もうすぐ九月になるのだけれど、小笠原はまだまだ真夏の風。
「やっとランチですね。はー、なんだか顔が固まりました」
「かしこまりすぎなのよ、テッドが」
「まさか、この俺も新入隊員の面接官の一人にさせてもらえるだなんて思わなくて」
それで『つい、上官の怖い顔』をしていたと言うことらしい。
本日、午前。この九月に各研修を終えて、この小笠原基地第四中隊に配属されてきた新入隊員を知ろうと、副隊長になった達也が『よっしゃ。抜き打ち面接をして、素質を見てやろうぜー』なんて、言い出したのだ。元秘書官らしい考え。
そこで達也が、隊長の大佐嬢と副隊長の自分は勿論、古株の山中中佐とデビー、そして、これから新人の彼等にとっては本部内では『トップ上官』となる『テッド』と『柏木』に『クリストファー』も、『これも上官となる勉強』として四中隊面接官として抜擢したのだ。
まあ、達也としては手っ取り早く新人隊員を知るための、かーるい企画なのだが、近頃は若い隊員がこぞって希望する『御園大佐嬢の四中隊』に実力でこぎつけてきた若者も運良く配属されてきた者も、とにかく『フロリダ少将の元主席秘書官』である海野中佐が抜き打ちで面接するとなって、まあ、可哀想なぐらいの緊張振り。
それだけでなく。一緒になって若い彼等を試していたテッドも、凄い真剣な顔で新人を見ていたし、葉月が『おおっ』と思うような軍隊でのあり方や各々の思想の核心をつくような立派な質問に驚いたり頷いたりしていたが、実は彼も新人達と一緒に『新人上官』として緊張したと言ったところらしい。
とにかく今年は達也が中心となって四中隊取り分の人数を一生懸命に高官達に働きかけて『ごっそり』と入隊させたのだ。
達也は本当に面白半分。テッドの真面目な上官顔とは違って、余裕があるものだから、まあ意地悪な質問をすること。
「それにしても大佐嬢は、相変わらず……。のんきというか」
テッドのちょっと呆れた顔も『お馴染み』になってきた気がする。
「欠伸をしたり、海野中佐に話しかけられても、その時の質問内容を聞いていなかったり……。最後の新人達へ挨拶をして欲しいって言う海野中佐の頼みに対して『産後で、あんまり頼りにならないので、海野を見習ってください』なんて隊長の挨拶ありますか? もう、俺は『この人、またやっちゃったよ』と思ったし、流石の海野中佐もあれは怒っていましたね」
いつもの調子の大佐嬢に、テッドも慣れているから以前ほど小言も言わなくなってきた。
そして、彼がそこで笑う。
「でも俺、分かっていますよ。貴女なりの何かを見ていたんでしょう? 知りたいな。それ、今から教えてくださいよ!」
「うーん。たいしたこと考えていなかったわよ。達也がまたやらなくて良いことを始めて退屈だなあと思っていただけよ」
「嘘だ。三番目と五番目、それから最後の十人目。貴女が落書きばかりしていた紙の隅っこに抜き出してメモしていたのを知っているんですからね」
葉月はどっきり。
この後輩は、本当に側近的に上官の思考を見抜くようになってきたと、彼の成長に今日は一番びっくりと言ったところだ。
「当たりなんですか?」
「……当たり」
「わっ。誰を何処にどう使うんですか? どんなところに目をつけたのですか!?」
小言どころか、近頃のテッドは葉月がやり出すことが、楽しくて仕様がないらしい。
そして自分もそれを一緒にやりたがる。だから、彼が一番に手伝ってくれる。
いつも一緒になってきた専属側近の少佐。
すっかりそんな関係になり、基地の隊員達の目にもそれは当たり前に。
──在りし日のあの人と私のように。
葉月はちょっとだけ、連絡通路から見える海の遠い水平線を見て、切ない想いが胸に疼いた。
そう。この中に、二人いない。
いつもこの本部をもり立ててきた二人がいない。
今日の『じゃじゃ馬ウサギ』の呆れた所行に一番に小言を言ってくれる『兄様側近』も。
そして、この『じゃじゃ馬姉』の所行を、一緒になって面白がってくれた頼れる弟分も。
──もう、いない。
あの時、彼等から卒業していってしまった切なさを、葉月はまだ、忘れていない。
その専属側近となったテッドと、カフェへと向かうエレベーターに辿り着いた時だった。
「あ、あれは」
テッドが少しだけ、窺うように葉月を見た。
そして葉月も少しだけ立ち止まってしまう。
そこには春に六中隊へと転属してしまった『夫』がいた。
近頃、いつも一緒にいる工学科の先輩に後輩達と共にいて、その明るい輪の中で、いつもの眼鏡の顔が楽しそうに会話を交わし笑っている。
「澤村中佐と工学科の皆さんですね」
さて、葉月はどうしようかと思った。
だけれど既に遅し。あちらもこちらのお馴染み大佐嬢と側近に気がついたのだ。
そして向こうも、隼人を中心にしてなにやら騒がしくなる。見るからにからかいに冷やかしを受けているし、そしてやっぱり夫の隼人はいつもの天の邪鬼な顔で、こちらの妻と懐かしい後輩を見ることなく、つんとそっぽを向いてしまった。
「はあ、相変わらずというのでしょうか」
テッドの苦笑いに、葉月も心の中で『本当に』と呆れた一言をひっそりと……。
そうしているとエレベーターの扉が開いて、工学科の一行が乗り込もうとしていた。
こうなったら、カフェ行きエレベーター一便分見送って、次の便でカフェに行こうと思ったそんな時だった。
「お疲れさまですー! 私も乗せてくださいー!」
テッドが大声で手を挙げたので、葉月はギョッとした。
しかも葉月を置いてテッドは走っていってしまう。葉月は一瞬、『いやよー。そんな雰囲気のエレベーターなんか乗りたくないからね!』と、思ったのに。
しかも、しかも、目の前で凄いことが──。
なんだか示し合ったかのようにしてテッドがエレベーターに乗ると、工学科の一行が隼人を押し出して扉を閉めてしまったのだ。
葉月が『あ』と唖然とした時には既に遅し……。我が夫はちょっと情けない、つまはじきにされ置いてけぼりを食らった顔でそこに立っていた。
ちょっと距離を置いて立っている二人。
シンとした二人きりの廊下。
そこでやっと隼人が葉月に苦笑いを見せた。
「や、やられた」
「私も。テッドったら、あっと言う間……に……」
いいわよ。私はテッドのところに戻るから、貴方も戻ってよ──と、言おうとしたら。
「いつものグラウンド、行っていろよ。日替わりサンドで良いんだろう?」
「え?」
「先に行ってろ。俺、買ってくるから」
夫はそれだけいうと、サッと背を向け、エレベーター横の階段を上がって行ってしまった。
葉月は益々呆然──。
でも、暫くして、ついににっこりと頬が緩んでしまった。
久しぶりに、部隊で一緒。
葉月の足取りは軽く、下行きの便が来たのでそれに一人きりで乗り込んだ。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・
いつも何かを考えたい時に、ふらっとやってくるその『木陰』は、今となっては周りの誰もが知るところである大佐嬢『お気に入りの場所』。
一人先に、その場所にたどり着いた葉月は、この夏の暑い日射しを避けるために、今日は木陰に入った。
この気候のせいか、足下の土手の芝はだいぶ伸びてきているけれど、そこにいつものように腰を下ろすと、木陰だけにひんやりして気持ちが良かった。
目の前に見える海。そして空。いつもの潮風。
なあんにも、変わらない。
昼休みだから静かで静かでとっても気持ちがいい。
だから、ここって大好き。
時には目の前のグラウンドで、陸隊員達が訓練をしているのを眺めながら、葉月の頭は空っぽになっては、そこにまた沢山の思いを詰め込んで、整理して、そして戦闘準備完了のようにして大佐室に帰る。
その後の冴えている勘が鈍らないうちにあちこちに手を打つ大佐嬢を見て、側近に補佐達はいつしかこの『サボタージュ』を暗黙の了解にしてくれることになった。そんな場所。
それだけじゃない……と、葉月は、来た道を見つめた。
『赤ちゃんが出来たの。送り出したあの子が、帰ってきたんだと思う』
このお決まりの木陰のもうちょっと先。
去年の今頃。夫の隼人に妊娠したことをやっと告げた場所。
それだけじゃない。
『私が死んだら、棺には私と一緒にこのリングを入れて!』
……なんて、言ったこともあったわ。と、葉月はあの頃の一生懸命だった自分を思いだし、ちょっとだけ頬を染めた。
そして、左手の指を伸ばして薬指を見た。
あの時、この芝で転がった銀のリングではないけれど、確かなる誓いと愛の言葉を刻んだリングは今日も葉月の左薬指で煌めいている。
「そうね。もう一度言うなら、『私が死んだら、指につけたまま棺に入れて』かな?」
縁起でもないけれど。
でも、あの時はそんな言葉を使うほどに、一生懸命だった自分がいたんだと──。
今、生きている葉月はそう思う。
いつしか『死』というものが、葉月にとってはとても遠いものになった気がする。
「おまたせ」
そのうちに、この木陰に眼鏡をかけた夫がやってきた。
木陰で芝の上に座っている葉月の隣に、そのまま座るのも、今はもう当然で慣れている自然なこと。
それも、ぴったりと隣に座ってくれる。
もう、それだけで。先ほど、後輩や工学隊員達の目の前でちょっと冷たい顔をされたのも、ぜーんぶ帳消しになる葉月。
それにそれだけじゃない。
「今日の日替わりは、ゴマだれささみと、エビマヨ。それと、アイスティーな」
「有難う〜。ちゃあんと、二種類買ってきてくれたの〜」
「ウサギは欲張りだからな」
日替わりメニューは毎日二種類。
葉月はサンドを食べる時はきっちりと両方食べる。
側近のテッドも良く知っていて、彼が買ってくる時も、ちゃんとそうしてくれる。
だけれどそうじゃない。初めてそれをちゃんとしてくれたのはこの『四中隊側近一号』のお兄さん。今は私の旦那様。
「隼人さんはどうしたの?」
「俺も同じ。見ていたら俺も食べたくなった」
そして彼のドリンクは、いつものカフェオレ。
本当にいつもの、いつもの。
二人はぴったりと並んで座る中、早速、それぞれのサンドを手にして頬張った。
「どう? 最近」
「うん。今日は今月入隊してきた新人の面接をしたわ。達也の提案」
「へえ、達也らしいな。隊員教育お手の物だもんな。テッドも柏木も吉田も、みーんな達也の手で叩き上げられたもんな」
「あら、澤村中佐の譲らない手厳しさもちゃんと彼等のためになっていたわよ」
『なっていた』という過去形を言ってしまった自分に、葉月はちょっと嫌な気分になった。
心の中では、どんなに他部署に異動してしまっても、まだまだ隣の夫は、自分の傍にいる『四中隊の一員』であると思っていたから。
はあ、そうなのか。ついに自分の中でも、お隣の夫は四中隊の人じゃなくなったんだわと、自分自身でがっくりした瞬間だった。
「あれ? どうした? 今日の美味くない? ロブが日本人向けのゴマだれを研究した新商品だって張り切っていたのに。俺は美味いと思うけれどな?」
「そうじゃないってば。美味しいわ」
じゃあ、なんだよ? と、夫は聞くけれど、葉月はなんでもないと流した。
すると今度は隣の夫が溜息。
「まあ、そうだよな。俺だって知りたいけれど、それは『考えちゃいけない』と思っているから。この前も達也が楽しそうに新人の名簿を見せに来たけれど、もう他部署だから見ちゃいけないと思って断ったら、がっかりしていたもんな。俺も心苦しかったし。見たかったりして……」
「それ、聞いたわ。でも達也も『ごもっともだった』と反省していたもの」
「嬉しいけれど、そこはやっぱりね」
また夫の溜息。
しかしそこは葉月も賛成で同感の仕事感覚。今では自宅でも、ぼかして相談はしても、余程でないと四中隊の管理内容は口にしない。
あんなふうに毅然と後ろも振り向かないかのようにして、新しい前進のために出ていった隼人だけれど、やっぱり彼も名残惜しかったのだろうと。初めて思えた気がした。
「はあ、やめよう。『せっかく、二人きり』になったんだから」
仕事の話はやめよう。
そう言った夫。
だが、葉月が反応したのはそこでなく『せっかく、二人きり』。
また、どうしようもなく頬が緩んできて、上機嫌でサンドを頬張ったりして……。
前なら大佐室にいればいつだって姿が見られたけれど、今となっては、自宅を出たら帰ってくるまで、同じ基地にいるのに一度も姿を見られない日もある。
だから? だから今日は、皆のからかいがあっても『せっかくだから、グラウンドで一緒に』と思ってくれたのだろうか?
だとしたら、仕事中は厳しい距離感の夫だし、自分もそこはシビアに守っているつもりでも、やっぱり嬉しいウサギになってしまう。
「お前も、産後も順調で仕事に復帰出来て良かったな。安心した」
「うん。出産までは大変だったけれどね」
「本当だな。途中、いろいろ危ないことはあったけれど」
その通りで、危ない状態に陥ったのは何度かあったが、なんとか出産にこぎつけた。
今でも、『海人』が生まれた瞬間の何とも言えない隼人の顔は忘れない。まるで彼の方が少年のような顔で海人と対面していたのだから。
ちょっと恥ずかしそうに。ちょっと戸惑って。怖々と抱っこしてくれた『初めてパパの顔』。
「今朝の海人も豪快だったな〜」
「本当よ〜。もうちょっとで着替えたばかりの制服におしっこかけられるところだったわ。男の子ってどこにでも飛ばすのね」
「夜は静かに寝てくれるけれど、どうしてか俺が隣に来たら夜遅くてもウンチするしな」
昨夜もそうだったと隼人がちょっと疲れた顔。でも、葉月はそれを笑い飛ばした。
「きっと今頃も、横須賀のお義母さんがてんてこ舞いだな」
「喜んでやっているわよ」
今後、どうするかはともかくとして、今、職場復帰した葉月がいない日中は、横須賀の母・登貴子が面倒を見てくれている。
その代わり、臨時体制ではある為に、登貴子は週末だけ横須賀の自宅、父の元に帰る。時には父の亮介が孫の顔見たさに、小笠原に泊まりにも来る。今はそういう体制。
「でも、生まれたらママにそっくりな丈夫な子で良かったよ」
「生まれるまでがねー」
ドキドキの毎日だったと、二人で笑った。
二人きりになると、いつの間にか子供の話ばかりになっている。
そして、そうなるとやっぱり『二人きり』になった証拠に思える瞬間。
海人がなにしたああしたこうなったと話しているうちに、やがて二人の食べるものはいつの間にかなくなった。
そうしてそろそろ、ランチタイムも終わり。
また、離ればなれ。姿の見えない部署と部署に戻って、夜までは顔も見えなくなる。
手元に食べるものがなくなって。
時間もなくなって。
やがてその時間に押されるようにして、二人の会話もなくなってしまう。
「そろそろ行こうか」
隣の夫が片づけを済ませて、立ち上がろうとしたその時。
「お願い……」
葉月はぴったりと横にいてくれた夫の手を取って、立ち上がらないようにさせた。
そして隼人も、立ち上がらないで、もう一度、座るままの姿で力を抜いてくれた。
「どうした?」
「うん……」
葉月はそのまま隣にいる夫の肩に、そっと頭をぽってりと預けた。
そして引き留めた手は握りしめる。
ちょっと戸惑っている隼人の顔。
だけれどやがて、彼もそのままにしてくれて、さらに葉月が握った手を握り返してくれた。
「珍しいな。葉月がここでこんなになるなんて」
少し困った溜息。
でも葉月としては、ここのところ『隼人さん欠乏症』なのかもしれなかった。だから、いつの間にかこんなふうに……。
だから、葉月は彼の肩に頬を預けたまま呟いた。
「このままもう少しだけ」
そう言うと、隼人も観念したようにして受け入れてくれる。
そして葉月が愛している眼鏡の穏やかな笑顔。
「少しだけな」
「うん、少しだけ。だって家でも『かい君』がパパを独占しているんだもの」
「そうか? お前のことだってちゃんと……」
口ごもった隼人。
ちょっとだけ恥ずかしそうに。
その『ちゃんと……』の先には『夜、ちゃんとベッドの上で可愛がっているじゃないか』と言いたそう。
だけれど、葉月はそれも充分に分かっているけれどむくれた。
「──『そういうの』じゃなくて、『こういうの』なの!」
「ああ、『ああいうの』じゃなくて、『こういうの』ってこと」
通じたようで、葉月はにっこりしながら、隼人の肩に頬を押しつけた。
やがて、彼の大きな手が、いつものように葉月の栗毛を耳をなぞりながらかきあげ、撫でてくれる。
本当の『二人きり』。
ちょっと懐かしい気がした。