華やかで柔らかな雰囲気のショップを見ただけで、もう匂いを感じた。
『おお、イメージ通りのショップ、見つけた! 横浜のデパートまで来た甲斐があった』。そんな喜びも束の間。黒いネクタイに、黒い大佐の肩章が付いている白い夏シャツ制服。この格好で来るんじゃなかった――と、隼人は周りを見渡した。
見事に女性客ばかり。そんな彼女らが、軍人男性がぽつんといるここへ、視線をそっと向けているのがわかる。
平日の、こんな時間。女しかいないに決まっている。それも分かっていて覚悟して来た。でも時間がなかった。早く決めて横須賀に戻らねば。
そんな女性達の興味本位の視線に居心地の悪さを感じても、その『魅惑のショップ』に引き寄せられていく。
店頭にある花柄のボトルを手にとって、早速眺めてしまう。
ピンク色の優しげな小花が彩るボトルからは、芳しい花の香りが漂ってくる。
いやあ。これじゃあないなあ。
そっと溜め息、隼人はそのボトルを元の場所に戻す。指先で眼鏡の位置を正し、さらに店内を見渡す。
ピンクじゃないな。
いや、ピンクも良いもしれない。
香りも優しくて『俺でも平気な匂い』だった。
夜なら、ちょっと贅沢な気分になるかもしれない。
心の中で自問自答。
でもなあ。そんなイメージではないんだよなあ。近頃、ピンクのような柔らかさと暖かさを見せ始め、すっかり女らしくなってもなあ。と、一人ですっかり考え込んでしまっていた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか」
はっと気が付くと、目の前には若いお嬢さん。
このショップの雰囲気に合わせたエプロンをしている若い女性が、にっこりと隼人に微笑みかけていた。
『いえ、ちょっと見ていただけ』と言って、いつもなら逃げているところなのだが、今日はそうもいかず「はあ。ちょっと」と応えていた。
だからって何を探しに来たのかなんて簡単に言えるわけもない。
しかし、女性はこんな男を見て誰もが察するのだろう。可愛らしいスタッフの彼女から切り出してくれる。
「贈り物ですか」
「ええ……その、」
妻に――と言えばいいのに、それが言えない。
「相手の方のお好みが分かりますか。よろしければ、色々と香りを試されてみませんか」
その言葉の裏に『お手伝いをします』と、控えめに伝えてくれているのが分かった。
「そうですね。アロマオイルを集めるのが好きで……」
「それでしたら、沢山の香りを既にご存じですよね」
「出来れば、彼女が持っているようなスタンダードでストレートな精油ではなく、その商品特有の、でもそれを使って心が贅沢になるようなものをイメージしてきたんですが」
すっかりその気になった隼人は思っていることをそのまま伝えていた。
すると、スタッフの彼女がちょっと驚いた顔。
「そうでしたか。イメージが出来上がっているのですね。そうしましたら、是非、当ショップのブランドを一度、試されてみてください」
彼女に誘われ、隼人はついにショップ奥の壁際にあるカウンターに連れられていってしまう。
そこで彼女が自社ブレンドのオリジナルオイルから、ちょっとした化粧品から、アロマランプまで取り揃えてくれた。
「こちらが、ナイト用。安眠効果があります」
「ああ、いいね」
キャップを開けた小瓶を手渡され、隼人もその香りを確かめてみる。
確かに。自社製だけに独特な香りで、今まで隼人が嗅いだことのない匂いだった。でも合格。しかしそれを決めるには個性がありすぎる香りだったので、カウンターに置いた。
『こちらも……』と、数点勧められ同じように試したが、全てピンとせずに隼人は置いてしまう。やがてスタッフの彼女も困惑した顔をしたのだが。
「お相手の方は、いつもどのようなアロマオイルを愛用されているのですか」
その問いになら、隼人は迷わずに答えられた。
「勿論、それぞれ気分に合わせているようだけれど。はっきり決まっているのは、多忙だった仕事に目処が付いた時、または出張から帰ってきた夜は、決まって柑橘系……」
やっと彼女が『それなら』と閃いた顔で勧めてくれたのが、バスシリーズだった。
「こちらが入浴剤、ボディーソープ、そしてボディミルク。ヘアケアシリーズも全て同じ香りで、全身トータルコーディネイトできます」
「入浴剤ですか……」
「この入浴剤は、お湯に溶かすと乳白色になります」
おー。葉月がいつも使っている入浴剤と一緒だと、隼人も頷く。そして『結婚する前の同棲時代から、彼女の習慣にすっかり馴染んでしまった俺も好きだ』と心で呟いていた。
と、興味を持ったそのボトルのキャップを彼女が開ける。隼人もその香りを確かめ、今度はピンと来た。
「あ、これいいな」
「ローズとグレープフルーツが基調になっております。スパイス系の香りがちょっとアクセントになっていて、甘さを抑えているのが特徴です」
極めつけの一言が――
「入浴中の香りで緊張をほぐし、高ぶっている精神を落ち着ける。そして眠る時も安らぐ香りに包まれることで『良い眠り』を得る効果が生まれるんですよ」
葉月がアロマを始めたのは、まさに『安眠を得る』ことがきっかけだった。
既に葉月が身につけていることではあったが、『良い眠り』とか『安眠効果』という言葉を聞くと、夫の隼人は素早く反応してしまうし、その効果を気にするようになってしまった……。
今でも、どんなことをしても消えない闇に包まれ、葉月は時折、眠りを失うからだ。大好きな柑橘の香りに包まれた夜でも、それはある。それでも葉月は、気休めで良いからと、今では寝室の壁にアロマオイルの棚を備え付けるほどになり、彼女の楽しみににもなっていた。
「では。これでお願いします。バスミルク、クリーム、シャンプー、トリートメント。トータルで」
これに決めた。
隣で眠る妻の香りは、自分も気に入らないといけない。
共に寄り添って眠る時、互いの気持ちが和らぐものでないと意味がない。その点では合格で、そしてこんな贈り物を探す機会だからこそ、男の隼人も気に入る香りを見つけようと密かにやってきたが、その甲斐はあったようだ。
「贈り物としてお包みしますね」
「バースデー用で、お願いします」
カウンターで彼女がエレガントなラッピングをはじめる。
その間に、『カードを添えますか』と言われ、隼人はそれをもらい受ける。
彼女はラッピングを、そして隼人はカードを記した。
カードにはフランス語で『誕生日おめでとう』とだけ記す。
それをスタッフの彼女が、不思議そうに見ている。
「あの、小笠原の方ですか」
「ああ、そうだよ」
「そちらは、フランス語……ですね」
と言われ、隼人は少しだけ迷ったが、笑顔で答える。
「妻とは仕事で、フランスで出会ったものだから」
「まあ、そうでしたか」
その少し後で、最後のリボン掛けをしていた彼女が笑い出す。
「やはり奥様でしたね。ほっとしました」
「え、何故でしょう」
彼女がおかしそうにくすくすと笑っている。
「お客様、とても立派な肩章とバッジをされていますから、上層部の方だと私でも一目で分かります。そして指輪もされていますし……ご結婚もされているとも」
「それがどうかしましたか」
「あの……お仕事が出来そうな大人の男性がいらっしゃったなと思ったんです。なのに、直ぐには『奥様への贈り物』と仰ってくださらなかったので。失礼ですが『奥様以外のお相手』への贈り物かと、ヤキモキしてしまいました」
それを聞いて、何故か隼人はかあっと頬が熱くなった。
つまり。毎度の天の邪鬼で素直に『妻の誕生日プレゼントを探しています』と言わなかった為に、この風貌にて『愛人宛』と勘ぐられてしまったのだと。
しまった。やっぱりこんな大佐の肩章がついた制服でくるんじゃなかったと思ったのだが。
「ですが、そうして出会った頃を忘れずに、そうしてお誕生日に奥様とフランス語ひとつで一緒に思い出す……。しかもご主人様がそれを用いて。素敵ですね」
『いや、別に。そんなわけでは』なんて、本当は彼女が言うとおりなのに、天の邪鬼男は澄ました顔で受け流す。しかし内心はまた赤面状態、照れくさくって真っ赤っかの気分だった。
ショップのペーパーバッグを手渡され、丁寧に彼女が見送ってくれた。
白い夏シャツ、肩の黒い肩章。片手にはアロマ雑貨店のペーパーバッグ。その姿をまた、道行く女性が振り返る。
だが、隼人の心はもう一直線。横須賀へ……いや、その横須賀発の飛行機が向かう離島の、その海岸沿いの郊外の、新興住宅地にある『白い家』へと駆けていた。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・
『ただいま』と我が家に帰宅すると、誰も迎えてくれなかった。
夕方なのに。子供達の声がしない。
だが、隼人も気にせずに靴を脱いで玄関から上がる。
どうせ、ボーイズは海野家だろう。我が家にいなければ、隣と決まっている。とにかくあの二人は幼い頃から一緒にいる。離れていることなんてほとんど無い。
そして娘は……もう、この家にはいない。五歳で巣立ちという、なんとも御園の娘らしい思わぬ活発さで飛び出していってしまったのだ。まあ、周りの大人達が煽ったのも原因であるのも否めない。隼人もそれに賛同した一人。だが妻、いや、母親である葉月だけが反対をしたというのに……。
子供達がいないと本当に静かな家だ。丘のマンション時代を思い出す。静かだった妻がいるだけの部屋に、よく通ったものだったと、隼人は懐かしく思い返す。
それにしてもと、隼人はリビングにキッチンへと続く廊下を見つめる。なんだ。葉月もまだ仕事だったか。相変わらずだなあとため息をついた。
なにせ、今日が彼女の『誕生日』。だから、丁度良く出張だったから、横浜まで足を伸ばしてプレゼントを見繕いに行ったのだから。
まあな。そういう女だったよ。出会った時から。
隼人はさらに溜め息をこぼし、寝室がある二階に上がろうとした。
そうそう。出会った夏も、葉月は自分の誕生日も同じマルセイユで過ごしていたのに何も教えてくれなかった。そりゃな。出会ったばかりだったし、恋を意識しても互いにひた隠しにして『仕事優先』にして接してきたんだ。そんなだったから、最後に『惹かれあっていたのに、仕事だからと別れた』。そんな関係で、あの葉月が『私、今月、ここで誕生日を迎えたのよ』なんて、はしゃいで教えてくれるはずもなかっただろうし? 小笠原で恋人同士になっても同じ事だった。隼人か誰かが気が付かなければ、葉月は仕事に没頭していて『あら、今日だったかしら?』なんて気が付いたら、その日が終わろうとしていたなんてことも良くあった。
それは今も同じで。結婚後は、隼人がちゃんと気にしてその日が過ぎないようにしている。
なのに不思議と葉月は、隼人と子供達、そして純一や海野ファミリーの誕生日は覚えていたりするのだ。
だがそれも彼女曰く『結婚して家族が出来たからよ』らしい。それまでは、それ程に気にしなかったと言うが、達也と純一義兄の話によると『独身時代にも俺の誕生日を覚えていてくれた。プレゼントもいつの間にか用意されていて、こっちが驚いたことがある』なんて話もしてくれて、驚いた程だった。ちなみに、達也は腕時計で、純一義兄は『口が裂けても言わない』と未だに教えてくれないが、本人曰く『ほぼ毎日身につけている』とのこと? 隼人の予想では『カフスボタン』か……と予測しているのだが?
だから、誰もが……。いや、隼人と達也と純一義兄は、誰よりも『葉月の誕生日』は忘れないということなのだ。
「お帰りなさい」
急に声が聞こえ、階段を上がり始めていた隼人はびっくりして振り返った。
「い、いたのか。誰もいないかと思った」
まだ制服姿の葉月が廊下にいて、隼人を見てにっこりと微笑んでいた。
気のせいか、ほんのりと頬が染まっていて、とても清々しい顔でそこにいる。本当に幸せそうな顔で隼人を見ていたから、それだけで隼人も幸せになってしまう……。
「お隣にいたの。今、勝手口から帰ってきたら、貴方が見えたから」
「ああ、そうだったのか」
そして隼人も気が付いた。葉月の手には、小さなペーパーバッグ。持ち手には白いリボン。それだけで、隼人も察してしまった。
「それ、達也から?」
「うん。達也と泉美さんから。二人で選んで下さったんですって。ピアス……」
そう言いながら、葉月がちょっと耳をつまみながら俯いてしまった。隼人もどうしてその反応なのか首を傾げた。
その照れくさそうな顔はなんなのか。達也と泉美さんからピアスを貰ったぐらいで、なんで照れくさそうに耳を隠すんだよと……。
「なんだよ。貰って早速、耳に付けたのか。俺にも見せてくれよ」
「え。まだ付けていないわよ……」
そういうと葉月は、急にぷいっと怒ったようにして背を向けリビングへと消えてしまう。
まったく。その可愛くない反応はなんなのだ。と、未だに何を考えているかさっぱりわからないことがある夫としては、どこか腹立たしくなって、そのまま階段を上がった。
だが、数段のぼって……。隼人ははっとあることを思いだした。
今度は急いで階段を下り、リビングに消えた葉月を追いかけた。
ソファーに、海野夫妻から贈られたジュエリーショップのバッグが置かれていた。
そして葉月は海が見えるリビングの窓辺に立っている。隼人はその背に歩み寄った。
庭の向こうには、海岸線。そして海。この家には毎日、潮騒と潮風が届く。
そんな中、夕の風にそよぐ栗毛。そんな妻の栗毛から見える『耳』を隼人は確かめる。
「俺があげたピアス。今日、付けてくれていたんだ」
彼女が28歳の時だったと思う。
結婚をする前の夏。一度、手放した葉月を取り戻した夏だった。そんな彼女に、ボーナスを奮発して小粒だがダイヤのピアスをプレゼントしたことを思い出す。
結婚してからも数年は、その誕生日プレゼントのピアスを、日常でも良く選んで付けてくれていた。だが、やがて……。隼人が他の記念日のプレゼントで選んだもの、そして様々な女性らしい生活の彩りを取り入れるようになった葉月が自ら選んだお気に入りや、義兄の純一からの贈り物、そして今日のように海野夫妻からの贈り物等々。そんな沢山の人々から貰い受けた気持ちのピアスを気分で付け替えるようになって久しい。28歳ダイヤの出番は減っていた。しかし今日は、葉月の誕生日。その耳には、あの日のピアスがある。
そして隼人はさらに気が付いた。
だから、耳を――。照れくさそうにして隠してしまったのかと。
「気づいていないでしょ、毎年」
「あー。いや、気が付いていた年もあったぞ」
「嘘。誕生日だからしているだなんて、隼人さんはここ数年、ちっとも言わなかったもの」
「いや、あったぞ。ええっと、新婚の頃か。今日は誕生日だからしてくれているんだなと。でも……去年は気が付いていなかったな」
と言い訳ても。結局、隼人が気にしていたのは『そのピアスを贈って数年だけ気にしていた』と言うことになってしまう。
だが、葉月は忘れずに毎年、付けてくれていたのだと……。それを知って、隼人はさらに気が付いた。
忘れずに、そのピアスを毎年付けてくれていたって事は――。
誕生日の朝は、間違えずに隼人が贈ったピアスを毎年手にして付けているってことだ。イコール、『葉月は自分の誕生日を忘れていない』ということだ。
「なに、お前。毎年、『ああ、そう言えば、今日は私の誕生日だって忘れていたわ』って言うじゃないか」
「だって、日中は忙しくて。そんな『誕生日だわ』なんて余韻に浸る間もないわよ。夜になって『お誕生日おめでとう』と貴方やファミリーの皆が祝ってくれて、ようやっと『あ、朝は覚えていたのに、すっかり忘れていた』となるのよ。そうでしょ。結婚前から私、ずうっとそうだったじゃない。けど、いまは『このピアスのおかげ』で、朝だけでもちゃんと自覚できるようになったってだけよ」
そうだったんだ! と、隼人は夫ながら、初めて知って驚愕する。
しかも、妻はまた照れくさそうに、耳たぶのダイヤをつまんで言った。
「忘れないわ。貴方『俺の前にいる記念』と言って、当日は過ぎていたけれど、28歳の誕生プレゼントとして贈ってくれたのよ。『お前が笑顔で生きていることの記念。また来年もみられるようにしてくれよ』って言ったのよ。でも……私。その後直ぐの冬に……刺されて死にそうになったから。だから、余計にね。次の夏の誕生日には、このピアスをつけて『去年の約束通り、貴方の目の前にいることが出来たわ』と幸せを噛みしめたものよ。それから毎年よ。毎年、貴方の前にいられる私を噛みしめているの」
そして葉月がやっと顔を上げ、隼人を見つめる。
――『そんな誕生日になるようにしてくれたのも、貴方のおかげよ』と。
微笑みはなく、何処か思い詰めたような……今にも泣きそうな瞳。
隼人の中で、あの頃の、生きることに思い詰めていた、何処か儚そうだった妻が蘇る。あの頃の葉月の顔は、今でも隼人にとっては、胸をぎゅっと締め付ける物悲しい気持ちにさせられるのだ。
そんな妻を、隼人は潮風が入ってくる窓辺で抱きしめていた。
「知らなかった。毎年、お前だけで約束を守ってくれていただなんて」
「ううん、いいの。それだけ貴方が私のことを心配しなくて済むようになった……私、ちゃんと貴方を安心させて笑顔で生きている証拠だって思っていたから」
包み込んだ胸へと、葉月が素直に頬を寄せ笑っていた。
抱き合ったまま、二人は庭の向こうに見える夕暮れの海を見つめた。
「夏ね。思い出すだけで充分。このピアスを貰った時に、もう沢山貰ったの」
だからもう、なにもいらない。
そんな言葉が続きそうな葉月の唇を、隼人はそっと吸った。
唇を絡め合う甘い音が、二人の間だけに聞こえる。
――誕生日、おめでとう。
そんな言葉はいらない。この妻に、そんな言葉は必要ない。
葉月にはもっと違うものが刻み込まれていることを知る。
妻の誕生日なのに夫の自分が満ち足りた気持ちになった。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
『これ、俺からの』
海野家でご馳走になった夜。はしゃぎすぎた息子の海人も眠ってしまい、静かな夜を夫妻は迎えようとしていた。
妻が入浴の準備を始めたので、そこを狙って隼人はバスセットを手渡した。
それが夫からの今年の贈り物と知って、今年も葉月は嬉しそうに受け取ってくれる。それがまた『大好きな香りのセット』と知ってとても喜んだ。
早速、使う。と、寝室のバスルームへと持っていった。
一緒に――と、言いたいところだが。出張の報告書を作っておかねばならず、隼人は寝室を出て、書斎に暫く籠もった。
さっと、今回の出張であったことをまとめ、明日のミーティングの準備も終え、書斎を出る。
寝室に戻ると、部屋いっぱいに、自分が選んだ香りが充満していたので驚いた。
ベッドライトだけの、仄かな灯りの寝室。そしてバスルームから湯船の水音。浴室へのドアが開けられており、湯気がそこから寝室へゆらりと漂って来ていた。そしてふんわりと花と柑橘の香り。
「貴方、終わったの」
そんな声だけが聞こえてきた。
ちゃぷちゃぷとした湯の音と、妻の声だけ。
「うん、終わった」
暫く、返事もなく。また湯の音だけ。
そして隼人もわかっていた。あからさまになれない葉月が、そうして分かり易く誘ってくれているのだと。
「いい香り。有り難う」
だけれど、隼人はその誘いに乗らなかった。
何故なら――。
「もう出てこいよ。俺、待っているから」
また葉月が黙り込んでしまう。だが直ぐに湯船から上がってくる水の音が聞こえ、葉月がバスルームから出てきた。
開け放しているドア、洗面台の前へと、妻が濡れた裸体で現れる。すっかり火照っている頬を見て、余程にゆったりと香りを楽しんで長湯をしていたことが窺えた。
そんな葉月が、濡れた体に、バスローブを羽織ろうとしていたのだが。
「いいから、そのまま俺の所に来いよ」
葉月が面食らって隼人を見る。
目が合い、そこでやっと隼人は着ていたティシャツを脱いで、自分も素肌になった。
「まだ濡れているし……」
「いいから、こっちに来いよ」
バスローブを羽織り、幾分か水分は吸われていたが、葉月は夫が望んだままに脱ぎ去ってくれた。
まだ湿った肌のまま、静かに隼人の前に濡れ姿で来てくれた。
すっかり茹で上がっている肌は、どこもかしこもほんのりと薄紅色に染まっていた。
肩の傷も、胸の三日月の傷も。隼人には、和紙の美しい透かし模様のように見える。
熱くなっている肌からは、隼人自身が選んだローズとグレープフルーツの香りを放っている。
その火照った両肩を掴み、隼人はそっと葉月の耳元に口づけた。
「……貴方は? はいらないの?」
その問いに、隼人は答えないまま、ダイアのピアスをしたままの耳たぶを噛んだ。
小さく漏れる、葉月の吐息が聞こえた。
「お前の指先まで、もう、こんなに熱くなっている」
今夜は抱く前から指先まで暖まっていた。
素肌になった隼人の胸に吸い付いた、葉月の肌も本当に熱かった。
「一緒に、入りたかったのに……」
ちょっとした不満を漏らす唇が、愛らしく拗ねたので、隼人は小さく笑う。
だがそれも黙って、隼人の唇で制してしまう。
柔らかく奪っても、既にどうしようもなく切なそうに揺れる瞳を見せる葉月。隼人もその潤んだ瞳にすっかり感化されてしまい、そのまま妻の裸を存分に腕の中に抱きしめた。
熱く香る葉月を、強引にベッドへと連れ込んだ。
隼人が望んだとおりの、香り、体温、肌。まだ汗を流してもいない男の皮膚を火照った体へ無理矢理に密着させ、しっとりと花の匂いを吸い込んだその肌を男の唇を駆使し、どこまでも吸い付いやる――。自分が望んだ香りだけに、見つけた花を摘み取るか実った果実をもぎ取るかのようにして、柔らかにほぐされた葉月の肌を唇と舌先で貪った。
葉月は、夫の舌がつま先から少しずつ登ってくるのを、狂おしい息を吐きながら眺めていたのだが。足の付け根に隼人の唇が辿り着くと、それだけで葉月は「あ」と切ない声を漏らした。『条件反射』みたになものだった。いつも隼人がそこで、しつこく離れないことが多いからだ。
「あん、もう……そこばっかり」
「そこばっかり……って?」
足の付け根で、いつも焦らして隼人は楽しむことが多い。
その直ぐ側にある、葉月ですら望む女の果実を早く吸い取って欲しいから……。流石の葉月も荒い息を弾ませ、悶えていた。
「はあ、あ……貴方、お願い……」
「お願い?」
もうまだ焦らすのかと、ついに葉月の手が、隼人の黒髪を痛いくらいに鷲づかみにした。
言葉に出来ない妻の、そんな望み方が隼人は好きだった。それをして欲しくてこんなことをしているだなんて、きっと……知らないだろうなと。
ようやっとその気を見せた隼人は、彼女の片足を持ち上げて自分の肩に乗せた。
そうすると薄明かりの中でも、妻の足はあられもなく左右に開かれ、恥じらいの園の奥が見え隠れしてしまう。
それでも隼人はやっぱり、もうすこし足の付け根を口づけで埋め回って、葉月を怒らせてみた。
「う、んっもうっ。私、寝ちゃうからっ」
「へえ、これでも。眠れると言えるのか?」
こんなに愛しているから寝るだなんて許さないとばかりに、隼人は焦らすだけ焦らしたくせに、その瞬間はダイレクトに唇を押しつけ吸い上げていた。
急激な攻撃に『んあっ』と、葉月が身体をしならせた。シーツの上に崩れた奥さん。それをじっくりと見つめながら、今度の隼人は『妻の陥落』へと突き進む。
柔らかに首を振りながら、栗毛を乱していく葉月。
夫に淫らに身体を開かれても、もう、そんなこと我を忘れて、すっかり隼人に任せて預けてくれている。そのまま、感じるままに――。
そう今夜もそうして、お前はお前が感じるままに振り乱れたらいいんだ。
念じる夫の言葉が聞こえたかのようにして、夫が選んだ香りを染みこませた肌で、葉月は昇りつめていく……。
互いの肌がすっかり濡れ合う頃、窓辺から入ってくる夜風に醒まされたかのようにして、二人は一緒にシーツの上に崩れ落ちる。その時になって、充満していた花の香りも海へと消えていったようだった。
寄り添う妻がまどろんでいるのをそっとそのままに。隼人は一人でシャワーを浴びる。ぬるめの湯で、汗まみれになった肌を冷ました。
バスローブを羽織って寝室に戻ると、眠っていると思っていた葉月が裸のまま起きあがってベッドに座っていた。
もう灯りも消してしまった寝室。八月の夜風が入ってくる窓辺の側。そこで葉月がカードを手にして、静かに眺めていた。
「貴方、今年も有り難う」
フランス語で書かれたカードを今年も。
出会った夏を、密やかに思い返す瞬間を分かち合う。
バスローブの腰ひもを締めながら、隼人もそっと微笑む。
暗がりの中、裸でひっそりと座っている妻の姿を隼人は胸に刻む。
夜の寝室は青く、そこに白く浮かび上がる裸の妻は綺麗だった。
その青白い裸体に、隼人は呟いた。
「また来年」
「そうね、また来年。楽しみにしていて」
俺のピアスをして、俺の前で笑っていてくれ。
それが彼女の誕生日。
それが二人の祝福の仕方。
来年も、彼女がやっと手に入れた笑顔が、そのままでありますように。
それが俺達の『おめでとう』。言葉なんかじゃない、微笑みだけで。
Update/2009.9.24