「驚くじゃない。突然、来るんだもの」
四谷少佐から鍵を預かった隼人は、念入りに戸締まりをチェックして、正面の扉に鍵をかける。
その間、隼人と背中合わせに芝庭を眺めている葉月が不満そうにぼやいた。
「悪かったな」
断りも無しに来た事が『そんなに嫌な事か?』と、今の隼人は思ってしまうのであり、口に出てしまうのである。
そして、そう言った後にいつも自己嫌悪に陥っているのだが、それすらも絶対に他人には、特に葉月には悟られたくない所。
なので、余計に……彼女には素っ気ない冷たい態度、時々出てくる『天の邪鬼』に見えたに違いないだろう。
なのに……葉月の反応は、隼人が予想したものとは違った。
「ふふ……隼人さんったら」
「な、なんだよ」
葉月は可笑しそうに笑っている。
そして、最後には隼人に向かって、笑顔を見せたのだ。
「夕ご飯……食べに行かない?」
「あ、ああ……そうだな」
にっこりと小首をかしげて微笑む葉月に、毒気を抜かれたように隼人はそのまま従ってしまう。
けれど、そんなあっさりと返事をした隼人に、葉月がさらに微笑んでいる。
そんなに楽しそうで嬉しそうな顔をされると……結局の所、隼人も弱い。
小雨の中、そっと二人で歩み出す。
しっとりと滴で輝く芝庭を進んでいった。
分かっているのだ。
その笑顔が、誰にでも振りまかれるものでなく……ここ『俺だけ』のものであるとも。
なのに、なにを何処までもこだわっているのか?
いいや……きっと『許していない』のだ。
隼人はそう思った。
改めて、思った。
もう──『葉月が俺を置いて、義兄の腕の中に身を委ねた』事じゃない。
ずっとその前から。
『葉月は、俺じゃなくて、義兄を欲しているのだ』──もう、出会う前から。
そしてきっと『俺達が出会った頃』──もう、そこから既にあった関係を『許せなかった』、『許していない、今も!』──そういう問題になっている。
そんな正直な気持ちに気が付いた。
『格好付けていた時』ならば、『そんな事は葉月の過去、これからの俺達には関係ない』と堂々と言い放っていただろう。
だが、『今の隼人』は、もう、そうではない。
それは何故か?
それも自分で分かっている。
『より一層……愛しているんだ』
隼人が幸せで輝かしい日々を彼女と送ったのも。
隼人が彼女の事で、どうにもならない苦悩で悶える事も。
すべては『愛しているから……』なのだ。
葉月だって、そうではないか?
相手は義兄であれ、隼人であれ……彼女も苦しんでいたのは、『愛しているから』なのではないか!?
葉月を見て『愛は幸せにするだけじゃない、幸せになるだけじゃない』
愛は……『愛するからこそ、苦しい、痛い、哀しい』
その顔も持っているのだと……。
だから『まだ、許せない』。
そして、そこから、隼人が解放される方法も一つだ。
葉月を責める事じゃない。
『許す事』──今までのような気持ち以上のものだ。
許せた時、本当の意味で『本当の彼女』を愛する事が出来るはずだ。
さらさらと降り続ける霧のような小雨。
夜灯りに光る芝に降り立った滴。
しっとりとしたその風情の中、隼人の少し前を歩く栗毛の女性の後ろ姿。
その姿を追いながら、隼人は思う。
「……アヴェマリアか」
「隼人さん?」
その葉月が振り向いた。
「聖母マリアに、神への取りなしを願う……だったかな? フランス人にとっては観音様っぽくて『すがりたい』と言うイメージだったかと」
「そうね」
先程は食事を行く事を了解した隼人に、嬉しそうに愛らしく微笑んでいた葉月。
それが、急に……小雨の中、ふと眼差しを陰らせた。
その表情の変化にも、最近の隼人の胸はドキリと強い鼓動が働く。
その顔は、『ウサギ、ウサギ』と隼人が捕まえていた『どこまでも女の子だった葉月』とは違うもの。
近頃良く例えている『凄絶と慈愛』を越えてきた静かな眼差し。
そこに『もの凄い女』が出現したという、緊張感を覚えさせるオーラまで感じてしまう。
そんな顔になるほど?
この曲に思い入れが?
そう聞きたいのに、怖い。
『あれから』──音楽と来れば、『葉月と義兄』を強く結ぶものという念が強すぎる。
でも、葉月がそっと、手の平を空へと向けた。
そして、彼女の眼差しも、霧雨がしっとりと包む夜空へと……。
「あの晩も……こんな小雨だったわ」
「あの晩?」
そこで、葉月のまつげがふっと柔らかに閉じられ、しっとりとした眼差しが芝生に落とされる。
けれど、そんな美しい眼差しを醸し出している葉月は、そっと微笑んでいた。
「私には『ない』のではなく、私には『ある』のだと……」
「ない? ある???」
また。分かりにくい事を言い出したなと、隼人は顔をしかめてしまったのだが。
「あれもない、これもない、私には何もない。そうじゃなくて『生まれてきただけで、ある』のだ……と言う事よ。私は悪い事をしてしまい苦しんでいる事も『ある』事の一つなのよ。この小雨が存在するように、この芝生が夜灯りに綺麗に写し出されているように。その中に、私がこうして立っている。それだけで『ある』のだと」
「ある……」
良く分からないが、何か……隼人の心の琴線に触れる感触が!
さらに葉月が付け加えた一言にも、隼人は胸を打たれる。
「……悪い事をしてしまった私はどうやっても『ある』物。それでも『ある限り』生きていくべきなんだわ」
彼女の眼差しが柔らかな小雨の中、急に輝いた。
その葉月が、何もかもを分かっているかのような静かな瞳で、隼人を真っ直ぐに見ている。
隼人の唇が……何故か震えていた。
そんな隼人の様子に気が付かない葉月は、また霧雨の夜空を見上げ、今度は微笑んでいる。
「それに気が付いた晩も小雨があがって、私はアヴェマリアを弾いていたわ……。とても気持ちが良かった……本当に、気持ち良かった」
何もかもから、解放されたかのような清々しい笑顔。
彼女のどこか満足を得ている微笑み。
その姿は、霧雨の中……本当に綺麗。
隼人は、また──身体に呪文をかけられたように固まり、ただ葉月を呆然と見ていた。
知らない女性が、そこにいる。
触れない女性が、そこにいる。
彼女は、しなやかに美しくなりすぎた。
隼人の予想以上だ。
隼人が彼女に強いた事を彼女は見事にくぐり抜けて戻ってきたのに対し、それを強いた男は……ただの男になってしまった。
彼女が掴んだ真実ぐらいの『真実』など……口先だけで、本当はなにひとつ、胸を張れる物などない……ただの男。
隼人は唇を噛みしめ、うなだれる。
そして、彼女に……問うてみた。
「それは……俺にも『ある』よな?」
「私の答では『誰にでもある』になるわ」
「葉月……お前……」
いつのまに……。
隼人はそう思いながら、そこに静かに穏やかにたたずんでいる彼女を、遠い目で見つめていた。
今まで、葉月は何を思っているか分からなくて、何かを一人で考えていて……思い悩んで迷っている時も『隼人の言葉』が彼女を前に向かせてきたと思う。
隼人もそうする事で、彼女を愛していたと思う。
けれど、どうだろう?
今、たった今! 今度は隼人が彼女の言葉で……救われている。
それは俺にもある──『それ』とは、隼人の中では『罪』という言葉だった。
そして彼女は答える──『それは誰にでもある』。
さらに、彼女の穏やかな目が語りかける──『生まれてきただけで、誰にでもある。皆が、既に生きている事で全てを持っている』
なんだか、膝の力が抜けそうになる程──隼人の身体中から、力が抜けていく。
俺にもあって。
彼女にもあって。
それは『生きているだけで、誰もが当たり前に持っている』事なのだ。
自然の中で、風が吹くように、今夜のように雨が降るように──その濡れる芝庭で、俺達が向き合って『立っている』ように。
存在する事は当たり前で、そうして……それは『ある』、既に『何もかもを手にしている』のだ。
それは、喜びも、哀しみも?
そして、愛する幸せも、愛するが故の苦しみも。
そして、人を喜ばす事も、人を傷つける事も。
なにもかも……。
「隼人……さ……ん!?」
葉月が目の前で、声が続かなくなる程、驚いた顔をしている?
そんな目の前の彼女が、そっと歩み寄ってきた。
「やだ。どうしたの……!?」
「なんでもない!」
目頭が熱くなり、なんとか堪えたつもりが、隼人は涙を流してしまっていたようだ。
「……でも。もしかして、私、今言った事で……」
自分の『言葉』で、隼人を傷つけたのかもしれないと、戸惑う葉月の真っ直ぐな眼差し。
「違う!」
隼人は拳で一筋の涙を拭き取りながら、顔を背けてしまったのだが……。
「は、隼人さん……?」
そんな目の前の彼女を、隼人はやっと抱きしめていた。
「有り難う──葉月」
「な、なにが?」
「俺も、もう……」
なにがどうして、急に抱きしめられているのか困惑している葉月の耳元で、隼人は何かを囁こうとし……でも、それが言葉にならず。
だが、隼人は葉月をしっかりと見つめ、はっきりと言葉にする。
「葉月──俺にも償いをさせてくれ」
「償い?」
隼人が抱きしめている事も、言い出した事も、葉月には一向に訳が分からないようで、ただ訝しそうに隼人の顔を覗き込んでいるだけ。
そんな彼女の耳元に、いつものように口付ける。
少しだけ、葉月の身体が驚いたように強ばったが、それを合図のようにして、隼人はさらに強く抱き寄せた。
「やり直そう」
「え!?」
「いなくなったあの子に償うのは、俺達がもう一度、あんな風に……もう一度……」
「は……やとさん」
「一緒に、償いたいんだ。お前と一緒じゃないと、出来ない!」
「!」
これは、初めて言ったかもしれない。
『一緒じゃないと出来ない』──だなんて!
本当なら、もっと前に──『お前じゃないと、生きていけない!』──と、格好悪くても叫ぶべきだったのかも知れない。
だから、葉月はとても驚いた顔をして、隼人を見上げている。
葉月はガラス玉の瞳に、涙をいっぱいにためている。
そして、唇が震えていた。
「わ、わたしで……いいの? 許して……くれるの……?」
震えた小声で、怖々と信じ難そうに呟く葉月。
その唇を、今度は迷うことなく……隼人は吸った。
彼女の唇が冷えているのは、いつもの事。
それをいつもそっと暖めてきた。
彼女に血が流れるように──。
熱い血潮を感じて……彼女が生きている事を、いつも感じて……こうして愛してきたじゃないか?
隼人にとって、久し振りで懐かしいその感触は、今度は隼人の中で凍って冷め切っていたものを溶かしてくれるかのような『熱』に思えた。
もう、葉月にも迷いはなさそうだ。
隼人が何も言わなくても──その口づけの熱が全てとばかりに、彼女も隼人の唇を愛して返す。
そして──葉月の両腕が、隼人の背をしっかりと抱きしめている。
もう……それで充分だった。
いったん、唇が離れる。
お互いにそっと見つめ合った。
雨で湿ってしまった葉月の栗毛。
頬に張り付いたその毛先をかきあげながら、隼人は微笑みかけた。
「今夜……行って良いか?」
「!」
それは『丘』に行く事だ。
もう、ずっと出向いてもいない。
だから、葉月がとても驚いた顔をする。
「もっと……早く、お前の音を聴きに来れば良かったな」
「隼人さん!」
感極まったのか……葉月が、泣きながら隼人に抱きついてきた。
それを隼人はしっかりと抱き留める。
ウサギの身体は優しくて、柔らかい。
冷えた手に、じんわりと伝わるぬくもり。
ふんわりと香る花の匂い。
けれど、どことなく『血』の匂いが混じっている。
優しいだけのウサギじゃない。
抱きしめないと生きていけないウサギじゃない。
傷ついて血を流しても、しなやかに跳ね飛ぶウサギ。
そのウサギを怖れずに、抱きしめられる。
俺はもう、『血』に恐れは抱かない。
『血』があった事も、『ある』事の一つだ。
それを忘れてはいけない。
避けてもいけない。
覚えていなくては……いけない。
その『血』をなんとか忘れて彼女を抱こうだなんて、絶対にあり得ない事を隼人はやろうとしていたのだろう。
小雨の中のアヴェマリア。
彼女が近寄りがたい程に綺麗に見えるようになったのは、汚れを知らないからじゃない、汚れを克服したのでもない──。
世の中の汚れも美もあるなかで、それでも輝こうと生きていこうとしているからだ。
俺も、もう……抗わない。
俺も汚れながらでも、輝きは絶対に諦めない。
いつのまにか、二人の肩が寄り添い、歩き出していた。
静かにそっと、また──始まる。
・・・◇・◇・◇・・・
「彗星システムズ?」
「ああ。工学科プロジェクト参加で、この会社のソフト企画が採用されそうなんだ。晃司が軍と民間企業で組むチーム『ハード部門担当営業』になっていて、今、ここと連絡をするパイプ役をしているんだけど」
暫くたったある日の朝。
『澤村中佐』が、大佐席に一枚の名刺を差し出した。
その名刺には『彗星システムズ』というプログラミング会社の課長の名が記されている。
「なんでも、若いけどプログラムの腕では噂の人らしいよ。この週末に、晃司と一緒に面会したけど、穏和で……けれど自分の仕事の観念は曲げないと言うはっきりした所もあって、俺達三人で『その手の話』ですごく盛り上がってしまったんだ。仕事を始めたら、一緒にやっていけると思う」
「そう……それで?」
葉月には、ソフトがハードがは分かっても、それ以上の工学方面で何が『すごい』とか『出来る』とかは、あまり判断力を持っていない。
さっぱり分からないから、専門的な知識を持っている中佐に任せているのだ。
「ここの会社で行く方針になってきたので、今度、小笠原に来るんだ。一応、大佐嬢にもご挨拶の席に同席してもらいたくて」
「ああ、そういう事。勿論、良いわよ」
「有り難うございます」
隼人が部下らしく、丁寧に頭を下げる。
なんだか、『この頃』──隼人がそうして部下らしいのが、妙に違和感があるが、そこは『今まで通り』の上官部下でやって行かねばならない。
隼人が名刺を置いて、席に戻った。
(はぁ。部下とかに見えなくなるって……よっぽどね)
葉月は、受け取った名刺をおもむろにいじくり回しながら、溜め息をついた。
『やり直そう』
彼が許してくれた小雨の夜。
丘のマンションに二人で帰った。
なにもなかった。
なにもなかったけれど、あまり長いお喋りもしなかったんだけれど。
『もう一度、アヴェマリアを聴かせてくれないか?』
丘のマンションにつくなり、隼人がスタジオに入りたがった。
彼の願い通りに、葉月はスタジオを開け、もう一度……アヴェマリアを弾いた。
『違う。講堂で弾いていたような音が聴きたい』
なんて難しい注文をするようになった事か? と、葉月は顔をしかめた。
それを常に表現出来るのが『プロ』であって、プロでもそれを維持するのは難しい事。趣味で弾いている私には……と、隼人に言うと、残念そうだったが解ってくれた。
『忘れない。そして……また聴けると信じている』
『……勿論よ』
どことなく自信がないが、葉月もそうでありたいと思うから、笑顔でそう答えた。
すると、それだけ聞いた隼人は『もう今夜は帰る』と言い出した。
別に葉月も、肌の触れあいを期待していたわけではない。
彼もそう……だから、彼はこう言った。
『……今度は大事にしたいと思っている』
今まで、やはりどことなく『男の性』を葉月に押しつけていた部分もある──と、言い出した。
それが『思わぬ妊娠』に繋がったのだと……そうは言わないが、言いたそうで……。
そして、丘のマンションには前のようには居着かないとも告げていった。
葉月もそれで良いと答えた。
本心だ。
今は……自分一人で、どこまでやれるか、挑んでいる最中。
また、隼人がやってきて依存してしまう自分を怖れていると『正直』に葉月も告げる。
『では、新しい約束をつくろう』
『新しい……約束?』
葉月が首をかしげると、隼人にきつく抱きしめられる。
『どうしようもなく、寂しかったり、一人でいる事が辛かったら──我慢しない。押しかけOKだ』
そんな約束……甘えてしまう。
葉月がウンと言えずに戸惑っていると、さらにきつく抱きしめられた。
『実はー。俺の為の都合良い約束だ。今の葉月は……頑丈そうだから、お互いに強くなろうだなんて言おう物なら、本当に強くなってしまいそうで……』
──怖いよ──
強く抱きしめられているのは……彼の方が不安だから?
まるで捕まえられるかのように。
そして耳元で彼が囁いた……少しだけ震える声。
勇気ある前進。
前進を促してばかりいた彼が……そんな気弱な事を言うだなんて。
でも、葉月は笑って頷いていた。
『眠れない夜に行っちゃうから』
『俺も“いやらしい気分”になった時に、来てしまうかな?』
『! なに、それっ』
良いムードを茶化された気がして、葉月がふてくされると、隼人は……いつものウサギをからかって楽しそうな彼に戻っていた。
『おやすみ。また来る』
『待っているわ。私も──行くから』
あの日の夜はそれで別れた。
それから暫くの間、お互いの家を行ったり来たりしている。
そして、隼人は無理な事はしないと決めているようで……。
たまに葉月の身体に、それらしい顔になって触れる事はあっても、隼人は優しく触れただけでそっと退いてしまう。
葉月からすると『まだ、怖れている』という感は抜けないのだが、『私もそれで良い』と思っていた。
ただ穏やかに……この数ヶ月を埋めるように、そして、冷めてしまった心を温めるように。
今はその心の隙間を一緒に埋める……という感じの日々を過ごしていた。
けれど──今度は、葉月の心が静かに燃え始めている。
彼に許してもらえたからと、直ぐに都合良くひけらかす事は、はばかる気がして。
そして、隼人がまだ『怖れている』気がして──隠している。
密かにそっと押さえている。
貴方にぶつけてみたい『情熱』を……。
前よりずっと恋していると、言えない。
大好きだったお兄ちゃまと離れて間もなく──また違う人を熱烈に欲してしまう自分が怖い。
たとえ……ずっと前から『同じぐらいに好き』でも。
まだ、葉月の心も隼人と一緒で全てが解き放たれた状態ではなかった。
でも、狂おしい。
燃え尽きてしまいたい……。
あの人を焼き尽くしてでも、ぶつけてしまいたい。
貴方は、こんな風にして──私を愛してくれていたの?
解っていたつもりで、解っていなかったの?
許して……。
でも……伝わっている。
そして、今度は私が貴方を燃やしたい……。
そんな風に見ているのだ、彼を。
「? 何か? 大佐嬢……」
「え?」
「おい、その名刺……ちゃんと大切に、なくさないでくれよ!」
「あ……」
なんだか物思いにふけるあまり……名刺の角を机に押しつけて、潰してしまっていたようだ。
葉月はそそと澄ました顔にもどし、その名刺をフォルダーにきちんとしまった。
「失礼致します!」
そこで大佐室に一人の女性が入ってきた。
「澤村中佐、こちら出来ました!」
隼人の席の前に、一枚のディスクを元気良く差し出していたのは、最近、通信科から戻ってきた小夜だった。
それを受け取った隼人の表情が引き締まり、彼女をチラッと見ただけ。
それでも、小夜はとても緊張した様子で規律正しい姿勢を保っていた。
「チェックするから、待っていてくれ」
「はい」
(なんだか毎度、物々しいわね〜)
でもこれは隼人が決めた『後輩育成』の方針であり、姿勢だから。
葉月は苦笑いをそっとこぼしつつ、二人の世界の邪魔にならないように、大佐嬢らしく素っ気なく事務作業に戻った。
「駄目だ。今回も三カ所あり」
「え! も、申し訳ありません……」
「こっちに来て」
「は、はい……」
隼人がモニター前に小夜を呼びつけて、画面をペンで指す。
『こことここ……』などと指示している。
隼人の眼鏡の横顔、直ぐ側に小夜は寄っているが……彼女はそんな事は『もう気にならない』様子で、真剣に……でも、今回も失敗していた事に『しまった』という悔しそうな顔をしていた。
「たまにであれば、それも人のミス。しかし毎回は『失格』だ」
「は、はい……」
「君の欠点は、急いで前に進もうと慌てる所だな? もうちょっと落ち着いて出来ないかな?」
「すみません」
隼人は笑顔も浮かべない。
淡々としている物言いに、無表情な眼鏡の横顔。
ちょっとすれば、『嫌味』にも取られかねない言い方だ。
それに葉月が見ている限り、隼人は小夜には一番厳しくしている気がする。
「ご苦労様、吉田さん──。また何かあったら呼ぶから、それまでは河上大尉の指示に従っていてくれ」
「はい。次こそは頑張ります」
同じ女性として、もうちょっと優しくなれないのかな? と、思いつつも……。
自分がここまで男性に紛れてやって来た中での本心は『それが現実で、彼女の為になる一番の接し方』だと言い切れてしまう部分もある。
小夜は溜め息をつきながら、肩を落として大佐室を出て行く。
葉月はそっとその背を見つめた。
実はちょっと羨ましいなとも思っている。
彼女の正直で、そして前を向く事になんら疑いを持たない元気な所が。
そして、彼女は『信じている』。
頑張って前に行けば、必ず、報われると──。
その証拠に、彼女は今回のポジションを得た方法と手段と経緯はともかくとして、隼人にあのように厳しくされても、絶対にめげずに頑張っている。
『彼女は本物だ。俺に預けて欲しい──』
通信科に預けて暫くしてから、隼人がそう言いだした。
勿論、葉月も最初からそのつもり。
隼人がその気になったのなら、存分に『戦力』として育てて欲しく了解した。
恋が云々など、二の次だ。
ここで戦力が生まれたのなら、それは葉月の『勝ち』であり、葉月の勝負はそこにあったのだから──。
けれど──そんな彼女の真っ直ぐな所を『見習おう』と、葉月は思ったりしている。
そんな小夜が大佐室を出て行こうとしている時だった。
「ああ、そうだ。今度の本島出張の時、一緒に付き添ってもらおうか。吉田さん」
「え!?」
隼人が突然サラッと言い出したので、葉月も驚いたが、小夜程ではない。
小夜は飛び上がるぐらい驚いて……そして、何を思ったのか隼人ではなく葉月を確かめるように見ていた。
「……と、思案中ですが。大佐嬢、如何でしょうか? 彼女は一度、外での仕事にも触れた方が良い」
「そうね。二人でいってらっしゃい」
隼人も淡々と言っていたが、葉月も同じように淡泊に返答した。
大佐室がシンとする。
もう、言いたい事は終わったとばかりに、お互いの目の前の仕事に戻った二人を小夜が呆然と見ていた。
「が、頑張ります!」
小夜はそれだけ言うと、逃げるように……ピュッと大佐室を出て行った。
「だから……慌てるなって言うのに」
彼女が出て行って、隼人がクスクスと笑い出した。
「彼女、そそっかしいんだよな。あれは、目の前で起きた事に対して、すぐ飛びついて噛み付くタイプだなー。可愛い顔して、結構、熱血気味で血が有り余っているって感じだな」
「あまり苛めて潰さないでよ」
葉月が苦笑いで返すと、隼人は『分かっている』と、溜め息をこぼす。
「本島出張って……さっきの彗星システムズさんと?」
「ああ、小笠原に来てもらう為のミーティングをするんだ。それほど緊張する席でもないが、取引先の人間と接するには良いチャンスだろう?」
「課長さんも、それ程手厳しい方ではないみたいだしね?」
「それでも厳しくはやるつもりだけどな」
「そう……。彼女をよろしくね」
そんな風に彼女を任せる葉月に、隼人が満足そうに『ああ』と頷き、微笑んだ。
「でも、ちょっとは妬いて欲しい気もするけどな」
「そう? じゃぁ、夕方、落ち合ってから文句を言ってあげる」
「あるのかよ!?」
「貴方が知らないだけよ」
葉月がツンとそっぽを向けると、それが意外だったのか隼人がちょっと慌てるような顔をしている。
そこで笑い出すと、今度は、彼がからかわられていた事に気が付いてふてくされる。
でも最後には、彼も楽しそうに笑い出していた。
「昨日買ったアサリを、朝から砂出ししているの。今夜はボンゴレ・ビアンコ」
「決まった。今夜はそっちに行く」
「うん」
何故か、葉月は満面の笑みを素直に隼人に向けていた。
そうしたら……とても安心したような彼の優しい笑顔。
今は、それだけで幸せ──。
この夏はそれで、幸せ。
やっと始まったから。
今度は大切にじっくり……手放さず、簡単に諦めない。
そして自分じゃなくて、今度は私が貴方を大切にしたい……。
そっと波打つ情熱を抑え、葉月は静かに彼に微笑み返す。
・・・◇・◇・◇・・・
蝉の声がけたたましい。
本島も夏本番──。
「暑いです〜」
「それでも小笠原の隊員か? 文句を言わないっ」
「はぁい」
まだ何処か凛々しくならない小夜を伴って、隼人は都内にある『彗星システムズ』を目指していた。
アスファルトからの太陽の照り返し。
上着を小脇に抱えて、半袖姿に額にハンカチを当てるサラリーマン。
今日は平日の金曜日。
いつも大佐室に負担がかからぬよう、週末休暇を返上で本島にでかけるのだが、今回はあちらの営業日に合わせねばならず、こうして平日に出てきている。
そんなサラリーマンや、レエスのハンカチで日をかざす制服姿のOL達が、街路樹の下を行き交っている都会。
今日、頑張れば──たいていのビジネスマンは休暇となるだろう。
そんなとき、白い半袖制服で、そこらにいるOLさん同様に、赤い花柄のハンカチで日をかざしている小夜を、隼人は見下ろす。
彼女も……あんな風なOLとなんらかわらない。
本当は、明日の連休を楽しみにしていただろうな? と……。
「……そう言えば、吉田さんの実家はどこなんだ?」
「うちは倉敷です」
「倉敷! 良い所じゃないかー」
「いいですよ〜白壁の町並み。今度、遊びに来て下さいね!」
彼女はこうして側に置いていると、会話には飽きる事ない。
葉月も言っていたが、『根が正直で、素直』なのだ。
むしろ……テリーの方が、ちょっと何か影があり、全ては開いてくれない気がする。
物言いは、テリーの方が堂々としているのだが?
そのテリーは近頃は、葉月や達也の方に付くようになっていた。
それは葉月の指示なのだが、小夜がある程度慣れるまでは、隼人と小夜のマンツーマンにするという考えからだ。
だから……小夜が通信科から戻ってきてから、テリーとはそれ程話していない……。
今、彼女は、大佐嬢の『湾岸部隊合流』サポートで忙しそうにしている。
すこーし寂しい気がした。
小夜は、明るくて無邪気で……語弊はあるかもしれないが、ちょっとした『マスコット』みたいな……そういう明るさは与えてくれる。
だが、テリーは隼人にとっては、何処かシャクに触る生意気さがあっても、『配慮が行き渡っている』という感触を与えてくれている。
(まぁ、そこまで小池中佐が仕込んでくれたって事だよな)
出来上がっている後輩にばかり満足しているのはいけない。
今度は隼人が、小夜を育てなくてはいけないのだ。
「ん?」
そんな物思いから戻ってきて、ふと見渡すと……小夜がいない!
都会の雑踏の中、はぐれた!? なんて……子供じゃないんだぞ!! と、それでもヒヤリとした時だった。
少し向こうにある自販機の前に、小夜がいた。
そして、隼人と目があって手を振っている。
「中佐ー! お茶が良いですか? それともコーヒーですか?」
隼人は頭を抱えて、うなだれる。
「ったく。誰がそんな事を勝手にして良いと言った!?」
「気を利かせたつもりなんですー」
隼人の目くじらに、『きゃ』と肩をすくめる無邪気な小夜。
「もう、いいや。確かに暑い。公園が直ぐ先にあるから、そこで休もう。そのご馳走、頂きます」
「はい!」
これは甘いのだろうか? どうなのか?
(これはまたもや、違う意味でのお転婆娘を受け持った気がするなー)
なんだか急に娘を持った気分……。
やはり一苦労しそうだと溜め息をそっとつくが、嬉しそうに駆けだした小夜の後を、どこか微笑ましい気持ちで追いかけた。
まるででこぼこ珍道中のようにして、なんとか小夜を伴って『彗星システムズ』に到着した。
前回は、晃司のお膳立てで、都内のレストランで会食をしただけだが、こうして相手の会社を訪ねたのは初めて。
そんなに大きな会社ではない。
どちらかというと、隼人の実家『澤村精機』ぐらいの規模のようだ。
しかし、その『彗星』さんは、まだ出来たばかりとか言う近代的なテクノロジービルの一画を貸し切っている『最新ビルが職場』の新鋭会社だ。
何処か圧倒される緊張感が、ビルの雰囲気から圧せられてくるよう……。
隼人がそれだから、小夜は途端に怖じ気づいたようだ。
「大丈夫だ。行こう」
今まで、葉月と一緒に行動する仕事が多かった。
だが、もう……その段階は終わったと、隼人は思っている。
それは葉月も同じ気持ちなのだろう。
だから──こうして隼人を一人で動かしてくれているのだと信じている。
俺達は、お互いにそれぞれの力でもっと飛躍する。
それが隼人の『大佐嬢離れ』──。
だから、自分の為の『後輩育成』も惜しまない。
葉月は『母艦航行』を生かした訓練実践へのチャレンジへ。
そして──隼人は……。
最新の都会の大きなビル。
そこの近代的な吹き抜けのロビーを見上げる。
隼人の新しいステージが始まる。