-- A to Z;ero -- * 秋風プレリュード *

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2.忘れているもの

 夕方になり、業務が終わる。
 女医のマルソーと待ち合わせする時間は19時だった。
 残務を手がけている内に、その時間になった。

(ち、制服か)

 制服で女と出かけるだなんて……。
 右京には考えられない。
 たとえ相手のことを『女』と思っていなくて、『ただの医者』であっても──『形は女』なのだ。
 そんな形をしているものと出かける、向かい合うのに、『軍服』だなんて……。

(これも仕事だ)

 そうそう。これも仕事と思ってしまえばいいのだ。
 それと一緒だと右京は言い聞かせた。

 去年、仕事で出会ったアナウンサーの彼女とだって、最初は仕事で出会って、軍服で出かけたではないか?
 写真雑誌に記事にされてからは、彼女の方から疎遠になってしまったのだが。
 右京にとっては『やはり、その程度か』と思うと同時に、そこでスッと退いてしまったそれすらも、『可愛いもんじゃないか』と思ってしまうのだ。
 それでも一時でも一晩(と、言っておく)でも、彼女と夢を見た……。それだけでも充分『幸せ』な瞬間があったのだから、良いのだ。それで……。

「さて──。どこにするかね」

 これがデートなら、行きつけの数々の洒落たレストランをピックアップする所だが。
 絶対に『重い話』になるだろうし……。
 考えたくないが『喧嘩』ぐらいにもなるのではないか? と、右京は思っている。
 そういう事が許される場が……どこかあるだろうか?
 右京は唸りつつ、渋い顔のまま、待ち合わせている駐車場にやってきた。

 すると、駐車場の片隅。
 本当に片隅──土地の角にあたる場所に、女がひっそりと立っていた。
 それを見ても、右京は僅かに眉間にシワを寄せる。

 この日暮れが迫っている曖昧な光彩の中、まるで『幽霊』のように……寂しそうな女が一人。
 華がなくて、ひんやりとした空気がそこから漂っている。
 思わず、足を止めて回れ右! を、したくなる雰囲気だった。
 ただでさえ、彼女の言動に同じ位置をキープしているはずの心の針の振幅が、激しく振り切りそうだったと言うのに──。

 しかし……右京の中で、妙に叱られたようなあの声が蘇る。『緊急を要します。お解りいただけましたか?』──あの、迫るような声。
 彼女がどうしてわざわざ右京に会いに来たか。その『重要な理由』が分かっているだけに……。あの危機感迫るような声には、逆らえなかった。
 だが──今夜、なにかが暴かれてしまいそうで、右京には近頃感じることもなくなった、嫌な緊張感がつきまとっている。

 それに、歩み寄っていく内に……。
 妙にしみったれた様にも見えていた幽霊のような女から、跳ね返されるようなパワーみたいなオーラを感じ始めた。
 スッと硬く磨き上げれた女体彫刻に引き寄せられていくような感覚に変わっていた。

『眼だ』

 右京はそう思った。
 遠くでは分からない、彼女の眼だった。
 彼女の眼は……なにかが『強い』。

 きっと、電話番号を記したメモ紙を手渡した時。
 彼女と合わせた『眼』で、既に右京は負けていたのかも知れない。
 それだけの覚悟で来てくれた? と、言うことだろうか。

 右京の気持ちも固まる。
 目の前にただ立っているだけで、他の色合いは醸し出すことない女医の前に向き合っていた。

「お待たせしましたか」
「いえ」

 それだけだった。
 それ以上は何も思わせるとか感じさせるとか……まったく含みもない様子に、右京はやっぱり溜め息をつきたくなる。
 この時間まで、どうやって待っていたから大丈夫とか、そんな相手の『待たせてしまったかな?』という不安を労ろうとかいう柔らかみが、まったくないのだから。
 ああ、こんなリズム感が合わない『人間』と向き合わねばならぬのかと、右京はさらに密かな溜め息。ひきつり笑いすらも、浮かんでこないぐらいだ。

「では、少佐。行きましょうか」
「え」
「私がご案内致します。こちらから、押し掛けてきたのですから」
「!……ちょっと、先生……?」

 そんな右京の『億劫さ』からくる隙をついたかのように、彼女がスタスタと車が並んでいる中へと突き進んでいった。
 こんな事──! エスコートはお手の物の『俺様』が、先手を取られた?
 女に『案内される』だなんて、とんでもないっ。
 右京はハッとして、真っ直ぐに突き進む彼女の背を追った。

 きっちりと結い上げている金髪は、これまたありふれたべっ甲のバレッタでまとめられているだけ。
 その大きなバレッタをめがけるように、彼女の背に追いついた。

「先生。小笠原から来たのに、車を?」
「ええ。こちらの医療センターの知り合い医師から借りてきましたから、ご安心を」

 彼女がまるでロボットのようなしゃきっとした仕草で、くたびれた革のキーホルダーを肩越しに見せた。

「車なら僕が持っていますし。運転も僕が──」
「こちらが押し掛けたのですから、これぐらい当然でございましょう? 少佐。お食事の気分ですか? それともお茶だけで構いませんか?」

(行く場所まで、決められるのか!)

 右京はおののいた。
 彼女のその先手、先手。テキパキと『余裕や膨らみ』を持たせない、『目的のみ』の手際よさに。

「……お食事の気分です」
「あら、そう。お茶かと思いました。てっきり、また手短にされるかと」
「先生だって、それだけで帰るつもりない覚悟でしょ。お茶なんて言ったら、叱られそうだ」

 そこでやっと……。
 彼女がそれらしく微笑んだ。

「やっと分かって下さいましたか? 私がどうしてもお兄様にお会いしたかった訳とその重要さを」
「……」
「どうかされましたか?」
「いいえ……?」

(うんと美人ではないんだけどなー)

 右京は、やっぱり車までまっしぐらの彼女を密かに見下ろしていた。
 美人でないが、笑顔は優しそうなものだった。
 その笑顔だけでなら、『美味しく』なれるだろうと……。

『お医者さん特有の冷たさがあるんだけどね。でも、とっても優しい先生よ』

 従妹はいつもそう言っている。
 だから──それ程に、『従妹を心配してくれていた』と言うのが……今の笑顔ひとつで伝わった気がした。

 彼女が借りたという車まできた。
 医療センターのどの医師かしらないが……。ありふれた国産車で、なおかつ、通勤で使っているだけと思わせる雑然とした『男臭さ』が漂っている上に生活感が溢れている雰囲気だ。
 彼女がキーを差し込んでドアを開けると、右京が想像していた通りの『ヤニの匂い』がむわっと漂ってきた。
 軍医と言っても『公務員』と一緒だ。
 たいていの隊員は『まともなお父さん』であるのであって、この軍という公務的な場で、華やかである右京の方が『おかしい』のは分かっているのだが。
 それでも、右京はあからさまに顔をしかめてしまう。

「ねえ、先生。先生のような女性を、このような『お父さん車』に乗せたくはないな」
「少佐。失礼ですよ。乗れるだけで有り難いではありませんか」
「……はい」

 そこでこう言って喜んでくれる女性はいっぱい知っている。
 そこで右京の白い車に嬉しそうに乗り換える女性だっていっぱい見てきた。
 なのに彼女には、生真面目な顔で、ごもっともな事をぴしりと言われた。
 こういう女性は初めてではないが『久しぶり』だ。
 それになんというべきか。ムッとするとかでなくて、右京はなんだか笑いたくなっていた。

「少佐。笑いたいなら、ちゃんと笑いなさい」
「え」
「笑いたいのに笑わないのはいけませんよ」
「……」

 どうしてだろう?
 なにをそんなに真剣に生真面目なの? やめなよ──と、大笑いしたい。
 なにをそんなに真剣なんだよ、馬鹿馬鹿しい──と、腹立たしくなって切り捨てたい。
 いつもなら、極端だが、このどちらかだ。
 なのに……彼女の今のその顔と声に、右京は固まっていた。
 これは直ぐには言葉では説明出来ない物、感覚。右京が常々、肌や空気で直ぐに感じ取る物が『いつもと違っている』と感じているのだ。

 彼女の声が……硬い生真面目さを突きつけているようなのに、言葉尻がとても平穏さを思わす柔らかさと優しさを感じたのだ。
 不思議だった……。

「いえ。もう、笑えなくなりました」

 不意打ちで慌てさせられた『仕返し』に、どんなふうにからかって『彼女』という女性をかき乱してやろうかと思っていたが……
 そんな気はすっかり失せ、右京は素直に微笑んでしまっていた。
 どこか気持ちが良かったのだ。

 そして彼女も、先程の笑顔を見せてくれていた。笑顔だけで答えてくれる気がする。

「では、行きましょうか」
「どこに?」
「それは。お楽しみ」
「へえー」
「こんな所、嫌だ。と言われる前に、連れていきます」
「げ。どんなところなの、それ? まあ、いいや。そこへお願いしますよ。それはそれで楽しそうだ」

 だけど、今度の右京はけらけらと笑いながら助手席に乗り込んだ。
 彼女『ジャンヌ』も、そんな右京を見てふと微笑んだだけ。運転席に乗り込んだ。

 彼女の運転で車は夏の夕暮れをみせる海岸線を走り始める。
 右京の目も、そうは色彩が濃い方ではなく、こうした光には強くはない。
 この時間帯に帰るなら、ダッシュボードにしまっているサングラスをかける所。
 隣の彼女は、どうなのだろう? と、右京はチラリと横目にて視線を馳せる。
 緑っぽい灰色をした眼をしてる彼女には、この西日はきついだろう……。

「少佐。私のそのバッグにサングラスが入っているの」
「はいはい。かしこまりました。マドモアゼル」

 いつもの『女性向けのお調子』をとってみても、まったく……クスリとも笑わない硬い女。
 最初から遠慮がない性格というのは許せるのだが、どうも、彼女の顔つきのせいか? それとも右京がそう感じてしまっているのか『命令』されているようで、妙に気になる。
 だが、それ以上に、心の中では『どき』としていた。
 サングラスのことを考えていただけに。
 そう言われるかもしれない状況も揃っていたから、偶然と言い切りたい。
 だが、右京が『予感』していたものが、彼女の行動、仕草の全てにおいて『見透かされている』と思えてしまうのだ。

 それが『恐ろしい』。
 葉月と半年向き合って『緊急を要する』ときた人間だからこそ──『怖い』のだ。
 彼女は、あの気難しくなってしまった可哀想な従妹の『仕組み』みたいなものを、よく噛み砕いたという証拠だ。
 ……と、いうことは、だ。

「どうぞ」
「メルシー」

 彼女が初めてフランス語を呟く……。
 声は悪くない。むしろ、右京としては『この声、いいな』と思わせてくれる甘さがある。その声で、柔らかいフランス語を囁いてくれたらどうかと、密かに期待していたが……。
 『全然』──期待はずれ。もの凄く重厚できっぱりした感じ。
 あの一瞬──右京の心を癒してくれたような『平穏で柔らかい言葉尻』だった彼女は何処へ?
 密かに、がっくりとしてしまった。

 サングラスを渡されて、彼女が片手で眼鏡と入れ替え、サッとかける。
 これまた、その真っ黒いサングラスがありきたりで、流行も何もなさそうな『それ何年前のモデル?』と言いたくなるゴッツリとした重さのあるサングラスをかけた。
 度を入れているにしても、右京だったら、その彼女のサングラスのようにあまりにも流行遅れだったら作り直す。だけど、彼女のそれは、たったひとつだけ。あれば充分──という、彼女の感覚とか生き方が見えてくるようだ。

 だが……妙に似合っている?
 サングラスをかけた途端。彼女の横顔が、もの凄くクールでしたたかで……まるで映画のロボット刑事とやらの横顔みたいだと右京は思った。
 それほどに硬く重く、それでいて『揺るがない』顔。
 夕日を真っ向から受けて前を向くその姿は──『美しい』。
 右京の中では、そんな『満足充分の絵』が完成した。

 だが、そのサングラスをかけた彼女を見て、右京は心を決めた。
 まだ、彼女とはほんの十数分しか触れ合っていないが、決めた。
 隣の『恐ろしい女』が、たったそれだけの時間で──そうさせた。

 右京はやっと、助手席で姿勢を崩し、狭い空間で足を組んだ。
 そして腕も組んで、走る海岸線の景色を眺めつつ……呟く。

「先生。遠回しとか駆け引きとかは、今夜はやめましょうよ。貴女とそれをするには、かなりリスクがありそうだ」
「同感です。ストレートに率直に行きましょう。私も『覚悟』してきましたから……」
「覚悟?」

 覚悟はこっちが決めたというのに。
 右京がまた……彼女のことを、何か珍しい物でもみるような、それでいて警戒する目をしていたのだろうか?
 真っ直ぐに夕日があたるサングラスが、セピア色にうっすらと透ける。その向こうのほっそりとしている目元が、柔らかくも哀愁を滲ませて崩れていた。

 何故か? その目に、右京は泣きたくなるような痛さを胸に覚えた。

「少佐──。貴方はきっと怖い人」
「!」
「生意気ですが、分かるのです。貴方は……直感力があって、僅かな事で様々な判断が出来る怖い人。誤魔化しが効かないでしょうね。大佐嬢にもそういう所があって、気が抜けませんもの。そんな彼女がしょっちゅう口にする『敵わないお兄様』ですから……きっと、と」
「……怖いのは」

 『先生の方でしょ!』と、いつもなら、のらりくらりとその場を濁すように笑い飛ばすはずなのだが?
 だけど、右京は押し黙ってしまった。
 そして、彼女がさらに呟く。

「大佐嬢から、時々でしたが、お兄様のお話を聞きました。僅かな『エピソード』からも、ふと、そう思いましてね? ですから。本当ならもっと前にお会いしたかったのですが、私も覚悟を決めるまでに『半年』かかったと言っても良いでしょう……」
「では、もっと前に?」
「……怖かったのです。貴方という『生き方』をしている人と向き合うのが。医者としてではありません。私という人間が、です」

 彼女も『俺様』に会うのに、怖かった?
 あんなに堂々と乗り込んできた気がしたのに、その感覚がイマイチ把握することが出来ないが、でも妙に『波長』があっている気がした。
   そこで、右京は益々覚悟を決めた。

 今夜は、誤魔化しが効かないストレート勝負の『真剣勝負』になるのだと。
 向こうもその空気を掴んだのか、またあの重厚な横顔を見せ続ける。
 それが余計に右京を威圧する。

 彼女がいうところの場所に向かう途中。
 二人は一切、言葉を交わさなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 見覚えがある道……。
 いや、よく通る道だった。
 そして辿り着いた場所も──。

「先生。まさか、ここ」
「そうですよ? もしかして、ご存じでしたか?」
「そりゃ。ここは僕の地元ですもん。自宅も遠くはない場所だし」
「そうでしたか。では、大佐嬢が言う『カマクラ』とか言うのはこのあたりなのですね」

 女医のジャンヌが連れて来てくれたのは、右京の馴染みある土地の店だった。
 毎日ではなくても、よく通る湘南の海岸線沿いにある『シーフードグリル』の店。
 魚介類を網の上で豪快に焼いて食べるのだ。
 和風の店もあるが、ここは『地中海風』を売りにしている店。海岸沿いにある少し高台にあたる場所にこぢんまりと建っている。

 地元で有名な店。
 鎌倉で生まれ育った右京が知らぬはずもない店だった。

 坂道を上がりきった砂利の駐車場に、彼女が車を停めた。
 その車を降りる前、彼女がシートベルトを外しながら教えてくれる。

「このお店も、『お父さん車』の先生に教えてもらったのです。私はまだ日本に来て半年。こちら本島に出てきても横須賀基地と、都内に何度か行ったことがあるだけで、何も知りませんので」
「うわ。もしかして初めての道を運転していたとか? 道──よく分かりましたね!?」
「こちらに来て、何度か運転はしましたよ。それに、教えられた道筋通りに運転しましたが? なにか?」
「いえ」

 彼女の『説明通りにやれば、出来るのだ』といわんばかりの当たり前顔。
 右京も『そりゃ、そうだ』とそれ以上は言う気にはなれなかった。
 ……『すごいじゃないかー』なんて、いつもならテンションが上がりそうな場面である気はしたのだが?
 何故だろう? 彼女のことは、無理してまで誉める気も湧きやしない。

(ああ、でも。この店なら平日は静かだ)

 地元の人間が、手が届く範囲でひっそり経営している。
 だけど、息が長く続いている知る人ぞ知る店だ。
 横須賀基地に長くいる『お父さん医師』なら、知っていそうではある。
 ……もしかして? 『お父さん先生』は『俺様』と同世代ではないだろうか? と、急に思えてきた。
 お父さんと言うが、右京だって年頃としては『お父さんでもおかしくない年』ではないか。
 それに──彼女も、同世代と言えば同世代だ。
 横須賀基地に出てきて、そういう年が近い医師と同僚のようになるのも普通の流れだろう。
 そこで、ふと気になって、右京は尋ねてみた。

「その『お父さん先生』。今日、貴女が誰かと出かける事を知っているのですか?」

 すると、右京が『怖れていた』ような返答が来た。

「ご安心下さい。『御園』の事は絶対に、匂わせてはいけないと思っておりましたから」
「!」
「……大丈夫です。それなりに『一人で出かける』という名目を言っておきましたから」
「……」

 『安心して下さい』──。
 その彼女の『配慮』に、右京は急に嫌な気持ちになってきた。
 『御園』を匂わせてはいけない。そこまで『把握』されている事がだ。
 それも右京が知らないところで、彼女が既に配慮を施してくれていたのが……妙に、受け入れることが出来ない自分がいた。
 『家の事は俺達だけで守ってきたのに』──初めて会った人間に、そんなふうにされていたことが……。
 そんな自分がいることを知ってしまった自分にも、途端に嫌な気持ちになっていく。

 すると、車のエンジンを止めサングラスを取り払い、硬い印象だった眼鏡もかけていない彼女の顔が……。サングラス越しでうっすらとしか見えなかったあの『哀愁たっぷりの瞳』でみつめていた。
 先程は、泣きたいような痛さを感じたが。今度は何故か『攻撃』しなくてはいけないような気持ちにさせられる。
 物も言わない右京の硬直具合に、彼女も察したのだろうか? 『知り合う前に極秘事情』を察してしまっている事、余計な事を施してきたことに、右京が受け入れられずに腹を立てていることも──。

「まず、お腹一杯になってから……」
「そういう気休めはやめようと、さっき決めた。『俺』と『貴女』が向き合って、そういう気休めや気遣いに心理戦みたいな駆け引きをしても、時間の無駄で、どっちも精神力を必要以上に使う。俺は貴女に対してそういう人間だと感じたし、貴女も俺のことをそう思ったのだろう? 『互いに考えていること』が『見えている』くせに、何故? そんな事を言う? 俺が今、どんな気持ちか、『先生』だったら『お見通し』だろう!?」

 約束通り、いや? 契約通りか?
 笑いたいなら笑えと言った彼女だから、怒りたいなら怒れをしてみた。
 そこにはいつもどこか人を不安にさせてはいけないという、それには自らが余裕であることを心がけてきた『御園右京』ではなかった。
 しかし、『勝負』と決めた人間には、これぐらい言えなくては話にならない。

 やはり──食事だなんて、そんな雰囲気になれっこないのだ!
 右京は『女医』に腹を探られるのに、嫌悪を抱いたままやって来たのだ。
 その上に、長年守ってきた『お家事情』を探られることだって、嫌だ。
 そしてその女医は、そこの『長兄』がそう感じているのを分かっている上で、乗り込んできたのだ。
 そんなに簡単に譲れない意志で向き合っている。
 ここで彼女が呆れて話し合いをやめるなら良し。逆に怒って、彼女らしいごもっともで生真面目なだけの説教じみた応戦があっても良し。
 右京は敵方がどちらを選択するか、息を潜め暫し観察していた。
 ハンドルを握って、坂の向こうに見えている夕闇の海をただ眺めている彼女の様子を確かめる。……だけど、同じように。哀しそうな瞳をしているだけだった。
 その瞳のまま、彼女は静かに呟き始めた。

「──葉月さんを診察するならば、どんな医師でも避けられない物を見てしまうことになる……。それが『始まり』でした」
「……だろうね。あの左肩の傷は、目立つ物だから」
「当然、誰も聞くことは出来ないでしょう。医師としてもそこは触れるどころか傷跡の具合を一目見て、より一層……。そんな疑問を抱いても、そこの原因に触れることに怖れることでしょう。ただ、彼女が軍人という事で、何かで負傷したという理由はつけられそうなものです。実際に、私がそうして『きっと、そうなのだ』と納得させましたから……」

 彼女がここまで来た過程を素直に、報告するように話してくれたので、右京も『もう彼女は判っているだろう』を前提に素直に返してみる──。

「それで? 先生はいつ? 葉月が『被害者だ』と判ったのですか?」

 『被害者』──従妹の肩にざっくりと刻まれている傷は、人に傷つけられた物。つまりは『事件』に巻き込まれた証であることをあっさりと明かしてみたのだが……やはり、彼女『ジャンヌ』は驚きの表情はみせもしない。
 予想通り、と言う所なのだろうが、それでもそこを感情に出さない落ち着きはなんだか流石だと言いたくなってくる。
 だが『予想通り』ではない事を、彼女が報告してくれる。

「それが……最初の数回の診察では、彼女も何も言わなかったのですが。毎回、傷のことは気にしていた様子が伝わってきました。私が女性だから、余計に気にしたのかも知れません。ある日、ふと。『殺されそうになったのだ』と『死にかけて、私は生き返ってしまったのだ』と……教えてくれたのです」
「……葉月が、先生に?」

 あの小さな従妹が、時折『他人様』に自ら過去を告白するような傾向を見せ始めたことは知っていた。だから、驚きはしない。
 それが何処ら何処までで、誰に──というのは、今はもう『葉月』の人を見る判断に任せている。が、密かにある程度は把握はしていた。
 しかし、女医は初耳だった。

「それで、先生は……?」

 右京がそう言うと……。あんなに強固そうだった彼女の顔が、申し訳なさそうに崩れ、唇を噛みしめていた。
 その女性の顔を見て、右京も固まった。
 彼女は右京と約束した通りに、彼女も……裏なしで素直な気持ちで向き合ってくれていることがこれで判った。

「お兄様、申し訳ありません。きっと貴方様が言った通りの『余計なこと』とは思いつつ……。既に心療という治療から離れてしまった私なのですが、本当に少しずつ……あの子が少しでも楽になればという程度の、専門的ではない小さな話は続けてきたのです」

 それが彼女が硬く守ってきただろう『タブー』を破ってしまった始まりのようだった。
 彼女にどのような心理状態が起きて、そんな流れへとなったかは、そこまでは右京にも分からない
 だが急に弱々しく崩れた彼女を見て、右京にはそれだけで分かる。──『彼女も、重い葉月を黙って背負ってくれていた』のだと。
 おそらく、この彼女が連隊長の義理的妹という事も気にせずに独断でやって来たのだろう。だから、小笠原からの報告も流れてこないまま、今日になって右京の所で初めてこの件の話になっているのを感じさせてくれた。
 それだけ、葉月に対するにあたり『慎重』を心得てきてくれた証拠。そこは感謝したい。
 それでもジャンヌは、本当に申し訳なさそうな顔で、華奢な指先で目を覆い、俯いた。
 その憂い顔……。不謹慎だが、右京はふと、見とれてしまっていた。
 それも右京の中で、完璧な絵だったのだ。そんなにぱっちりとはしていないつぶらな瞳ではあるのに、意外と長いまつげがくっきりと彼女の伏し目がちな表情を際だたせている。
 目を覆っている骨格が細くて折れそうな指先、爪先の、ピンと強く張っている具合が、彼女の戸惑う強さを表しているように見えた。
 彼女がそこまでして、何かに怯え、震えている感情の微弱な電波のような物が……右京にはピリピリと伝わってくる。
 そんな微弱な電流のような震える声で、彼女が話し始める。

「雑談程度のつもりで、それを心がけてきたつもりでした。……私が来た頃、春──何があったかは詳しくは知らないのですが、彼女の心労は大変な物でした。だけれど、彼女はちゃんと自分と向き合って、克服しようと前向きで。その『強さがある』と判断出来たので、これについては安心していました。すると、つい最近……久しぶりに来た時には、うって変わって、とても幸せそうでした。なんでも私が来た時には、仲違いしていた『恋人』と復縁して、とても良い関係に戻れたとかで……。だけど『その恋』と『これ』は別物のような気がして、彼女の中で『置き去り』にされているような気がしています。そして……どうしてなのでしょう? 『お姉さん気分』でやっていた程度のことなのに、私の方が徐々に不安になってきて……。『あの子』がとても輝いてきた姿を微笑ましく嬉しく思いながらも。どうしても拭えない不安と、悪夢が見えるようで……」
「──!」

 彼女のその切羽詰まったような話しぶりに、右京は感じた。
 彼女も、全く同じ『不安』に辿り着いている! と……!
 それも右京と同じぐらいの危機感を持っている?

「……そこまで。察して下さったのですか」

 そしてこれまた素直に、彼女がこっくりと頷いてくれた。
 もう強固そうな顔つきはどこにもなく、彼女は『従妹を心より心配してくれる一人の人間』であることが、分かる。

 そして──そんな新鮮な安心感を感じると同時に、それを打ち消すかのような、封印したい、封印してきた物がドッと溢れ出てきたように、右京の手の平に汗が滲んできていた。

「い、従妹は……」

 言いたい。
 この『女医』に言ってしまえば、もしかすると? 少しは『俺も楽になれる』のかもしれない。
 でも、長年、そうさせてきた『封印癖』が、なかなかそうは素直にさせてくれない。
 すると、彼女の方も言いにくそうだが、代わりとばかりに言ってくれた。

「──葉月さんは忘れていますね。殺されそうになった時の事を? 違いますか?」
「……」

 そのきっぱりした口調に、横顔──。
 それは既に右京を威圧してきた硬い女、強固な女医の姿に戻っていた。
 その様子で彼女は迷いを捨てたように、テキパキとした物言いで続ける。

「自分が殺されそうになったことは『認識している』。自分の身に起きたことは分かっている。だけど、実際に目の前で『見た物』は……忘れている。つまり……一部健忘。心因性の逆行性健忘。島状の記憶喪失……」

『そうです』

 そう言いたいのに、言えなかった。
 彼女は、右京にそう答えてもらう為の『間』を作る為に黙ってくれたのに、言えなかった。
 そこを察した彼女が、また女医の顔で続ける。

「大佐嬢は、その『PTSD──心的外傷後ストレス精神障害』から展開した『無恐怖症』の『フィアレス』の傾向も……。しかし一番の問題は、その『忘れてしまっている記憶』です」
「……」

 ……なにも言えなくなった。
 専門的な用語は、一般的な物しか知らないが、確かに良く言われる心的外傷があったのは確かだと思う。
 事件の後、お決まりのカウンセリングだって、きちんと受けたぐらいだ。
 結局、それらだけで解決には至らず、今になっているのだが……。
 それに、実際に、葉月は……。

 今度は右京が、助手席でうなだれる。
 栗毛をかきあげて、俯いた。

「従妹は『犯人』を一人だけ、忘れている」
「……一人だけ? 他にも、いたと!」
「その件で、憎むべき犯人は数人いたが……葉月は一人だけ忘れている」
「そ、それは、もしかして……。やはり……?」

 ジャンヌの声も、何かを察し始めたのか、震えているように右京には思えてきた。
 そんな彼女に支えられているような感覚に、逃げたくなる気持ちになりながらも、右京はそのまま委ねてみた。

「そう。左肩にぐっさりと、身体にも心にも傷を刻みつけた男だ。そしてその男が『姉』を死に至らしめた事も。そして、逃走し『生きている』のも知らない……」
「! それを……思い出したら、そして、知ってしまったら、どうなるの?」

 その彼女の声は、『女医』ではなかった。
 それだけで、右京は……救われた気持ちになれた気がする。
 だからまるで『同志』が出来たかのような感覚で、答えてしまっていた。

「さあ。考えたくないな。俺も恐ろしくてたまらない……」

 右京でなく、隣の女医の方が『ほう』と言う愕然とした溜め息と共に、脱力していた。

 夕闇が迫ってきている車の中──。
 遠いさざ波の音だけが聞こえてきた。
 フロントの向こうにみえる水平線が、右京が待っていた闇を呼ぶように、柔らかい夕方の色を吸い込み紫色に滲み始めていた。

 食事は取りやめになった。
 今夜は右京の方も、これ以上は苦しくなりそうだ。
 彼女もそうなのか、それとも右京の密かな状態を察してくれたかは分からない。
 でも彼女は、何度も溜め息をつきながら、再び、海岸沿いに車を走らせ始めていた。

 そして、右京から彼女『ジャンヌ』にこう言ってしまっていた。
 『もっとゆっくり話したい。近いうちに、小笠原に会いに行くよ』──と。
 彼女は驚くわけでもなく、躊躇うわけでもなく……ただ、あの静かさでこくりと頷いてくれていた。

 

 『緊急を要する』──それは今に始まったことではない。
 葉月を見守る者達は、特に近しい者達は、それが『いつか』と長年怯えてきたのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 まだ残暑とはいうから日射しは強いのだけれど、歩くと身体の周りを流れ始める空気は、もう九月の爽やかな風──。

 爽やかなんて。
 気のせい?

 葉月はふと立ち止まり、歩いていた道沿いにある店舗のウィンドウを見た。
 暑いからジャケットを小脇に抱えて、白いシャツブラウスにタイトスカート。
 モノトーンのオフィススタイルは、この街の風景に溶け込んでいる。……たぶん。

 そんな黒いスーツ姿の葉月の後ろから、ふっと男性の影。
 同じく黒いスーツを着込んだ栗毛の男性が、ガラスに映った。

「ネクタイ、苦しいな」
「我慢しなさい」
「暑いし」

 付き添いで一緒にいる部下で後輩のテッドが、出来上がって着込んだばかりのワイシャツの袖をまくろうとしていた。
 それ見た葉月は、テッドのまくろうとしている手をぎゅっと握って阻止した。

「なんですか。本当に暑いですよ。大佐だってジャケット、脱いでいるし」
「いい? 長袖で涼しい顔が出来たら『合格』よ」
「えー」

 葉月が睨むと、テッドが致し方ない、でも、渋い顔。

「せっかく素敵になったんだから、なりきってよ」
「了解です。うん、頑張ろう」

 隣の青年が、ネクタイをキュッと締め直す。
 その瞬間に、着慣れない上に暑さにだらけそうになっていた『スーツを着ているだけの青年』から、急にぴしっと芯が通った『スーツを着こなしている男性』へと雰囲気が整った気がした。

(人のこと、言えないけど)

 そういう葉月も『制服以外』の服装に、自ら気を遣うようになったのは、ほんの最近のこと。
 それでもそこは『女』というのだろうか? 始めてしまえば、自ら次々と楽しむことが出来た。
 そこは男性よりもきっと馴染みやすいのだろう。

 それにしても──。と、葉月はテッドを見上げた。

「なんですか?」
「うーん? テッドは若くて良いわね。さっぱりしていいわ」
「は?」

 彼は首を傾げたが、葉月はそのまま放って前を歩き続ける。
 置いてかれまいとついてくるその速度、隣に並んで葉月の歩幅に合わせてくれる速度も、葉月には新鮮だった。

 いつも──男性と言えば、後をついていくか隣で支えてもらっていたか、という感覚しかない。
 それに、皆、『男』という匂いには、充分に世間でこなれてきた『お兄さん』ばかり。
 あの同期生感覚だったはずの達也ですら、いつのまにか、その『大人のこなれた匂い』というものには、ずっとずば抜けた所に行かれてしまった気がしている。

 こういう『同級生』か『後輩』と、二人だけというのも近頃の新しい感覚だった。
 そして葉月だけがしっかりしている訳でもないし、彼の力だけで葉月が支えられているわけでもない。
 どこか足元がおぼつかない同士で、数ヶ月、関係を築きあげてきたと言っても良い。
 その感覚を磨き上げてきた手応えが、そろそろ、お互いにカッチリ合ってきた気もしていた。

 そんな所、『若い』と思うのだ。
 馬鹿にしているのではない。
 初々しいとも違うし、頼りない訳でもない。
 なんというのか『純粋に一生懸命』と言えばいいのだろうか?
 余裕たっぷりに、でも自分の身の回りに散らばっているあらゆる事に警戒を抱いたり、良く見極めようと言う距離を上手く計ろうとする『世慣れた大人の男』とは、そういう所が違うと言いたい。
 彼等にしてはそれが充分に世を渡っていく『法則』として身に付いたのかも知れないが、もしかすると『私達の法則』とやらは、ただ単に『純粋に一生懸命』──。周囲に散らばっているモノを分別する余裕もなく、気にする間もない時もあるし、見えない時もあり、そして分別の仕方が判らない時だってある。それでも『何かだけを信じて』、ただひたすら『一生懸命だけを武器』に進んでいくのだ。

 それを──初めて見た気もしていた。
 つまり、そう言う感想。

「大佐って時々、かなり『不思議系』ですよね〜」
「慣れたでしょ」
「だいぶね」

 そして彼は、楽しそうに笑ってくれる。
 葉月も同じように笑った。

「それにしても、大佐。よく会う気になりましたね? 澤村中佐が言い出した時には、『なんなのそれ』と大佐は一発で切り捨てると思ったのに」
「……前ならね」
「近頃、お目覚めの──『女性感覚』ですか? 仕事には関係ないと思いますけどね……」

 彗星システムズの小笠原訪問が無事に終わって数日後。
 隼人が躊躇った様子で、葉月に──『青柳に会って欲しい』と言い出したのだ。
 何故? 畑違いの仕事をしている女性から『面会』を望まれたのかが分からない。
 隼人の思う所は聞かせてもらい、葉月も隼人と同じ判断で『それは私情なのでは?』と、受け入れないという判断だった。
 だけど? なのだ。隼人は『嫌ならはっきり断って、無理に受け入れなくても良い』と言ってくれているのに、彼から聞いた話の展開と彼女の様子がどうしても、捨てきれない何かを葉月に感じさせた。

 それで『とりあえず、会うだけ会う』という結論を出した。
 まったく会わないよりかは、会った方が何かが判るというもの。
 無駄骨になるかもしれないし、だが、会うことでもしかすると……という成り行きに発展する可能性もある。
 それがもし? 何かの『チャンス』のきっかけだったら損になる。

 損、よりも──。
 何故か、そのチャンスの予感が葉月には拭えなかった。

 テッドは溜め息をついたが、それでも葉月が判断したことには『なにかありそう』と言う余裕を見せてくれるようになった。
 だから、彼もスーツをこさえてまで、黙ってついてきてくれたのだ。
 それに、今回は『なんだか面白そう』とまで言い出した。
 テッドのそんな様子を見ていた隼人と達也が感心していた。

『大佐嬢が面白く見えてきたなら、もう、立派な御園補佐官』

 ──だって。
 どことなく『兄貴達』に、馬鹿にされているような気にもなったりしたが、そこはいつもの事で無視。
 そして、これこそ『周りに散らばっているものを分別する』だなんて余計なことより、今ともかく、『若い補佐官との法則』になっている『一生懸命、ただ前に行け』で、やってみるのだ。
 その上に──テッドが言う所の女性感覚も、捨てきれない部分があったのは確かなこと。

「あ、ここですね」
「あら、素敵」

 青柳佳奈に教えられた店に辿り着く。
 そこは日本料理店。
 水打ちをされている店先の玄関。
 のれんが九月の風に、優雅に揺れていた。

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