そこに新しい椅子がひとつ、増えた。
「これ、私の……ですか?」
妻はその椅子を見て、とても驚いた顔。
そして、この家の長男である隼人も、共に驚いていた。
「親父、これ……」
今、二人は。『御園夫妻』となった二人は、横浜の澤村家にいる。
そしてその椅子が置かれているのは、澤村家のダイニング。キッチンにある食卓だった。
そこには、父親と継母の美沙、そして異母兄弟の和人の椅子、そして当然、この家をだいぶ前に出て行ってしまった長男、隼人の椅子がある。
その隼人の椅子の隣に、新しい椅子が並べられていた。
驚いている息子夫妻を見て、父の和之と美沙、そして和人もにっこりと嬉しそうに笑っている。
「葉月君は、これからは私達家族の一員だからね」
「俺と親父と母ちゃんと三人で、家具屋に行って選んだんだ」
「隼人お兄ちゃんはいつもここに座っていたの。だから、葉月さんはここね。お隣よ、いいでしょう」
当然、葉月は嬉しそうに瞳を輝かせ、『はい』と元気良く返事をしている。
こんな出迎えをしてくれた横浜実家の家族に、隼人も嬉しい思いと感謝の気持ちが湧く。
そして、実家の家族も葉月本人が喜んでくれたことが、一番嬉しく、そしてホッとした顔を揃えていた。
「今夜はね。葉月さん、クリームシチューが大好きだと聞いていたから、横浜澤村家風を作ったの。ご馳走ではないんだけれど……」
「いいえ。皆様がいつも召し上がってるお食事、私も頂きたいと思っています」
美沙は澤村家の普段着を見せようとしているし、葉月もそれを知りたいと言う。
そこには既に家族として繋がっていこうという心情が垣間見え、妻と初めての帰省をした隼人としては大満足だった。
「貴女達、まだ傷が癒えていないのだから、二階で休んでいなさい」
「お手伝いも出来なくて、申し訳ありません」
「何を言っているの? 大変な怪我をしているんだから、じっとしていて。この前、ここに来た時も貴女は任務後で怪我が完治していないのに、お転婆をして、気を失ったでしょう。もう、ああいうのはごめんよ」
「あ、そういえば。そうでした……」
以前、訪問した時の騒動を葉月は思いだしたようで、義理でも姑になった美沙の言葉に顔を赤くしている。隼人はそれを見て、密かに笑いを堪えていたが、葉月はその一言で、素直に部屋でくつろぐ気持ちになったようだ。
こうして、柔らかに迎えてくれた横浜実家に、葉月は最初は構えていたが、すっかり肩の力が抜け、隼人の家族の言葉に素直に甘えるようになっていった。
今日、葉月は山崎の病院を退院した。
その退院が決まってすぐに、葉月が言いだしたのが、『横浜の家族に会いたい』だった。
こちら御園家が『幽霊』のことで、ごたごたしている間は、横浜の澤村家はそっと寄り添っているだけで、様子伺いに来ていたのは父和之だけだった。
隼人の実家である横浜澤村家の存在は、本当は誰もが頭の隅で気にしていてくれただろうが、たとえ長男を婿養子にもらったことで家族としての縁が出来ても、『巻き込みたくない』、『迷惑をかけたくない』という思いが強かったと思う。それは隼人も分かっていたし、そんなこと、息子の隼人が言わなくても、あの敵わない和之がしっかりとその距離感を掴んでいて、上手い具合にタイミングを狙って、御園家に顔を見せに来てくれていた。
だが、そんなふうに……。迷惑をかけたくない気持ちから、少しだけ距離を置かせてしまったことを一番気にしていたのは、婿養子をもらった御園家娘ではあるが気持ちは充分に『澤村のお嫁さん』でもあった、葉月だった。
だから、葉月から『小笠原に帰る前に、横浜のおうちに行きたい』と言ってくれた時は、隼人も嬉しかったし、それを報告した時の和之の喜びようも尋常ではなかった。
しかし、それは家長の和之だけじゃなく、美沙も和人も一緒だったらしい。
待っていてくれた実家の家族が、妻になった彼女の為に、『家族としての証』とも言える椅子を用意してくれていた。
婿として出ていった隼人だが、『出ていった息子』と言うのは形だけのようにも思えた。まだまだこの家の息子で長男で、妻にした奥さんは、『もらった嫁さん』。
葉月だって、少しだけでも……。この椅子を用意してもらって、この家の『お嫁さん』になったのではないだろうか。
(新しい家族の椅子か──)
葉月はその椅子をいつまでも嬉しそうに撫でていた。
その顔が『お婿さんをもらってしまったけれど、私だってお嫁さんになれるわよね』──と、言っているようにも見える隼人。
隼人も隣に寄って、今度は昔からある自分の椅子を一緒に撫でると、この家で息子夫妻として並ぶ日が来たことが余程嬉しいのか、葉月の笑顔はとても明るかった。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・
「結局、私はこの部屋で朝を迎えられなかったのよね」
二階のゲストルーム。その昔、隼人の実母である沙也加が療養していた部屋に、葉月はまた案内される。
いや。今度は息子の隼人も、ここで過ごす。
この実家で、一番眺めが良く、雰囲気のある部屋だ。
初めて葉月がこの家に来た時に、案内された部屋。
だけれど、澤村一家の家庭事情に巻き込まれて、彼女はこの部屋に泊まることなく、この家を飛び出してしまい、鎌倉の叔父宅まで逃げてしまったという……まあ、そんな思い出もある。
葉月は今、この部屋の窓辺に立って、横浜の夕暮れる街を見下ろしている。
そして一晩過ごすことなく飛び出してから数年。またやっと訪れることが出来るようになったことに満足そうに微笑んでいた。
「まだ春先で冷えるから。もう、閉めよう」
窓辺にいつまでも立っている妻を、後ろから暖めるように抱きしめる。
……どうしてか? 近頃、窓辺に立って遠くを見ている妻が、まだまだ哀しそうな目を垣間見せるからだ。
未だに、幽霊と対決したものが生々しく残っているようで、時折、苦しそうな顔をしたり、突然に泣き出したり。そう、眠っている時も、まだ終わらぬ悪夢を見ることも続いている。
分かっている。決して、なにもかもが終わったのではないのだと。
それは幽霊と対面することを果たせただけでなく、暗闇の不透明だったものが実体化出来たこと、そして幽霊が逮捕されたこと……そこまで辿り着いても、決して、心の傷は消えやしない。『一生、治ることはない』という隼人の覚悟。
だから、葉月がまだ幽霊対決の数々の感触を生々しく思い出してしまうのも無理のない時期であると隼人も分かっている。
「残念。今年も桜は終わってしまって……」
「俺と見ただろう。兄さんとも見ただろう。お父さんとお母さんとも見ただろう? 来年はまた一緒に見る人が増えてる、きっと」
窓を閉めながら、隼人はより一層、妻を強く抱きしめる。
この腕を直ぐに頼ってくれるようになった妻。
「そうね。鎌倉の八幡宮に皆と行くわ。私、お弁当を作る」
「それはいいな。葉月の弁当は、俺も兄さんも保証済みだもんな。おっと、真一も」
そう言うと、葉月は窓辺で思っていたことを、やっと忘れたかのように、隼人の目の前で笑ってくれた。
今日の葉月は、シックなグレイッシュブルーのワンピースに、ライトグレーのボレロカーディガンを羽織っていて、春らしい装い。その格好で、ヴァイオリンケース片手に現れたので、隼人の父親はそりゃもう大感激のご機嫌で、今もリビングで夕食の支度をああじゃないこうじゃないと美沙の邪魔をしながら張り切っているようだ。
「パパとママも、新しいマンションに落ち着いたかしら」
「兄さんがいるから大丈夫だよ。まあ、娘として心配だろうけれどな。真一もいるし、楽しくやっているよ」
「そうね。ごめんね……。せっかくここに来て楽しい思いしているのに」
「お前の家族じゃないか。それに、良かったな。皆が日本に暫くいてくれる。傍に、いてくれるじゃないか」
そういうと、目の前の妻がちょっと泣きそうな顔になって隼人はハッとする。
つまり、このように、今はちょっと情緒不安定なのだ。
葉月は今までにない喜びの光に包まれてこの上ない幸せを感じたり、そうでなければ、今までずうっと囚われていた慣れている闇に引き戻されたり。ただ闇の中にいただけの彼女とはもっと違う、そんな変化の真っ只中にいて揺らされているのだ。
両親と離れていた日々。上手く距離が取れなかった日々。愛せなかった日々、愛して欲しかった日々。本当は傍にいて欲しかった日々。──そして、家族が揃った現在──。先のことはともかく、今、なにもかもが傷心の葉月にとっては、家族の愛は不可欠だ。戦いが終わった後のケアがどれだけ大事か。葉月の家族は分かってくれている。もう、隼人が傍にいるだけの日々じゃない。両親も、そして今までどんな時も頼って心の拠り所にしていた義兄も、葉月を和ませてきた可愛らしい甥っ子も、そして夫となった恋人も。今は皆、葉月の傍にいる。
葉月のその涙は、嬉しい涙も当然の事ながら、その反面、今までどうすることも出来なかった苦難の日々を思わずにいられない思いも含まれているのが分かる。
こんな涙、感情の揺れは、ここのところずうっとだ。
「ご、ごめんなさい……」
隼人はジャケットに入れていたハンカチを直ぐに手にして、妻の頬にあてた。
「哀しくなってしまうことで『ごめんなさい』なんて、二度と言うな。お前、俺に一生迷惑をかけるって言っていただろう」
「うん」
「泣いておけ。我慢することはない。嬉しいのか、哀しいのか、どういう気持ちか分からない涙でも、泣いておけ。今のお前に意味のない感情なんてないんだから。そんなもん、後からいくらでもどんな気持ちだったか思い返せる」
「うん……」
妻は、夫があててくれているハンカチを手に取ることはなく、夫の隼人が拭ってくれるのを任せるままに、涙を流していた。
暫くすれば、止まる。葉月は『なんでこんなに泣いてしまうのだろう』と少し困っているようだが、隼人にしてみれば『突然出てしまった咳かクシャミみたいなもの』なのだ。
「貴方──」
涙が止まると、彼女の方から隼人の腕の中に飛び込んでくる。
まだまだ癒えていないそのぼろぼろの彼女を、隼人はそっと抱きしめる。
それでも、どうしてか。
まだこんなに傷だらけで、心より幸せを無条件に味わうことが出来ない妻を迎え入れた時に、隼人は思う。
やっと、彼女は俺の妻になった。俺のところに来たのだと。
いつだって、隼人の前には誰かがいたり、何かが遮っていた。
葉月は、妻となっても『幽霊のもの』のようなことを口にして、決して私は放たれることがないとばかりに苦悩していた。そしてそれは隼人にも通じ、同じように苦悩したものだ。
だけれど、今は……。
しかし、柔らかで甘い匂いのする妻を抱きしめ、その余韻に浸りながらも隼人はちらっとベッドの方を見た。
「しかし、この部屋のベッドまで変えられているとは……」
そう言うと、以前にこの部屋に来たことがある葉月も直ぐに気がついていたようで、ちょっとだけ隼人の胸の中で頬を染めている。
何故なら、葉月の新しい椅子が増えていたように……。このゲストルームのベッドも、大きなダブルベッドに変えられていたからだ。
隼人は『どうりで……』と、自分も頬が赤くなる。先ほど、父親が『これからお前達が来たらゆっくりできるように、夫妻専用らしい部屋に模様替えした』と言っていたのだ。その時の、弟のちょっとにやついた顔。つまりは、ベッドまで『夫妻用』……いや『新婚用』に買い換えられていたと言うことだった。
「沙也加お母様のベッド、思い出だったでしょうに、良かったのかしら?」
「いや、きっとおふくろも生きていたら同じことをしただろう。そう思うよ」
だから、『家族になった』のだから、遠慮無く使わせてもらおう。
隼人がそう言うと、葉月はすっかり幸せそうな顔に戻ってくれていた。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・
一家揃っての夕食は、始終、和やかな雰囲気。
美沙の手料理は、本当に『普段着』のメニューで、隼人も良く知っているものばかりだった。
気取ったものがなに一つ無く、そして誰もが心から自然にくつろぐことが出来る時間を過ごせて、隼人も満足だった。
なによりも。あの妻が、まだ胸の傷が癒えていないのに、隼人の家族のためにヴァイオリンを弾いてくれたのだ。
まだ完治していない彼女の音は、たどたどしい演奏で聴けたものじゃなかった。それでも、和之も美沙も和人も、その音は整っているものではなくても、葉月の心より奏でている音として、聞き届けていたようだった。
そしてその音は、実際には、とても優しい暖かい音だったと隼人も感じられた。そして隼人の家族も、きっと……。
隼人が思い描いていた幸せが、そこに花開いたような時間。
とても、満足だった。
──そして、また二人。
「有難うな。親父、ずっと前からお前のヴァイオリンを弾く姿を待っていたみたいだから」
「……うん。前に来た時に、『楽しみにしているよ』と言ってくれたのを、私とても嬉しくて、覚えているわ。無理に弾いてくれじゃなくて、待っているよって……。だから、どんな状態でも良いから、あの時に取り戻したヴァイオリン。お父様にも美沙さんにも和人君にも『これが葉月です』と聞いてもらいたかったの」
満足そうな妻の顔にも、隼人は幸せを感じていた。
お互いに暖かさに包まれている夕べのひとときを、二人。
しかし、そんな中、『今、向かい合っている目の前の妻』が、途端に不満そうな顔になっていた。
「もう、駄目。隼人さんは近頃、すぐに……」
妻が隼人の手首を掴んだ。
泡だらけのその男の手は、妻の乳房の上を好きなように滑っているところ。
寝室の浴室で向かい合って座っている二人。実は、今は揃って入浴中。
怪我の治療中であった妻の入浴は、結婚した時から夫である隼人の仕事になっている。しかし、まだちっとも動けない妻の身体を洗っていた時は、彼女の身体に負担をかけないような気遣いに必死だったのに、だいぶ動けるようになった妻を目の前にしての『お風呂のお手伝い』は、新婚夫としては『真面目』にはなれなくなっているのだ。
「どうしてだよ。俺、真剣に洗っているのに」
それでも真顔で、妻の愛らしい乳房を泡の手で撫でまわした。
葉月の顔が悩ましく歪み、『や』と小さな濡れる声を漏らした。そして、妻のその手が夫の手首をがっしりと掴んでやめさせようとする。
「ね、ねえ。もうそろそろ、私……一人で入った方が……」
「駄目だ。まだ、駄目だ」
『まだ、自由に動ける訳じゃないんだから、何かあったら危ない』。だから『駄目だ』と隼人はきっぱりと、妻の希望をはね除ける。そしてまだまだ真剣な顔をしつつも、隼人の手先は面白がるようにして、妻の乳房から緩やかなウエストを滑り落ち、あっと言う間に彼女の栗色の茂みの中に潜っていく。
「も、もう……そんな顔して、心でふざけているの分かっているのよ。ここでは駄目。『また』そんなことするなら、私、もう、貴方とは入らない」
「いいよ。じゃあ、今夜の『これ』が最後かな」
「いやって……言っているのに。こ、この前だって……た、退院前だって……」
「この前って……なにが?」
葉月は口では抵抗してるが、恋人時代に夫が知り尽くしてしまった秘密の場所をしっかりと捉えられてしまい、身体がすっかりほぐれて従い始めているのを、隼人はちゃんと分かっているのだ。
その上、妻が必死で抵抗しているその口を、今度はそこも、きっちりとほぐしてあげようと思っている男心。いや、夫心と言いたい。そのほぐしてあげたい口に、隼人は構わずに唇を押しつけた。
泡だらけの手で、妻の湿った栗毛の頭をぐうっと抱え込んで、自分の顔に押しつける。
「あっ……。ほ、本当に駄目。ここはいや……」
葉月がこうして強く抵抗したのには、訳もある。
先ほど、葉月が阻止しようと口で抵抗していた『退院前だって……』。山崎の病院を出る一週間ほど前か。隼人はついに風呂場で、葉月を強引に欲してしまったのだ。だからとて無理矢理でもなく、葉月としては愛し合うことにはまったく異議はないのに、場所に困るといった具合だったのだ。しかしそこで隼人が引き返せずに妻を抱いてしまったのも、この妻が、こぼれでそうな濡れ声を必死に耐える顔とか困っている顔とか、それでも愛されることにとても満足してくれている熱い眼差しとか吐息を代わる代わる見せてくれるのが、どうしようもなく愛おしくて堪らなくなったからだ。そして今夜、ここでも。
「……っあ。んっ、く……や、や……。お願い、ねえ、貴方、もう駄目。ねえ……やめて。ねえ、お願いよ、ねえ……」
本当に困っているという儚い声が、隼人の強い口づけの攻撃に必死に耐えながら漏れてきた。
その困り果てている顔を見て、今日の旦那さんは、ふと満足をしてしまった。
「可愛く懇願したから、今日は、我慢する」
「もう……」
可愛くした。の一言に、葉月がまた頬を染め俯いた。
そして恥ずかしそうにそっと胸を隠した仕草にも、隼人はまたぐっと男の性を掻き立てられてしまう。
それに妻の頬は赤いし、吐息は熱いし、瞳は潤んでいるし……。なによりも、この夫の手には妻の身体が熱く潤った感触がばっちりと残っている。
隼人はさっさとシャワーを手にして、そんな妻の身体を包み込んだ泡を流す。
「待ちきれないから、早く出る」
「もう、なんでそんなに急ぐの? せっかくの……」
「そう。せっかくの、退院した夜だから、じっくりと抱き合いたいなあという、旦那さんのお願い」
また、葉月が照れくさそうに俯いた。
困ったような顔しているけれど、本当はそのストレートな求愛を真っ直ぐに受け止めたいという戸惑いある顔であることも隼人は知っている。
彼女は、結婚して『旦那さんに翻弄される可哀想なウサギさん』になってしまったかのよう……。
それでも、入浴を済ませてベッドに横になると、妻の葉月は先ほどまでの恥じらいも何処へやら。それともそこで抑えていた情熱が弾けたのか、隼人を深く熱く迎え入れてくれ、やや手加減気味でも加速する夫の熱意も存分に受け入れてくれた。
そして愛されているという幸せに、身体を熱くさせてくれる妻の悦びを知り、彼女を満たしている幸せと満たされている幸せと、己も満ち足りていく至極の瞬間を隼人は迎える。
模様替えされた部屋が、淡いピンクベージュを基調にされているせい?
それとも、模様替えをされても変わらずに置かれている白いテーブルに活けられている、ピンク色のガーベラのせい?
そうではなくて? 継母が葉月が好きだからと買ってきてくれた優しい花の香りがするアロマキャンドルのせい?
そのキャンドルの灯りだけで、愛し合った後。
隼人の周りは、ほのかな桜色に包まれている気がした。
妻の顔だって、火照っている裸体も肌も、そして悦びの微笑みも──。妻のなにもかもが、そんな桜色に包まれていた。
桜は散ったけれど、また今年もここに咲いたじゃないか?
いつかは彼女の頬にだけ咲いたけれど、今は身体いっぱいに、そして妻の顔いっぱいに。
咲いている。
大きい柔らかなベッドの中で、二人寄り添って眠りについた。
──隼人も肩の傷が痛む。妻を守るために負った傷。それにも厭わず力一杯に、妻を愛してしまった。
これぐらいの痛み。なんでもない。
むしろ、この痛みを少しでも知りたかった気がする。
そして、そんな痛みは直ぐに薄れる。
妻が幸せそうにそのまままどろんで、眠りについた可愛らしい顔を見届けて、そんな痛みは薄れる。
妻との愛に包まれて、隼人も満たされて眠りにつく。
気持ちよく、隼人もまどろんで眠りに落ち……。そのはずだった。
幸せに眠りについて、どれぐらい経ったか分からない。
それでも、『それ』に気がついて目を覚ますと、まだキャンドルの灯りで部屋はほの明るいから、それほど時間は経っていないものと判断できた。
「う、ううっ……」
妻の『くしゃみ』が始まっていた。
隼人の裸の胸の上、葉月がそこにしがみつくようにして泣いていた。
子供のようにして、頬を何度もこすりつけてむずかるように。
幸せそうに眠ったのに。
抜けきっていない彼女の中に永住を決め込んでいる『暗闇の奴』が、また彼女を眠らせない。
きっと彼女も急に泣いてしまうのは、訳が分からないことだろう。ともかく、そんな『突然に襲撃してくる奴』なのだと、夫になった隼人には分かるようになっていた。
……いつかのように、隼人は黙っている。
だけれど、あの時と違うのは、自分の胸にしがみついて頬をこすりつけ、むずかる妻の肩を黙って抱き寄せる。
いつも寄り添って眠る時、そうしているように、ただその肩の丸みを撫でて、そこに流れている長い栗毛を指に絡め……。彼女の耳たぶをそっとつまんだり、頬にかかる髪を静かに除けてあげたりする。そういう『いつもの仕草での愛撫』が終わった頃、ウサギの顔は何かに怯えている子供のような顔から、いつものしっとりとした妻の顔に落ち着いている。
「ヴァンショー、作ろうか?」
今度は本当に真面目な顔で隼人は呟いている。
暫く、妻の茶色い瞳が、そんな隼人の目をじいっと見つめていた。
まるで、そこにいるのは『本当に私が良く知っている人』なのか『私の夫』なのか、確かめるように。
「いらない」
妻はそういうと、また隼人の素肌に抱きついてきた。
「傍にいて。貴方だけでいいの。他はいらない」
「ああ。いるよ、一生な」
どこまでも頼ってきてくれるその素肌を、隼人はそっと微笑みながら抱きしめる。
隼人の素肌には、いつだって妻の肌の暖かみが、そして鼻先は彼女のつむじの栗毛がくすぐって、腕にも指先にもその栗毛が巻き付いてくる。いや、隼人が巻き付ける。そこでお互いの身体を絡め合うようにして、寄りそう。
たったそれだけ。
あの頃、それが上手く通じ合えなかった二人は、今、こうしてただ寄り添うだけで眠ることが出来る夫妻になった。
隼人は彼女をこの腕に。そして彼女は隼人の腕にやってくる。
ヴァンショーは、もう、いらない。
今、彼女の眠りによせるのは、ひとつの口づけ。彼女の身体がそっと柔らかくとろけるまでの、口づけを──。
そうすれば、悪夢は終わらなくても、彼女はもう眠れる。
Update/2007.3.25