか思えない。好青年の顔は、彼の仮の姿に違いない。この顔が『作り物』だなんて、大した物だ。本当ならば何処か、目元や口元に『邪気』を微かに漂わせそうなところを、まったく物の見事に好印象の美男子顔なのだから──。

 しかし、若し頃の彼の素顔を見る限り、あの『変えた顔』になったのは勿体ない気がするほどの男っぷりだった。

「目は変えていなかったわ」

 急にそんなことを言いだした葉月を、隼人とジュールが揃って目線をこちらに向けてきた。

「葉月? それはその男の『今の顔』のことか?」
「そうよ。目は変わっていなかったから刺された時、間近で見て思い出したのね。火山村の時は、彼を見ていたつもりはなかったんだけれども、頭痛がしたと言うことはなにか引っかかったのね。きっとあの男の方が、私が突然現れて、驚いて見ていたのかも知れないわ──」

 隼人と葉月のその話に、ジュールがジャケットの内ポケットからハンドタイプの手帳を取り出し、メモを始める。

「今の顔も、お嬢様だけが知るところですね。今度は写真もない。どのような印象でしたか?」

 葉月は参考にするのだろうと思い、次はジュールに向けて言う。

「こんな美男ではなかったわ。どちらかというと厳つい……。そうね頬骨が張って、輪郭が変わっていたわ。そして白髪が多かった。これはたぶん、年のせいなのかしら……。兄様より五つ年上ならまだ四十代なのだろうけれど」
「頬骨が張って、輪郭が変わっていた。目は変わらず」

 そうしてジュールがこまめにメモを取る中、葉月は中断した報告の先を、ページをめくって先に見ていたのだが……そこに気になることが記されている。

「……あの男に恋人がいたの?」

 メモを取っていたジュールの手元が止まる。

「おそらく──。なのですが……」

 葉月はジュールが説明する前に、そこにある文章をずらずらっと一読みして驚いた。

「その女性が『もし』恋人であったらなら、娘がいて……さらに母子で室蘭に住んでいたですって?」

 ジュールは『おそらく』と言い、母子が幽霊と関係あるかどうか断定は避けているが、葉月があの男と再会したのは、室蘭市と目と鼻の先になる洞爺湖だ。こんなことが偶然であるだろうか?
 と、なると断定は出来ずとも、その母子は……。

「その母親が、身ごもった子供が『幽霊の子』であるならば……。の場合ですが。調べた部員も気になったようなので、その女性を追うと、その妊娠を機に関東から室蘭へと移っていますね。彼女の生まれ故郷で実家があったのだそうです。そして彼女は一人で子供を産み、実家で育てていたようですが、両親は若い内に他界し、その後は産み落とした娘を女手ひとつで育てたようですね。つまり、『未婚の母』です」

 『未婚の母』──。
 思わぬ人物の登場に、葉月は息を呑んだ。
 もし? もしだ。その娘が本当に幽霊の娘であるならば──?

 葉月は、ジュールが持ってきた報告書を、ばさっと手で払いのけ床に落としてしまった。
 それに驚いて隼人が立ち上がり、そしてジュールも手帳を閉じ、すぐに拾い上げたが……もう、葉月の目の前には置き直さなかった。

「今更、娘がいるだなんて……」
「そうですね。ただ、これが事実かも知れないと思い、報告させて頂きました。それにこの母子が幽霊と血縁であるかはまだ判明しておりません。そこは今、調べております」

 でも、葉月の中に今は分類の仕様のない、初めて感じる気持ちが渦巻いていた。
 ただ、葉月の心は一言だけ『今更、ひどい』とだけ叫んでいる。
 容赦なく叩きのめしてやりたい男に、娘がいるだなんて認めたくない気持ちと、その娘がどのように今も生きているのか──。今はそれぐらいの気持ちしか浮かばないのだが、それがどうにも『ひどい』の一言しか出てこない状態だ。

「お嬢様。もうひとつ、私だけが見通したことがありまして……」

 葉月はもう、それ以上のことは考えられそうになく黙り込んでしまったのだが、嘆く妻の肩を労り抱いている隼人が代わって『なんだろう』とジュールに応えていた。

「隼人様からお聞きしたと思いますが、一昨夜の襲撃、矢を放ったのは『若い女性』でしたね」

 ジュールのその一言を聞いて、葉月はもう彼が『見通した事』がどのようなことであるのか分かってしまい、分かったからこそ驚いて彼を見上げた。

「私が思うに……。その女性はこの『娘』だったと思うのですよ」
「きっと、そうだわ。そうでなければ、若い女性に狙われる訳がないもの!」

 そしてジュールは、葉月に向けて指を一本立てて見せ、『さらに』ともう一点気になることを言い出した。

「お嬢様。今回の『室蘭の娘』がいることを調べられたのも、お嬢様と隼人様だけが『幽霊がボスと同僚だった』事を知り、『このジュールだけ』にご報告くださったからです。ボスも右京様もまだ知らない。ところがですね。今度は右京様が気になる情報を持ち帰ってきたのですよ」

 二人揃って『どのような情報なのだろう』と首を傾げると、ジュールは少しばかり緊張した面もちで続ける。

「右京様が何故、音信不通にするほどに必死になって調査をしていたかというと。実はゴーストを追っている内に『室蘭地域』で、奴に『女房がいる』という情報を掴んだからなのだそうです」
「……女房? それじゃあ、娘の他に、彼女の母親ではない連れ合いがいるって事なの?」

 あの幽霊が、家族らしいものを持っているだなんて──これまた葉月には意外だった。
 絶対に一人きりで、義兄達を引っかき回しながら闇世界を横行していると思っていたのもだから。
 すると葉月は驚いたが、横にいる隼人がハッとした顔をした。

「もしかして……ジュール? その右京さんが追っていた『室蘭で拾った情報から出てきた女房』は……イコール、という考え方もあるのだろうか?」
「隼人様、実は私も同様のことを思い浮かべましたよ。右京様が集めてきた情報では、その女房は奴と『親子ほど歳が離れた女房』として仲間内に知られているようでした。年頃が娘と一致しています」

 それが事実だとしても、何故? 『娘』が『妻』として人々の間では通しているのか?
 何故か判らないが、でも、葉月にはなんとなく──。

「娘がいるとなると、あのような世界では重荷なのかしら。純兄様だって、危ない仕事をしているから『家族』があること、息子がいることが判らないようにしてやってきたぐらいだもの」
「私も、そう思いました」

 ジュールも、すぐに思い浮かべたのは葉月とも同じ事だったようだ。
 しかし、それがすぐに思い浮かぶものとしても、葉月はそこも……複雑な心境になる。

「あのゴーストにも、娘への愛着、愛情があるってことなの?」

 そんなの……。やっぱり認めない!!
 彼も人の親としての心があるだなんて、絶対に嫌!!!

 葉月は頭を抱えて、うなだれてしまう。
 悪魔は人らしさなんて、持っていなくていいのだ!
 そう言い切れるのに、何故……ここで気持ちが揺れている?

 いつもの如く、表情を変えずに見守ってくれているジュールが、淡々と葉月の思う中に切り込んできた。

「お嬢様の思うところに反する事を言いますが、『ゴーストも人間』ということも事実、けれどそこを許してはいけない『悪魔』であることも事実」

 その言葉に、葉月は何故か大きなショックを受けた。
 けれどジュールはより一層、厳しい顔で葉月を見ている。

「そして葉月様。あの男を『彼も人間』、『やはり悪魔だ』と決めるのも貴女の気持ちひとつなのです。決めた気持ちには覚悟を持って向かって行って頂きたいと私は思いますし、葉月様が出された答なら、私──どちらの答を出されても、その答えについていく所存です」

 厳しく言い切った彼だけれど、最後にはどんな答を出しても葉月を信じるという言葉に……幾分か救われる。けれど『人か悪魔か』の新たなる選択には、今すぐには答は出せない……。いや、今までなら間違いなく『悪魔』でしかなかった。それなのに何故? 娘とか女房とか、彼に家族がいるかも知れないと思ったら、何故、こんなに気持ちが揺れるのか。

「有り難う、ジュール。暫く、彼女と考えるよ」

 心の中が一杯になり、大きく揺れている葉月の様子を悟ってくれたのか、隼人がそう言って、話を一端、終わらせようとした。
 ジュールとしては、まだ自分から報せたいことがあったようだが、溜息をひとつ──葉月の様子を見て、諦めたようだ。

「かしこまりました。少しばかり、偉そうなことを……申し訳ありません」

 ジュールの詫びに、葉月は慌てて首を振る。

「いいえ。本当の事──。自分ではいくらでも誤魔化してしまうから、現実から逃げてしまうだろうから。ちゃんと言ってくれて、良かったわ。有り難う」

 なんとか落ち着いて言うと、ジュールはホッと安心した笑顔を見せてくれ、葉月も安心をする。
 そうしてジュールは、報告書を再び葉月の目の前に置き、去っていった。

 

 部屋の中が静かになりはしたが、葉月の心の中にはやっと収めた『黒い大波』が押し寄せてこようとしていた。

 姉が殺害されていたことも、そして偶然にあの男と遭遇したことにより再度、ナイフが自分に振りかざされたことも──。
 もうジタバタせずに、自分の身に確実に起きたことなのだから、今度はきちんと正視し飲み込み、また危うい路線を儚げに歩くような『逃げ道』は選ぶまいと努めてきたつもりだ。
 それが……。思いも寄らない『幽霊の正体』に、葉月の身体は寒いのでもなく恐ろしいのでもなく、ただ押し寄せてくる黒い波の余波が身体を揺さぶり始める。その波の温度も真っ赤に焦がしそうな熱を生み出そうとしている。

「い、いや……。隼人さん、私を抱きしめていて!」
「葉月、どうした……? こんなに震えて」

 傍で寄り添っていてくれた彼が、強く抱きしめてくれる中、葉月はその胸にすがりつくように飛び込んだ。
 一時もすれば、その震えは収まる。彼の暖かさが、なだめてくれるように……。彼もどうして良いか解らない顔をしていても、ただそれだけしか出来ないとばかりに柔らかに、そしてしっかりと囲って抱き寄せてくれる。
 それだけしか出来ないもどかしい顔をしているけれど、本当に本当に葉月には『それだけで充分』。
 震えが収まり、葉月はそっと胸から彼の顔を見上げた。

「これで充分なの──。本当よ」

 もう大丈夫と、隼人の腕を解いて、しっかりしようと自分の力で起きあがったが、また隼人のその腕で、胸まで引き戻される。
 また彼の熱い胸に引き戻されてしまい、葉月はなんとか起立した心が甘く崩れそうになった。だが、隼人がぎゅっと抱きしめてくれたのは、ほんの一瞬で、次には葉月が離れたように、腕は解かれ離されていた。

 でも……。その最後の『ひと抱き』が、とても葉月の心にじんわりと染みいってくる。
 『本当はまだ足りないはず。もう少しだけ俺の力を分けてあげるよ』──そうしてくれた気がした。
 自分から頑張って出ていこうとする、立ち上がろうとする強さの向こうに、決して離れることのない、そして見捨てられることのない『大きな力』が備わった気がするほどに、最後の『ひと抱き』の力は心だけでなく、葉月の身体にもじんわりと力が湧いてくるような波を与えてくれた気がした。
 その彼が身体の外から送ってくれた波が、葉月の中でドス黒く湧き起こった余波を押しのけていく感触がある。
 それが柔らかくて、そして暖かい──。当然、震えはもうない。

 これが私の夫の力。
 葉月は体の中に送られた『力の波』が逃げていかないよう、そっと自分で自分を抱きしめた。

 そんな隼人はもう、真顔で他のことを考えている顔。
 眼鏡の横顔が、窓辺を見つめ、何かを思っている顔。
 久しぶりに何かを詰めているその顔は、夫というよりかは『中佐』に近い……。

 その隼人の横顔を見ていると、彼がふと何かを心に決めたように葉月のところに顔の向きを戻してきた。

「これは、今日はやめよう」

 ジュールが置いていった『調書』を、隼人がさっと葉月の前から除けてしまった。

「でも。私は受け止めていきたいから、逃げるだなんて」
「解っている。だけれど、今日はやめよう。まだ見えない男のことを、『一握りだけの情報』であれこれ考えても、想像しなくても良いことまで想像して、消耗するだけだ」

 それは、そうだけれど──と、葉月は口ごもる。
 確かに……。『これっぽっちの情報』で、この男は実はこんな人でこんな奴で、どれだけ悪くて、だけれど本当は何か訳があってとか……。事実とはまったくかけ離れたしなくてもよい想像をして、落ち込んだり嘆いたり、勝手に仕上げた人物像に憎しみをもったりしても、使わなくても良い思考力に気苦労を重ねるだけ。その間に心をすり減らしてしまっては、いざというときまでに、気力を浪費し衰えさせるばかりだと隼人は言いたいのだろう。

「気持ちを切り替えよう」

 何故か怖い顔をして、そう言う隼人の真顔に、葉月はただ頷くだけになってしまった。
 隼人は報告書を、葉月の手が届かない場所へとしまってしまう。
 そして、そのまま内線を手に取ると『彼女にお茶を』と依頼して、また葉月の側に戻ってきた。

 お茶で気分を変えるつもりなのだろうか。
 だが、葉月の側に戻ってきて、そこに再び腰をかけた隼人の顔は──もう、穏やかな夫の顔になっていた。

 その顔になんだか騙されているような気もしたが、悔しいぐらいにこちらの頬も緩んでしまう素敵な笑顔。
 その顔で隼人が言った。

「奥さん。そろそろ、俺と仕事に戻らないか?」
「え? 仕事って……?」
「決まっているじゃないか。『大佐室の仕事』だよ」

 まるで当たり前と言ったように、にっこりと言い除けた『旦那さんの顔』に、葉月は唖然としていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 目の前で彼女が唖然としている。
 それもそうだろう──。
 まだ胸の傷は生々しいままだし、彼女も自分の力では動き回れない状態。まさに『只今、療養中』なのだ。
 それで、どうやって? 部下を振り回していた『大佐嬢』に戻れと言うのか? そういう顔だった。

 だけれど、隼人は笑顔のまま葉月に言う。

「婚姻が無事に済んだら、復帰の話をしようとは思っていたんだ。それ以上に、現実的に『もう、休めない』だな」
「有給休暇、無くなってしまったのね……」

 隼人は『ああ』と素直に答えた。
 葉月は『傷病扱い』で何とかなっているのだが、隼人の方は完全に使える物をフルに使い果たした形になっている。

「どうだろう。俺は小笠原に帰るけれど、葉月はここで『通信』の形から復帰してみては」

 隼人がそう進めても、葉月はまだピンと来ないらしく決意どころか考える余裕もない様子のままだ。
 そんな時、この部屋のドアからノックの音──。頼んだ『お茶』が来たらしい。
 隼人が『どうぞ』と言うと、ドアがゆっくり開き……。なのにその影から、なかなかお茶を持ってきてくれただろう人が現れない。

「入って良いか?」
「義兄様──」
「純兄さん……」

 お茶を持ってきたのは、純一だった。
 彼は茶器が乗せられているトレイを軽々と片手に乗せ、そこで少しばかり入室を躊躇っている。
 新婚の二人の邪魔になると思って遠慮しているのか、はたまた、先日、この部屋で義妹の素肌を垣間見てしまうような場面に鉢合ってしまった為か──妙に遠慮しているのだ。

「義兄さん、有り難う。葉月にお茶を──と思って、俺が頼んだんだ」
「……らしいな。邪魔をする」

 妙にぎくしゃくしている純一に、流石の葉月も眉をひそめているのだが。
 葉月の前にやってきた純一は、それこそ彼女に仕えているお世話係のような手つきで、丁寧にお茶を差し出していたのだ。
 なんだか……笑ってはいけないが、隼人はそのらしくない彼の様子に笑ってしまいそうになって、堪えるのに困ってしまう。しかもその顔を純一に悟られ、少しばかり睨まれてしまった。

「なんだ、澤村──。何がおかしい」
「やだなあ。もう、澤村じゃないよ、義兄さん」

 隼人が間髪入れずに切り返すと、彼が『そうだった』と呟き、では『なんと呼ぼう?』と思っているような顔になり口ごもり始めた。
 そんな義兄の様子を目の前で見ていた葉月が、やっといつもの愛らしい微笑みを浮かべ、ついには笑い出していた。

「当分、無理そうね。純兄様、『隼人』とは呼びにくいのよね」
「うるさい。そのうちに慣れる」
「また、私のことを『オチビ』と済ませてしまうように、彼のことも『お前さん』で済まそうと思っているでしょう」

 葉月の生意気な切り返しに、ついに純一はふいっと顔を背けふてくされた顔に──。
 隼人は義妹にやられる純一を見て、ついに笑ってしまった。そして、そんな『義兄妹』を微笑ましく見守っている穏やかな自分がいる。

「あ。これ、ジュールが入れたお茶じゃないわね」
「俺が入れたんだ」
「美味しいけど。やっぱり、ジュールのお茶が一番ね」
「なんだとぉ?」

 純一が持ってきたお茶を味わい始めた葉月が、これまた義兄を相手にそんな生意気を叩いている。
 今度の隼人は、ちょっぴり苦笑い。
 でも……葉月は、先ほど囚われていた事から、完全に解放されたようだ。

 そして──。隼人は微笑ましい触れあいを、日常という身近な日々の中で取り戻している二人に目を細めつつ、今、自分の中にあることを二人に告げることにする。

「純兄さん。俺、直に小笠原に帰ろうと思っているんだ。仕事に復帰する」

 義兄妹が穏やかに触れあっている空気を乱すほどの、隼人の真顔の知らせ。
 復帰話が途中で止まっていた葉月はおろか、初めて耳にした純一も驚いた顔をしていた。

「しかし……。まだ葉月はこんな状態ではないか。それにお前達、結婚したばかりなんだぞ。もうすこし……」
「義兄さん。現実的にもう復帰しないと駄目なんだ。それに、俺は御園の男として今ある大きな問題から逃げるつもりもないし、妻を誰よりも守ろうと思っている。けれど……俺には『大佐嬢』も妻の中に確実に存在している大切なことのひとつなんだ。損失した時間を埋めて、それを迎え入れる復帰の準備をしてあげたい。それは『俺』じゃないと出来ないだろう?」

 言い切った隼人を見て、純一が絶句? そして葉月はまたもや唖然とした顔をして……。それこそ『あ、その反応は兄妹ぽい』と思ってしまいたくなるほどに、隼人の『次なるステップ』──『小笠原復帰』への熱意と、それを聞き届けた義兄妹との間に『温度差』があることを感じてしまった。
 それを純一が呆けた顔で、一言、隼人に言った。

「お前さんは、本当に『熱い男』だなあ。チビが惚れたはずだ」

 隼人は驚いて身体中の体温が上がりそうになったのに、その前に目の前の葉月がかあっと頬を染め、耳まで真っ赤にしているではないか。
 先に、そこまで赤くなられると、隼人の方が体温が落ち着いてしまった。

「現実的に……。そうだな。ロイが連隊長として免除してくれるのも、そろそろ限界だろう。リッキーが四中隊の監督をしてくれているようだが、これも限度があるだろうしな。そうだな、完全復帰でなくても、顔見せだけすれば……」
「いいや。『完全復帰』が目標だ!」

 また熱く言い切った隼人に、今度こそ、純一が面食らい黙り込んでしまった。
 そして隼人はさらに突き進む。

「純義兄さんなら、『仕事』がどういうものか、一番に理解してくれると思ったけれどな」
「まあ、そうだとは思うが……」
「平日は小笠原で元通りの勤務をして、週末はこっちに帰ってくる。こんな状態だけれど、それだけでこの家に何ヶ月も二人で籠もっていてもどうかと思う」

 すると、義兄と向き合ってやり取りをしているのを、黙ってみているだけの葉月が、そこで初めてビクッと反応したのを隼人は目に留めた。
 それを解りつつも、隼人はまだ純一に向かった。

「義兄さんも、内心ではこう思っているだろう? 『幽霊はすぐには見つけられない』と。葉月がこの家でもう暫く、安静に療養するのは当然としても、一家の事情が片づくまでこの家に皆で固まっているのはどうかと思っているんだけれど。そこは、どうかな?」

 そこで隼人は自分の意見を言い終わり、潮が引くように静かに口を閉じた。
 純一はそこで大きな一息をついて、暫く、考えているようだが……。

 男二人の間は静かになった。だが、まだお互いの思うところに折り合いを付けようとする異なる心の波長が絡み合っている感覚が漂っている『沈黙の間』は続いていた。

「私、やるわ」

 その沈黙の間を先に破ったのは、どちらの男でもなく、間にいた葉月だった。
 ゴーストに囚われていた妻が、少しだけ黒い糸が緩んで息をしたような気がして、隼人はホッとする。
 そしてそれは、心配はしている様子だった純一も同じような微笑みを浮かべていた。だが、やがてその微笑みは、少しばかり寂しそうな緩い笑顔に変わっていた。

「参ったな。お前達は、強いのだな……」

 静かに呟いた彼は、先ほどから小脇に挟んでいた黒い紙袋を葉月の目前に置いた。

「遅くなったが、俺からの『結婚祝い』だ。気に入ってくれたなら、二人で使ってくれ」

 それだけ言うと、純一は部屋を出ていこうとしていた。
 ドアを開けた時、彼は肩越しに振り向いて二人に言う。

「そうと決まれば、葉月がそこで大佐室と連携できるような準備を、手伝わせてもらおう。ジュールに言えば、直ぐに通信システムを確立してくれるだろう」

「義兄様、有り難う」
「義兄さん……有り難う。お願い致します」

 ドアが静かに閉まる音──。
 葉月は思うところがある顔で、暫く、義兄が出ていったドアを見つめたまま。だが、隼人はそれを見て見ぬ振りをした。そしてそれに対しての感情もない。

「なんだろう。義兄さんのお祝い」

 隼人が見つめていると、葉月がやっと手にして開け始める。
 中から白い包装紙でくるまれている箱が出てきた。葉月がその包装紙を解くと、今度は黒い箱。なにかの宝飾品が入っているような重厚そうな箱だった。
 その箱を、葉月がそっとあけると……。中からは腕時計が二つ。

「ペアウォッチだわ」
「本当だ。でも文字盤は色違いになっているな」

 女性用であろう一回り小さい時計は、白い文字盤。男性用は、黒い文字盤だった。
 お互いにそれぞれに贈られた腕時計を手に取ってみる。
 その時、隼人はあることに気がついた。その時計が『空軍仕様』の物だったのだ。葉月にそれを言おうとしたのだが、既に気がついているようだった。

「こういう時計のレディスは……ほとんど無いと思うわ」
「じゃあ。特別に……? 造ってくれたか、探してくれたと言うことだろうか?」

 もしそうであるならば……。結婚した義妹とその相手が『空軍夫妻』になることを思って、義兄はこれを選んでくれたのだろうか?
 隼人には、そう思えた。そしてその願いには『もう一度、飛べるように』と、ラストフライトをやり遂げられるようにと、義妹を応援してくれているかのようにも思えたのだ。

「純……兄様……」

 その時計を握りしめ、葉月は泣き出していた。
 見るからに、その茶色い瞳からこぼれ落ちた涙は大粒で、そして……熱そうだった。
 義兄のやまぬ想いにどうしようもないぐらいに、胸に熱く迫っているだろうその想い。

 もう、隼人はそれをただ黙って見ていられる。
 そしてもう、彼女と同じようにその義兄のやまぬ想いに、隼人の胸も熱くなってしまうのだ。

 白い時計を握りしめている葉月の手を、隼人は握りしめる。

「必ず、飛ぼう。そして、お前は海空軍の道を、これからも歩んでいくんだ」
「ええ、そうね……そうだわ」

 葉月が握りしめている時計の白い文字盤に、ぽつりと涙が一粒。
 それをネグリジェの袖で、葉月は慌てて拭き取り、その時計を大切に両手で包んで、頬に寄せていた。
 その姿がまた──。その時計は義兄の心のように、大切に包み込んでいるように見えた。

 他の男の想いに、心を寄せている妻のその『微笑み』。

 こう言うと、妻が他の男に寄せる想いを垣間見てしまった夫の気持ちとしては可笑しいのかも知れない。
 でも、そんな彼女の微笑む顔は、とても綺麗だった。
 その顔は、結婚したからとて決して『俺の物』でもないのだし、そして『義兄の物』でもない。彼女だけの物。
 彼女という女性だからこその『愛』。その純粋な煌めきに心を熱くし、そして慈しむ姿。だから美しいのだと、隼人は微笑む。
 今、俺の妻は、愛の中で生きている──。
 あの凍れる横顔ばかり見せていたお嬢さんだった妻が──。生きるという心を取り戻し、そして素直に愛に触れる姿がそこにあるならば──。隼人という夫は、今度はそんな彼女を慈しみ、見つめていきたいと思う。形なんか、状態なんかどうだって良い。彼女が愛に触れて心を温めていけるなら、それで。

 そして、隼人も早速──。今している腕時計を外し、黒い時計を腕に巻いた。
 ずっしりと重いその時計に、彼の想いと妻となった彼女の想い、長い軌跡を辿ってきた二人の尊い想いを腕に巻くことを許された気にもなったし、自分で受け止められた気もした。どちらにしても、隼人はこの二人の気持ちは今となっては『あって欲しい』とも思える、そして見守っていたい物になった気がしたのだ。

 だから、隼人は葉月に言う。

「葉月。幽霊のこと、早く義兄さんに言った方が良いと思う」
「……解っているわ」
「今の状態では、ジュールが間に挟まれている負担も大きいし、兄貴側とチビ側で持っているそれぞれの情報がバラバラで、ちっともひとつにまとまっちゃいないんだ。純兄さんも、ずうっとお前のこと避けているのは、お前が今、感じている気持ちとまったく同じで、躊躇っているだけなんだと思う」

 姉の死を見届けた義兄が、閉ざしている事実と。
 義兄達が追い続けてきたゴーストの姿を知ってしまった義妹が持っている事実。
 まだ一家は、少しもまとまっていなかった。

 ひとつの事件で、この家族の誰もが傷を負った。
 その家族がそれぞれに刻み込んでしまった傷口に、お互いがなるべく触れまいとしている為に、ちっとも情報がひとつにまとまらないことに隼人も気がついたのだ。
 おそらく……。一番、歯がゆく思っているのは、双方の情報を知らされたジュールだろう。
 その為にもと、隼人は再び妻の手を握りしめ、彼女の顔をしっかりと見つめる。
 葉月も、そんな夫の真剣な眼差しに気がついて、涙に濡れている瞳をちらりと向けてくれた。

「やはり、お前と義兄さんには、まだ向き合う時間が必要だと思う」

 そう言うと葉月がとても驚いた顔を見せる。
 隼人は言葉にはしなかったが、葉月には夫の心の声が聞こえているかのような顔をしている。
 ──『俺が小笠原にいる間、ゆっくりと向き合ったらいい』。
 葉月が意識を戻してからも、この家に来てからも。純一は隼人に遠慮しているせいもあるだろうし、そして皐月の事を葉月にどう言えば良いのか躊躇っているせいもあったのだろう。とにかく、仕事、用事と繰り返しては、葉月とは最低限の会話しかしていなかった。
 だったら隼人がいなくなれば素直になるだろうという問題でもないのは分かっているのだが、少しは違う気がするのだ。

「貴方……。私……」

 妻のその顔は『有り難う』と言いたそうな、泣き顔に崩れている。
 でも、その一言を言えば、夫ではない『ずっと愛していた男』と、もう一度向き合う時間を許して欲しいと願っていることを認めることになるから言えないと言った様子だった。

 だが、隼人はそんな妻に微笑む。

「お前が選ぶことを、俺はずうっと見守っていきたい」

 そして隼人は『辛いだろうけれど、頑張れ』と激励した。
 彼女が酷な事実を義兄に告げるのは辛そうだからと、隼人から義兄に言うのではなく、これは事件を共に体験した家族である彼女が義妹として言うべき事だと思っている。
 葉月は覚悟を決めたようで、こっくりと頷いてくれた。
 すると葉月は途端に『ベッドを下りたい』と言い出した。

 時計の礼を義兄に言いに行くのだろうかと思いながら、彼女の腕を肩に乗せ、そっと脇を柔らかに抱きかかえる。葉月はふらつきながら、力無いつま先を震わせながらも、隼人の力添えでベッドの側に立ち上がった。

「一階に行くなら、車椅子に乗るだろう?」

 立ち上がった妻の身体を支えながら、そこにある車椅子へ向かう手助けをしようとしたのだが──。

「違うわ。私が行きたかったのは、ここよ──」

 葉月がそう言った瞬間、隼人の鼻先を柔らかい栗毛がくすぐっていた。
 鼻先には、花の匂い。隼人だけが知っている妻の甘い匂いが漂い、彼女に抱きつかれていた。
 妻の両腕がぎゅっと柔らかに、隼人の腰を抱きしめると、身体全体が彼女の優しさに包まれ、とろけてしまいそうになった程の……。

「葉月──」
「貴方。愛しているわ」

 前だったら、義兄と自分の間で揺れる気持ちを誤魔化しているのではないかと感じていたかもしれないウサギの『愛している』。
 でも、今の隼人は違う。
 隼人もそっと微笑み、彼女の栗毛の中に鼻先を埋める。
 その妻の花の匂いを胸一杯に吸い込みながら、自分も彼女を柔らかに抱き返していた。

「奥さんからそう言ってもらえるだなんて、嬉しい一言だね」

 そっと覗き込むと、彼女は愛らしく微笑んでいた。
 間違いなく、妻の笑顔はそこに──。隼人の腕の中にある。
 これだけは、隼人だけの物かも知れないと思えた瞬間だった。 

 その後すぐに重なり合った唇を絡め合い、二人はちっとも離そうとせずに、熱いままに愛し合っていた。

 

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