-- A to Z;ero -- * 翼を下さい *

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3.幸せゾンビ

 彼女がふと微笑み、ナイフの柄を掴まずに立ち上がってしまった。

「どうした。見ろ、俺は丸腰だ」

 アルドは両手を広げ、お前の思うままだと強調する。
 そのナイフの柄を掴んで、『復讐』を望みのままにやってみろ。事情を知れば、それなりに理解はされるさ。みんな、お前の味方になるだろう。そう心で呟いた。
 だが、アルド……実は『丸腰』なんかではなかった。ジャンパーの中にはもう一本、ナイフを所持していた。
 彼女が本当にそのナイフで思うままに向かってきたら、その時はそのナイフで葉月を刺し、アルドも刺され……それで『ジ・エンド』にしても良いと目論んでいた。そうなるならそれで『簡単に終わっても良い』と思っていた。そして彼女も、アルドが皐月に濡れ衣を着せたように『人を殺したのか』と世間に思われつつ、この世を去っていくのだ。特に軍隊では大騒ぎになるだろう。将来を有望視されている女将校が、軍が一番重宝している『正義の男を刺した』となれば、どちらが正義か訳が分からなくなる事だろう。

 そしてアルドは『誓っていた』。
 誰もまだ知る由もない『真相』を決して語るまい。
 語らずに、そのまま己一人が抱き込んで逝ってやろうと思っている。
 きっとここまでして待ち構えていた右京も、そして衝撃の事実を知っただろう純一も。何故、娘を失う事になったのかと後悔している御園夫妻も……。そしてこの彼等に寄り添い、皐月を慕ってきた青年達も。そして目の前の妹も……。『真相』を皐月の真実の死に際を知る事もなく、アルドの死によってその後騒がれる事になっても、警察も今まで通りに、『どちらが悪かったのか。十八年前、本当に皐月嬢は復讐をしたのか、しなかったのか』という迷宮から抜け出られなくなるだろう──『永遠』に!
 それでも警察は事務的に処理してほとぼりを冷ますだろうが、御園一族はもう二度と救われる事のない『疑念』の中で生きていく事になるだろう。
 そして最後に、彼等が一番に守り通したかった末娘も、その時には儚く世を去っている。この魔王が抱きかかえ、花嫁としてもらっていくのだ!

 ……と、アルドは思うのだが、しかし目の前の彼女を見ている限り、まったくその感情は盛り上がってこないようだ。
 それならそれで、『別の手だて』はきちんと考えているのだが。しかし、ナイフの柄を掴まず立ち上がった彼女はそうしてアルドの心の波やそよいでいる微風を読みとるかのような強き眼力を向けているだけ。アルドもその目には警戒をしながら、自分が考えている事を悟られないようにただ無防備さを強調し続ける。

 やがて彼女がふと微笑んだ。
 そうして彼女がクールに微笑むと、そこにふっとした緑のような清涼感ある香りが漂い鼻に掠めたような感じにさせられる。
 時にはあの皐月が乗り移ったように、まるで姉の無念を代わりにぶつけてくるような笑みを見せるが、その涼やかな微笑みは本当に妹特有のもの。
 その妹の顔で、葉月がナイフにふっと背を向けてしまった。
 アルドははっとし、その月明かりを反射させている艶やかな白い背にもう一度『やってみろ』と投げかけた。
 しかし葉月はまた、その緑の葉をふわりと舞わせたような笑みを肩越しに見せる。その不敵な笑み……。今、彼女が退いたその位置にある彼女の脱いだ服の中から、アルドが『なんのために持ってきた?』と思わせたナイフを手にしたのだ。
 黒い革で出来ているナイフサックとベルト。それを手にしてアルドの前に突き出してきた。

「純兄様から借りてきたわ」
「ほう? そうか。お前が持参してきたナイフでやるって言うのだな? いいだろう、来い!」

 『来い』という一言で、ナイフの向こうで彼女の瞳がまた女豹のように爛々と煌めいた。
 その戦闘的な眼、アルドは胸がときめく。
 素肌の女戦士が、ついにその義兄が愛用しているであろう『サバイバルナイフ』を、黒サックからザッと引き抜いた。

 なんと勇ましい姿だろうか。
 妹がここまで逞しくなるとはアルドにも予想外だった。
 あんなに姫様のようにただ大人達に愛でられ、甘ったれた顔で泣いていたあの少女が……。
 そして先ほどまで、義兄や夫に支えられてやっとここに来たと言ったような頼りなげな美しいだけのお嬢様の顔でやってきた彼女が……。

 アルドの背に、ゾクゾクとしたものが走った。
 それは『感動』に近い。

 ──見たか! 皐月! お前もこうなるはずだったんだ! 汚れを知らぬ真白き戦士では決してやっていけない。この妹のように、汚れて踏みにじられてこそ上等の戦士になれるのだ!!

 アルドは思わず心の中で喜びの叫びを上げていた。
 皐月、聞こえるか? 見ているか? と繰り返した。
 この蒼き戦士を生み出したのは『きっとこの俺だ』と自負したい。
 そして本来はこのお嬢ちゃんではなく……このお嬢ちゃんではなく……。

 皐月、お前が『俺と一緒に』なるはずだったのだ……!

 そんな声が『初めて』、アルドの心に叫びとして浮かび上がる。
 アルドは自分で驚いて、一瞬、頭が真っ白になった。
 ……しまった! この大事な瞬間にアルドは目の前の敵から一瞬でも集中力を欠いてしまった!
 その瞬間を狙われたかのように、その大きなナイフをお嬢ちゃんが女豹の目でひゅうっと投げつけてきた──!

 駄目だ。刺し合うようにしないといけない。
 彼女を俺の懐に迎えないと最後の構図は完成しない。
 そう思ったアルドは、投げられたナイフはとりあえず避けると判断したのだが、その間もなくそのナイフはアルドのだいぶ手前で落ちてしまった。
 お嬢ちゃんが外した? 投げ損ねた? それとも、それが狙いか?

 アルドは訳が分からず、ナイフを投げた彼女を見た。
 彼女はまたアルドが投げたナイフの前にいる。
 そして葉月がその投げた純一のナイフを指さした。

「私からのプレゼント」
「プレゼント?」
「そうよ。貴方にもあげる。それで好きなだけ私を刺したらいいわ。それだけ──」

 『それだけ?』と、アルドは眉をひそめた。
 するとそれだけと言った葉月は、またアルドにもアルドのナイフにも背を向け、ついに脱いだ服を手にした。手にしたのは白い春コート。それだけを素肌に羽織ると、アルドの後ろで力無く横たえている従兄へと目を向けた。
 その顔はもう女豹の顔ではなく、ここに入ってきた時に見せていた『お嬢ちゃん』の顔だった。

「右京兄様、帰りましょう」
「ああ、そうだな……」

 アルドが右京へと振り向くと、彼は従妹の『意図』をきちんと理解しているかのような顔をしていた。
 しかも、もう……そこにはアルドがいて、いないかのように構わずに立ち上がろうとしていた。
 そして葉月はと言うと、彼女はコートのベルトだけ締めると、脱いでいたサンダルを履き直し、アルドもアルドのナイフにも目もくれずに外へ出る窓へと向かおうとしている。

「待て。動けば……」
「俺か? 俺ももうどんな風に刺されても、殺されても構わない」

 人質だった右京が、妙に何かが吹っ切れた顔でアルドに笑いかけている。
 さらに彼が言う。

「従妹もきっと同じだろう。俺が刺されても、葉月が刺されても──『俺達は、絶対に死にはしない』。そうだろう? 葉月」

「そうね」

 再び、夜風にコートの裾をなびかせた葉月が、あの冷たい横顔でアルドをちらりと見ていた。

「私は何度刺されても、生き延びてやるわ」
「なんだと?」
「それに……。貴方を刺す事も、以前に憎しみをぶつけることだって……」

 ──『もう、興味はないの』

 葉月の冷めた唇、冷たい声がアルドの耳に届く。

「それを伝えに来ただけ。今からでも、何年経ってからでも良いわ。いつでも私を、この前のように何度も刺したらいいわ。どんなに痛い思いも、どんなに身体に傷が増えても。私は絶対に『生き延びてやる』のだから」
「──二度とこのような目に遭いたくないと思わないのか」
「遭いたくないわ。でも──『貴方が生きている限りは、有り得ること』。その覚悟、もう出来ているから」
「だったら何故、危険な存在である俺を殺しておこうとは思わない!?」

 まったく訳の解らない彼女の気持ちに、アルドはいつしかこのお嬢ちゃんの姉である『皐月』とちっとも言葉が噛み合わない、通じ合わない、疎通できないあの苛立ちと口惜しさを再び突きつけられ、あの日を彷彿とさせられる。
 アルドの頭になにかふつふつとしたものが湧き上がってくる! 熱い血が逆流を始めるように……!

『それがお前の正しい生き方なのか?』
『そうです』

『私、貴方のことは間違っているとは思っていません。でも、私は私の信じる道を行きます」

『貴方と私の行く道が、違うだけ。でも、また何処かで交わることもあるかもしれません。その日まで……』

 ──さようなら。

 小雪がちらつく最後の日。
 彼女をただ情熱的な美しき赤い女性として、手放した日。
 その後、アルドは幽霊となり赤い花をへし折った。

 あの小雪の日を彷彿とさせられる感触を、赤い花の妹にも思う存分味わわされている!?
 その妹があの時の皐月のような分かり切った顔で呟いた。

「殺そうとは思わない。だって……貴方なんか殺しても、私にはなんの意味もないもの」

 姉とは違うどこまでも冷めている眼差し。
 その凍る眼差しはアルドが与えた物。
 そう、葉月嬢はその『復讐』にすらも、『無感情』になれるのだ……。

 アルドの手がまたブルブルと震え出す。
 妙な焦りを覚える。
 目の前の『闇の花嫁』は、同じ絶望の中にいる俺が捕らえた『同居人』だと思っていたが、彼女はその『闇』を出ていこうとしている。
 ──『さようなら』。
 同居人に愛想を尽かして出ていく恋人のように。その身ひとつで出ていこうとしている。

 無感情な蒼きお人形。
 ──アルドが造り出した闇に生きる令嬢。
 さようなら、と、いつしか聞いたあの声が聞こえる。
 ──まるでそれはあの日を彷彿とさせられるように、妹にも。
 闇の同居人は、もう闇の中には居ない。
 ──アルドを置いて、彼女は出ていく。

 さらに腕が震え始め、そして頭の中は煮えたぎるように熱くなっていく。
 そんなアルドにかまわず、あの葉月嬢はまた優美に微笑んでいた。

「私にとって意味があるのは、『私が死ぬまで、貴方が生きる事』よ」

 その思わぬ言葉にも、アルドは頬が火照る中、身体が固まる。

「だって、その方が貴方にとってはきっと大変な事。そうしてずうっと『絶望の人』として生きていってもらう方が、私には何倍も意味がある。私、しわくちゃの婆になるまで生きてやるの。貴方に何度襲われても、また、こうしてナイフを届けに来てあげるわ」

 ──アルドの頭の上で、何かが切れたような音がした。
 腕の震えは止まり、彼女が投げつけてきた純一のナイフへと素早く身体が動き、床から引き抜いた!

『葉月──!』

 背中から右京の叫び声。
 往生際が悪い! あれ程『俺達は生き延びる』と『刺されても構わない』と言ったのだから、従妹が刺されそうになっている今、往生際悪く叫ぶな! ──アルドは心でそう叫びながら、葉月へと向かった。

 白いコートの裾がふわっとアルドの気流に煽られるようにして舞う。
 お前の望み通りにしてやろう。そしてお前を闇から出してたまるか!
 一直線に向かってくるアルドの眼。その眼と、彼女の感情を宿していないような瞳がちゃんと合わさっている。
 彼女はこんな時でもアルドを見ている。アルドがなにをするか見届けるのは『自分だけだ』──彼女はちゃんとそれも解っている。『アルドが望んだとおりに』。なのに何故、お前は出ていくんだ!

 正面に辿り着き、アルドがナイフを振りかざすと彼女のその冷めた唇が微かにうごめいた。

「急所、しっかりね。外さないでね──今度は!」

 その一言に、アルドの手が思わずピタリと止まってしまった。
 そこは葉月嬢の、本当に鼻先で──。
 何故か解らないが、そこで腕が意志に反して止まっていた。
 アルドは自分の中に、自分ではない自分が居るような恐怖に初めて駆られる!

「私がゾンビかどうか確かめるのがもう嫌なら、しっかりね。この前のように心臓の横なんて無しよ。そうでないと、貴方も終われないのでしょう?」

 そうだ。だから今、お前を殺して俺も……。
 なのにそこで動かない。
 『急所を刺せ』と言われて、動かない。

「哀しいわね……。貴方も……」

 彼女の哀れむような目が、アルドを真っ直ぐに見つめていた。
 それどころか、彼女は自分事のように涙を一筋流していた。

「私と一緒……」

 彼女のその言葉も『闇の同居人』に取っては、言って欲しかった言葉か?
 アルドの腕の力が抜けていきそうになる……。
 それなら俺と一緒に死んでくれ。もう、絶望は沢山だ。未来のない人生なんて──。
 自分の中からそんな声が湧き上がってきた事も、アルドを混乱させた。
 そして目の前の彼女は、あの愛らしい末娘の顔になり、素の顔になり、目を真っ赤にして涙をこぼし続けている。

「認めて。自分がどうしてこうなったか『自分を見て』。私も、それを見ない生き方をしてきた。苦しかったわ……。見て……」

 葉月嬢がなにを言っているのかは、アルドにはさっぱり意味が分からなかった。
 彼女はそれすらも『その顔、解る』と一言呟き、またアルドを見て涙を流している。

 だが、彼女はそんなアルドに決して言ってはいけない『タブー』を口にした!

「貴方にも『未来』はあるわ。絶望の暗闇から抜けて生きていける道はある。それを見つけてよ」

 宿敵に対して何を言っているのだろうか?

「そうして、姉様の墓前に行って。そして姉様に話して──」

 またアルドの中の血が熱く煮えたぎり始めた。

「姉はどうして貴方に殺されなくてはいかなかったのか、辱められなくてはいけなかったのか。そんな事じゃないと思う。姉が知りたかったのは、貴方が姉に本当はなにを望んでいたかを──。伝えてよ。貴方はそれだけで終われるのよ。そうすれば、貴方は十八年前の貴方に戻れると思う」

 アルドは『なにを?』と葉月を睨みつけた。
 今、ここにあの時皐月に抱いたものと同じエネルギーの憎しみが湧き起こってきた!!
 『未来』? 『生きていける道』? 『皐月に再会する』? 『元に戻れる』?
 それらは全て、アルドが赤い花をへし折った時に、無くした物捨てた物ばかりだ──!
 それをこの目の前の娘は、あの姉とそっくりの顔、そっくりの声、そっくりな慈悲深い眼差しで、綺麗な煌めきを見せつける涙をこぼし、アルドに説いている!

 アルドの中で、大きな鐘の音が何重にもなって鳴り響き始める──。

 今までの楽しかった日々に感謝を。
 そして貴方に敬愛を。
 そして、貴方を信じています。

 ──さようなら。

 赤い女神のあの言葉。

 

 私は、どこまでも白く生きてやる! 貴方の心の片隅で……!!

 

 それが赤い花の永遠の復讐──。

「うあぁわーー!」

 その赤い花が何度も何度も、アルドの目の前で散っては咲いて散っては咲いてを繰り返し始める。
 真っ白い大地に何度も──!
 アルドは妹へではなく、その『幻想』を切り裂くべく、再度ナイフを持ち上げ振り下ろす。

『葉月! 危ない──!!』

 右京の声。
 目の前には栗毛の涼やかな女がいるはずだが、アルドには真っ赤な花しか見えない。
 そこにいる確かにそこに──!
 胸は駄目だ、また生き返る。また咲き始める。幸せな顔で姉妹は生き返る!
 この姉妹は白き色に戻っていく『幸せゾンビ』。アルドが一番嫌悪する『呑気な幸せ』で『呑気な顔』で、『白きものを愛し、まわりに振りまく』、『鬱陶しい花』!!

 ──頸動脈。
 今度はそこだ。
 もう、外さない!

 獣の目に、赤い花びらが降りしきる中たたずむ蒼き女の首元にナイフが光り切り裂く予想図。
 一寸違わず、一気に切り裂け!

 銀色の閃光が蒼い女の顔を横に切った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 何処かで姉を愛していた?
 いや、姉の全てを彼は欲していた……。

 葉月はそう思っていた。
 だが、彼は気が付いていない。
 それに気が付くのが怖いから、彼は狂気に走ったのか?
 それとも、それに気が付いたから、全てを誰にも渡さないために姉の全てを奪ったのか?

 だとしたら、なんて屈折した愛。
 それはきっと男女の仲を越えたところにあり、だからこそ彼が姉を欲していたのではないかと葉月は思う。

 それを妹である葉月が突きつける。
 彼の『男の代償』──! それは葉月にはまったく予想外だった。
 あれだけ妹のお前も同じようにしてやろうとばかりに葉月を触っていたのに。あれほど女体を性的に触りまくって『反応しない男の性』。葉月の背中、尻の辺りに必ず感じるだろうと『覚悟』はしていたその男の反応がなく……。それほどに『男をコントロール』出来る冷徹な男なのかと内心では驚きだった。
 だが、違った!
 彼も、葉月と同じで『あの日、あの光景』を目にして『性を無くした』のだ。
 違う。葉月よりもっと酷い。葉月は無くしていなかった。そうでなければ一時的ではあったが今までの恋人と愛し合う事は出来なかった。勿論、隼人とも……。葉月は言うなれば『性が屈折』した。だが、アルドは違う。完全に『無くした』のだ。
 それに思い至った時、彼は自分で姉を辱めておいて、誰よりもその光景に傷ついていたのだと。誰よりも『ショック』だったのでは!?
 葉月にとっては考えたくない、認めたくない『心』。だが、だからこそ『彼も私と同じで、衝撃で駄目になった』──そうとしか思えなかった。

 そう思うと、一つだけ光が射した気がした。
 彼は悔いているから、男の代償を払ったのだと……。彼はそれに気が付いていて、でもまだ気が付かない振りを押し通している。十八年も!
 そこに姉の哀しそうな顔、でも透き通った眼差しで、真っ白な服を着て微笑んでいる様が葉月の脳裏に幻想的に浮かび上がった。

『葉月ちゃん。この人を私のところに連れてきて』
──姉様、この人と何を話すの? あんな酷い目に遭わされて!
『連れてきて、お願い』
──わかった。

 彼にそれを告げた。
 すると彼はそれまで見せた事のない感情的な顔になり、もの凄い形相の鬼となる!
 あの眼、あの眼……!

『お前は、あの自分勝手な姉のせいで惨い目にあっているんだ。恨むなら姉を恨め』
『俺をここまで追い詰めた真っ直ぐすぎるあの女を恨め!!』

 ナイフを振り上げる『悪魔の目』。
 私を何度も苦しめ、夜な夜な頭の中に現れた正体もわからない『泥沼から浮上してくる黒い塊』。
 その正体を現した男が、葉月の左肩を引き裂いた時のように、そして愛しい彼と白い花を掴んだ時に刃を振り下ろされたあの時のように──。
 濁った灰色の目が、沸騰し煮えたぎっているように渦巻いているあの眼が、葉月に襲いかかる!

 身体が、動かなくなった。
 声も、出ない。

 彼のナイフがその時だけは、ゆっくりとした動きに見えた。
 今度はあの時のように上から振り下ろされるのではなく、そして横須賀基地の時のように真っ正面から振り落とされるのではなく、まるで円盤でも飛んでくるかのような軌道を描き、真横から空気を切り裂いて向かってくる──!

(頸動脈──!)

 直ぐに避けて……。
 駄目、動けない。

 彼の唇が喜びでニヤリと口角が上がった。
 私が死んだら、この男もきっと死ぬ。
 絶望の中にいる限り、彼にはもう死しかない。
 最後の人形である葉月が死んだら、彼にはもう『思い残す事』などないのだから。
 そうなったら、お終い──!

 彼の勝ち誇った笑い声が響いた。
 遠くでは右京がなんとかしようと、無理をして立ち上がろうとしているのもゆっくりとした情景の中で葉月は確かめた。
 でも実際はそんなゆっくりとはしていない。

 それは一瞬。

 貴方。許して。でも、待っていて。私、必ず、もう一度……!

──もう一度、戻ってくるから!
『葉月──』
『葉月!!』

 そう心で叫んだと同時に、右京ではない男性の声がふたつ。
 葉月の首元で『がちん!!』と言う金属が激しくぶつかり合った音、それだけじゃない。この暗闇の中、本当に火花が散っていた。

「お前……。純一!!」
「くっ……! 誰だそれ。俺は黒猫だ!」

 それだけじゃなかった。
 その声と火花が散ったのと同時に、葉月は誰かに腰を抱き込まれ、そのまま後ろへざあっと引かれ強く押し倒される。
 その勢いで、その誰かと一緒に床に倒れ込んだ。

「俺がいることを忘れてもらっちゃ困るなあ!」
「黙れ、純一……! お前には一切関係のない事だ。猫は隅っこで丸くなって眺めていろ!」
「何処がだ! 俺は皐月とこの義妹とは切っても切れない関係だ! あんたよりずうっとなあ!!」

 目の前で、ナイフを手にした男が二人、ついに戦い始めていた。
 自分は? まだ身体が固まったまま動けなかった。いや、呆然としているのかもしれない。
 棒のように固まったその身体。その身体を頼もしく受け止めてくれているのは誰か……。ううん、もう、解っている。

「葉月、大丈夫か?」

 葉月が後ろへそのまま倒れる為のクッションとなってくれているその人の声が、耳元で聞こえた。
 重なっているその身体の温かさ、そして腕の長さ、抱きかかえてくれている力加減。それを知って、やっと葉月の鋼のように固められた身体の力がしんなりと萎えて柔らかくなり、手先も動かせるようになる。そうしてその動いた手を、しっかりと腰を抱き込んでくれているその手へと重ねた。

「隼人さん──」
「まったく、どれだけ俺をハラハラさせてくれるんだ」
「貴方──」

 瞳から熱い涙がこぼれた。
 二人が側で見守ってくれていた……。側に来てくれていた……。
 身体が動かなくなった瞬間を見逃さず、純一は幽霊の魔の手を止め、隼人は妻の身体を全身で守ろうとした連携プレー。
 そんな状況を把握し、急に力が抜けていくよう。
 葉月はそっと隼人の身体から起きあがり、背中に張り付いていた彼へと振り返る。
 確かにそこに、自分の夫がいた。

「因縁の男に睨まれて動けなくなった。そんな顔をしていたから、やばいと思って……」

 彼がすかさず起きあがり、すぐに葉月を抱きしめてくれる。
 その頼もしく助けに来てくれた彼の胸に、葉月は躊躇うことなく飛び込んだ。

 しかしそれも束の間。
 ナイフの金属音が激しくぶつかり合う中、そこから狂気の声がこちらへと飛んでくる。

「その女を返せ! それは俺のものだ!!」

 純一のナイフの攻撃に応戦しながらも、アルドの目線は葉月から離れなかった。
 それどころかそこに自分と同類と手放さない『お人形さん』が、柔らかに抱きしめられている姿を目にし、今まで以上の形相へと変化していた。

 その顔はまさに『魔王』。
 葉月はまた身体が固まりそうになったのだが、隼人が魔王の怒鳴り声に怯むことのない燃える目を向け、さらに強く葉月を抱きしめ、幽霊を睨みつけていた。

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