少しだけ早く終業した夕方。
一度帰宅したにもかかわらず、葉月は帰るなり冷蔵庫を開け、あるものを揃えてからまたまた制服姿で家を飛び出した。
先程降りたばかりの真っ赤な愛車に再び乗り込み、エンジンをかけた。
海岸線の道がオレンジ色に染まっている。
いくつものカーブを曲がる海岸線、横には海。それだけの風景。そして今は夕暮れ時。小笠原の島の住人であることを幸せに思うひととき、綺麗な風景。
その中、葉月は一人ひっそりと微笑みながらステアリングを握る。少しだけ強く踏んでしまうアクセル。そこへと急ぐ心は、たぶん……あの頃の自分と何ら変わっていないと思っていた。
赤い車が辿り着いたのは、丘の上だった。
ハンドバッグに入っている携帯電話を一度握りしめたのだが、葉月は連絡すべきと思いつつも、そのままにして車を降りた。
インターホンを押す。
「私よ」
『お前か』
相変わらず、妙に不機嫌でぶっきらぼうな声を出すのね――と、もうとことん分かっている彼のことではあるが、葉月がこんなことでふれくされてしまうのも毎度のこと。
『来たなら、来いよ』とこれまた、葉月が勝手に来たんだから寄っていくしかないだろうとでも聞こえてしまいそうな言い方に、葉月は益々眉間にしわを寄せていた。
「とってもお邪魔致します!」
「なんだ来るなり、お前はいつも不機嫌だな」
ここにくるまでに不機嫌にしてくれたのはいったい誰なのかと言いたいところを、葉月はぐっと堪え、義兄の自宅にあがった。
「そろそろお惣菜が切れているころかと思って来てみたの」
リビングに入って、手にしてきた袋をテーブルの上に粗雑に置いてみた。
だがそう言った途端、後をついてきた義兄の顔が何とも言えない笑顔になっていたので、葉月はそのまま固まってしまった。
「すごいタイミングで来るな。昨日、お前が作った金平牛蒡が最後の一口、次はいつ来るかと考えていたところだ」
いやー、良かった、良かったと、早速義妹が放った袋の中を純一が物色する。
「煮豆も持ってきてくれたんだろうな?」
「ちゃんと作ったわよ」
「それから、ひじきの煮付けも」
「作りましたっ」
まったく、こだわりある義兄なんだから……と、葉月はいつも思ってしまう。
だけれどそんな義兄が『よしよし、数日は安泰』と喜んでいる笑顔を見てしまうと何も言えなくなる義妹。
結局。義兄に喜んで欲しくて、こうしておかずを運んできてしまうのだ。
夫の隼人は洋食派。彼の料理も義兄は気に入っているが、やはり最後は義妹の手料理を心待ちにしてくれていた。
「鰯の生姜煮もいれてくれたのか。これは美味いんだよな。ん、美味そうな茄子が入っているじゃないか」
「あ、それ。泉美さんのご実家から送ってきてくれたの。義兄様にもお裾分けですって」
「そっか。立派な茄子だ。焼き茄子だな」
すると義兄はそれを手にとって、葉月を見た。
「作ってくれ」
「えー、焼き茄子ぐらい、義兄様作れるでしょう? なんか最近、ちっとも自炊していないみたい」
「お前が作った方が美味いんだよ」
そこまで言われてしまうと……。
いやいやと、葉月は首を振る。
若い頃からこうしてこの義兄の甘い言葉にほだされて、散々泣かされてきたのだから!
「私、帰ります」
「そっか。仕方がないな」
義妹がそう言えば、義兄もあっさりと切ってしまう。そして彼の方はまるで後腐れなどないかのように。
いつもそうだった。葉月が追いかけて泣いて、置いていかれて泣いて……。義兄は追いかけられても知らぬ顔、置いていくのも平気な顔。行ってしまったら、消えてしまったらそれっきり。今度はいつ会いに来てくれるか分からない。そんな人を途方もなく待っているのに、葉月の中からこの人はちっとも出て行ってくれなかった。
ある時思った。それだけ……好きなんだと。気がついた時には遅かった。結婚しても良いと初めて思えた男性が傍に寄り添ってくれていた。
そうだ。もう自分からこの人を切ったんだから。
今度は私が切ってしまっても良いのだわ……。
だから『帰る』。
「またなくなった頃に持ってきますね」
義妹の顔で、葉月は持ってきたハンドバッグを手にしておいとましようとした。
義兄はいつもの表情のない顔で『ああ』と言っただけ。
玄関を出ようとした時、見送っている義兄の顔がいつになく葉月の顔を見ていたのに気がついた。
「な、なに? 義兄様」
「気のせいかな。最近、お前が鎌倉のお袋のように見えてきてな」
思わぬ言葉に、葉月は驚いて純一を見上げた。
「お前、いつからああいうのを作ろうと思っていたんだ」
「い、いつって……。忘れちゃったわ」
「全部、鎌倉の味だ。俺のお袋だったり、隣の留美おばさんの味だったり」
なにもしらないくせに。
葉月は今更ながらそう思った。
お兄ちゃまは本当に勝手で、私の気持ちなどちっとも気がついてくれなかった。
私が日本に帰って、小笠原の隊員になって、鎌倉に帰省した時……何をしていたかって……。
遠い、まだ初々しい二十歳になろうとしていた頃の自分を葉月は思い返す。
鎌倉に帰省して、お隣の真義兄が眠る仏壇にお参りに行って、お邪魔した時にこの谷村兄弟の母親である由子と一緒に夕食を作った。夕方になると、真一が外から帰ってきて、そして診察を終えた谷村の父がリビングにやってくる。
その時に、由子と一緒に作った夕食を並べて、谷村の一家と食事をする。それを楽しみにしていた。なによりも可愛い真一との食卓。家族と離れて空へと挑む日々を自ら選んだとはいえ、葉月にとってはそこは一家団欒。小さな真一の無邪気な笑顔があるだけで、そこは葉月も明るくなれた。
そしてもうひとつ……。葉月が心から慕った谷村兄弟の母親である由子から、手料理を教わること。それも葉月はひとつの強い思いを秘めていた。
もう亡くなった真義兄にはなにもしてやれないけれど……。
何処かに行ってしまった純義兄様には、美味しいものを食べさせてあげられるかも……。
そんな葉月の自然な女心。
ちゃんと持っていたことを、後になって知った。
腕を磨き続けることを心がけてきたわけでなく、結婚して家庭を持ってからまた再開させたものだけれど、葉月の中には鎌倉の教えがしっかり残っていた。
それを今……。同じ島に住むことになった義兄に。
いつしか諦めてしまったはずの手料理をいつのまにかこしらえて、義妹として通っている。
そんなことを思い返している無言の義妹を、純一がまたじっと見ていることに気がついた。
「……本当に、忘れてしまったわ」
葉月が義兄にいつ会えるかと必死になっていた頃。この義兄はもっと違うところを見て必死になっていた。
義妹と息子を幽霊から守るという大義名分があって、その中に一欠片でも葉月の存在を大切に思ってくれていたことがあっても……。それでも結局はすれ違っていたのだ。
だから、葉月は言わなくても良いと思っている。純一が知っても知らなくても、それは今となってはもうどうにもならないこと。
ただこうして密かな結果を、義兄に運んでくれば良いだけ――。
「悪かったな。お前のそんな深い気持ちを受け止めてやる余裕がなかった……」
突然の、申し訳なさそうな純一の声にも葉月は驚いてしまい、ただ彼を見上げてしまう。
そんな義兄はいつものように、ちょっとばつが悪いと短い黒髪をかりかりかいているだけ。
「まあ、でも。今はお前の惣菜が楽しみだ。なくてはならない。良く覚えてくれたと思っている。次も待っているからな」
では気をつけて。旦那と子供達によろしくな。
義兄のいつもの別れの挨拶にも、葉月の心がいつになく軋んだ。
「ほんっとうに兄様は勝手なんだから」
いったん履いたはずのパンプスを葉月は再び脱いで、廊下にあがった。
「焼き茄子でしょ。まさかワインと一緒とか言わないでよ」
「いいのか。だったら、冷酒で行くか」
機嫌の良い義兄の声。
そして自分も本当にどうしようもない……。
自分で切って終わったはずなのだけれど――。
でも、今の義妹を義妹として懸命にサポートしてくれている、そして義妹の家庭をひたすら見守ってくれている義兄がいてくれて嬉しい反面、時々、どうしようもなく切なくなってしまう。
昔の荒々しい、でも熱くて灼けそうだった想いを葉月は思い返している。
淡々と過ごしているように見せている表面の下では、いつだって義兄を追っていた。なのに……届かなくて、触れられなくて、抱きしめてもらえなくて、抱きしめられなくて。貴方を、疲れて帰ってくる貴方を、私だって抱きしめたかった。傍にいて、癒されるというならいくらでも貴方の傍にいた。そして私も、貴方にずっと傍にいて欲しかった。
そんな激しい想いは、もうずうっと昔の、若かりし日々の彼方に霞んでいるだけの。でも時として鮮やかに蘇る、そんな恋と愛の日々。
網の上で茄子を焼きながら、葉月は小鉢に昆布の煮豆と、鰯の生姜煮を、小皿には白菜と胡瓜、人参の浅漬けを盛りつけた。
それをテーブルで晩酌の用意を済ませた純一の側に持っていく。
「もうすぐ焼けるからね。純兄様は、おかかをいっぱいかけるのが好きよね」
「うむ、焼きたてに醤油をがっとかけて、つるっといきたいね」
義妹が持ってきた惣菜を肴に、晩酌を始める義兄。
空は薄暗くなり、もうすぐ日が沈む。
茄子が焼け、葉月は指を熱くしながら必死になって冷水で皮を剥く。
少し背を丸めながら、テラスの夕暮れを見つめ、晩酌をする義兄の背中。
「悪いが、この浅漬け。もっと持ってきてくれないか。朝飯にも食うもんでね。酒の肴にするとすぐになくなる」
「わかりました」
一人晩酌をする背から聞こえてくる声。
顔も見えず、ただ、御猪口を傾けるだけの横顔。
でもいつも見てきたその背中に、葉月は静かに微笑みかけるだけ。
ひっそりと酒を味わう義兄の手元に、葉月はそっと出来上がった焼き茄子の皿を届ける。すると、義兄が暮れた空と海を見ながら一言。
「これで良かったのかもな。葉月」
一瞬、戸惑い……。
「そうね、純一兄様」
そう答え、葉月は帰る支度を始める。
帰る葉月に、純一がお土産を持たせてくれた。
「いつものチョコレートに、モエ・エ・シャンドンのミニボトルだ」
「有り難う」
大好きな菓子店のチョコレートに、隼人が好きなシャンパンだった。
「隼人にもよろしくな。お前、大事にしろよ」
「当たり前よ」
これもいつもの挨拶なのだが。
そこで今日の葉月は敢えて、言ってみた。
「当たり前よ。私、あの人に一生ついていくの」
純一は何も言わなかったが、でも、いつも見送る時に見せてくれる微笑みは消えていなかった。
そんな義兄の微笑みを見つめ、葉月は思う。
この兄様はもう、そんな私の姿もちゃんと分かって見守ってくれ傍にいてくれているのだと。
「お前はお前の好きなところに行けばいい。俺はそんなお前についていくさ」
再び葉月は驚き……。
そのまま義兄のなにもかもが義妹の中にあるのだと言わんばかりの微笑みを直視できず、つい……顔を逸らしてしまった。
「じゃあ、また。見送りは良いわ。暖かいうちに食べて」
葉月はなにかを振り切るようにして、海が見えるリビングを出た。
純一も……追ってこない。葉月が残した手料理を、暖かいうちに食べてくれるのだろう。
一人晩酌の義兄。
家庭に帰る義妹。
義兄の自宅を出て、葉月は潮風の駐車場にある愛車へと戻る。
暮れた空を見て、葉月はいつしかこの丘からあの空を見てあの海を見て、ずっと追っていたものを探していたものを、痛いほど鮮烈に思い出していた。
「好きなのに……」
好きなのに、どこいるか判らなかった人。
探しても探しても捕まらなくて、追いかけても追いかけても追いつかなくて。想っても想っても、想いしかそこになくて、あの人の肌に触れることなどほんの僅かな時間だった。
「でも、好きだから」
ふと一筋の涙がこぼれた。
それでも、好きだから。その人は傍にはいてくれない人だったけれど、彼のためになりそうなことに必死になってみた。
空にすべてを投げかける日々の中、ほんのりと葉月の中にあった女心。
義兄様に美味しいって言ってもらうの。義兄様はこれが大好きだったから、私も覚えるわ。
由子の横で彼女の傍からいなくなってしまった息子達の昔話を聞きながら、葉月は鎌倉で共に暮らせなくなった義兄を傍に感じていた。あの頃……。
でも葉月はその涙を拭いた。
こんな涙。もう十何年も前のもの。
今はもう。そんな涙、必要もないでしょう?
そう義兄が言ったように、『これで良かった』のだろう。
今は、今を精一杯。ある形でどうすれば幸せになれるか、それを手に入れたはずなのだから。
赤い車に乗って、葉月は笑顔で白い家へと向かう。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・
「俺よりずっと先に帰ったと聞いたんだけれど?」
帰宅するとキッチンには既に黒いエプロンをしている夫の姿があった。
「えっと。そろそろ義兄様のおかずが切れると思って」
「なるほどな?」
ちょっと怒ってるような眼差しが夫の眼鏡の奥から注がれた。
だが隼人も分かってるからすぐに笑顔になった。いつものただでは許さないちょっとした釘刺し程度。
「義兄さんにもちゃんと食べさせないとな。まったく最近、益々無精になって……」
ぶつぶつ言いながら、隼人はコンロに向かう。
にんにくとオリーブオイルのいい匂い……。これはこの家のキッチンの匂いだわと、葉月はほっとする。
「お肉を焼いているの? 今夜は何?」
「夏野菜のラタトゥイユと、鶏のガーリック焼きな」
夫の得意料理のひとつに、葉月は『美味しそう』と思わず喉が鳴る。
どうやら泉美の実家から届いた立派な茄子は、我が家では洋食にアレンジされたようだった。
しかも夫のラタトゥイユは絶品で、余ったラタトゥイユをパスタに乗せて粉チーズをいっぱいふりかけて食べるとこれまた絶品で……。今ではすっかり葉月の好物。夫から教わった味だった。
(きっと、隼人さんの手料理はダンヒル家の味ね)
御園小笠原夫妻家に新しく入ってきた味は、妻にも子供達にも馴染みつつあるものだった。
「貴方の茄子のマリネ、食べたいわ」
「お、いいな。まだ残っているし、今日も暑かったし、作ってみるか」
この家で馴染んだものが葉月の中にはいっぱいある。
鎌倉の味もあれば、この南仏で出会った夫からもらった味もいっぱいある。
そんな夫が言う。
「お前は酸っぱいのが好きだからな。酢は強めで……」
「タマネギのみじん切りもいっぱいにね」
「分かっているって」
そして夫も、妻の好みを良く知っている。
そこに葉月は今の幸せを噛みしめてしまう。
そんな隼人に聞いてみる。
「貴方は何が食べたいの?」
「はあ?」
唐突な質問に隼人は不思議そうだったのだが。
急に何か気に入らないことを思い出した顔になり、葉月を睨んでいた。
「お前なあ。浅漬け、義兄さんに持っていき過ぎだぞ。俺、あれでビールを飲むのが好きなんだからな」
俺の分もちゃんととっておけ!
――と注意され、葉月も唖然とした。
「わ、分かりました。沢山作っておきます……」
「ったく。うちにもお前の惣菜、必要なんだからな」
はいと、葉月も素直に返事をしておいた。
ここにも鎌倉の味が染みついた男が一人。
真義兄がいなくなってしまったから本来の兄弟両名に母の味を届けることは出来なかったけれど、どうやら義兄弟にはこれからもずっと食べてもらえそうだった。
「私も着替えて手伝うわね」
「ああ。待っている」
さっそく茄子のマリネ作りに取りかかる夫の笑顔。
葉月は二階の寝室に着替えに向かいながら、明日は白菜を丸ごと買わないと駄目かなと考えていた。
好きな人に、好きだから美味しいものを。
そこにほんのり愛を忍ばせて――。
Update/2008.9.24