-- A to Z;ero -- * きらめく晩夏 *

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14.いびつな恋人

「つ、疲れた……」

 海野中佐のお供で出席した会議が終わった。
 隼人と一緒の会議の時も、もの凄い緊張をした事だってあるのに──。
 慣れていない若上司と、高官が並んでいたせいだろうか?
 うんと疲れて小夜は本部事務所に帰ってきた。

『これ、俺が取ったメモ。他の中佐や大佐嬢にも解るようにまとめてくれ』
『はい』
『じゃあ、それを昼までに出来るか?』
『!』

 昼って……。
 時計を見ると、40分ぐらいしかなかった。
 ちょっと自信がない。
 そうして戸惑っている小夜を、海野中佐は冷めた目で見下ろしていた。
 そしていつもの大きな溜め息──。

『出来ないことは出来ないとはっきり言う。出来ないのに出来るという無責任をやられると、こっちにも狂いが生じる。何時だったら出来る? 俺の要望範囲を超えていたら他の者にやらせる』
『……えっと』
『澤村中佐は、吉田のこと、まだ慣れていない新人と同様に、わざとハードルを下げていたと思うな』
『!』

 『これからが本物のお仕事』……。
 小夜はがっくりうなだれる。
 隼人が前よりも上のレベルに引き上げてくれたのは間違いないけれど、それはちょっと上がっただけで、本当はまだまだなんだって。
 そりゃ、解っていたけど──。やっぱり新しいハードルも苦しい。
 けど……小夜は顔をあげる。
 そうして『弾み』を手助けしてくれた隼人の為にも──。

『遅いかも知れませんが。今の私で完全にを保証するなら……。ランチ返上で12時半です。申し訳ありません』
『いや。それでOK。じゃあ、頼んだぞ』
『!』

 そうして達也に渡された彼のメモを手にして、自分の席にあるパソコンで書面を作成中。

 経理班の女性達は一斉に、ランチに出かけていって、小夜はその机の島に一人だった。
 お腹が空いたとか、私も休みたいとか、そんな気持ちになる隙が、今の小夜にはなかった。
 でも……ちょっと、気持ちを切り替えたい。
 なんだか頭の中の血が沸騰している気がした。
 あまりにも色々なことがありすぎて……。

 せめて冷たい水で手でも洗おうと思って外に出ようとした。
 丁度、出口にいるフランク中佐と御園大佐、そして隼人の三人が真剣な顔で何かの相談をしている所だった。
 ふと小耳に挟んだのは、シアトルに行く時に空軍管理がどうのこうの、と言う言葉が聞こえてくる。
 小夜は気にしないでそのまま廊下に出て、トイレ室に向かおうとしたのだが。

「吉田さん」
「……! 御園大佐」

 葉月が廊下に出てきていた。
 小夜は驚いてしまうと同時に、昨夜のとんでもない行動を思い出して、恥ずかしさを覚えた。

「ゆ、昨夜は──、ご迷惑おかけしました」

 小夜はそのまま頭を下げた。
 だけど、聞こえてきたのは優雅で静かな笑い声。

「これ。良かったら、また、飲んでみてね?」
「え?」

 彼女が小夜に差し出していたのは……。
 赤いアルミパックで包装されている紅茶のティーバック。
 昨日の紅茶のようだった。

「有り難うございます……」

 正直、かなりの驚きで小夜は茫然としながらも、葉月の顔ばかり見てしまっていた。
 大佐嬢が? こんなふうに女の子達がするようなことを……。
 だけど、その大佐嬢は小夜が受け取ると、もっと微笑んでくれた。
 他には何も言わない。

 でも……きっと彼女のお気に入りのアイテムだから、昨日の小夜のことを思って『貴女もこれで元気をだしてね』と言う意味なのだと思えたのだ。

「海野から聞いたわ。私は賛成よ」
「え!? ほんとにですか?」
「期待しているから、頑張ってね」
「た、大佐……」
「私、今までやってはいけないことばかり繰り返してきたと思っているの。それを振り返れば嫌な気持ちになるばかり。でも、私も吉田さんを見習って、『前』を信じて、一緒に頑張るから……」
「!?」
「その頑張る姿、ずっと見せていてね」
「大佐……!」 

 どう反応して良いか解らなかった。
 だって小夜からしてみれば、『大佐嬢』にまで登り詰めた彼女なんて、『スーパーレディ』に近しいものなのに。
 そんな彼女から、こんな人間味ある言葉が出てきて、それでいて小夜のことを……!

『今までやってはいけないことばかり繰り返してきた』

 その言葉に小夜は思い当たることがある。
 ひとつは小夜がこの前まで憎々しく思っていた『隼人という恋人への裏切り』を思わす時期があったこと。

 そしてもう一つは……。

 テリーが刺されそうになった経緯に自分もほんの少しでも関わっていたことはショックだった。
 思いあまって葉月の自宅に駆け込んでしまったのも、もう一人の当事者である葉月に、『噂よ』とか『嘘よ』とか言って欲しかったのだと思う。
 でも、彼女の顔を見た途端にふと思ってしまったのだ。
 噂にはもう一つあった。『御園中佐も愛人』だと。
 だけどその時は、先輩達の『一番の標的はテリー』だったので、手強い御園大佐を叩くよりかはテリーを叩きたいが為に、その噂ネタに傾いていたのだと思う。
 しかし──真実は『隠れた噂』の方だったのだろうと、小夜は予感したのだ。
 そして私の目の前の女性は思っただろう。──『私が刺されて当然だった』──と。
 今の小夜には解る。
 この目の前の女性が何を思い、何を感じるか……を。

『今までやってはいけないことばかり繰り返し……』

 形は違うが、昨夜は小夜も同じ思いを噛みしめた。
 だから──小夜は思う。

「大佐──。昨夜、私は刺されました」
「え?」
「同僚の柏木君に、いけないことに知らぬふりばかりして周りに流されていた今までの自分を指摘されることで、刺されたと同様の痛さを感じました」
「よ、吉田さん?」

 きっと隼人から報告されて知っているはず。
 なのに小夜が彼女に『刺されたのか』と聞かなかった事を察してもくれていて、それでも彼女が小夜に伝えたい気持ちが……。今、小夜が手に受け取った『とっておきのお茶』。それひとつで大佐嬢は『それを経験にして、また元気をだして頑張って』と言ってくれたのだ。
 前なら、ただ、自分の好みを押しつけられたお茶だ。としか思わなかっただろう。
 でも……! どうして? 今はこうしてお茶を一つ受け取っただけでも、その人の気持ちが分かるようになるなんて……。

 だから、小夜も……。遠回しで言ってみる。

「でも、刺されて良かったです。私、昨夜、今までの嫌な駄目な自分が死んだと思って、生まれ変わります!」
「!」
「刺された時に、許されたと思って! 独りよがりですけどね!」
「小夜、さん……」

 葉月が、初めて『小夜』と言っていた。
 だけど小夜は続ける。

「大佐もそんなことがあったなら、そう思われては如何でしょうか!」
「!!」

 目の前の大佐嬢が、とても驚いた顔で固まってしまっていた。
 そして、目の前で思わぬ事が起きた!

「……私、私は」
「た、大佐……!?」
「あ、有り難う。有り難う……」
「!」

 あの無感情令嬢で氷の大佐嬢と言われている葉月が──!
 小夜の目の前で、はばかりもせずに涙を流していたのだ!?

(ど、どうしよ!?)

 泣かせたとか、そんなことでなく!
 思わぬ人が泣いていることが……衝撃! なのだ。
 それも、目の前で泣き始めてしまった女性は、いつも大人びた顔をしている人でなく、それこそ小夜と同じ年頃の可愛い顔をしているのだ!?

「あ、あの……」

 きっと今の葉月は、自分が本部にいる大佐嬢であることを忘れているだろう。
 そうしてずっと『葉月という人間』として、泣いているのだ。

「有り難う、吉田」
「!」

 戸惑っていると、葉月の後ろに隼人が立っていた。
 彼がそっと大佐嬢の肩を撫でると、恋人が来たことを知った彼女が彼の顔を涙顔で見上げる。そして葉月が構わずに呟いた。

「ここにも、こんなところにも。私を許してくれる人がいたわ……」
「ああ、良かったな」
「でも私……。こんなの初めて」
「ああ」
「こんなの……!」

 もう一度言っておくが、ここは『四中隊本部』事務室出入り口が目の前の廊下だ。
 そこの女隊長が、そのまま恋人の胸にすがって、もっと激しく泣き始めてしまったのだ。
 流石に小夜も唖然としたのだが……。

 そんな恋人の肩を抱いた隼人は、直ぐ側にあるミーティング室のドアを開けて、そこに彼女だけを隠してしまった。

 小夜と隼人が向き合う。

「……結構な、普段もあんな感じなんだ」
「そうなのですか」
「吉田が思う程、彼女は強くないし、幸せでもないよ。そして、正直に言うと俺も楽じゃない」
「中佐」
「たぶんな。もし、お前と付き合うようなことになったら、間違いなく俺は毎日が楽しいと思うよ」
「!」
「男としてそう思えた。吉田には間違いなくそんな魅力がある。自信を持って欲しい。だけど、俺は……」

 憧れていた男性にそう言ってもらえて嬉しい反面、どうしてそれが叶わないのかという口惜しさが……僅かに生まれた。
 しかし、目の前の憧れていた男性の何かの強さを秘めた確固たる顔に……小夜は悟った。
 そして小夜はそれを真っ向から受け入れる為に、背筋を伸ばして彼に向かった。

「だけど、なんでしょう?」
「一度も、吉田だったら良かったと思ったことはない」
「はい」
「……あんなに『いびつな彼女』だけど、その『いびつさ』を俺は愛してしまっているんだ。彼女以外はもう考えられない」
「知っています。分かっています」
「……でも、そんな彼女を俺だけでは救えなくて無力さを感じても。こんなふうに他の人間が救ってくれることに出会える時もあると。『俺達』は教えてもらった」

 そして、今度はこの冷静であるはずの憧れの若中佐までが、目を潤ませているではないか!?

「──救ってもらえたと、彼女共々、感激している」
「!」
「有り難う。これからもよろしく。俺じゃなく、彼女のことも……」

『澤村中佐……』

 小夜がそう呟くと、彼は迷う様子もなく、まだ泣いている様子の彼女の所へ向かっていった。
 ミーティング室のドアが開いて、そこにいた葉月を……。

 澤村中佐が強く抱きしめる姿が……。

 当然、小夜の胸を激しく貫いた。

 ずっと持っていた恋心も。
 ずっと持っていた羨望も。
 ずっと持っていた妬みも。
 そして……知らなかった、こんなふうに『愛し合う人たち』がいることを。

 きっとうんと苦しいのだろうに、でも、そこには小夜がいつか欲しいと思っているものがある気がした。

「バカ! 騙された!」

 小さく吐き捨て、小夜はまっすぐに大佐室の給湯室に向かった。
 許可も得ずに入るだなんて、気にしなかった。
 それに入っても、いるはずの二人は隣の部屋でアツアツな最中、誰もいない。
 だから、やりたいことをしたかった!

 カーテンを開けると、キッチンには椅子に座って本を読んでいるテッドがいた。

「……な、なんだよ。どうしたんだよ」
「そっちこそ。なんでそこにいるのよ!」
「は? 俺は時々、ここで留守番ついでに休憩させてもらっているんだけど。お前、またなに一人で燃え上がっているんだ」
「うるさいわね! どいて!!」

 小夜はテッドを押しのけて、ティーカップに、葉月からもらった紅茶を直ぐさま入れた。
 それをきちんと入れもせずに、香りが出てきた時点で一気に飲み干した。

「元気になってやる。ええ! これは大佐の元気になる紅茶だもの。元気になってやろうじゃないの!」
「これ。あの人が好きなショップの紅茶。あの人からもらったのか?」

 なんだか呑気そうな声に聞こえた。
 あの手強いテッドの声すらも。
 小夜はちょっとイラッとして彼を見た。

「……知っているんだから。テッドだって御園大佐のこと、ずっと好きだったんじゃないの!?」
「!?」

 彼の表情が固まった。
 そこで八つ当たりみたいだが、もっと言ってやろうかと向かったのだが。

「ああ、そうだ。憧れていた。だからあの人に置いて行かれたくなくて必死だった」
「!」

 彼は取り繕うわけでもなく、あっさりと認めた。
 その過去の気持ちを隠そうとしない堂々としている落ち着きに、小夜は驚かされる。
 だけど、彼がちょっと『少年』みたない弱い顔になった。

「でも、吉田と同じだったよ。側に行って目の当たりにして、思っていた彼女と違っていて……。なにより俺等が入る隙はないもんな。俺はとっくに諦められたぜ」
「そうだったの……? テッドも!」
「だから、まだどこか淡い期待を引きずっているお前を見ていると、前の俺を見ているみたいでイライラしたぜ!」
「テッド……」
「俺にもこの紅茶、飲ませろ」
「う、うん」

 小夜がなりふり構わずに入れた残りの紅茶を、テッドもカップに注いで飲み干した。

「だから。あの人との恋はもういらない。その代わり、絶対に一番の補佐になってやるってね」
「そうね! 私もそう思った! それにぜぇったいに、私も最高の恋愛してやるっ」
「九月から、同じ班だってな。頑張ろうぜ」
「え。う、うん……よろしく」

 テッドがまた静かに英語の文庫本を読み始めた。
 そして小夜もなんだかすんなりと返事をしていたという変な感触。

 数年後、この彼と良い仲になるなんて。
 この時は小夜だって目の前の彼だって思っていない──そんな小さな予感。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 夜のとばりがなにもかもを覆い尽くすと、何故かホッとする。
 日中の忙しさのせいもあるかもしれないが、どこか暗がりのほの明るいだけの空間に身も心も慣れすぎているような気がする。
 葉月の手元には、また『月』の写真集。
 月のように、暗がりと僅かな明かりに生息し続けてきた自分をまた重ねる。
 だけど──『今度こそ』と、葉月はその写真集を閉じた。

 手元にはカモミールティにミルクを注いだもの。
 春からお世話になっている産婦人科医の女医が、こういった『寝付きやすい飲み物』なども、女心をくすぐるように親身に教えてくれる。

「なあ、どこか行きたい所の希望とかあるか?」

 実は目の前に、恋人がいた。
 彼はいつものようにノートパソコンを広げて、旅行の計画を立て始めたようだ。

「ねえ。今週はこられないって言っていたじゃない」
「心境の変化だな」
「……可愛い部下とサヨナラしちゃったから?」
「……」

 葉月がシラッと呟くと、隼人が固まってしまっていた。

「気に入ると、認めるのは違うと思っていたけれど」
「そういうの早く言えよ!」
「言って、聞き入れてくれたとは思えないわ。きっと『ただの部下』と言い張ったに違いないもの」
「ああ、そうだ。俺は『気に入る』におおいに傾いていたさ! それが?」

 なんだか開き直られたので、葉月はつんと横を向いた。

「妬いていたなら、妬いていたって言えよっ」
「妬いていません」
「嘘つけ。その顔は妬いてた!」
「もし妬いていても。数日前の素敵な週末で、全部チャラだもの」
「え。そうだったのか?」
「もし、よ。もしの場合」
「もう、どっちでもいいわ、俺」

 葉月はそこで、やっとニンマリと笑っていた。

「愛されているって、分かっているもの」
「愛されていると、ちゃんと伝わっている」

 二人はそっと微笑み合った。

 小笠原の暑い夏が終わろうとしている──。
 だけれど、ずっときらめいたまま、葉月にはなにもかもが深く繋がっていく気がしていた。
 何処か未だに、光とやらは眩しすぎて、手に届かないのではないかという不安はあるけれど。
 このまま、光ある場所にずっと向かっていけると……強く思いたい。
 葉月は、そう思い始めてた。

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