だが、葉月ではなかった。
その『決意』は達也の方が早かったようだ。
「残念。重ならなかった」
彼がふと力無く微笑みながら呟いた言葉に、葉月は首を傾げる。
なにが重ならなかったのかと。
「……最近、気がついたんだよなあ」
「だから、何が言いたいの?」
するとまた先ほどの近い距離で達也が葉月をじっと見つめて来た。
「もう、俺が知っている葉月じゃないんだなあと、つくづくね」
それであんなに近くで私の顔を見ていたのかと、葉月は思ったのだが。
次には達也は清々しく微笑んでいた。
「夢に出てくるお前はいつまでもあのロングヘアなんだよな。何故だと思う?」
「さあ……なんで?」
と、葉月は言っておいて。でも、本当は達也が言いたいこと直ぐに分かってしまった。
それは──葉月と達也が、恋人として熱愛も青春も謳歌していた時の『葉月』の姿に違いないと。
真っ直ぐにただ真っ直ぐに伸ばしていた栗毛。一番長いときは腰につくぐらいの長さまで伸ばしていたから。たぶんその長さの姿を一番知っているのは、達也だろう。
分かっているのに『さあ』と言った葉月に、達也が顔をしかめた。
「嘘つけ。今、同じ事を思い描いたと、俺にはわかるぞ」
「……」
「遠慮なく、思うままに言ってくれよ。──これが最後だから」
最後という言葉に、葉月は驚いて達也の顔を見上げた。
目線──合わせてくれない。顔を背けて、それを避けたそうにしている達也。
やはり彼も、『その時』を避けていたのだろうか?
そして今度こそ、葉月が決する。
彼の望むとおりに、ちゃんと伝える。
「──私たちの一番、良い時だったわね。達也の中にいる私って、その時の私なのね」
「ああ……。ちっとも大人にならねえじゃじゃ馬だよ」
「こなかったね。二度目は……」
「うん」
いざとなって、涙が溢れてきたのは葉月の方だった。
勿論……今は隼人の側がいい。それ以外は考えようもなくなっている。達也もそれを分かっていて『側にいさせてくれ』と言ってくれていたのだ。
そういう『好いてくれる人がいなくなる寂しさ』で泣いているのではない。
今までの二人で過ごしてきた沢山の欠片が、いっぱい溢れている……。そんな時間を一緒に紡いできたことが、『やっぱり素敵で素晴らしいことだったのだ』と、この時になって強く感じられた。
時にはどうしようもなく熱く求め合い、好きだからこそどうして良いか分からなくなって相手を傷つけてしまい──。
望まなかった破局を選び、別々の道を進んだのに……また、引き寄せあった。
思い返せば、きらきらしていた想い出と同じ分の苦い想い出がある。
それでも──やっぱり『彼と出会えて良かった』と思えたから、涙が溢れて止まらなくなる。
やっと葉月の顔を見てくれた達也も、そんな葉月が流す熱い涙を知って、とても感極まった顔に……。
彼の手が、葉月を抱きしめたそうに伸びたのだけれど、途中で止まる。また葉月から顔を逸らし、彼も声を詰まらせながらも、必死になって何かを言おうとしていた。
「そのじゃじゃ馬が──。時には大人になりかけるんだけど、俺の中では直ぐに消えて息づかなかったな。きっとそれって今のお前なんだ」
「達也……」
「それに……俺、お前以上を見つけてしまったよ」
「──それって」
目をつむって、静かに微笑む達也は……それ以上は答えてはくれなかった。
「俺、自分はすごいと思っていたけど。自惚れだったかな。もっとすげえ人がいたよ」
完全に『泉美』の事だと、葉月は思った。
何故、はっきりと言ってくれないのだろう? と、葉月は少しばかりじれったく思う。
「──ケリつけていないこと、分かっているんだよな。なんにも言ってくれないし、それどころか『好きにしたらいい』なんて言いそうだよ。参ったよ」
「そう……なんだ」
「でも、正直言うと。やっぱり未練はあるんだよな。だって俺の全てだったんだから。やっぱりお前を眺めていると、なんだかときめいてしまうのは変わらない」
「……」
葉月は少しだけこぼれた涙を拭って、達也を見た。
「今、『──だった』と言ったわよ」
「あ、ああ」
「達也の中ではもう、始まっているみたいじゃない」
「うん。始まっているだろうな」
「……それなら、もう、行って。もう、行ってちょうだい」
唇を噛みしめ、今にも泣きそうな達也の顔……。
それでも、彼はとうとう葉月の隣から立ち上がった。
「……お前、俺が戻ってこないように、絶対に幸せになれよ」
「分かっている。それが達也との新しい約束だね」
少しばかり幼い口調に戻っている葉月を、達也が驚いて見下ろした。
葉月ももう笑顔で、彼を見上げた。
「達也も私と約束してくれる?」
「なんだよ。俺なら、絶対に幸せになるぜ?」
葉月はそっと頭を振る……。
「隼人さんは気がついているみたいだけど、達也は全然、気がついていないのね」
「は? なんのことだよ?」
「気がついていないの? 私──『仕事のパートナー』に、貴方を選んでいるって事」
「!」
近頃の、様々な大佐嬢の指示を思い返し、達也はやっと気がついたようだった。
「私、こっちでは絶対に『海野中佐』は手放したくないの。それに貴方の夢である『特攻隊』。今すぐは駄目だけど、必ず持たせてあげるから、覚悟しておいて……。それが約束」
「葉月──」
隼人は……私の恋人は違う道を進み始めた。
同じ道を行くのは、この男だったと……。
それで彼が喜んでくれたかどうかは分からない。
だけれどそれが今の葉月の正直な気持ちで選択だった。
「それも、間違いなく……私たちがずっと思い描いてきた夢だったよね? 達也」
彼は暫し呆然としていたようだが、やがて笑顔を浮かべてくれる。
「ああ、そうだ。じゃじゃ馬」
彼のこんな輝く笑顔、久しぶりに見た気がした。
彼の愛の道が輝き出す。
葉月は立ち上がって、達也に向かった。
「お幸せに──」
涙は絶対に見せない。
堪えて笑顔で見送る。
彼も一瞬、泣き出しそうに表情を崩したけれど……。
でも、負けない笑顔をみせ、とうとう……葉月に背を向けて大佐室を出ていった。
いつも守ってくれたその背中。
いつも追いかけてきてくれた勇ましい長い足。
それで彼が葉月の元から去っていく……。
やっと涙が溢れてきた。
哀しいというか嬉しいというか──何とも言えない切ない気持ちが溢れている。
まるで何かから『卒業』した気持ち……。
だけれど心の中は、とても満たされていた。
葉月は思う。
また一人──。私に添えていた手を離し解放された人を、輝くままに送り出せたのだろうか、と。
私の幸せを願うばかりに、私の肩には沢山の手が添えられていた。
それに気がつかず、彼等の気持ちまで引きずり込むように、闇へ降下し全てを捨てることに必死になっていた私の今までの人生。
彼等を安心させ、そして、彼等を見送るために……私は戻ってきた。
そしてとりわけそうなって欲しい大好きな男性を、送り出すことが出来た。
戻ってきて、良かった。
戻ってきた時は苦しかったけれど……良かった。
葉月はこの一年を振り返る。
だが、まだまだ──自分が納得できるまでやりたいことが残っている。
涙を拭いた。
「ただい……ま? ど、どうした」
丁度良いところに、隼人が帰ってきた。
何とも言えない涙を流している葉月を見て、驚いてる隼人がそこにいた。
この今、溢れている気持ちを『直ぐに伝えたくなる人』が、目の前に現れてくれたのだ。
「……見送ったのよ、達也を」
「!」
「彼、行ったわ……」
「そ、そうなんだ。もしかして……泉美さん?」
「ううん? そんなことは一言も報告してくれなかった。まだ、まとまっていないのじゃないかしら?」
「でも……行ったんだ。じゃあ、じきだな」
隼人が笑顔で自分のデスクに戻っていった。
「なあ。おまえさあ、ほんっとうに行きたいところとかないのかよ? ちょっとぐらいないのか? そういうところ。山か? 海か?」
もう、あれこれは言わないのだなと、まったく違う話題に切り替えてしまう隼人の様子を見て葉月は思った。
葉月と達也が出した答えだから……。何も言うことはない。隼人の声でそんな言葉が葉月の頭の中に聞こえた。
だから、葉月も微笑みを浮かべて彼の側へと歩き出す。
その間も隼人は『ハワイとかサイパンとかでもいいんだぞ』とか『それともパリに帰省がてら行ってみてもいいかも』とか……そういう感覚が疎い葉月に代わって一生懸命に考えてくれているのだ。
「だから言っているじゃない? 隼人さんと気楽にいけるなら、何処でも良いって。海外は準備が面倒かな〜?」
そしてそんな葉月の答えにも、渋い顔になった隼人の言うことも決まっている。
「ほんっとうにお前って、淡泊だよなあ? 夢とかないのか? 夢とか!」
夢? あるわよ。
だけどそれは、まだ内緒。
葉月は胸の内で独りでこっそりと囁く。
そんな笑顔を、彼は訝しそうに見ているだけだった。
・・・◇・◇・◇・・・
それから暫く経った、雨の夕方だった。
さすがにこの季節になって雨が降ると、肌寒くなってきた。
隼人はこの日、官舎の部屋に自分の荷物を取りに来て、そこから葉月のマンションに向かうところだった。
玄関に鍵をかけ、階段へと向かう。
すると、ピンク色の傘を手にした女性隊員と鉢合った。
「泉美さん──」
「あ、澤村君……。ああ、そう言えば同じ階段の上と下だったのよね」
「……!」
それを誰から聞いたんだ? と、言いたいところ……。分かり切っていたので隼人は『そうなんだ』と笑って流した。
幸せそうな色の傘を持って、雨の中、買い物袋を提げている泉美の姿は、とてもしっとりとしている。
とても良い感じだ。こちらまで幸せな気分にさせてくれそうだった。
隼人は駆け寄って、泉美が持っている買い物袋を覗いた。
「今晩は、なにを作るの?」
「ありきたりにカレーライス。『彼』が食べたいって言うの。子供みたいでしょ」
隼人は思わず、吹き出しそうになった。
確かにあの『男』。隼人と一緒にあれこれやっていた時も、本当に隼人を兄貴のようにして甘えて、『あれして、これして』とうるさかった。仕事の時とは裏腹に、本当に子供みたいなのだから、分からないでもない。
と……言うことは、あんな風に甘えているのか? と、隼人はちょっと苦笑い。
それにしても、泉美が言うと、なんだかしっくりしてしまう『お姉さんぶりだな』と、隼人の笑いは柔らかい微笑みに変わった。
「澤村君は、葉月ちゃんのところ?」
「え? ああ、うん……」
「澤村君は料理が上手なんですってね。いいな、いつか私にもご馳走してね」
「ああ、勿論……って。俺もたまにはあいつに作ってもらいたいんだけど、あいつ、すっげー散らかすんだよな? 料理する時まで豪快に闘わなくても良いだろう? って感じ」
「やだ。もう……葉月ちゃんらしいわね!」
こんなプライベートの話、あまりしたことはない彼女なのに。
まるでずっと長い間、ずっと付き合ってきたかのようにスムーズに話が進んでしまっていたことに隼人はハッとする。
達也からいろいろ聞いたのか、それとも……やはり遠くからずっとこちらを見守ってくれていたのか。
ともかく、とても自然だったので、それは隼人も新しい驚きだ。
でも──彼女なら。
葉月とも良い友人でいてくれそうだ。
この女性二人がそんなふうにひっそりと信頼を深め合っていた事は、今回の新しい発見でもあった。
そこで二人は『じゃあ』と笑顔で別れた。
(いいな〜。なんかちょっと羨ましいな〜)
泉美ならなんでも、包み込んでくれそうだ?
おっと、いけない。俺のじゃじゃ馬だって、そんな時は懐、でっかいんだ。
なんて、思いながら葉月のマンションへレインコートを着込んで、自転車で向かう。
どうやら、隼人は泉美と同じ人種なのだろうか? しかもなんでも男女逆転の図が、隼人と葉月の世界?
そんなこと、今はすっかり気にならなくなった世話焼き兄さんは、今日も台所に立つのであーる。
そのうちに、葉月が遅い帰宅をして、いつも通りに食事をした。
食事が終わって、今度は葉月が片づけをしてくれるペースまで……すっかり元通りになっているこの頃。
それでも官舎に帰る日が多い。そして来る日も毎日ではなくなっていた。
言ってみれば……今は、官舎が『仕事部屋』みたいなものだった。
前は結婚するなら引き払おうと思っていたが、今はむしろ『結婚しても借りていたいぞ』と思っている。
林側の部屋で仕事をするのも好きだが、やはり官舎で一人きりで黙々と仕事をする感覚が……マルセイユで独り身だった時の感覚が戻ってきているのだ。
そこは本当に隼人だけが没頭できる世界だ。
そして葉月がそんな時間と余裕を持たせてくれるようになった。
彼女が、一人きりでもちゃんと過ごせている証拠なのだろう。
まだ……夜の寝付きには、隼人も不安を持っているが。
だから、丘のマンションに来たら、官舎に帰るとしても、葉月の寝付きを確かめるまでは帰らない。
片づけが終わると、ダイニングテーブルに座ってお茶を始めた葉月が、ひとつの冊子を手にしてため息をついていた。
「どうした? それ、なにかの報告書か?」
丁度、彼女が入れてくれたカフェオレを飲み終わり、カップを手にして立ち上がった所。隼人もふと気になって尋ねてみた。
すると……葉月がさらに深いため息をついた。
「──佐々木奈々美さん。知っている?」
「ああ。確か、宇佐美重工の……若いシステムエンジニアだ。常盤さんに並ぶぐらい業界では結構、名が知れている女性みたいだけど……」
そして葉月がその報告書のようなものを、隼人に無言で差し出した。
それは……つまり? 中身を覗いても良いと言うことか? と。隼人はちょっと怖々とそれを受け取った。
「やるでしょ。テッドが調べてくれたのよ。まあ、達也の手ほどきもあったみたいだけど」
「へえ! ついにテッドがこんなことを? 葉月の指示ではないんだ?」
「うん、気になってやってくれたみたい。いつのまにか……。私もちょっと気にはしていたのよね……。そこをテッドは嗅ぎ取ってくれていたみたい」
「うーーん。皆、なかなか手強くなってきたな」
元は一の側近は自分だったはずなのに、そうして達也にそして後輩のテッドに、今まで隼人が懸命に担ってきた側近としての役割を果たしてくれることを素直に認める隼人を、葉月が慈しむように見つめてくれていた。
隼人はその眼差しにドッキリとする。
そうだ──こいつは、日頃はどうしようもないウサギで手がかかるんだけれど。その慈しみも哀しみも携えた目をしてくれる時は、なにもかもを委ねても良いような気持ちにさせてくれるのだ。
隼人はちょっと照れてしまい、慌ててその報告書を眺め直した。
そこには、あの彗星システムズから引き抜きで大企業である宇佐美重工に転職した女性の経歴と……ちょっとした話がうまくまとめられていた。
そういえば……達也とテッドが外の『業者』や『知り合い』と連絡を取り合う妙な仕事をしていたが? このことだったのかと判った。
「──資金繰りがうまくいかなくなって、彗星さんは手がけたシステムを大企業へと手放したのか。それでも開発技術者が必要だから、佐々木奈々美が彗星を出て、そのシステムを宇佐美で担当、仕上げたわけか」
「──青柳さんの話と食い違っている。まるで彼女が持ち逃げしたみたいに言っていたし、それで会社全体が裏切られた気持ちになったと言っていたけど。企業と企業の間で正式に交わされたことなら、営業の佳奈さんが知らなかったと言うことはないと思うし……」
「確に。そうだったよな……。だとしてもそうなると、企業間の間では問題になって、事実なら裁判沙汰になっているはずだと、俺が言ったとおりだっただろう? なのに、彗星が泣き寝入りしている様子もないから、その青柳の話は『おかしい』と言ったじゃないか? やっぱりこういうことだったではないか」
「まあ、私はそこのあたりよく分からないけど、テッドがピンと来たみたいで、調べてみる必要があると思ったらしいのよね? それとは別に『女の勘』というのかしら? 私としては、そんな問題じゃないところで、もしかすると……と、思っていたんだけどね。彼女の思いこみもあるのではないかって」
「……」
葉月は残念そうな顔で頬杖、そして遠い目。
隼人もそんな彼女の目の前に、その報告書を置いた……。
隼人も葉月と同意見だ。
なにやら『女性だけの話』になっているので、報告は聞くが、首は突っ込まないようにしている。つまり、葉月が求めてこない限り、意見も言わないと言うことだ。聞くだけ聞く。
だけれど、あの佳奈の様子では、そこまで思い詰めていてもおかしくなかったかもな……と、隼人は思った。
葉月は『常盤を挟んで、何もなくても水面下でいろいろあったのではないか』と言った。
正面衝突はしなくても、そういうものがあったに違いないと。
常盤とその宇佐美に行ってしまった彼女は、本当に恋人だったのだろう。佳奈は……常盤に片思いをしていた可能性が高い。
なんでも上へと後輩に奪われていく気持ちはどうだろう? 奪われるという言い方はおかしいかもしれないが? そう思ってしまうものなのだろう。
そして……その彼女は正式に、宇佐美へと引き抜かれた。彗星ではどうにも出来なくなったシステムと一緒に。
だけれど、佳奈はそう思えなかったのだろう。それとも? そう思わねば、やっていけなかったのか。
(あの真面目で、曲がったことは許せない感じの青柳がね……)
だが、隼人はそんな彼女の性格だからこそかとも思った。
処理できない気持ちを、『課長を裏切って会社を乗り換えた』とか『上手い具合に、大企業を頼りに手柄を持っていった』とか『今までの皆と力を合わせてきた気持ちを踏みにじって簡単に出ていった』とか思っている内に──『持ち逃げされた』という話になったのではないだろうか?
信じていた人間に裏切られた時、時には『そんなはずはない』と激しく思うが為に、実はその事実を回避するために『この人は悪くない』と思いたくなる方の、逆パターンのような気がした。
「……私が思うに。この彼女、もしかすると常盤さんの為、そして会社の未来の為に、仕方なく泣く泣く出ていったんじゃないかしら?」
「え?」
「見て。彗星システムズは、この宇佐美にシステムと彼女を送り出してから、業績が上がっているの」
「……なるほど! 業界的には宇佐美ではなく、彗星が、いや常盤課長が開発元と知れることになったという事か」
「彼女、常盤さんを愛していたんだと思うな……私」
「……葉月」
急に葉月が目元を緩め、暖かく微笑んだ。
それは『愛すること』をとても良く知っている目だと、またもや隼人はドッキリとした。
「だから佳奈さんは、よけいに悔しかったんじゃないかしら? たぶん、これをきっかけにして、常盤さんと彼女は別れてしまったとかね。佐々木さんが自分から進んで出ていったなら、尚更。佳奈さんは常盤さんを捨てたと思ったに違いないわ」
「すごい憶測!」
でも、それ言えそうだぞ? と、隼人は思ったが、それでも見てもいないくせにそこまで想像してしまう葉月に驚いた。
「なんかその憶測、吉田っぽいぞ??」
「小夜さんの憶測は、結構、重役級なのよ。彼女がちらっと言った憶測……私は時々すっごく参考になると思っているし、聞き逃せないのよ。女の勘と憶測を馬鹿にしないでよね」
いつのまにか、そういう女性傾向も醸し出した葉月にピシリと言い返され、隼人は渋い顔に。
このごろ、小夜やテリーと一緒にいるせいか、急に『女の園感覚』を身につけやがって……なのだ。
それで時々、小夜と葉月の妙なタッグに大佐室の男性陣はやられるという光景も見られるように……。隼人は男子後輩達に『気を付けろ』の指令を密かに出していたりするのだ。
「でも、佳奈さん──今は、そんな思いから突き抜けたと思うわよ。これから、彼女がどうするか楽しみ」
「はあ、どうなんだろうな?」
そんな感覚、男には解らねーよ、という顔をしても、今度は葉月にさらっと流されてしまい、彼女はなんだか楽しそうにテーブルに広げていた書類を片づけ始めた。
「なんでそんなに楽しそうなんだよ。なんだ? まさかまた変な事を考えていないだろうなあ?」
なんだか嫌な予感がした。
そしてこんな時の葉月の返答も、もう、おきまりだ。
「さあね」
隼人はもういいや、と、彼女を手で追い払った。
葉月も何よとむくれたのだが……。急に寂しそうな顔になり、しみじみと一言。
「でも、私はどちらの女性も精一杯生きていると思う。私も頑張らなくちゃ」
葉月はそれだけしか言わなかったが、隼人には彼女がどう感じたか解った。
真っ黒な気持ちにどっぷりと落ちて這い上がってきた人だって、自分が誤解を招くような悪者になっても、ひとつの思いを貫くことだって。そして、それに気がついた時、それに覚悟して生きている時。きっと何よりも強くなれるのだと思う。佳奈もその佐々木嬢も、泣きながらでも悔しさや苦しさを噛みしめつつも、たった独りでも、前を向いている。──だから、私も同じ女性としてそうなっても頑張りたい。そう思ったのだろうと。
どんな人もそうして生きているんだと。今のウサギはいろいろな物が前とは違う形で見えているようだ。
そうして一人でも、どんどんウサギらしい答えを見つけていく今の葉月は見ていても、とても安心だ。
隼人は『そうだな』と微笑むだけ。それだけでも、ウサギは満足そうだ。
「早く、風呂……入ってこいよ。次、使うから」
「……え。う、うん……」
それは隼人が今夜は『そうしたい』という合図だった。
途端に、生意気なじゃじゃ馬大佐嬢から、戸惑いのウサギの顔になった葉月お嬢様。照れくさそうにバスルームに入っていった。
隼人は少し可笑しくて、ぎこちなくバスルームに消えたウサギを見送った。
・・・◇・◇・◇・・・
ベッドサイドの小さなチェスト。
そこはいつも彼の読みかけの本が置かれたり、眼鏡が置かれたりする場所。
そして今は新しい仲間。
最近、本島に行った時についに買った『アロマランプ』。
今までどうにも気に入るデザインがなかったので、諦めていたが、こうして買い物に出かけるようになったら、案外直ぐにお気に入りが見つかったのだ。
今夜は薔薇の香りを贅沢に──。
皿の上に敷いた水の上に、オイルを数滴たらす。
そして灯りのスイッチを入れた。
このほんのりとした照明具合も、なかなか良い。
人間本来のなにかなのだろうか? このほの明るさに心が緩まっていく感触は?
ランプが暖まってくると、ほんわりと華やかな香りが、葉月の鼻先をくすぐりはじめた。
洗い立てのシーツはお日様の匂いがする。
さらさらのコットンの感触が素肌を包む感触も、ものすごく気持ちを和らげてくれる。
ああ、早く来ないかな?
そうでないと、私……もう、寝てしまう。
ちょっとだけまどろんでしまう。
やがて、カチッという音と共に、葉月を包んでいたほの明るさがなくなった。
葉月のまどろみも、そこで止まってしまう。
だけれど、すぐ側にバスローブを羽織っているだけの隼人がいた。
彼がランプを消してしまったのだ。
葉月も彼を迎えるように、おもむろに起きあがった。
「結構、これ香り出るんだよな」
「いいでしょう?」
だけど、彼はちょっと苦笑い。
「いや……嫌ではないけどな。ちょっとこの薔薇はきついなあ」
「そう?」
葉月もいつもより多めにオイルをたらした感はあるので、やりすぎたかと思った。
「入浴剤の香りとは違って、オイルは鮮烈だな。このまえの柑橘系は結構良かったのになあ」
「そうなの……」
男性の好みじゃないのか、隼人の好みなではないのか……ともかく、今夜は気に入らなかったらしい。
それでも良いけれど、ちょっと残念。
葉月がそうして考えていると、彼はもう……既に気持ちは充分に高まっていたようだ。
彼の手が、いつものようにまだ乾ききっていないしっとりとしている栗毛を狂おしそうに撫ではじめる。
そして静かに耳元に、その頬を寄せてくる。
「それに……灯りついていない方が、いいだろう?」
急に熱帯びた吐息混じりの囁きに、葉月の胸が焦がれるようにきゅっとした。
その声に溶かされるように、委ねるように……葉月はうっとりと瞳を閉じて、それだけで切ない声が漏れそうになった。
そのまま頬と頬を寄せ合い、近づいた唇を直ぐに重ねずに、お互いに確かめ合うように見つめた視線も一緒だった。
一緒だったね……と、それもまた通じたように確かめ合う視線が重なる。どちらとなく目を閉じたら、もう、そこには薔薇の香りも気にならなくなる柔らかいキス。そして、徐々に情熱的なお喋りをするような口づけ。
彼の手が静かに優しく、レエスで縁取られた真っ白いキャミソールを腰からまくり上げ……。いつものような、あの春風のような手つきで、そっと葉月の素肌乳房を包み込んだ。
彼の手順はもう知り尽くして、決まっているのに……。それでもその次が解っているからこそ、なんだか、ドキドキしている自分がいた。
胸先の桜色の花びらをそっと慈しむように愛でる優しい指先と、時々入り交じる男性的な荒っぽい指先が、意地悪に交差していく感触に徐々に翻弄されていく。
「あ……ぁっ」
我慢できなくて漏れてしまった自然な声。
まるでそれが合図のように、隼人に押し倒される。
そして急に彼の手つきが早くなり、白いショーツしか着けてなかった下半身はすぐに……素肌にされてしまう。
白いキャミソールはめくり上げたままで、隼人の口先が……今度は男の彼が思うままの調子で、そこらかしこを夢中に愛してくれていた。
「う、うう……ん……」
薔薇の微かな香り。
さらさらのシーツ。
そこに素肌を絡め、そしてその素肌には暖かい人肌が寄り添い──そしてとても恍惚としてしまう心地よい感触を、絹布でゆっくりと包むように延々と与え続けてくれる彼の熱い息を伴った唇の軌跡が、葉月の栗色の茂みの奥から、ずっと上がってきて……最後にいつものように唇に到達した。
「いいか?」
「すごくいい……」
彼の熱っぽい問いに、葉月も吐息混じりに呟き……そして幸せを感じている微笑みを見せる。
そうすると隼人もとても嬉しそうに微笑んでくれる。
そのときの女としての極上の幸せ……。
気持ちが高まった時の口づけは、もう、お喋りなんかではなかった。
そこには恋人以上の『男と女』のぶつかり合いと労りを感じるとても狂おしく激しいもの。
今からもっと、もっと愛し合うんだ……という、始まりの合図。
「……はあ、葉月」
「う、うん・・・」
彼の目が切なそうに葉月を求める眼差しに、葉月もじらさずにすぐに頷く。
静かに近づいてくる彼の情熱が、最後には待ちきれなかったかのように葉月を激しく貫いた。
「は、隼人さん……」
急にじれったい疼きを感じる針を打たれたようにたまらなくなって、葉月は隼人に抱きついた。
それを解ってくれたかのように、もう痛いぐらいに存分に中途半端な焦らしも無しに、夢中に愛してくれる。
……気が遠くなりそう。
それぐらい、隼人がすること全てに身を任せ、葉月は今夜もすっと彼の中に落ちていく。
春風が熱風に、そして烈風に──。生やさしい焦らしもなしに、今夜の隼人はどうしてか、最初から飛ばしているような気がした。
一瞬……葉月は『どうして?』と思った。
「……これで俺と二人きりになったと……思わないか? 葉月」
「え?」
「……皆、お前の側から旅立っていく。そう、もう……お前の側にいるのは俺だけだ」
「……は、はや・・・」
側にいたライバルだったはずの男が去っていった。
隼人にとってそれは勝利とかではなく……やはり、それは彼にも同じ女性を支えてきた中での寂しさもあったのだろうか?
これから『二人きり』──。そんな不安ではないような隼人の気合い。
今度こそ、本当に『二人だけで生きていくのだ』という、彼の気合いみたいに葉月には感じた。
思いの丈を刻みつけるように、今夜の彼は最初から全力投球だ。
彼のそんな思いに巻き込まれてしまい、葉月はただただ彼の思いを身体いっぱいに受け止める。
「ふ、ふたりきりでも……。二人きりでも、貴方だけいてくれたら……いい!」
「葉月……」
もっと激しくぶつかってきてくれるかと思ったのに……。
急に隼人が止まってしまった。
葉月ははたと我に返って、隼人を見つめ直した。
「ど、どうしたの?」
「……急に惜しくなったともいうのかなあ」
なんだかバツが悪そうな顔。
「じゃ、なくて。今の俺、怖くなかったのか? 結構、我忘れていた」
「・・・だ、大丈夫だったけど?」
「良かった」
ひとつになったまま、隼人はそっと葉月の目元に口づけてくれて、気を改めるように深呼吸。
今度はベッドサイドに手を伸ばし、先ほど消してしまったアロマランプを付けてくれた。
ほのかに汗ばんだ肌が一部分だけぼんやりと暗がりの部屋の中に浮かび上がった……。それだけ僅かな光量なのだ。
そして薔薇の香りもほんのりと香り始める。
「……香り、嫌じゃないの?」
「お前がリラックス出来なくちゃ意味がないだろう?」
「あ……」
蜂蜜のようにとろりとしているような口づけで唇を塞がれた。
今度はゆっくり、じっくりと……いつものあの意地悪と錯覚してしまうような春風さんの手が、葉月の身体を支配していく。
自然と彼の肌に爪が立つ。あんなに激しく愛されるからひっかいてしまう事もあるけれど、むしろ……こうして意地悪をじっくりされたほうが、彼に仕返しをするようにひっかいてしまう。
「……痛いだろ。もっと優しくしてくれよ」
だけれど、隼人は……それすらも楽しんでいるように見えた。
たぶん……素直になった身体はそのまま悦びに震え、最後には薔薇のオイルと一緒に立ち上っていったと思う。
なんて素敵な恍惚感。
そのまま眠ってしまいたい、眠って……。
隼人に魂を抜かれたように、葉月はそのまま心地よく震えた身体の感触を噛みしめるように眠りに落ちたようだった。
『だから、そんな幸せは・こ・・な・・・い』
「いやあーっ!」
ものすごい勢いで跳ね起きていた。
頭が凄く混乱していて、あたりをきょろきょろと見渡しても何が見えているの解らない! まるで暗闇の中だ……!
「どうした……! 葉月」
「!」
灯りがぱっとついて、そこには裸の男性が一人。
びくっとして、彼を突き飛ばそうとしたのだが……!
その男性が両肩を掴んで葉月の身体を揺らした。
「……しっかりしろ。俺だ!」
「……ああ」
良く知っている男性で、急に力が抜けてくる。
そのだらりと崩れそうな身体を、彼が抱き留めてくれた。
「隼人さん……。なんだか息が苦しい、死にそう」
「……大丈夫だ」
その腕は、硬く抱きしめてくれるのではなく……とても柔らかかった。
そして彼の腕は葉月のように怯えてなんかいない。
息が苦しいのは、胸が押しつぶされそうのたとえなのだが、それでも……呼吸が楽になってきた気がする。
そんな彼が呟いた。
『俺もそいつと一生、戦う。お前と一緒にどこまでも……』
二人だけ。今度は二人だけで、始まる戦い。
それは一生消えることのない傷と、延々と続くこの突発的に襲ってくる訳の分からない恐怖との、終わりのない戦い。