目の前は真っ青な海と空。真っ直ぐに海原へと伸びる滑走路。
そこからいつもの通りに、銀色のホーネットが次々と空へと飛び立っていく。
『ビーストーム1、スタート地点に到着』
葉月の空の相棒、ミラー中佐のいつもの声がヘッドホンに届く。
「では、本日もよろしくお願い致します」
『ラジャー。ミセス大佐』
『ミス大佐』から『ミセス大佐』と呼ばれるようになって数年。
最初は戸惑っていたが、ミラーにそう呼ばれ続けているうちに、すっかり葉月にも馴染んでしまった。
「大佐。始まります」
この日も大佐嬢の側には訓練補佐をしてくれるクリストファーがいる。ノートパソコン接続のデーターを眺め、大佐嬢の葉月に逐一報告してくれるスタイルも変わっていない。
「来た来た! やはり、ミラー中佐はいつまでも『ダントツ』ですね〜」
「それでも数回に一回は、メンバーに撃墜されるようになったわよ」
「皆さんの腕も、冴えてきましたよね。ほうら、後ろから劉大尉の『2』が接近してきましたよ」
クリストファーの報告に、葉月も画面を覗きながら、ミラーの背後にピッタリと迫ってきた先輩の素早さに満足げに頷く。
しかし、ここから毎回手に汗握る展開が繰り広げられる。
葉月の肉眼で見える上空に、二機が現れる。ミラーが攻撃チーム、劉が防衛チーム。空母艦が爆撃ロックをされた時点で、防衛チームの負けとなる。爆撃される前に、劉がミラーの機体を撃墜すれば、防衛成功となる。
さあ、今回はどちらが勝利のフラッグを取る? ここのところはミラーがやや優勢。それでも五分五分になってきたビーストームの訓練成果。
「ビーストーム1、母艦上空接近、迫ってきました。……いえ、入れ替わりビーストーム2が上空制覇……。いえ、……1、」
どちらも入れ替わり立ち替わりで競っているのが葉月の肉眼でも分かる。
どちらも自分が撃墜されない機体防御の態勢を保つのに精一杯のようで、ついに葉月がいる甲板頭上まで迫ってきた。そして……とうとう、決着がつかずに、二機はそのまま母艦上空を通り抜け、基地方面へと飛び去っていく。
「あ、ミラー中佐が落とされました」
「あら。劉の粘り勝ちね!」
母艦上空を護り、敵を通り抜けさせ、あちらに隙が出来たところを劉がすかさず狙ったのだろうと葉月には思えた。
『やられた。さあ、もう一度だ』
そしてミラーのめげない声も、どこか楽しそうだった。
「ミラー中佐も、充実しているようですね。大佐」
「ええ。すっかりキャプテンとして定着してくれて、安心だわ」
数年前のまとまりないチームを思い返し、クリストファーと一緒にその良き変化がここに実っていることに、葉月も微笑みを浮かべ……。
この時、急に、葉月は何かに襲われた。
「──! 大佐? どうしました!?」
まるで甲板の鉄床にぐうんっと、身体中が引っ張られるかのように重くなり、本当に葉月は跪いてしまったのだ。
急激に襲ってきた身体に訴える不快感。
「だ、大丈夫……」
「そういえば、昨日も少しばかり、疲れていたみたいですね。大佐が訓練を休むと皆の士気が落ちて、つまらない訓練になるんです。無理しないで、そこの椅子に座ってください」
クリストファーが連れて行ってくれた椅子は、二人が空を見上げ立っていた直ぐ背後にある。
つい最近まで、細川が座っていた椅子だった。
鬼おじ様は、ついに……葉月とデイブとウォーカーの三人に空軍を任せ、現場であった甲板を引退してしまったのだ。
「いつか恩師のトーマス大佐が言っていたでしょう? 上官はここぞという時の為に『体力、気力』を温存してかねばならないから、現場の者と同じようにしなくてはならないなんて思うなと。今度は俺がそれを大佐にお願いします」
「わ、分かったわ。クリス……」
いつもはやんわりニコニコしている後輩に、厳しい表情と真剣な目を突きつけられ、葉月は素直に細川の椅子に座った。
おかしいな……と、葉月はやや冷えた汗が残っている額を手の甲で拭った。
今は春になろうとしている頃。そんなに日射しが強い季節でもない。なのに目眩? だなんて……?
でも、ここ数ヶ月は『寝不足』だ。眠れない夜があっても、軍人生活のサイクルを大事にしてきた葉月はいつだって早寝早起きだった。夫の隼人が恋人時代から呆れるほどに『すぐに寝てしまう』のが葉月の生活だった。しかし今は、まだ一歳にも満たない息子の世話でそうはいかない。いくら横須賀から母が手伝いに来てくれる日があっても、いくら夫の隼人が協力的でも……。それでもやはり葉月はちゃんと海人に触れて、ちゃんと自分の手でミルクをあげようと心がけている。夜泣きはあまりしない子だし、だいぶ夜も長く眠る時間に落ち着いてきたから、眠る時間は前よりかは出来ている。
しかし……だった。実はここのところ『子育て以外』での寝不足が生じている。
(昨夜も……)
そして、葉月はちょっと心の中で恨めしい呟きをしている。
(隼人さんがいけないのよ)
もう、甲板訓練を引退し、工学科でのデスクワークだけになったからって、元気有り余っているんだから! と、葉月がぼやくのは、まあ……そういうこと。
つまり、ここのところ、夜の夫婦生活が復活──どころか、熱くなってしまっているのだ。
初めての出産、その産後も順調に過ぎ、初めての子育ても慣れてきた頃。お互い、ふと夜のひとときに余裕が出来たから。
数ヶ月ぶりのせいか、なんだか、隼人はほぼ毎夜、激しい……。ううん、葉月自身だって。
急に身体が、かあっと熱くなってきた!
「大佐? やっぱり熱でもあるんじゃないですか? 頬、火照っているみたいだし! おい! 水で濡らしたタオルを持ってきてくれ!」
今春から、自分の側にシステム補佐の新人を従えているクリストファー。四中隊に入隊してきた空軍管理官の新人君に、さっと大佐嬢への気遣いの為の言いつけをする。
あらぬ事を『思い返していた』葉月は、どっきりとして慌ててそれを止める。
「えっと……! クリストファー、私、大丈夫だから!」
「だめっすよ! 大佐に倒れられたら困るんですから。子育てが大変なことくらい、俺だって分かっているつもりっすよ!」
ううう、そうじゃないのに。と、昨夜の熱愛情景をふと思い返して火照ってしまった自分を呪い、葉月は一人顔を覆って『訓練中に、ごめんなさい』と、心の中だけで後輩の彼等に謝っていた。
『ミセス大佐! どうした! 指示をくれ!!』
「は、はい! キャプテン」
『ぼうっとするくらいなら、潔く休んでくれ!』
「ご、ごめんなさい!」
手厳しい先輩パイロットにまでどやされ、この日はなんだか踏んだり蹴ったりなミセス大佐嬢。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・
だから、そんな気遣ってもらうには余りにも申し訳ないような……どうしようもない『甘い事情』であるだけ。
少しくらい疲れていても、決して顔に出してはいけない。
甲板訓練が終わった後も、大佐嬢はいつもの顔で今日も立ち回る。
それでもやっぱり残業になった。
丘のマンションに帰り、軍制服の上着を脱いだ葉月は、ダイニングテーブルに座り込みそこにつっぷしていた。
「はあ、今夜こそ、ちゃんと寝るわ」
仕事から我が家に帰ってきて、ほっと全身の力が抜ける瞬間。
いつもなら、そこでふっと一瞬だけ力を抜けば、それだけで充分。次への行動に移ることが出来る。なのに、今日は駄目だった。
そのうちに、葉月の部屋から子供の泣き声が聞こえてきた。そうしてやっとハッと身体を起こしあげる。
今、葉月の八畳部屋は夫妻の寝室として使っていて、なおかつ、息子のベビーベッドも並べて一緒に眠っている。
その部屋のドアへと向かおうと、やっと立ち上がると、葉月が向かう間もなくドアが開いた。
そこには、むずかる息子を腕に抱いている夫、隼人がいた。
今、息子の海人はアメリカキャンプ内にある保育所に預けている。今日はパパがお迎えに行ってくれた日……と、言うか殆どパパが迎えに行っている。そしてだいたいが残業になってしまう葉月の帰りを二人で待っていてくれるのだが……。
彼はダイニングに妻がいるのを知って、しかめ面になる。
「おい、ママ! 帰ってきたなら、カイにミルクをあげてくれよ!」
「は、はい。ごめんなさい。パパ」
葉月はさっとキッチンへと向かい、哺乳瓶を手にした。
『よしよし、どうした? パパじゃ駄目なのか? そうか、そうか。やっぱりそうだよな〜。でも、お前、偉いな。ママが帰ってきたのを判って泣いたのか? 流石、チビウサギ……』
まだ制服の白いシャツ姿のままの隼人。
帰ってきて直ぐにおむつを替え、部屋着に着せ替えてくれていたのだろう。
葉月は、自分もしっかりと子育てをやらなくちゃ……と、ほんのちょっとの『けだるさ』で、たるみそうになった気持ちに己で活を入れてみた。
『今、ママがミルクを作っているからな。少しだけ、我慢我慢……』
すっかり、まるまるのぷくぷくベビーになったチビウサギの海人をあやしながら、隼人は夕暮れのテラスへと消えていく。
それでも泣き叫んでいた息子の声が、まだぐずっていても小さくなっていった。
隼人は本当に、息子の海人を可愛がっている。生まれたその日から、本当になにかにつけては『海人、海人』と言っている。
そして海人と一緒に向き合っている夫は、急に子煩悩になって、妻に見せる天の邪鬼も、オフィスで見せるシビアな中佐の顔もどこへやらと言うほどに、息子には本当に少年に戻ったかのように無邪気なパパになって、二人でむにゅむにゅと頬を寄せ合い、抱き合って床をごろごろと転がったりしている。
それを目にして、葉月は『あのクールな彼はどこに?』と思ったりするのだが、でも、結局はそんなパパになってくれた彼を目にして、とてつもない幸せを噛みしめることができる数ヶ月を味わっていた。
夜は慌ただしい。
夕食の支度に、息子と入浴、夕食の片づけを済ませ、きちんとした早めの時間に息子を寝かしつける。
大佐室で仕事をしているような集中力で短時間で片づけないと、子供の生活サイクルに影響が出る。それでもなんでも二人で分担をしているから、まだ出来ている。
「あー、今夜もやっと片づいたなー」
「私の方はまだ。洗濯物を干したら、おしまい」
「そうか。もう一息、頑張れよー」
今夜はキッチンの片づけが担当だった隼人は、それを済ませ、今度は彼がダイニングテーブルにつっぷした。
そして、葉月も自分の分担はきちっとこなそうと、どこかまだ重い身体を感じながらも、ランドリールームに向かう。こんな時、隼人は『手が空いたから手伝う』とは決して言わない。二人で受け持ったことはちゃんとやるべきと葉月も思うし、隼人も夫妻になってからはより一層その線引きを厳しくしているようだった。
それが結局は、二人で働いて子育てをしていくのに大事なことと、お互いに解っているから……。
でも、葉月の愛する夫の隼人は、ここでひと味違う事を言ってくれる。
「早く干して来いよ。珈琲を入れて待っている」
「うん、そうするわ」
「テラスで一緒に、一息つこう」
隼人はもう、椅子から立ち上がって、片づいたばかりのキッチンへと颯爽と向かっていく。
そして葉月は、それが夫からのささやかな『激励』と知って、そっと一人微笑む。
それが終わったら美味しい珈琲を挟んで向かい合い、二人だけの時間を過ごそう。
そんなご褒美が待っている、夫が用意してくれている。そう思ったら、葉月も最後の一仕事を終わらせようと元気が出て、頑張って早く終わらせる。
空っぽになったかごを洗濯機の側に置いて、葉月の家事は終了。
リビングに戻ると、隼人は既にテラスのテーブルで、カップ片手に待っていた。
「お疲れさま、奥さん」
「有難う、貴方」
テラスのテーブルに二人向かい合って、熱い珈琲でくつろぐ。
いつも目にしているテラスからの漁り火を、二人で黙って見つめる。
その黙っているけれど、珈琲を飲むだけの無言の静けさが、何故か心地良い。葉月は夫が入れてくれたカフェオレを心ゆくまで堪能し、美しい春の漁り火を夫と眺めた。
「もうすぐ、この丘から見る漁り火ともお別れだ」
隼人がふと呟いた。
「そうね。こんなに高いところから見下ろす気分はもう味わえなくなるけれど……。でも、新しい家からも海は見えるから、夜は漁り火も見えるわよ」
「そうだな。今度は目の前かな」
もうすぐ、二人で決めた白い家が出来上がろうとしていた、そんな春。
ついこの間、二度目の結婚記念日を迎えたばかりだった。
結婚記念日があったからこそ? だからここのところ熱いの?
と、葉月はまた思う。
ベッドに落ち着いて直ぐ、また夫の隼人に素肌にされる──。
「ねえ、もう……今夜でやめて? 昨夜も、私達……。ここのところ、ずっと……だし・・」
そんな言葉を喋られる余裕が気に入らないのか、葉月の背から押し寄せてくる熱く身も心も焦がれていく切ない波。
葉月は『あ、ああっ』と声を漏らしそうになり、うつぶせている枕の端を両手で握りしめ、顔を埋めた。
背中に、夫の熱い肌がぴったりと寄り添ってきた。
葉月がぎゅうっと握りしめている両手を、また彼の両手がそれを何か戒めるかのように包み込んでしまう。
そして葉月の耳元に熱い息を吹き込みながら、ちょっと意地悪な笑いを含ませているような熱っぽい囁きをこぼす。その囁きは夫妻しか解らないような、他人が聞いては甘すぎる物。それを彼は平気な顔で囁き、その胸の下に妻をすっぽりと抱き込んでしまう。
「ここのところずっと……ねえ。嫌か?」
「そう……じゃ、なく・・・って・・・」
「俺は毎晩、満足しているけれどな……。『女の身体』として調子が戻ってきたウサギを待っていたんだ……。だから……」
『いいだろう?』と、彼が耳元で熱く囁く。
そんな時の隼人の『意地悪』は、そんなちょっと困ってしまうような囁きだけじゃなくて……妻と一つに繋がっている熱い部分も、葉月が本当に声が出て困ってしまうような意地悪な動きをする。それが強引な男の勢いじゃなくて、本当に意地悪なじっくりゆったりとじれったいようなものなのだ。
ここで感じるままに声が出せたなら、葉月だって存分に隼人の背中に抱きついて、思うままに仕返しをするように背中をひっかきたいのに……。
「や、やめて……。そっ、そんなにしないで……っ」
「どうして?」
「昨夜も言った・・・わ……っ。声、カイが起きちゃう……っ」
うつぶせて抵抗しているつもりだったけれど、背中しか見えなくても、夫はしっかりと妻を熱くさせてしまう。
葉月の身体、下の方──。夫と一つになっているそこがとても熱く灼けてしまいそうなほどに……。
「うっ、ううう……っ あん……」
今度は枕ではなくて、シーツを握りしめる。
またその手を逃がすものかとばかりに、上から覆い被さっている隼人に捕まえられ、余計に動きは奪われる。
「……残念だな。聞きたいのに、葉月の声」
「カイが起きても良いなら、出すわ」
「それは、困る。今、ママはパパが独占中。最後まで邪魔をしてほしくないなあ」
こっちは必死で堪えているのに、パパの方はなんだかまだ意地悪な笑みを含んだような余裕ある声。
「あっぐ……っ」
そんな余裕ある隼人の手が、葉月の片手を解放したかと思うと、今度は口を後ろから塞いできた。
「いいよ。思いっきり出しても」
「いや……っ」
口を塞いだぐらいで……。きっと葉月が出そうとしている声は、そんな隼人の手のひら一つでは収まらない。どうしてそれが分からないの? 私、こんなに気持ちよくなって感じて、本当に叫びたいぐらいなのに……! 葉月はそう思いながら、ついには唇を悪戯している夫のその意地悪な指を噛みしめていた。
「痛いだろ……。まあ、いいや。構わないから、行くよ」
「う……んっ・・・」
結局、この夜も夫にされるまま、彼の腕の中、その手のひらの中、見つめられる黒い瞳の中に落ちていってしまう。
やがて、彼の両手は、シーツを握りしめる妻の手も、塞いでいた喘ぐ口元も解放してしまう。
「こっち、向いてくれ……葉月」
「あ……っ」
背中から愛されていたのに、今度は仰向けに身体を返される。
顔と顔を見つめ合って、直ぐに二人は何も言わずに口づけ合う。
腕と腕、足と足を絡め合って、胸と胸を押しつけ合い、お互いの唇を愛撫しあいながら、ぴったりと隙間無く抱きあって愛し合う。
「葉月、とてもいい……」
「うっう……わ、わた……しも……」
やっぱり声を押し殺す葉月。
でも隼人はそれを、とても愛おしそうにどこか労るような優しい微笑みを見せ、葉月が果てるまでじいっと見つめてくれていた。
本当に、こんなに素敵な時間になってしまうから……。
だから、拒めない夜ばかり。
やっとお互いの熱愛がすうっと通り過ぎて落ち着き、静かに寄り添い合っても、その火照っている肌をまだ愛し合っている。
「……ご、ごめんなさい。ちょっと……」
「葉月?」
また急激に。
どうしてか、身体ごと落下するような不快感に見まわれ、葉月は隼人の肌から離れて起きあがる。
シーツを口元にあて、葉月は座った姿勢のまま、そのまま身体をベッドに伏せ、胸のむかつき吐き気、その不快感が過ぎ去るのをひたすら待つ。
「どうした? 急に……」
「だから、寝不足なのよ」
「そう言う意味、だったのか? いつからそんな辛くなっていたんだ……」
「駄目……。気持ち悪い……。さっきまで平気だったのに……」
夫の手がすっと背を撫でる。
胸のむかつきが、昼間よりずっとしつこく葉月を攻めていた。
ところが、急に、背を優しく撫でてくれていた夫の手が止まった……。
「なあ、そう言えば。『先月の』、いつ来ていたかな? 『今月の』……まだ、だろう?」
夫のその問いに、葉月は固まった!
その瞬間に、頭の中にさあっと『先月、それがあった日』と『今月の来るだろう日』を思い返し……。
「うそ! だって……この前、海人を産んだばかりよ!?」
「落ち着け。関係ないだろう? 母乳だって早々にでなくなって、もう『月のアレ』、しっかり元通りに始まっていたじゃないか」
「え……! でも、貴方とこうするようになったの……」
「まあ、つい最近の再開だけれど? それでも充分かと思うし……」
まだ『生命を宿した本人』が、驚愕している中、隼人がちょっと余所を見て、さらっと言った。
「俺、ずうっと『そのつもり』だったから」
「そうなの!?」
「そんなに驚くか? お前だって、分かっていなくちゃおかしいじゃないか? 当たり前のことを繰り返していたんだから」
当たり前ってー! と、葉月は叫びたくなって、ハッとして隼人を指さした。
「確信犯!?」
「こら、『犯』なんて言うな。人聞きの悪い! 夫婦だろ、俺達。自然じゃないか」
突き出していた指を掴まれたかと思うと、何故か隼人はその指先にがぶっと噛みついてきたので、彼のいつもらしからぬ思わぬ行動に葉月はびっくりして指を慌てて引っ込めた。
そうして動揺している葉月とは違い、とても落ち着いている隼人が裸のまま、ちょっと照れくさそうに黒髪をかいて言う。
「明日、行って来いよ。医療センター」
「そ、そうね……?」
まだまだ不快感が『つわり』だったとは実感できない葉月。
まだ呑み込めない妻を、ちょっと困った顔で隼人は見たかと思うと、次にはその広い胸に葉月は抱きしめられていた。
「……信じていた。また、出来るって。だからつい、頑張ってしまって。まだ分からないけれど、だとしたら、凄い楽しみだ」
でもこれって『年子』ってこと!? と、葉月は叫びたくなった。
しかし、暫く──。隣のベビーベッドですやすやと眠っている自分にそっくりな息子の寝顔をちらりとみて、そして、夫のこの優しい腕のぬくもりに包まれ……。なによりも、まだ身体中に残っているこの熱愛の実感。それらを全て感じ取った時、葉月の身体中にまた羽が生えたような『ふわり』とした瞬間が襲ってきた。
「また、私のお腹に、小さな羽?」
その一瞬。
葉月の世界がかわる、その瞬間。
それがまた、やってきた。
夫の広い胸に抱かれ、葉月は目をつむる……。
そんな瞬間の繰り返しだったと。
木陰で、眼鏡をかけている男性に出会った風の日。
結婚しようと、白い花の中誓い合った北国の夜。
同じ言葉を刻んだ指輪をはめあったささやかな晩餐の婚姻。
そして、大好きな芝のグラウンドで、息子が出来たことを確かめ合った潮風の日。
そして、また。
葉月の世界に、ぱあっと光がこぼれる。
「貴方、有難う……」
また葉月にその瞬間を与えてくれた夫の腕に、妻はそっと口づける。
翌日、二人の間にまた天使が舞い降り授かったことを知る。
その年の晩秋に、黒髪の小さな小さな女の子が、二人の間にやってきた。
その時、またふたりの世界が変わる瞬間。
ふたりの天使が、毎日、世界をくるくると回してくれることになる。
Update/2007.3.28