-- A to Z;ero -- * 春は来ない *

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4.結婚します

 だいぶ朝日が高くなってきた。
 ある黒い車の後部座席から純一が降りてきて『こっちだ』と、片手を挙げた。  白い息を吐き出しながら、隼人は駐車場に停まっているその黒い車へと向かった。

 

「これだけど……」
「どれ」

 手にしていた数枚の紙切れを彼に手渡した。
 二つ折りでまとめているその紙を、彼が広げて眺める。
 ザッと眺めると、彼がはたと我に返ったようにして『寒いから中に入ろう』と、運転席に入っていった。隼人も純一に続いて、助手席に乗り込んだ。
 中は二人だけで、そして彼が暖めてくれていたのか、車内はヒーターが効いていた。

 隼人が自分の荷物があるICUの待機室まで取りに行った『紙切れ』。
 それを今、純一が真剣な顔で眺めている。

「千歳から洞爺湖に直行、そこで二泊か」
「ああ。到着後、次の日に有珠山に行った」

 渡したのは、葉月と一緒に出向いた北海道でのスケジュールだ。
 彼は隼人が渡したスケジュールを、真剣に黙り込んで眺めていた。そうして眺めながら、いろいろと模索しているようだ。
 何故、彼がそのスケジュールを見ているかと言うと……。

 

『葉月は覚えていない。その男の事を。顔すらも──』

 

 冬の朝焼けの中で聞かされた『初めて耳にする真実』に、隼人は驚愕していた。
 あまりにも驚いたし、色々なことが頭に浮かんだので、なにをどう言葉で反応すればいいのかも分からなかった。むしろ、反応など必要なかったのかもしれない。
 そんな隼人の様子など、当然の反応。だから目の前で新たなる真実を口にした純一は落ち着いていた。

「ここではなんだ。俺の車で話そうか」

 早朝とはいえ、人目がある場だ。
 それを気にしたように純一が辺りを見渡し、警戒した。
 だから、隼人も彼に同意して、こっくりと頷く。

 医療センターの駐車場に向かい、彼がある黒い国産車の前で立ち止まった。
 以前、彼は黒いベンツに乗って葉月を連れてきていたが、今回は違うらしい。

 彼が運転席に乗り、隼人は助手席に乗り込んだ。
 そこで話が再開される……。

 

 犯人は五人──。葉月は確か、そう言っていたと思う。
 だが純一が言うには、それは『利害が一致した若者を使った主犯格』がいたとの事で……。
 この『真実』に辿り着いたのは姉の皐月が息を引き取る時に、教えてくれたのだそうだ。

「今回の葉月と一緒で、胸をひと突きだ」
「……!」

 そうしてこの義兄が、苦悩するように頭を抱え、ハンドルにもたれかかった。
 ……その時の、やるせない悲劇を思い出しているようだ。
 そして隼人も、姉が死に至った時と妹の二度目の悲劇が似通っている事にゾッとしてきた。
 もしかして? 葉月も……姉さんのように……? 違う! と、隼人は慌ててその考えを頭から追い出した。
 だけれど、それは隣で苦悩している義兄さんは、もっと生々しく感じてしまっているようだ。

 葉月だけじゃない。
 二度目の悪夢を、今……たった今、純一も、そして御園の誰もが見せつけられている最中なのだ。

「……義兄さん」
「す、すまない」

 顔を上げ眉間をつまみ、なんとか律しようと義兄さんが元に戻ろうと努める。

 そして彼は続ける──。

 事件後。葉月は生還したものの、やはり精神が落ち着くまでかなり時間がかかったそうだ。
 それは当然だと思う。とにかく怯えてばかりいたと……。そして落ち着いた後もなるべく葉月には、思い出させるような質問はしないようにしてきたと。
 そして姉の皐月も、あまり精神状態はよろしくない状態で、姉妹揃って暫く入院生活をしていたそうだ。

『知らない。覚えてない』

 そう言ったのは、姉の皐月。
 葉月はとても尋ねられる状態でない中、幾分か落ち着いてきた皐月に問うたところ、それしか言わなかったそうだ。
 だが、御園の大人達も分かっていたようだ。
 『本当は知っているのだろう』と。だが問えば問うほど、今度は姉が手が付けられないほどに、取り乱したのだそうだ。

 目撃者である姉妹から、一番の手がかりが掴めない──。

 本当に怯えきっている小さい妹とは違って、姉のその発言には、誰もが、何かしら強い意志を感じたそうだ。
 本当にそうなのか? 隠しているとしたら? 何のために……。
 それが判らない……。

 そんなある日、葉月が再度、襲われる。
 この話は隼人も葉月自身が苦しそうに教えてくれた事があるので、知っている話だった。
 つまり口封じだ。そこで、危機を感じた御園の親族は意を決して小さな葉月に尋ねてみることにしたそうだ。
 その役をかって出たのは純一だったそうだ。
 だが、彼が言うには、葉月が教えてくれたのは『訓練生名簿』の中の若い五人だけだったと言う。

 なのに──姉の皐月は『違う』と言ったそうだ。

『こんなに若い男達じゃなかった!』

 さて、どっちの言い分が正しいのか?
 幼い葉月の記憶。その『信憑性』が問われる。
 揺らされる内に日々が過ぎ……。衰弱する皐月の体調と精神状態を考慮し、彼女のたっての希望もあったことで、お腹の中にいた『真一』を八ヶ月にて手術で取り出した。

「その後──皐月がいなくなった」
「! い、いなくなった? その術後の身体で?」
「ああ、余程の決意だったのか。その時を待っていたのだろう。だが……見つけた時は虫の息で。しかも……」

 そこで純一が驚愕のひと言を言った。

「葉月が教えてくれた五人の若い訓練生が殺害されている現場だった」
「!」
「これまた、あの『葉山の別荘』だった……」

 隼人の指が、唇が再度、震え始める──。

 確か葉月は──『義兄様は姉のために復讐し、罪を犯したのかもしれない。だから……いなくなってしまったのかも』──そう教えてくれた。それも苦しそうに。隼人が『もう良い』と止めても『聞いて欲しい』と彼女は自分を何とか律して、義兄の存在を明かした後、過去の一部分も語ってくれた。

「は、葉月は……義兄さんの事を……」
「知っている。『姉は自殺した』と思わせてきたのだから、だったら誰がリベンジをしたのかとなると……。姉の結婚相手である『義兄の俺』と思われても仕方がないし、そう思わせてきた。まあ、右京にロイは『信じてやれ』とかばってくれていたみたいだが……」
「何故? それは……そう思わせてきたんだ」

 一時、純一が黙った。
 そう思わせてきた『負い目』もあり、その真実を義妹より先に義妹の恋人である隼人に告げることを、やや躊躇っているとも思えた。
 だが、やっと純一ははっきりと隼人に告げる。

「判らないからだ」

 判らない? 何が判らないのか隼人も読むことが出来ずに首を傾げた。
 だが、それはもっともっとこの一族の事情を複雑にしていることを知らされる。

「──葉山の別荘で二度目の惨劇が起きた。今度の第一発見者は俺だ。皐月を探し回って、五人の訓練生が揃って何処かに出かけたという情報を掴んで『まさか』と思いながら出向くと。今度は既に息がない男が五人。服毒致死の後だった。そしてそこにナイフで胸を突き刺している皐月がいた」
「つまり? その……その……」

 『皐月姉さんが、服毒自殺と見せかけたリベンジをした』──つまり、殺害をしたのかと。そう思いついたのに言えなかった。
 愛しい彼女の姉が、そこまでして復讐とは言え、手を汚しただなんて。そうだ。これを葉月以上に真一が知ったらどうなってしまうのだろう!? そう思うと、安易に口には出来ない。だが、純一はあっさりと口にした。

「真相は分からない。だが、皐月は最後に言った。『私じゃない。もう一人いる』と──。息も絶え絶えの状態だったから、それしか教えてもらえなかった」
「じゃあ。犯人は六人で、葉月はその一人を忘れていると?」
「皐月が言い残したことから読みとれば、そう言うことになる。姉が何故死んだのか。『殺されたかもしれない』、それも……同じ犯人に。……言えなかった。誰も。記憶のないチビには言えなかった……」

 隠された真実がここに──。
 葉月は襲われた記憶の一部を失っていること。それも一番の主犯格かもしれない男を、自分の左肩にぐっさりと無惨に切り刻んだ男を。
 そして、皐月は妹を傷つけた犯人と『再度、接触』。それはリベンジのため? それとも……?
 沢山の疑問が隼人の中に浮かび上がる。

「姉さんは、何故──たったひとりで? どうやってその男と接触したのだろう……。と、言うことはやっぱり姉さんは主犯の男を知っていたことになるよな?」

 沢山の疑問を口にすると、純一もそこは『そこなんだ』と頷いていた。

「ともかく。その事件に関してはその一言しか皐月は言い残せなかった。後は『俺に任せる』と言い残し……皐月は……」

 彼、純一が眉間をつまみながら、小さな呻き声を漏らし、俯いた。
 泣いているのだ……。そっと静かに。当時を思い出したのだろう。
 隼人は何も言えないし、その彼の気持ち……。今なら、解る。
 そのやるせなさに、隼人も一緒に、静かに眼差しを閉じた。

 だが、やがて彼は元に戻り、話の続きを……。

「──俺はこう見ている。その時初めて『五人以外に誰かがいる』と確信した。皐月がリベンジの殺害を試みて、五人は『服毒自殺』と見せかけようと騙せたが、もう一人は騙せず、返り討ちにあった。と最初は思った。だが、皐月の言い残した言葉で『実は騙されたのは皐月』ではないかと。その『一番の犯人』は『御園皐月の復讐で騙され服毒。そして皐月は殺害という方法でリベンジを果たし自害』──。そういうシナリオを描かれていたのではないかと。皐月にやられる前に、皐月をおびき寄せ騙し、五人は口封じにし、皐月に罪を着せようとした……。そんなシナリオに皐月が騙されたのではと……」
「……なるほど? 皐月姉さんを信じるなら、そういうシナリオになる」
「俺は皐月を信じている。それにその後も『男の影』を何度か感じていた」

 彼の仕事でも、その男の影が後になって判ったと純一が言い切った。
 よくよく聞くと、軍の内部にも手を貸している痕跡があり、それが全て御園の不利になったりすることが多いとの話だ。
 それに裏世界での仕事でも、横取りされる、横やりを入れられるなどの、そういう『ひっかかる存在』が常にあり、ことごとく先手を打たれ損害を被るたびに『ある共通の男』が浮かび上がるようになったと言うことだった。その時、彼『黒猫』の脳裏に過ぎるのは、彼が息子の母親で最初に愛した女性の最後の言葉の『第六の男の影』だったそうだ。
 そしてその男の事を義兄達は『顔のないゴースト』と呼んでいることも聞かされた。
 だがどの話を聞いても、皐月姉の最後の一言以外は、裏付けのない憶測ばかりだ。
 だから彼は『真相は判らない』と言っているのだろう。本当に『幽霊』の話でもしているかのような気分だ。
 それでも、隼人もなんだか、その『影』──。ゴーストの存在感を確かに感じた。
 憶測なんかじゃない。きっと義兄さんの予測は当たっている。
 何故なら……。葉月が刺されたからだ。

「今回の件。『通り魔』で片づけられる可能性もある」
「……警察にはそうさせておけばいいじゃないか! そんなの大人しく聞き入って待ってばかりいられない。だから義兄さんは自分から動いたのだろう?」
「そ、そうだが」

 徐々に怒りに震える声を発する隼人を見て、純一がおののいている。
 だが、隼人にもだんだんと分かってきた!

「義兄さんが言ってくれた『一緒にやろう』の意味が分かってきた」
「……そうか」
「俺は義兄さんみたいに力はない。それでも──」

『今度は絶対に葉月を護る!』

 隼人の中に噴き上がるような炎が渦巻き始めていた。

 その男。本当にずっとつきまとっているなら、どれだけ葉月を苦しめてきた事か!
 そして、彼女の大切なものを。彼女にあっただろう全てを奪い続けてきたことか!

「義兄さん。俺、まずは何をすればいい──」

 一緒にやる!
 その隼人の意志を見た純一が頷く

「まず、今回の件からが先行だ。気になるのは、もし、葉月を刺した『不審者』が『ゴースト』なら、『何処でその気になり、葉月を付け狙っていたか』だ」
「俺には……思い当たることはないけれど」
「今、ロイが母艦航行中の葉月の様子、その詳細を調べている。だが俺の勘ではここではないと思っている。あそこは機密で隔離された世界だ。それにもし忍び込めたとしたなら、『この母艦内』で始末する方が有利に思える。何故なら、犯人にされる人間が限られてくる。密室殺人のようなもの。己は逃げてしまえば、容疑はかからない」
「では、その前か……」

 純一とそんな流れで話をしていて、隼人は嫌な気持ちになってきた。

「でなければその後。俺達が旅行している間に何かがあったことに?」
「そう言うことになる。まず、そこを徹底して洗い出したい。昨日までのスケジュールを教えてくれないか」
「……わかった」

 そんなこと、絶対にないと隼人は思いたい。
 あんなに幸せだった旅が、そんなきっかけになっていただなんて──絶対に考えたくない。
 だからとて、そんな気持ち一つで、見逃したくもない。

 

 そうして隼人は重い気持ちを引きずりながら、細かくまとめた『スケジュール表』を荷物がある待機室まで取りに向かった。
 そして今、それを純一が眺めているところなのだった。

「だいたい解った。直ぐに部員を向かわせて、葉月が見たかしれない全てを徹底的に調べさせる」

 隼人は『お願いします』と、頭を下げていた。
 そんな隼人を見て、純一は『そんな事はするな。やめろ』と気に入らない様子で、携帯電話片手に運転席を降り、外に出ていく。
 ドアを閉めた彼は、そこに寄りかかり、白い息を吐きながら、何処かに連絡をしている。
 黒猫のボスが、動き始めた。

『そうだ。俺も待つだけじゃ駄目だ』

 拳を握りしめる!
 まだ危険な状態なのだと解った以上、葉月が目覚めなくとも、これ以上彼女を危険な状態にさせてはいけない。

 

 ゴーストを追え!
 新しい使命だ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 義兄さんが言うには『動ける者をありったけ動かしているから、そこは気にするな』と言うこと。
 だからそれ以外は部員達の報告を待つとして、隼人は葉月の側に落ち着いていることは忘れてはいけない。

 彼女が目覚めた時に、笑って迎えてあげたい……。

 それにしてもだ。
 隼人は思う。
 もっと早くに教えてもらっていたならば、もっと何かがしてあげられたのではないだろうか?
 そう思うと、この一族に本当に『まだ部外者』として、その彼女が知り得ない『秘密』から彼女と共に遠ざけられ、なにもすることが出来ない、ただ側にいるだけの男としてしか見てもらえていなかった事が残念で堪らなかった。

(いいや。俺達のこの一年の状態では……)

 恋人のようで恋人ではない近頃を思えば……。いいや、それ以前も。隼人がその秘密を知ったからとて、どれだけ彼女のために立ち回れたことだろうか? それこそ、純一が今までそうしてきたように『どう思われても』、『どんな自分に見られても』。それでも『嘘』をつき通していく覚悟があったのかと思うと、『それは自信がない』としか言えそうもない。もっと言えば、結婚しても……。御園の中枢に深く関わっていかない限りは、葉月の側にいる夫ぐらいで、遠ざけられていたかもしれない。

 それが右京の一言。
 ──『一族に任せていればいい』だったのだろう。
 だが、今回、義兄さんの純一は、この逆を選んだようだ。
 ──『お前さんを放ってはおかない』。
 彼は葉月と生きていく男なら、どんなに辛い一族の事情でも『一緒に携わっていくべきだ』と思ってくれたのだろう。

「まあ、食欲はないだろうが。食べておけよ」
「ああ。解っている」

 今度は義兄さんと一緒に昼の食事をしている時だった。
 また、車の中だ。
 エドがどこからともなくこしらえて持ってきたものを分けてもらった。

 そういう義兄さんだって、あまり食は進んでいないし、重い溜息ばかりついている。
 外の綺麗すぎる冬の青空を見上げては、遠い目をしていた。
 長いまつげに大きな目は、真一によく似ていた。

 外はうららかな冬の昼下がりになっていて、車に射し込んで来る日差しは結構暖かい。ヒーターなどいらなかった。
 そんな中、後部座席で義兄さんと肩を並べて、エドが持ってきたランチボックスを開けていた。
 葉月があの様になってから、初めてのまともな食事だった。
 皆が交代で食事をする。隼人の父も一緒に頑張ってくれていて、同じくエドの差し入れを待機室で真一と一緒に食していた。それを見届けて、純一と隼人はまだ『語り尽くしていない』かのように、二人で揃って『車に行こうか』、『そうだな』と気持ちが合ってしまい、こうして外に出てきていた。

 ──隼人自身も、この義兄さんが来てから、だいぶ落ち着いた気がする。
 もやもやしているものはまだいっぱいあるけれど、この義兄さんが『一緒にやろう』と言ってくれたことや、『お前さんを放ってはおかない』と言って、御園の事情を話してくれたことで、もっと辛く重いものを背負った気はしたが、それでも『行くべき方向』が定まっただけすっきりしたと思う。

 それに葉月のことも。彼と気持ちを合わせて『絶対、大丈夫』。
 そう思い始めていた。
 あれほど、ICUに入ったら側を離れたくなくて、もし離れている間に何かあったら……とか、そんな余裕ない切羽詰まった気持ちも、『どんと待つ』という気持ちになれた気がして。

 そうした気持ちになれた事件翌日。
 だが、あの最悪な時間帯が巡ってくる。
 昼下がりの、直に夕方になろうかという日が傾き始めた頃。
 冬の日の入りは早い。空がほんのりとその輝きを柔らかに崩し始めたころ。

『は……やと……さん』

 真っ赤に染まった手と唇。
 微かに開けたまぶた。
 そして何故か喜びを思わせる微笑み。

『幸せだった』

 そんな微笑み?

 

「……うわっあっ!!」

 

 そんな叫び声をあげながら、隼人の身体が上へと跳ねた感触!

「だ、大丈夫ですか?」
「……エド!」

 車の中、後部座席で横になっていたようだ。 
 運転席にエドがいて、一緒にいたはずの純一がいなかった。

「──俺、眠っていた?」
「はい。ボスとランチを取っている途中、いつのまにか眠っていたそうです。ボスは戻りましたから、こうして私が──」
「なんで起こしてくれないんだよ!」

 今、眠っている余裕など……!
 しかしそうして噛みつくように吠えた隼人を見ても、エドは狼狽えもせずに落ち着いていた。

「いえ。起こせと怒るかと思うが、少しでも眠れるならと……。ボスが、そう言いまして」
「……」

 解っていた。
 本当はきっとそうだろうと。

「有り難う。俺、もう行くよ」
「はい。いってらっしゃいまし」

 丁寧で出来すぎた日本語に、隼人は眉をひそめる。なんだか調子が狂う。
 それでも彼は本当に純一の周りをこれでもかというぐらいに動き回っているようだ。

「有り難う、エド。ランチ、美味かったよ」
「有り難うございます」

 もう一度──。そんな彼に改めての礼を述べると、あまり笑った顔を見せないふうの強面を崩して、ニコリと笑ってくれた。
 隼人もホッと心を和ませ、微笑み返しながら、外に出た。

 夕方になり、気温が下がってきたのか、ランチへと外に出てきた時より冷え込み始めていた。
 首元がスースーする。木枯らしがあたるその首元に、隼人はそっと手を持っていく。

「……マフラー」

 葉月がくれたマフラーは、血で汚れた。
 彼女がしていた若草色のマフラーは……もっと。

 一日が経過しようとしている中、今この時の方が、あの痛ましい光景が鮮烈に蘇る。
 落ち着いて思い返せば、見たその時より、より一層に残酷に……。

 ICUに行こう。
 午後になってから一度も向かっていない。

 恋しい。
 例え、彼女が今、反応してくれなくても。そんなに痛ましい姿でも。
 恋しい。

 隼人の足が病棟へと早まる。 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 エレベーターを使ってICUに向かう。
 そこを降りると──目の前に純一がいた。

「義兄さん」
「今、呼びに行こうと思っていた」

 そして彼がふっと待機室へと肩越しに振り返った。

 そこに制服姿の栗毛の男性がいて、小さな声で話している。
 体格ががっちりしているその男性は、そこにいるだけで、なんだか、この味気ない病棟に柔らかな香りを漂わせているような雰囲気……。

「お父さん!」

 亮介だ。制服姿の亮介がとても困惑した顔で待機室の前にいて、隼人の父親と言葉を交わしているところだった。

「先ほど到着して、今、面会を終えたところだ」

 純一の報告。既に娘の痛ましい姿と対面したとのこと。亮介の今にも倒れてしまいそうな力無い表情を、隼人も痛いほど共感してしまう。
 だが──『登貴子』の姿がない。
 まさか……?

「お母さんは?」

 まさか、こうなっても『勘当中の親子』として、来なかったと?
 だとしたら、ここは隼人としては、かなり腹立たしいかもしれなかった。
 だが、目の前の純一が俯き、そして首を振った。

「娘と対面した途端、ICU内で取り乱して失神したそうだ。今、処置室で横になって眠っている」
「……!」

 来てくれていた! だけれど、純一が哀しそうにそう報告してくれた登貴子の様子。隼人が一休みしている間に、ここら辺はちょっとした騒ぎになっていたとの事だった。落ち着いたので、純一は隼人を呼びに行こうとしていたところらしい。
 これまた隼人は力が抜けるぐらいに痛ましく思う。

「そうなんだ。そうだよな……当然だよな」
「ああ。とても疲れ切った顔をしていた。まるで亮介オジキに抱えられるようにして、よろめきながらここに来たぐらいで……」
「そんなに……」

 処置室はHCU内にあるナースステーションの隣にある。
 隼人は許可がなくては開くことのない透明な自動ドアの向こうにあるナースステーションを見た。
 そこで母親の登貴子も苦悩の渦の中を漂い、彷徨っている最中なのだろう。

「勘当のこと、知っているか? 葉月は俺と共々、フロリダ御園家には出入り禁止だ」
「知っているよ。葉月から聞いている。彼女……それでも……今度は自分からママに会いに行くとか、それに……話を聞いてくれなくても手紙を書いて……」

 刺されるほんの少し前に、葉月が晴れやかな笑顔で前向きになっていたあの顔、あの姿──。それを思い出してしまい、隼人の声が詰まる。

「そうだったのか。それ……登貴子伯母さんに、伝えてあげてくれ。きっと喜ぶだろうから」
「ああ」

 そうしよう。本当は葉月自身からそう言わせてあげたかったけれど、きっと登貴子も母親としての信念があったとしても、気に病む部分もあるだろうから。一言だけでも葉月の気持ちを知らせてやれば、幾分かは気が楽になるかもしれない。

「隼人君……!」

 亮介がこちらに気が付いた。
 そして何かを求めるようにして、こちらに急いで駆けてくる。
 すごく切羽詰まった顔──。隼人は、その時一緒にいたのに彼の大事な娘に何も出来なかった事を思い、少し後ずさりたくなる。だが大股でやってきた亮介に、その両肩を捕まえられてしまった。

「お、お父さん……。申し訳ありませんでした。僕がついていながら……」

 顔を背けたくなったが、亮介のもの凄い見つめる力に捉えられたようになり、隼人は真っ直ぐに見つめ返しながら詫びていた。
 そして亮介の両手がグッと隼人の両肩を掴んだ。痛いぐらいに……。それが父親の口惜しい力なのか……。

「葉月を北海道へ連れて行ってくれたんだってね」
「はい……。それで横浜の実家に連れて行くことになり、この基地で小笠原行きの便の変更手続きに来て、その時……」
「隼人君、その前に、私に何か言うことはないかね!?」
「あの……本当に、申し訳ありませんでした」

 頭を深く下げ、隼人は心より詫びた。
 だが隼人の肩を握りしめる亮介の手に、さらに力が入る。その力は隼人に『上を向け』と命令しているかのような力の入れ方。
 隼人はその力の赴くまま、顔を上げた。
 亮介の気迫ある顔が、眼差しが、グッと隼人を見据えていた。

「そうではないだろう? 隼人君!」
「はい?」

 詫びでなければ、なんだろう? 隼人は首を傾げてしまう。すると亮介に左手を取られた。
 それを彼の顔と自分の顔の間に持ち上げられる。

「これはなんだね? 娘も同じようなものを左手の、しかも薬指に……」
「あ……」

 亮介の目がまた、隼人をグッと捉える。

「横浜のお父さんから聞いたよ。北海道旅行のその帰りに横浜のお父さんに話があるとかで寄ろうとしていたんだってね?」
「えっと……」

 まさかと、隼人は亮介の背中、待機室の入り口でこちらを見ている父親へと覗き込んだ。
 その父も、亮介と同じようにとても強い眼差しでこちらを見ていて、そして息子と眼があって頷いている。
 それは、『知らせてあげなさい』と言う無言の進言に思えた。

 本当はもっと違う形で、きちんと向き合って……彼女と一緒に報告したかった。
 だけれど、と、隼人は顔を上げ、亮介に負けない気迫を溜め込んで、やがて彼に告げる。

「彼女と結婚します」

 亮介の顔が、途端に崩れた。
 それは嬉しいのか、でも今の状態ではあまりにも残酷すぎる報告なのか。判らないが、彼は今にも泣きそうな顔になった。
 だが、隼人は続ける。

「一方的なものでなく、二人で決めてきました」
「そ、そうか……。そうだったんだね」
「彼女、白いドレスを着て真っ白になって、これから……」

 その先を言おうとして、隼人の胸の奥に熱く込み上げてくるものが……。それで声が詰まったが、だが、続ける。

「これから、絶対に子供を産むんだって……」
「──! あの葉月が?」
「そうです。彼女、自分の力で自分の意志でちゃんと前を向いていました。そして行こうとしていました」

『俺と一緒に──』

 隼人が涙ぐみながら告げると、ついに亮介が……隼人にすがるようにして崩れていき、そこに跪いてしまった。
 そして彼は隼人にすがったまま『有り難う、隼人君。娘を愛してくれて有り難う』と泣き崩れてしまった。
 いつも堂々としていたあの将軍の面影など、今はなかった。彼はただ、娘を信じて待つことしかできない気弱な父親だった。
 そんな彼の肩を今度は隼人がそっと掴む。

「俺、信じています。彼女が帰ってくると」

 亮介のすすり泣きが止まる。
 そして彼が、跪いているまま、隼人を見上げた。

「きっと……幸せになります。二人一緒に」

 やっと亮介の笑顔が輝いた。彼は立ち上がって、そうして微笑むままに隼人の手をがっしりと握り返してきた。

 信じて、皆が信じて待っている。
 彼女が生還して、そしてまた、彼女が行こうとしていた道を歩んでいけることを──。

 

「隼人君、それ本当なの?」

 

 そんなか細い女性の声。その声に皆が振り返る。
 HCUの自動ドアの前に、登貴子が立っていた。

「お母さん! 大丈夫なのですか?」
「登貴子。まだ横になっていた方が──」

 だけれど登貴子はそんな言葉は聞こえていないかのように、先ほどの亮介同様に、真っ直ぐに隼人の元に突き進んできた。

「隼人君、本当なの? 葉月が……あの子が……そう言っていたの?」

 隼人の目の前にいる亮介を押しのけるように登貴子が胸元に飛び込んできた。
 それもこちらもなにか切羽詰まったような恐ろしいまでの気迫がこもった顔で。小さなその身体で、隼人が着ているセーターを掴みあげるような勢いで……。
 だから、隼人もちゃんと答える。

「はい。彼女が自分から願っていたことで、それを自分で掴もうとしていました」
「真っ白いドレスを着たいって?」
「……はい」
「真っ白になりたいって?」
「はい」

 そして登貴子は目に一杯の涙を溜めて、叫ぶように隼人に最後の一つを尋ねた。

「あの子が、絶対に子供を産みたいって……!?」
「はい。彼女自身が、そう強く望んでいました。俺、そんな彼女と一緒に生きていきたいと、側にいてあげたいと思って。二人で決めてきました」

 そしてやはりこちらも……。だが夫より激しく泣き崩れ、床に突っ伏してわんわんと泣き始めてしまった。

「あの子が、あの子がそこまでになったのに……。何故!! 許せないわ、許せない!!」
「と、登貴子」
「お、お母さん……だ、大丈夫ですか?」

 拳を振り上げて、床を何度も叩く程に登貴子が取り乱す。
 それを亮介と揃って、隼人も床に跪いて彼女をなだめようとしたのだが、登貴子は激しく首を振って泣き喚き、そして、拳を何度も床に叩きつける……!

「す、すまない。隼人君……また後で」

 亮介が困惑しながら、登貴子を抱き上げてしまった。
 登貴子も流石に、大きな体の夫に抱きかかえられると、力を弱めてしまいがっくりとうなだれ、落ち着いたようだ。
 そんな騒ぎが聞こえたのか、HCUから、看護師が飛び出してきた。

「み、御園さん……。申し訳ありません。目を離した隙に奥様がいなくなってしまって……!」
「いいえ。こちらこそ。もう少し休ませてあげてください」

 亮介はナースと共に、HCU内の処置室へと向かっていった。

 

『母さん。葉月が戻ってきたら結婚式だな』
『……そうね、そうよね。お父さん』

 

 そんな会話が聞こえてきて、隼人は思わずじんわりと涙を浮かべてしまっていた。

「隼人」
「親父──」
「そうとなったら、葉月君が意識を取り戻したら、急ごう」
「ああ」

 そして父から、息子からは言い難い事を先に言いだした。

「婿に行くのだろう?」
「……」
「なんだ、決心していないのか」

 いいや、と、隼人は顔を上げて、亮介と登貴子の背を見つめた。

「一年前と決心は変わらない。俺、『御園』になる覚悟、出来ている」
「そうだな。そうして守ってあげなさい。私は構わないよ」

 去年もそうして『とっくに外に手放した、そして無理矢理飛び出していった息子』と嫌味に言い放ちつつも、婿入りを認めてくれた父。
 そこには『どんなことをしてでも、弱い女性を守るんだ』という……。沙也加という体が弱かった女性を愛した男性の信念がそこにあった。
 そして隼人はそれを父から受け継ぐ。

「俺、御園になる」

 隼人の決心に、父も横で頷いていた。

 だけれど、ふと我に返って振り返ると……。
 そこにいたはずの純一がいなくなっていた。

 ──やはり、思うところがあるのかもしれない。
 義妹が自ら結婚を決めた事。
 今度こそ、彼は認め、受け入れるのだろう。
 それを分かっていても、きっと……。

 そんな彼がふと姿を消して、何処かで、あの遠い目で……独り、煙草を吸っているような姿が、隼人の脳裏に浮かんだ。

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