朝日が差し込むテーブルに、ノートパソコンをオンラインに繋げている時だった。
ベッドの横にあるドレッサーで、身支度をしている彼女が溜め息をついている。
「……だから、言ったのに」
ぶつぶつ言いながら、化粧をしている所。
「なに拗ねているんだよ。たとえ汚れなくても、今日までスーツは勘弁だ」
「もし汚れていなくて、お願いしたら、着てくれたわよね」
「もし汚れていなくて、お願いされても、今日は着なかった」
きっぱりと言い返すと、彼女が『意地悪っ』と肩越しに小さく言い捨てる。
「けど、俺だって。お前がそういうお洒落をすると思って、今日はいつもの適当ではない合わせた格好をしたつもりだぜ?」
「……どっちだっていいわよ。スーツじゃないなら」
それほど着る服にこだわりがない素朴なカジュアル男の隼人でも、この日は、『大人カジュアル』で自分なりに洒落込んでみた。
それも男の勉強のひとつ、一度はやってみるのも経験のうちだろうと、新しい私服も含め、今回の『らしくない宿泊プラン』に真剣に取り組んでみた。葉月にはあまり言いたくないが、『夏のボーナス一括!』みたいなものだ。そして一番高かったのは、なんと新しく買った腕時計で、彼女のピアス以上だった……。
その上、休日用の新しいスタイルにも挑戦してみた。スーツは揃えて着れば、それなりに様になるが、センスが問われる私服選びの方が、かなり頭を悩ませた。
なのに、『スーツじゃないなら、どうでもいい』なんていう、なかなか可愛くない言い方が返ってきたものだから、隼人は頬を引きつらせる。
だが、背を向けておしろいをはたいている葉月を見ている内に、隼人はすぐに頬を緩めてしまった。
今日は何処かの社長秘書のようなカッチリとした黒いワンピースを着ている彼女が、そんな女性の彩りは見せても、言う事は妙に女の子そのものなので、どうでも良くなってしまったのだ。
それに葉月も、そんな末っ子嬢様みたいな口悪を叩いただけの事のようで、すぐに鏡越しに映る隼人に微笑みかけてくれていた。
今日はこれから、横浜に向かう。
隼人の今夜の宿泊先は『実家』──そして明日の週明けは、彗星システムズの一行の小笠原行きに引率する為に横須賀基地に集合だ。
だが葉月はこの日曜日の内……夕方の便で小笠原に帰る予定。
なので、それまでは二人で横浜散策をするのだ。
念願だった。特に、地元出身である隼人がだ。
自分が15歳まで育った土地を、彼女に見てもらいたい気持ちがずっとあった。
彼女には、自分のあれこれを知って欲しいからだ。
今まで一緒に出てくる事すら希だったのに、昨年、一緒に横浜に出てきたにもかかわらず、そのチャンスを逃したので今回のスケジュールになった。
昨晩の計画を話していなかったので、葉月は何も知らないで本島にやってきたのだが、今朝、その提案をすると、とても喜んでくれたのだ。
今度こそ、一緒に中華街に行けるね──と、言ってくれた彼女の笑顔に、隼人もとても心が和む。
宿泊プランに入っていた豪華なバイキング形式の朝食も済ませ、二人でそうして支度をしている。
すると、華やかな顔つきに整ってきた彼女が、鏡に映っている隼人に話しかけてくる。
「ねぇ……都会の夜も素敵だし嫌いじゃないのだけど。今度は、何処か自然を楽しむドライブがしたいわ」
「え?」
「隼人さんと素敵な景色を見たいわ……」
「ああ、いいな。それ」
勿論、隼人としては『こんなことは一度きり』みたいな所はあったから、それは賛成だ。
むしろ、『次はこうしたい』と言う意見が同じだった。
それに……葉月が『二人で、こうしたい』と言ってくれた事が意外。
だけど、隼人は驚きつつも直ぐに笑顔で賛成をした。
「じゃぁ──次は、温泉だな」
「温泉?」
「あ、そうか……。肌を面前で見せるような所は、やめた方がいいか」
「……」
葉月が一時、俯いたのだが。
「でも、行ってみたい……。そういう所にゆっくり行った事がないのよね。それこそ行く気になることもない自分だけの殻にこもっていたのは言うまでもないけど……。帰国してからも、ずっと仕事だったし。海と空と飛行機の生活よ」
「そうか。うん、じゃぁ──考えてみよう。そうだ、近頃は個室に露天風呂があったりするらしいぞ」
「そうなの? 勿論、温泉地であっても構わないし、わざわざ個室専用にしなくても、そこはこだわらないわ。ただ、色々な景色を見てみたいの……。隼人さんと一緒なら、何処でもどんなことでも、きっと大丈夫だわ」
そして葉月が呟く──『貴方と一緒に』と。
彼女が本当に望んでいる事が何かを理解した隼人は、そこで神妙に了解し頷いた。
「分かった。また、計画するよ」
「また任せちゃってもいいの?」
「ああ。嫌いじゃないな、こういう事は。今回も結構、楽しんで手配していたし、お前がすごく楽しそうで嬉しそうだったから余計に。次は『俺らしい』で勝負かな」
「うん、楽しみ!」
葉月はすっかりその気になったようだ。
隼人も次なる目標が出来たようで、楽しくなってくる。
いつも僻地での生活。
軍隊という独特の世界で過ごしている日常生活。
毎日、どんなに割り切ってもつきまとう『上官と部下』と『男と女』の関係。
その波長を合わせながら、相手の様子をうかがいつつ、スイッチを切り替える連続。
だから、今回の『外泊』をしてみる事にした。
あの小笠原という世界を彼女と一緒に切り離してみたくなったのだ。
そこで大佐と中佐である事も、上官と側近である事も、パイロットでメンテ員である事も──『一切、忘れて男と女だけになってみる』。
それをしたかったのだ。
さらに、これから隼人は葉月の業務範囲から少し離れたラインに移ろうとしている。だったら、旅行などしなくても小笠原の中でもだいぶ距離が出来るようになれるかと思ったのだが、お互いが制服を着ているのを目にする限りは、どんな距離感でも同じ事なのだ。その上、職場の業務でも接点がまったくなくなるわけではないが、きっと今以上に減るのは確実──仕事のサイクルが一緒でなくなると言う事は、私生活でのサイクルもまちまちになってくるだろう。
小笠原にいると、彼女も隼人も『そこに集中してしまう質』だ。
だから──今まで以上に『二人でいられる時間』と言う物を、こうして持っていきたいと言う気持ちもあったのだ。
『なにもかも忘れて、彼女と彼と二人きり』──それは特に、大佐嬢という重責を背負っている彼女には、そんな息抜きも必要だと隼人は思うようになった。
今までは、それこそも彼女は『強く乗り越えていく女性』だと、過信していた部分もあるし、そこを二人で乗り越えられてこそ本物だと信じて疑わない部分もあった。
だけれど……彼女は、昨年、がっくりと力を抜いてしまう道を選択しかけた。
あの時──彼女だけが感じていた数々の『プレッシャー』と『迷い』を、隼人がどれだけ理解していただろうか?
頑張れば乗り越えられるはずなのだと、俺が支えてあげるから乗り越えてみようと……。あの時の隼人なら彼女にただそれを訴えていただろう。
彼女が脱力した一番の理由は、彼女が長年に抱き続けた『恋と夢』を選択した離別ではあったが……そんな走り続けた大佐嬢の『エネルギー切れ』もあったのではないだろうか? と、隼人は思うようになっていた。
それも彼女が帰ってきた時に言った言葉が今でも残っている──『ただの女になりたかった』と。
それは隼人の下では『出来なかった』と、彼女が言っているのに等しいと隼人には思えた。純一の側でなら『ただの女になれる』と言う選択をしたのだと……。
そんな色々な要素を含んだ離別だったと思う。
だからこそ──。
彼女の一部分である『ただの女である時間』を贈りたかった。
いつだって軍服を着込んでいた彼女だからこそ……。そこで存分に女である自分に満足が得られたなら、彼女もまた──大佐嬢として立っていける事だろう。
そして、隼人も……同じ事だ。
彼女の側を離れて、今度は自分の為に動いてみると言っても……やっぱり彼女が支えである事は言うまでもないのだから。
彼女無しの人生なんて、もう、考えられない。
彼女が大佐嬢だなんて、すっぱり忘れたい時が隼人にもあるのだ。
そんな時間をこれから持ってみたい……。
それは葉月にも通じたようで、これからを楽しみにしてくれる姿に隼人も安堵だ。
そうして今後の事を話しているうちに、開いたノートパソコンがオンラインに繋がったので、マウス片手にあちこちをチェックする。
メールが一通、届いていた。
(……良かった。チェックして)
差出人は、『彗星システムズ』からだった。
一昨日の会議の様子から、常盤と話した感じで、なんとなくそんな予感があったのだ。
いずれにせよ、明日……横須賀基地に集合の上、二泊三日で小笠原に来てもらう事にはなってはいるのだが……。
予感があたった隼人は、彼女が身支度に夢中になっているのをよいことに、画面に集中。
「ん? なんだって?」
そのメールを確認後、テーブルの上に置いてある携帯電話を手にした隼人は、折り返しの連絡をして確認を取ったのだが……。隼人は顔をしかめて、スッと立ち上がる。
そして、彼女が身支度をしているドレッサーの側にあるクローゼットの扉を開けた。
「どうしたの……?」
「ごめん、用事が出来た」
「え……!?」
今日の予定は、葉月と一緒に横浜まで出て、念願の中華街散策だ。
しかし、それを彼女も楽しみにしていたのに、隼人がクローゼットから取りだしたのは『軍服』だったものだから、葉月が黙ってしまった。
「ごめんな。でも、たいした用事じゃないと思うから。待っていられるか?」
「……」
隼人は、『午前中で終われるだろうから、ランチは一緒に取れる』というつもりで言ったのだが、目の前の彼女は『今日は終わった』と言わんばかりの残念そうな顔をしているのだ。
逆に、隼人の方が焦ったぐらい……。
「だからな? 彗星システムズの事だから、まだそんなに重要な用事ではないと思うし……。だけど、おろそかにはしたくないんだよ。あそこだけは繋いで置きたいんだ。一緒にやっていくのに……」
「大丈夫よ、行ってきて。近くで待ち合わせれば問題ないじゃない」
「葉月……」
彼女を安心させようと、あれこれと言い回っている『彼氏』の前で、途端に葉月はさっぱりとした顔で割り切った様子──。
それはもう隼人が制服を手にして軍人になろうとしているのと同様に、すっかり『大佐嬢』の顔になってしまっていたのだ。
「……お前にそんな顔はして欲しくないと思っていたのに。俺がさせてしまったな」
「仕事じゃないの。そんな事、平気よ。本当よ……? 強がりじゃないわ」
「ああ、その葉月の気持ち──その感覚になるだろう事は、よく知っているよ。だからこそ……だったのにな」
「貴方が今、一番──自分をかけている仕事じゃない。恋人云々優先なんて、私もそんな同僚なら、ご免よ」
「……だよな。まさに、それだよな? 大佐嬢なら」
隼人の方が、大きな溜め息をこぼしてしまった。
先程まで、あれほど末っ子嬢様の可愛らしさや恋人を慕ういじらしい女性の気持ちも見せてくれていたのに。
正直──がっかりだ。
葉月にではなく、ツメが甘い自分に。最後の最後で、何か『完璧』を逃した気分だ。
「早く支度をしていってらっしゃい。私はぶらりとショッピングでも楽しむわ。それぐらい、一人でだって出来るのよ。近くの喫茶店でいったん待つわ。その時、連絡するから具合を報告してね」
「……分かった」
「最後に念を押しておくわ。私が待っているからと、急いでは駄目よ。一日かかるような事なら、そっちを優先してね」
『仕事となれば、一日かかる覚悟も当然』といった確固たる言い分──だから先程、大佐嬢の感覚になった葉月は『今日は終わった』という覚悟の顔をしたのだと隼人は気が付き、今になって改めて驚いた。
ああ、大佐嬢の顔でテキパキと今後のスケジュールを決めてしまう彼女。
そして、その先手を打たれて、まさに大佐室状態の如く、彼女が見越した『指示』に従う側近へと据え置かれる男。
だからと言って、ここで彼女に駄々をこねられる方が隼人にとっては困る事。
こんなに割り切りが良いのもなんだかすっきりしないが、安心と言えば安心だ。
結局、そこに甘える事となり、隼人は降参の溜め息をもらす。
「有り難う。そして……ごめん」
本当にそう思っているんだ──と心で唱えるように、彼女を見つめた。
でも、彼女はすぐににっこりと微笑んでくれる。
「あのね……」
「どうした?」
ちょっと照れくさそうに俯いてしまった葉月に、隼人は首を傾げた。
そのまま、彼女が呟く……。
「あのね……私が大佐嬢でなければ、なんにもない頼りない女だって自覚しているけど」
「うん?」
「でも、偉そうかもしれないけど。そうして隼人さんに甘えてもらえたら……私も少しは一人前の女かしら? って……」
「葉月──」
そんな彼女の弱々しい姿を見て、隼人は制服をベッドに置いてドレッサーに座ったままの葉月を後ろから抱きしめた。
「どうしたんだ? そんな自信がない葉月は、ウサギらしくないぞ」
「大佐でなければ、本当になんにも出来ないただの女だって。包み込んで守ってもらうことを当たり前のようにして甘んじていたのだもの。そんな私が好きになった人達を、誰も幸せに出来なくて当たり前だったと、散々身に沁みたの……」
『大佐嬢』という世界を全てかなぐり捨て裸になった時、初めて自分という物に向かった彼女が見た本当の姿。やはり昨年の逃避行で、彼女はそれを知ってしまったのだ──と、言いたいのだろう。
隼人はそう理解しつつ、それでも彼女を抱きしめている両腕にさらに力を込めた。
「大佐嬢でなくてもヴァイオリンを弾かなくても、それでも葉月だ。もっと言わせてもらえば、罪があるとかいう葉月も俺には葉月だ。俺は……そんなお前を、今のお前を……前よりもずっと、もっと……」
『愛しているよ』──と、彼女の耳元で小さく囁く。
彼女が驚いたようにビクッと肩を強ばらせたのが分かる。
でも、鏡に映っている葉月の顔は……嬉しそうな笑顔へと素直に変化していった。
それに向かって、隼人も微笑む。
「本当は、俺が一番楽しみにしていたんだ。葉月と横浜を歩く事を……。だからさ……」
「また、いつだって出来るわ。これからはね」
「まだ、ダメになってはいないだろ? でも、うん……お前がそう言うなら、安心して出かけてくる。携帯に連絡をくれよ」
「うん」
話がまとまって、隼人はふっきれたように手早く軍服に着替え、支度を整えた。
「きっと直ぐに終わるよ」
「うん、いってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
こんなふうに、女性の顔をしてる葉月に見送ってもらえるのも珍しい気がした。
まるで……若妻のようで……?
出かける挨拶は交わし合ったのに、まだ留まって葉月の顔ばかり見ていたものだから、彼女が首を傾げてしまっていた。
「あ、ああ……行くよ」
「気をつけてね」
旅行鞄もなにもかも手にして出る。
彼女を後に残して……。
フロントでは、後で葉月が一人でチェックアウトする事を伝え、すべての支払いを済ませて隼人は外に出た。
「暑さも、少し、和らいできたな……」
日曜だから、この朝の時間帯はそんなにざわついてはいなかった。
その中を、隼人は軍服姿で颯爽と歩き出す。
この格好をしてしまったら、もう、昨夜の熱い睦み合いも、どこか夢のように思え遠ざかっていく……。
もう八月も半ば過ぎ──心なしか朝の風が涼しく感じられる晩夏。
・・・◇・◇・◇・・・
『休暇』であるのだから、何を置いてでも恋人の彼女との時間を優先したい所だ。
それが昨夜、あれだけ熱く愛し合ったのだから、なおさらだ。
それでも、彗星システムズの『常盤課長』から『澤村中佐にどうしても検討してもらいたい事があり、出来れば小笠原に行く前に、相談したい』とあったのだ。
メールだけでは不確かだったので、折り返しの電話連絡を取ると『常盤はまだ出社していない』という返事だった。が、『その件で来るのを待っている』と言う伝言があると男性社員が言うので、なにはともあれ確認はせねばならないようなので、出向く事にしたのだ。
内容は、彼等の本業である『システム』についてだ。
金曜日の会議の後、常盤課長と一緒にお茶を挟んだ歓談をした。
彼とはすっかり打ち解けられて、隼人にとってはその手の分野の先輩で気さくな兄貴的存在になりつつある。
そして常盤も、軍人という立場の隼人であるが、まるで同じ社内で精進し合っている同僚のように心を砕いてくれている。
だから、これからどのような事をしてみたいかと言う話も、『夢話』ぐらいの大袈裟な所まで話し込んでしまう事もしばしば。
そこは男同士の夢──と、言うのだろうか? 『夢みたいな非現実的な話』と馬鹿にされそうな事でも、お互いに気兼ねなく『大風呂敷を広げまくる』のだ。
そんなふうに、ひとしきり笑い合っていたかと思うと、急に現実的で細かい打ち合わせに入っている事がある。
そんな波長もピッタリだ。葉月にもその話はしてあるので、彼女も常盤に会うのは楽しみにしてる様子……。
その常盤から『見て欲しい物』があるとの事。
まだ、仕事としてもプロジェクトとしてもこの段階で『作品』らしき物が形になる事はない。それに、そんな『先走り』は無意味だ。どんなにこの仕事で自分のシステムが主役になるかもしれないチャンスでも、国内大手企業も参加する中、まだ何も決まってもいない段階で、いきなり一人きりで『作品』を作り上げてしまうのは『一人踊り』に過ぎないのだ。
それでもだ? あの常盤の事だから、『大風呂敷』を一緒に広げまくった仲である隼人に、ある意味遊び感覚で何かを作ってしまい、それをとりあえず見せておこうと思ったのかも知れない?
ともかく──こういう事は、あらゆるケースを想定に入れ、第一印象や一般論のみの主観だけで動いては、何かのチャンスも糸口も逃しかねない。
隼人が『この段階でおかしなことだ』と思うのは、ただの主観に過ぎないのだ。
だから、彼女との約束を二の次に、『確認を第一』にさせてもらった。
隼人が認めている『大佐嬢』だからこそ、そこは当然の二つ返事で送り出してくれたから良かったが……。
さて……常盤がどんなお遊びをしてしまったか。
それはそれで、『風呂敷仲間』としては楽しみな部分もある。
彗星システムズが入っているビルにやって来た。
日曜なので人の行き交う光景は平日ほどではないが、それでもゆったりながらビジネスマン達が歩き回っているではないか。
ご丁寧に受付嬢も休日勤務のようだ。
そこでいつものように、彗星システムズにコンタクトを取る。
迎えが来るというので、ロビーで暫く待つ事に……。
「澤村君」
そこで隼人に声をかけたのは、あの同窓生である『青柳佳奈』だった。
「青柳──青柳も出勤していたのか」
「ええ、明日からいよいよですからね」
「そっか、青柳もくるんだよな」
「そりゃ、課長の第一補佐ですもの」
彼女が品良く笑い声をたてた。
「常盤課長からのメールを見たのだけれど」
「ええ、折り返しの電話連絡、有り難う。どうぞ、行きましょう」
「ああ……」
この時……隼人の中で、妙な違和感が生まれていた。
どうして常盤が電話にも出なくて、出迎えもしてくれないのだろうか? と。
メールをもらってから、一度も常盤の声を聞いていない。
そのまま、近頃慣れてきた彗星オフィスに入った。
佳奈が連れていってくれたのは課長室。
いつもそこで隼人と常盤は盛り上がるのだ。
だが……常盤はいなかった。
「課長、今、忙しいの」
「そうなんだ」
「それで、メールになってしまったみたいなのよね」
「そっか……」
課長室には、アシスタントの彼女と二人きり。
しかし今日の彼女も、きっちりと髪をアップにまとめて、グレーのスーツもカッチリと着込んでいる隙のない働く女性の姿だ。
その様子で、彼女が常盤の席を、慣れた手つきであれこれと探っている。
「あったわ。これ」
「それか? メールで課長が言っていた物は」
「ええ。これを見て、澤村君の感想が欲しいそうよ。ダメモトだからと言っていたわ」
「常盤さんは……それで、今日は?」
「ごめんなさい。だから……明日出かけるでしょう? 課長なりに準備をしているのよ」
「準備なんてあるか? 空軍の新型通信システムの大まかな予想を話し合う事はあっても、まだ、具体的な話は他企業も交えなくちゃ始まらない段階なのに。それに今回は、ただ小笠原がどのような基地であるかとか、空母艦での訓練を見学してもらうだけなのに」
「そんな事を言われても。私はただのアシスタントで、課長にいいつけられた事をしているだけだわ」
「……そっか、悪い」
なんだか腑に落ちないが、隼人は佳奈が言っている事はもっともなので、彼女が差し出しているデーターファイルケースを受け取った。
「今日中にチェックして、連絡してくれる? 課長は忙しいから、私にお願い出来るかしら?」
「ああ、分かった」
「今日はどこに泊まるの? あのアシスタントの女の子は小笠原に帰ると言っていたけど。澤村君は昨夜は横浜の実家かと思ったら、そうじゃなかったみたいね」
「え? ああ……ちょっとな」
「……もしかして、『彼女』と一緒だったとか?」
「……いいや」
「そう」
何故か隼人は嘘を付いた。
と、いうより──正直に応えるにしても、応えるべき質問ではない気もしたからかも知れない。
咄嗟の判断ではあったが、素直に言えなかった事に、隼人はこれにも自分で妙に腑に落ちなかったりした。
それよりも、仕事だ。仕事。
仕事と言っても常盤が姿も現さないのに、『お遊び』めいた不確かな物を隼人に突きつけてくるなんて。彼なら隼人と一緒に悪ふざけをして面白がる時間を楽しむ方が、『遊び』の重点のような気がするのだが?
妙に常盤らしくない気がした。
「そのチェック……結構、時間がかかると思うの。早めに取りかかった方がいいかもしれないわ」
「そんなに手が込んでいる物なのか?」
「……みたいよ? だから、今から向かうなら実家になるのよね?」
「……」
なんだか、妙に実家に『強制送還』でもされるかのような気分になってきた隼人は、つい黙ってしまったのだが……。
彼女のその『今から何処』というのが、妙に引っかかる。
「今日中にチェックはする。そして、結果は常盤課長本人に直接連絡する。そう伝えてくれ」
「え……。でも、課長は忙しいから、私にと」
「いや、課長に直接、返事を言うからと」
「……」
何故か佳奈が黙ってしまった。
隼人はもしかして? と……暫く、彼女を見ていたのだが。
「分かりました。それ……チェックしておいて下さいね。澤村中佐」
「かしこまりました。青柳さん。常盤課長によろしくお伝え下さい。本日はこれで?」
「はい、結構です……。ご足労頂きまして、有り難うございました」
「いいえ、こちらこそ。明日からも宜しくお願いしますね」
同窓生の二人は、職務の距離感に正して、そこで別れた。
彗星システムズを出る時、見送ってくれている佳奈へと振り返る。
彼女がとても神妙な面持ちで、尚かつ思い詰めたような顔をしていた。
(……やれやれ)
オフィスを遠ざかってから、隼人はもらったディスクケースを肩越しに振って溜め息をこぼした。
お遊びをしたのは、どうやら、常盤ではないようだ?
開いて見ねば判らぬが?
それにしても……彼女がもし、こんな事をしたのならば、何を思っているのか?
予想が当たっているならば、そちらの『開く』をしなくてはならないようだ。
だとしても『常盤に報告する』と隼人はそれとない圧力をかけて『今なら退けるぞ』と促してみたのに、彼女は『報告されても構わない』という選択をしたのだ。
ボスである常盤を利用し、叱られる事も覚悟で、隼人に何かを託そうとしている。
それなら、やっぱり主観でなく、それもまずは見てから──と言う事になるのだろう?
だから、隼人も『騙されたふり』で受け取ったのだ。
だが……隼人はビルを出て、ふと思った。
(くそ……! 葉月との日曜の朝をゆったり楽しむはずだったのに。邪魔された!)
昼前の活気を見せ始めた街の中へと、猛然と歩き進んだ。
・・・◇・◇・◇・・・
あちらのオフィスにほんの十五分程の用事で済んだものだから、離れてしまった恋人には当然、隼人から連絡をした。
彗星システムズが入っているビル近辺にあるカフェで待ち合わせる事に……。
出張した時に、小夜が目につけたカフェで、二人で度々食事に入る程、気に入っている場所に葉月を呼びつけた。
葉月も初めての場所にもかかわらず、タクシーですぐにやってきた。
「早かったわね。買い物に出かけた途端に、貴方から連絡が来て驚いちゃった」
「……まぁな」
やや不機嫌な調子の隼人に気づいた葉月が、訝しそうにしつつも、向かい側に座った。
軍服の男と品良いお嬢様スタイルの二人が窓際の席に揃うと、なんだか人々の視線を感じてしまった。
葉月も一時は気にしていたが、隼人の顔ばかり見つめてくる……一直線に彼の顔を見ているうちに、忘れてしまったようだ。
隼人も、そんな彼女の自分に入り込んでくれる一途な瞳に引き込まれてしまって、周りの事はどうでも良くなってくる。
「何か頼んだらどうだ?」
そんな一直線な彼女の眼差しに、また身体が熱くなってた隼人は、それを誤魔化すかのようにノートパソコンの画面に向かい、葉月には注文を勧める。
葉月は頷いてメニューを広げ、何を頼むか眺め始めたのだが、今度は彼女がメニューを眺めながら呟いた。
「……常盤さん、どうかしたの?」
「うん、まぁ……」
「……なんだか手が離せないことが舞い込んだみたいね?」
テーブルの上には既に開かれたノートパソコン。
それに向かっている姿を、カフェに着くなり目にしたから、葉月はそう思えたのだろう。
「ち、違うんだ。これは……お前を待っている間だけでも、見ておこうと思って」
「そうなの? そうは見えないけれど?」
こう言う所を見抜かれるのは、気が抜けない彼女だ。
確かにどうでも良いなら、こんな僅かな待ち合わせ時間にまで、外でデーターを眺めるなんて事は隼人はしない。
けれど、そこを押してやっているのを、葉月は『急いでいるのだ』と読みとったようだ。
「もう、やめる──。今夜、実家でやる」
「そう」
何処か消え入るような弱さで葉月が相づちを打つ。
隼人は慌てて、ノートパソコンを閉めた。
「さて、何処かでもう一度着替えて、横浜に行くか」
「すみません。オーダーをお願いします」
隼人のその言葉に返答はせず、葉月はウェイトレスが側を差し掛かった為か、注文の為に呼び止めた。
「この、パスタのランチセットを」
「はい、パスタセットですね。お好みのパスタは……」
隼人は、そのやり取りに、ぎょっとした。
今から横浜に出て、中華街で昼食というスケジュールなのに、ここで葉月がランチメニューを頼んだからだ。
「お、お前……!」
「茄子のミートソース。食後はミルクティーで」
「……そちらで、よろしいですか?」
彼女の注文に驚いている軍服男の様子を──若いウェイトレスが気にして、隼人をチラリと見た。
黙った隼人に、葉月が妙に勝ち誇ったわざとらしい笑顔を見せた。
「貴方も『お仕事』の前に、何か食べておいたら?」
「……」
軍服を着て、その上パソコンを開いている分、『今から彼氏はお仕事なの、シチュエーション』を私服の彼女が作り上げるのは容易な事。
ウェイトレスの女の子は、葉月の言い分を信じ切ったようで、ふと隼人を見ているのだ。
「……同じものを。アイスコーヒーで」
「かしこまりました」
オーダー内容を復唱した女の子が、何処か笑いたそうにして去っていった。
「お前……!」
「あら。でも、貴方だって、私の『提案』に乗っちゃったじゃない」
葉月は、『それがなんだ』とばかりにツンと横を向いた。
隼人も前からよく知っている彼女が強気になる時の顔だった。
溜め息をこぼした……。確かにそうであり、彼女が作ってくれたその流れに従ってしまった。
「やっぱり……貴方、今日はそのお仕事に集中した方が良いわよ。私との時間を大切にしてくれる気持ちはちゃんと分かっているから」
今度の葉月はとても心配そうな顔で『ね?』と、隼人を安心させるような柔らかな瞳で覗き込んでくる。
……それにも、一発、降参してしまった。
それに今朝、彼女が言ってくれていた『甘えてね?』と言ういじらしい姿が、過ぎったものだから……。
「また今度、必ず」
隼人はがっくりと肩を落としながら、お言葉に甘えて、ノートパソコンを開き直した。
「そうね……。ちょっと気にしていたの」
「? なにをだ?」
「……横浜に行く事」
「……」
「隼人さんが誘ってくれたから、ちょっと有頂天になっていたかもしれないわ。駄目ね……私」
葉月が眼差しを伏せて、グラスの水をひとくち飲んだ。
彼女がほのめかした事が、隼人にも直ぐに判ってしまい……同じく黙り込む。
彼に一発で通じた事に、逆に葉月の方が驚いたのかハッとしている。
だが、すぐに彼女が取り繕うように微笑んだ。
「次に行く時には、ご挨拶が出来るぐらいの心積もりは整えておくから。やっぱりそう言う意味でも、今回はそこを飛ばして横浜に行くな──と、言う事だったのかもしれないわ」
「ああ、そうだな。親父は……待っていると思うけどな」
「有り難いけど、まだ、そこに甘えられないわ」
「そうだな……俺もだ」
急に二人でしんみりする。
葉月は、昨年の式典以降、横浜の家族とは接触を断つ形になってしまっていた。
そして……隼人も。薄々気が付いている様子の父親や継母には『大丈夫』の一言で流してきた。
深くは追求はしてこない父親だが、彼が心配しているのは隼人にも通じている。
当然──『彼女との間に子供が出来た』だなんて、言えなかった。
それも……流れてしまい、つい最近まで『破局同然だった』だなんて。
同窓生が持ち込んできた『不確かな仕事』を、予想が当たっているのかどうか確認をしなくてはいけない手間が出来た事には、残念な気持ちを持っていたが……。
でも、隼人はそんな彼女の気持ちに、妙に納得してしまい、今回は恋人との横浜散策はすっぱりと諦めがついてしまった。
素直にランチをそこで済ませ、夕方には小笠原に帰るという彼女と、明日の晩はマンションに行く約束をする。
葉月は『丁度良いから、今からアリス嬢と会う』と言い出したので、それなりの予定が出来た事で隼人も安心して見送った。
時に、隼人はそのアリス嬢が、妙に苦手だった。
彼女は顔を合わせると、変に隼人に嫌味っぽく突っかかってくるのだ? 達也とは割と対等に話しているのに。
その苦手な彼女に会うと聞いたら、隼人は益々、退散する気になったのだ。
葉月と別れた隼人は、横浜に向かう。
・・・◇・◇・◇・・・
『ただいま』
横浜の実家に辿り着く。
今年に入ってから何回目だろう? 最近は、頻繁に帰ってくる。
その為か、ホールのような玄関に入っても、誰も迎えには出てこなかった。
そんな静かな帰宅も、このごろはなんでもない。
たまに帰ってきた頃は、美沙や大学生になった弟が待ちかまえていたように、顔を出してくれたのだが……。
「おう、帰ったか」
「親父」
玄関を上がって、とりあえずリビングを覗くと、そこには眼鏡をかけて新聞を読んでいる父親がくつろいでいた。
「どうした? 美沙からはお前が帰ってくるのは、夕方になると聞いているぞ」
「仕事がはいったから、早めに切り上げてきた」
「ふうむ?」
父親が少し首を傾げた。
それに構わず、隼人はキッチンを見渡した。
「美沙さんは?」
「買い物だ。お前が帰ってくるからと、この時間にしたみたいだな」
「和人は?」
「さぁな? 相変わらず、友達と出かけているみたいだな」
和之は少しばかり呆れているようだが、それでも前以上に『放任』しているようだ。
和人は、都内有名私立大学の工学科に無事合格し、この春に晴れて大学生。有名私立に合格はしたものの、実は『東京大学』も受験し……そこは見事に不合格だったらしい。だが、和人は『ダメモトで受けたから』と落ちてもケロッとしていて、美沙も和之も『無理無理、あんな勉強じゃ』と平然としていた。
ともかく、和人は都内の大学に通っているし、大学生らしい道楽もすっかり楽しんでいるようなのだ。
そして、彼の次なる『目標』いや『企み?』は、この家を出て都内で『一人暮らし』だ。この頃は、顔を合わせれば『兄ちゃん、協力して』と、金銭的援助まで頼み込まれる。勿論、それはしてもよいが、両親を差し置いての隼人の一存で了承する訳にはいかない。
隼人としては、自分がそうであったから『一度は、自分だけで暮らす経験をさせても、損はない』と、美沙に言ってみたりしている。後は、父親と夫婦で、いや和人の両親で決めたらいいと……。
ともかく、何事にもこのような感じで、横浜の家族とはすっかり『元通り』だった。
「仕事とは、なんとも。私はてっきり葉月君と一緒かと思っていたぞ」
「!……親父」
新聞を折りたたみながら、和之がさり気なく言い出した事に、隼人は驚き、ソファーに座っている父を見下ろした。
「いつもこっちに直ぐに帰ってくるのに、休日にスケジュールが組まれた都内で仕事ならともかく、外泊してから帰ってくるだなんて」
「ああ、なるほど」
もし土日に会議が差し掛かっても、早朝の時間帯でない限り、実家から出て行っていた。
そこを、隼人が都内に留まった為、そう思ったようだった。
しかも、隼人がそこで留まるなら『葉月と一緒だ』だなんて? よく思いついたな? と、隼人は唸りつつ──それとも、これは『親父の探りを入れる為のかまかけ』なのか。それとも……それだけ姿も気配も消えかけてしまっている葉月の事を、余程、気にしているかだった。
そうだ……葉月がいなければ。
隼人はこの横浜の実家で、今のような状態で帰ってきてはいなかった……。
そこは父和之も同じ思いであるのだろう。葉月は元気か? と、たまに尋ねてくれるが、その時は和之も訳はともかく寂しそうだった。
それでも、連れてきなさいと言いそうな所を、この一年の間に一言も言わなかったのは、昨年の式典で見事な飛行を成功させたその後に、彼女が挨拶も無しで姿を消してしまったその『異常さ』に気が付いて何かを察したからなのだろう?
そこで、隼人は意を決して言ってみた。
「あたり。葉月と一緒だった」
「……! そ、そうか」
「急に仕事が入ってしまったから、彼女とは別れた。都内の友人に会ってから小笠原に帰る事になってさ」
「……そうか」
やはり、葉月が感じた事は正解だったかと隼人は思った。
離島から出てきて、隼人が横浜に帰ってきたにもかかわらず、共にしていた彼女が姿を見せなかった事を知った父親は、とても寂しそうな顔をしたから……。
今回は『俺が仕事』で納得はしたようだが、それでも父和之はあからさまな溜め息をついて肩を落としていた。
「せっかくのデートだったのに、仕事に集中しろって言われちゃってさ。相変わらずの大佐嬢だよ」
「そうか」
そこは父も『彼女らしい』と思ったのか、ふと微笑んでいた。
そんな父親に、隼人は……急に、告げていた。
「……彼女とは、上手くいっている」
「隼人?」
「これからは、二人でこうしたゆっくりとした時間を過ごしてみる事にしたんだ。今回はその始め」
「そうだったのか」
「相変わらず。仕事がつきまとっているけれどな……」
安心してくれるかと思ったら、意外だったのか、和之はやや茫然としていた。
そんな父親の様子に、隼人はちょっと笑いたくなる。
でも──言っておく。
「俺、やっぱり彼女しか考えられない」
「……隼人」
「愛しているんだ。彼女の事を……。そして彼女も俺を愛してくれている」
「……」
「俺、今──満たされている」
神妙に呟いた息子を、和之がジッと暫く見つめている。
「だったら。二度と手放すんじゃない」
「……! 親父」
「格好悪くても、手放すんじゃない」
真顔で言う父親の目は、怖いくらいだった。
そんな父親に隼人も応える。
「ああ、手放すものか……二度とな」
言い切った隼人に、和之もこっくりと頷いてくれた。
「こっちに来たら、顔を見せるようにと言っておきなさい」
「親父」
「説教のひとつもしたいからとね。そう言えば、彼女もやってくるだろう」
「……なんていうか、さすが」
甘く迎えられる事を気にするだろうと、父が既に葉月の性分を判っていたので、隼人は『やっぱり適わないなー』と、苦笑いをこぼしてしまった。
「そう言っておくよ」
「うむ」
「じゃぁ、俺……仕事、急いでいるから。母さんの部屋、借りるぞ」
「どうぞ、どうぞ」
それも毎度の事だった。
帰省してきた隼人は、昔は母の療養部屋だったゲストルームを使わせてもらっている。
横浜の街が一望出来る窓がある部屋。
そこに入って、いつも一番に窓を開ける。
その出窓に腰をかけて、入ってくる風をまず楽しむ。
実家がある高台に吹いてくる風も、心なしか……既に涼しかった。