-- A to Z;ero -- * 春は来ない *

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11.一生、迷惑

 残念なことに、その日は雨だった。
 だけれど、その部屋に入って隼人が直ぐに開けてくれた窓からは、雨に濡れた森に来たような匂いが葉月の鼻を掠めたのだ。

 枯れ草と、土と、緑の匂い。
 とても落ち着いた。
 そして静かな雨の音──。

「お嬢様、傷は痛みませんでしたか?」
「大丈夫よ、ナタリー。まるで病室にいるかのような乗り心地だったから、東京に着くまでうっかり寝てしまったぐらい」

 そこで部下達とあれこれと動き回っている彼女に『有り難う』と葉月は笑顔を見せる。
 栗毛のショートボブ、真っ青な瞳の色っぽい彼女が、大人の顔でにっこりと笑顔を見せてくれる。
 義兄の昔なじみで部下だった女性。一年前、小笠原を捨てるようにして過ごしていた箱根の別荘で会って以来だった。

 彼女は黒い繋ぎ服を着て、黒いキャップ帽をかぶっている格好。胸元には蝶々の白い刺繍がワンポイント。彼女の会社名に合わせているようだ。
 そんな彼女が医療センタの許可を得て、HCUにいる葉月の病室へと姿を現したのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 彼女ナタリーが数人の部下と共にやってきて始めた仕事は、とても手際が良かった。
 しかも運輸という時には力がいる仕事なのに、彼女が連れているスタッフの殆どが女性で後は体格の良い男性が二名だけだった。
 隼人も純一も、そして両親も付き添ってくれていたが、遠くから眺めているだけだ。
 隼人はちょっとは心配そうな顔をしていたが、義兄の純一に至っては『俺の手は無用、口出しも皆無』とばかりにナタリーに任せきりの落ち着いた構えだった。それを隣で感じたから、隼人も遠巻きにしているのだろう。

 それに彼女の仕事の手際は本当に、一個中隊をまとめている大佐嬢の葉月も目を見張るものだった。
 彼女が開発したとか言う見慣れないストレッチャーに、病人搬送向けに設計したトレーラーにしても、葉月は傷の痛みを感じることなく、まるでゆりかごに揺られるが如くの心地よさで、本当に途中から眠ってしまったのだ。
 音もなく、そして振動も微弱で、ふわりふわりとまるで身体が浮いていると思うぐらいの心地良さだった。それらも彼女が提案して出来たものらしく、一般的な運輸業の範囲に縛られず、運搬に関することならあらゆる方面に果敢にチャレンジし、新しい車両や運搬器具などを開発してしまう彼女のそのバイタリティはヨーロッパでも有名らしい。
 葉月はナタリーのことは『義兄の知り合いで、ジュールの家族のようなもの』として振る舞っている彼女しか見ることができなかったので、彼女が黒猫から卒業したという話はこれでもの凄く納得できる彼女の仕事ぶりだった。

 そうして振動も少ないトレーラーに乗って、東京へと向かう。
 寝心地が良いストレッチャーに横たわる葉月の傍には、隼人が。そして両親が付き添ってくれていた。
 他にはエドが医師として付き添い、ナタリーとあの男性二人が乗り込んでいた。
 純一は違う車で、真一とジュールと一緒に後を着いてくるとのことらしい。

「お嬢様、痛みがあったり、息苦しかったら遠慮なく言ってくださいね」

 白衣姿のエドが、医療機器を眺めながら、いつもの表情のない顔でそう言う。
 葉月が笑顔で『大丈夫』と応えると、彼が僅かに微笑む……。
 葉月の手を、母が心配そうに握っていた。母の手が汗ばんでいる。そしてなんだかとても思い詰めたような顔をしている母の肩を、その隣で父が頼もしい顔で抱いていた。そして、隼人は両親と違って、小さな窓から見える外へと視線を馳せている。だけれどとても緊張している顔。さらにナタリーも……。入り口の扉前に二人の男を立たせ、彼女もその後ろで仁王立ちで扉についている小窓をじいっと見つめていた。
 葉月にはこの室内の空気がなんであるのか分かっている。あの男が隙を狙って葉月を襲わないための警護であって、隼人も両親も、再び外に出た葉月が襲われはしないか緊張しているのだ。
 実際に、ナタリーの腰には……。義兄が戦闘服を着ている時によく見せていた『サバイバルナイフのサック』らしきものがぶら下がっていた。物運び屋に必要な小道具とみせかけられそうだが、それにしては大振りだ。もっと考えると『ナイフサック』とみせかけて、実は銃なんて仕込んでいるかもなんて、葉月は思ってしまったのだ。それぐらい平気でやり除けそうな人達だ。

 そういう物々しさ。今、葉月の周りにはその空気でいっぱいだった。

 ──あの男。近づいてなんてこないわ。

 どうしたのだろう? なんだか『あれから』、あの男の事が急に見えるような気持ちに陥る時がある。
 本当ならもっともっと憎んでいるはず。
 ううん、時々、胸の中、どろどろと渦巻くのに。
 あの時、隼人が『俺がいる』と止めてくれた時から、妙にすうっと鎮まってしまった気がするのだ。
 それは憎しみが消えたという感触ではなく、もう、どうしようもなくじたばたしていたような、あの持てあます気持ちが平らにまっすぐに均されてしまった気がするのだ。どんなにジタバタしたって、あの男は遠くにいる時は高らかに笑って見ていて、近くにいる時は傍にいることに気づかない葉月達のことを、余裕綽々の知らぬ顔でひっそりと近寄りほくそ笑んでいるのだ。

 

『ずっと見ていたぞ? お前が不幸にのたうち回っているのを……』

 ──見ていたんだ、私のこと。ずっと。見て楽しんでいたの? それはさぞかし楽しかったでしょうね……。

『そんなお前が、なんだ? 男と一緒に幸せそうに笑っていたじゃないか……!』

 ──私の幸せは許せないんだ。そう、あの時もそう言っていた。お前達が何も知らずに笑っているのが許せないって……。

『どうせ生きていたって、お前はそれほど幸せにはなりはしないさ。俺のようにな……。死んだ方が良い』

 ──俺のように。生きながら死んでいるしか許されないのね。私は貴方の共同体?

 

 あれは恐怖の時間だったはずなのに、今の葉月にはそれはゆっくりと流れていた場面のように、ひとつひとつ男が吐いた言葉をはっきりと思い出すことが出来ていた。そして何度も何度も、頭の中でそれを繰り返していた。

 

『まあ、葉月……。涙……』
『どうしたのだ? なにか辛いことでも思い出したのだろうか?』
『でも、眠ってしまったわ』

 父と母の声。
 だけれどとても眠かった。きっと医療センターを出ていく時に打たれた痛み止めの副作用だろう。
 担当医だった軍医の先生が『頑張りましたね』と最後の処置をしてくれた。命の恩人だ。葉月は笑顔で有り難うございましたと彼に告げた。ずっとずっと先生はお医者らしく顔に出さなかったけれど、最後に一言だけ『大佐嬢の回復を祈っていますよ』と笑顔で言ってくれた。ずうっと『御園さん、御園さん』と言っていた軍医の先生……。あの囲いの中で『御園さん』と言われるのは初めてだった気がする。

 だけれど、最後はやっぱり『大佐嬢』。
 そう、私は『大佐嬢』。
 それでいい。

 ──早く戻らなくちゃ。皆が待っているわ。戻りたい……!

 時間がかかるかも知れないけれど、諦めていない。
 こうなるまで、私が沢山の人と出会って関わり与えてもらったもの、教えてもらったもの、そして、自分が自分で選んで手に入れてきたもの。

 今度は、自分で守る!

『眠ってしまいましたね』

 隼人の声。

 誰がそうしてくれたか知らないけれど、目頭に一粒だけこぼれ落ちた涙を拭き取ってくれていた。
 そのまま葉月はその思い返している言葉ごと、闇に葬るように自分も眠りの闇に落ちていった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 午後になると小雨になる。
 濡れた土の匂い、枯れ葉の匂い。
 目に見えないけれど、そんな自然のカケラが葉月のメディテーションを高めていく。

 ただベッドに横たわって眼を閉じたり、開いたり──。

 周りではナタリーが車椅子のメンテナンスをし、エドが医療機器のセッティングの再チェックをしている。
 だけれど気遣ってくれたのか、ベッドの横で荷物を解いて整理をしている隼人と二人きりにしようとしてくれたのか、やがて部屋の中をとりあず整えてくれていたスタッフがナタリーとエドの後について出ていってしまった。

 隼人と二人きりになる……。
 さらさらとした小雨の音だけが聞こえている。
 そして僅かに彼の息遣いも──。
 とても静かだった。

 部屋は二階だった。二階だが、流石、病院が持つ病室兼の一軒家だけあって、中はバリアフリーでホームエレベーターがついていた。
 何の苦もなくこの部屋にやってきたのだ。

 部屋の雰囲気も良い。
 エドのコーディネイトだろうと葉月は思った。  今回はほんのり桃色がかっているところが……。ちょっと笑みが浮かんでしまった。

「どうした? なにか可笑しかったか」
「どうしてこの色で部屋をコーディネイトしたのか教えてってかんじ」

 葉月の側にあるベッドサイドのカウンターに隼人が必要な物を丁寧に並べていた。
 その間、ただ……じっと黙っていた葉月がふいに笑ったので、流石に声をかけたくなったようだ。

 知っていた。彼が分かっていて、ただ黙って葉月の思うまま放ってくれていることを。
 だけれど、絶対に肌で感じるだけの側にいるぬくもりは途切れさせない。つかず離れず、そして多くは語りかけず。静かに葉月の側にいてくれる。
 ……それは、ほんとうにいつまでも葉月の側でそよいでいるやむことのない心地よい春風そのもののよう。

「ああ、なるほどな。この部屋の色だろう? 俺達、『その点』では、なんだかかなーり気遣われているよな」
「そう、かなーりね」
「でも。俺はともかく、この色に包まれている葉月を見たら、なんだか俺までこの色の気持ち」
「そうなの?」
「そうだよ。気持ちが華やぐだろう?」
「うん。華やぐわ」

 本当は気に入っている。
 見ていると気持ちが暖まってくるし、頬が火照るような感触も……。
 するとあの日替わりリップクリームを綺麗に並べている隼人が急に言いだした。

「今日、『婚姻届』もらいに行って来るから」
「うん」

 すこし緊張している彼の声。
 だけれど葉月はすんなりと答えていた。
 そうするとやはり、彼の強張っていた顔が微笑みで緩む……。
 きっと、今の状態で結婚しても大丈夫なのだろうかという不安がまだ払拭できていないのだろう。気持ちは『直ぐに』でも、現実では問題が山積みだ。
 そしてこの『妻となる女』が、本当に『その気持ちでいてくれているのか』──。ただ黙って見守っているだけの彼には、まだ、心の中にあることを全て吐露していないから。今までのように、そう受け入れながらも心の奥底でどうしても受け入れがたいものがあり、俺の無理強いにならないかとか……きっとそんなことを感じているのだろう。
 だから、葉月はそんな隼人へと微笑んだ。

「やっぱり新しい指輪、つくろうかしら」
「葉月」
「真っ白になりたいの。覚えている?」
「ああ、勿論」
「白い花も、忘れていないわ。私」
「俺もだ」

 彼がとても幸せそうに微笑んでくれた。
 そしてちょっぴり涙ぐんでいる気がした。

「また、指輪に彫る言葉、考えてね」
「葉月も彫ってほしい言葉があれば……」

 今度は二人で考えようと言っているようだ。
 だけれどと、葉月は目を閉じ……そして、開いた時には隼人をまっすぐと見つめた。

「もう決めているわ。貴方に贈る私の言葉よ」

 葉月のその一言に、隼人がちょっと驚いた顔。
 意外だったのだろうか。だが、葉月は勝ち誇ったように微笑む。

「注文する時までのお楽しみよ」
「ああ、それはすごく楽しみだ」

 ──いつのまに。そんな驚き顔だった。
 今日までの葉月が、そんなことを考えている顔には見えなかったのだろう。けれど、なにも葉月は『あの男』の事ばかり考えていた訳じゃない。『大事な貴方』の事だっていつだって想っている。それも『熱い愛』と『冷えそうな心』の狭間を行ったり来たり。記憶で埋められた過去と現在を頭の中で独自に繋げる作業に時間がかかった。繋げている間に、とてもつもなく大きな波が押し寄せてくる力をコントロールすることが出来ず、心が暴れそうになったことが何度もあった。だけれど、そんな思いを『あの晩の白い花』がまた白く染め直してくれるのだ。そう、彼と真っ白に愛し合ったあの晩が、葉月を何度も救っていた。その度に胸は熱い血潮が流れはじめ、そうして葉月を熱く満たしてくれていた。そんな時、葉月はずっとずっと隼人のことを隙間なくひっそりと愛して、どろりとした黒い渦は綺麗にどこかになくなっているのだ。
 ……彼は気がついていないかも知れないけれど。心がすっぽりと闇に覆われて暴れ出すことなく静かに思い耽っていられたのは、隼人の存在が大きかったからだ。

 そうして葉月が『結婚をしたい』という意志がしっかりしていることが判ったからか、隼人の顔も晴れやかになっていた。

 そう、隼人だって『幸せ』にならなくてはいけないのだ。
 それは葉月が一番、願っている。
 彼にも幸せに笑って欲しい。私も一緒に笑いたい。だから……。

 けれど……。今までなら『私なんて駄目』と思っていた事。
 今度はそれを自分で分かっている上で、隼人にはもう一度聞いておきたいことがあった。
 それはもうどうしようもないことだけれど、でも、今度は『二人が共に生きていくために必要なこと』だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 彼女はまた一眠り。
 さらさらと降る雨の音のことを『とても落ち着く』と気に入っていたようだ。
 彼女の側に母親がついたので、隼人は一階に下りた。

 階段を降りてすぐ側にあるリビングへの扉を開ける。
 ダイニングテーブルにノートパソコンを広げている男が二人。ジュールと純一だった。それは医療センタ側の一軒家でも見ていた姿で、彼等はそうした自分たちの仕事も時には気にして手がけていた。

「俺、出かけてきます」

 その声で、二人がモニターから顔を上げた。
 ジュールがすぐに立ち上がる。

「何かご用でしたら私が出向きますが……」
「いや。俺が行きたいんだ」
「そうですか」

 ジュールがちらりと純一を見た。

「だったら、ジュール。車を出してやれ」
「そうですね」
「俺一人で大丈夫だよ」

 だが、純一がもの凄く威圧する眼差しをキラリと隼人に向けてきた。
 その目に、隼人はビクッとしたのだが。

「今の状態でここから外に出ていくことはどういう事か忘れるな。なにも危険は葉月だけじゃない。お前が『直に御園の婿となる男』と判れば、向こうもどう出てくることか……。行動に規制はしない。だが暫くは警護を付けて出歩くことだな」

 なんだか反論できなかった。
 そうしている合間に、ボスのその意見に賛成だからなのか、ジュールは既に黒いジャケットを羽織り終え身なりを整えてしまっていた。

「では。お願いしようかな」
「はい。どちらまで?」
「近くの区役所かな? それともここらだったら市役所かな?」
「……あの、もしかして」

 察しの良いジュールに、隼人はちょっと照れながらこくりと頷いた。
 それは純一にも見抜かれてしまったようだ。

「あの、隼人様。それでしたら……必要になってきますから既に揃えておりますが」

 手際の良いジュールらしい。御園の父を交えてこのジュールが外交担当のようにして、あれこれと弁護士とやりとりをしているのだから、『婚姻届』の一枚や二枚は既に手元にあると言うことらしい。だからわざわざ取りに行かなくても、もうここにあると言っているのだ。
 だが隼人はそれでも敢えて、一言。

「それぐらいは自分でやりたい」

 資産家だから、いろいろな手続きとなると自分一人では到底無理だし、よく解らない部分もある。それ以上に今は負傷している彼女の側にいたかった。どうしても『執事役』をこなしているようなジュールや義兄の純一に任せきりで、今の隼人ではそこは甘えるしか術がない。
 結婚の意思は二人のものではあったが、家ごと動いてしまっているのを隼人は何度も目の当たりにした。そしてそれに戸惑いつつも、徐々に受け入れられるようになっていた。だから『家』の事となると、そこはまったくのど素人状態だから仕様がないのだ。
 だけれど……。二人で出来る一番の手続きである『サイン』は……誰もがそうするだろう流れでごくごく普通にやりたかった。そうして隼人の手で葉月に渡して、二人で一緒に記したいと思っていたのだ。
 そんな隼人なりの意志を知ったのか、ジュールが余計なことを言いましたと頭を下げてきた。そんなにしてもらっても恐縮なのだが、取りに行かせてもらえるようでホッとした。そして純一も──。

「澤村。気を付けてな」
「ああ、義兄さん」
「だが、ジュールに連れて行ってもらえ」
「そうするよ」

 義兄さんも送り出してくれた。
 彼は本当に、よくしてくれる。
 勿論、隼人や義妹のためというのもちゃんと分かっているのだが、それとは別に彼も『お家のため』という気持ちが強いのが分かる。  そうだ。隼人もこれからそうなっていくのだろう……。

 そうして小雨の中、ジュールと一緒に出かけた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 言ってしまえば『紙切れ一枚』を取りに行っただけの話。
 それなのに隼人自身も、外を出歩くことに今までにない緊張をした。

『あの男。何処かにいるのだろうか』

 もう既に葉月のまわりをうろついてはいないか……。
 または純一が言っていたように、隼人のことももう良く知っているのか……。

(俺にメリットがあるなら、彼女じゃなく俺を狙えばいい……)

 そう思うのだが。そんな身代わりで彼女を守ろうとは思わない。
 隼人は『置いて行かれる痛み』を知っている。
 もう、何度──彼女には置いて行かれたことだろうか。
 置いて行かれた苦い思い出を幾つか思い出し、隼人は苦笑していた。
 だからこそ──。隼人は葉月を置いていくような『守り方』はしたくない。
 生きて、生きて……彼女の側にいてやりたいのだ。

「ただいま」
「お帰りなさい、貴方」

 帰ってくると、葉月がリクライニングのベッドの背を起こして、起きあがっていた。
 初めてのことだったから隼人は驚いて、思わず急ぎ足で駆け寄ってしまった。

「大丈夫なのか?」
「うん。まあ、痛みはあるけれど……。でも寝てばかりいるのも辛いのよ。起きあがれて嬉しいわ」

 ほのかなピンク色がベースになっている薔薇色の部屋。
 そこで栗毛の彼女が、ほんわりと嬉しそうに微笑んでいた。

 側ではジャンヌが濡れたタオルを幾つも重ねて、片づけていた。

「今、先生に身体を拭いてもらっていたの。髪の毛もブラッシングしてもらって、歯も磨いたわ」

 そのせいか、葉月はこざっぱりとした顔で、頬がつやつやと輝いていた。
 そして彼女も気持ちよさそうだ。

「よかったな」
「うん」

 ジャンヌは無言だったが、微笑ましそうに葉月を見て出ていった。

 部屋で二人きりになった。
 下では登貴子がエドと一緒に台所に立っていた。夕食の準備を始めたようだ。亮介はジュールと純一と今後について話していた。そして真一は、大人達の緊張感漂う移動に疲れたのかお昼寝中だ。
 こんなことになっての状態だから言うのもなんだが、まるで『一家大集合』になってしまっていた。
 だけれど、葉月は口では言わないが、密かにこうして皆とひとつ屋根の下で療養生活が出来る日を心待ちにしていたようだ。それが証拠に、華やぐ色のある部屋の雰囲気もあるのだろうが、ずっと明るい顔に変化してきていた。

「先生。泣いちゃって……。一緒に小笠原に帰ってきて数日後にこんなになってしまったから、とても驚いたって……」
「え。そうだったのか……」

 あの先生が泣くんだ……なんて、失礼ながら隼人はちょっと驚きだった。どんな時だってクールで落ち着いていると思っていたのだが。ああ、そうだ。『右京さんの時はだいぶ違っていた』と思い出したのだ。すると葉月がそんな隼人の思っていることを見抜いたかのように言った。

「先生って、クールに見えるけれど。いつも側にいると分かるようになったの。結構色々な表情も見せるのよ。私、毎日一緒に生活していたから知っているの」
「あ、そうか。空母艦航行の『同志』だもんな」
「そう。だから先生に身体を拭いてもらうのも、ちっとも。一緒にシャワーを浴びた話で盛り上がっちゃった」
「そうか」

 葉月が楽しそうに、ジャンヌとの交流を話してくれる。
 ……ジャンヌはどう思いながら接しているのだろうか。葉月の従兄である右京との恋仲も。『私の都合』も。そして葉月もまだ把握しきっていない『ゴースト』を知っていることも。
 だけれど、今、帰ってきてから葉月とジャンヌが一緒に向き合っている雰囲気を一目見て隼人は思った。
 そこには既に姉妹とも言いたくなるような和やかさと気易さが見られる柔らかい女性同士の空気を感じた。
 きっとジャンヌにとっても空母艦で大佐嬢と過ごした事は、幾分か影響があったのではないかと隼人はにらんでいる。葉月は『先生は結構……なのよ』と言うが、それはジャンヌが葉月にはある程度、医者以上の気持ちで接しているからなのではないだろうか。
 たぶん、それが葉月が言うところの『同じ釜の飯を食べあった──航行同志』になっているのではないだろうか。
 二人の間には二人特有の信頼関係が出来ているように思えた。

 そんなジャンヌが優しく丁寧に身体を拭いてくれたことも、葉月にはちょっとした安らぎになったようだ。
 登貴子が買ってきたのか、味気ない寝具から爽やかな水色のネグリジェに着替えてもいる。
 顔も明るくなって、身体も拭いてもらった心地よさからか、葉月はとても穏やかに微笑み続けているのだ。
 栗毛も油っぽくなっていたのだが、ジャンヌが蒸したタオルで綺麗に拭いてくれたそうだ。それが少ししっとりとしていて、葉月の頬、肩、胸まですんなりと毛先まで伸びて、綺麗にまとまっていた。

「……良かった。前と同じように綺麗だ」
「有り難う」

 葉月がそっと頬を染めたように恥じらい、俯いた。でも直ぐに顔を上げて、隼人に愛らしい微笑みを向けてくれる。
 ──だからつい、手が伸びてしまい。葉月の肩をそっと持ち、彼女の顔にそっと近づいた。

「隼人さん」
「いいかな」
「うん」

 また鼻先が触れ合うところで見つめ合い、お互いの意志が重なり合っていることを感じ取り、一緒に目をつむる。
 そうっと唇を重ねた。もう枕の上にいる寝そべってばかりいる葉月の上から、力を加減してきたようなキスじゃない。
 向き合って同じ力が重なり合うキスをする。
 唇の柔らかさを確かめ合うふんわりとした力加減も。その柔らかさにたまらずに、つい、強く吸い付いてしまう力加減も。そしてどうしようもない切なさに包み込まれてつい漏らしてしまう狂おしげな吐息も。 なにもかも同じで、相手がそうすれば、同じようにお返しするキスが出来るようになっていた。

 いつしか二人は深く唇を重ねて、ずうっと奥まで愛し合っていた。
 葉月が小さな呻き声を漏らしたその艶っぽい吐息混じりの声に、隼人の方もどうしようもない衝動に駆られる。
 ……もう、既に手先が彼女のふっくらとしている乳房の上にふんわりと乗ってしまい、水色の生地の上から強く握りしめたい衝動をなんとかなんとか抑えて、ゆっくりと握りしめ……。

「い……た……っ」
「! ご、ごめん!」
「い、いいの。も、もっとやさしくして……」

 胸の谷間にあるだろう傷。
 それがちょっとの力加減でも引っ張られるようだった。
 いけない。つい葉月の身体を愛したい衝動に負けてしまっていたと隼人が手を除けようとしたのに、その手首を葉月に握られてそこに留められた。

「いいの。もっと……やさしく……」
「は づき・・」

 隼人の唇の先で、彼女の唇の先がくすぐったく囁く。
 そして葉月の乳房に触れてしまっていた片手も、彼女が強く握りしめたまま、『そのまま』とばかりに隼人を求めていた。
 それでも抑えに抑えての力加減だったのに、まだ『やさしく』と言うのだ。だとすれば、本当に指先にちょっと力を入れるぐらいのことしかできない。

「隼人さんが、また……私に触れてくれているわ」
「当たり前だろ。抱きしめたいよ。前みたいに、身体ごと、俺の腕の中いっぱいにお前を抱きしめたいよ」
「私も──」

 何か感極まったのか、葉月は瞳を濡らし始めていた。
 隼人は『わかるよ、その涙』と心で囁きながら、彼女にはその瞳の涙がこぼれないように瞼にキスを落とした。

「葉月の心臓が動いている。そして、暖かい──」
「そう。私、今──貴方の手の中にいるのだわ。貴方の大きな手も暖かい」

 彼女の肌の体温、その暖かさ。それが隼人の手に伝わってくる。
 そうして触れられている葉月もそれを噛みしめてくれている。

 ──生きている。

 ただ、それだけ。
 それだけの事を二人で今、確かめ合っているかのようだった。

 お互いに激しく抱き合った後は、最後の締めくくりのキスは忘れない。
 今、裸で激しく愛し合った後ではないが、生きていることを確かめるような触れあいでも、それはまるで二人で裸で抱き合ったのと同じように満たされるものがあった。そんな感じにさせられる『締めくくりのキス』をして、隼人はそっと葉月から離れた。
 葉月はつやつやとし始めた薔薇色の頬を緩め、瞳を煌めかせ、とても満たされた優美な微笑みを見せてくれていた。

 そんな彼女の前に、隼人はベッドテーブルを持ってきて引き寄せた。
 葉月の胸の辺りにまで寄せたそのテーブルに、隼人は一枚の紙を広げた。

 白地に茶色の罫線に文字が印刷されている薄い用紙。
 婚姻届だった。

「初めて見るわ」
「俺もだよ」

 お互いにその紙を眺めていた。
 だけれど、それだけで静かにその紙の前に厳かな気持ちを高め合っていた。

 その用紙を見つめてばかりいたのだが、いつの間にか葉月が隼人の顔をじいっと見つめていた。

「最後の氏名サインは、近い内にしてくれるという親族お披露目会の時に皆の目の前で一緒にサインをして見届けてもらうと言うのはどうだろう」
「いいわね。私もそうしたいわ」
「じゃあ。他の必要なところは先に埋めておこう」
「そうね」

 早速、隼人はペンを手にして書き込めるところを記入した。
 暫くして葉月にそのペンを差し出した。
 すんなりと葉月がそれを受け取る。ある程度動かせるようになった腕だが、そこにはまだ点滴の針が刺さったままで、手の甲はその点滴を続けているせいで、すこし黒ずむあざ模様が出来てしまっていた。その痛々しい手でも、葉月はしっかりペンを握り……紙の上に置こうとしていた。

 だが、寸前で止まる。
 そしてまた葉月が隼人を見ているのだ。

「これを書く前に……隼人さんに言いたいことがあるの」
「なんだ……?」

 すると葉月は怖いくらいの顔つきで、隼人の眼を射抜くように強く見据えてきた。

「一生、迷惑をかけるわ。遠慮なんてしないと思う。とことん迷惑をかけていくわ」
「望むところだ」
「それは……貴方も同じよ。こんな私だけれど、迷惑をかけてね。私、自分のためは元より、もっと……貴方のために頑張って生きていくから」
「葉月──」
「まだなにも解決していないのに、今、一緒になってもいいの? 貴方も危険な目に遭うかも知れないし……。それに」
「やめろ、今更──! そんなこともうとっくに覚悟できている。それよりも俺はお前を失うことの方が一番恐ろしい。それを体験したばかりだ」
「……貴方」

 葉月のそんな結婚への決意と隼人への想い。
 抱きしめられない分、隼人は葉月の手を強く握った。
 葉月の目が熱く揺らめく。

 そして、葉月は再びペンを握りしめた。
 力強く記入するその姿に、隼人は葉月の結婚への強い意志と構えを見せつけられた気がした。

 一生、迷惑をかける。
 そして、頑張って生きていく。
 愛しているだけじゃないものを、俺に与えてくれようとしているのだ。
 たとえ、それが迷惑というものでも……。もう葉月の何もかもが隼人の物で、そして隼人のなにもかもが葉月のものになろうとしているのだ。
 二人はこれで正真正銘『一心同体』の気持ちで、生きていく決意を誓い合うのだ。

 葉月がペンを置いた。
 あとは最後の氏名サインと印鑑だった。

 二人はもうすぐ、結婚をする──。

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