何故だろう?
彼女はいつも冷たい視線で隼人を見下ろしているのだ。
何故?
熱く……熱く……その瞳を燃やしてくれないのだろう?
瞳は美しく潤んでいるのに、決して熱く隼人を求めてくれない……。
その淡々とした落ち着き。
それが……気に入らないのに……でも……彼女という『女王』に支配されているようなそんな感触。
その『女王』をいかにして……『狂わせるか』。
隼人はいつもそう思いながら……彼女の氷の瞳がとろけるのを、いつだって待ち望んでいるのだ。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・
彼女と『同棲』を始めて、数週間後……。
『佐官幹部試験』があり、それを滞りなく済ませた土曜の休暇日だった。
「どう? 自信は?」
丘のマンションに帰ってきた隼人を、彼女は心配そうに待ちかまえていた。
「あるとはいわないけど……ないとも言わない」
「もう! どっちなのよ!!」
明確な返事を返さなかったが故……彼女はそう言っていつも通り、ムキになってふてくされた。
隼人はクスクス笑いながら、使い始めたばかりの『林側の部屋』へ向かう。
『疲れたでしょ? ご飯作るから!』
「ゆっくりでいいよ……」
妙に張り切っている彼女の声がリビングから聞こえた。
『今日ね! 美味しそうなタコが出ていたから……炊き込みにしてみたの♪』
「へぇ……。葉月……和食はダレに教わったんだよ?」
料理は隼人の方が『プロ並み』に上手だが……和食だけは、上手く教えてくれる女性がフランスにいなかったので……『独学』。
だから和食だけは……彼女に勝てなかった。
しかし、その内追い抜いてやろう……と、いう『野望』は持っていたりする。
「うーん。。母様が勿論……フロリダでも和食作っていたから……あとね? 鎌倉の叔母様とか……シンちゃんのパパ方のおばあちゃまに……」
葉月がスッと……林側の部屋に入ってきた。
いつもの格好に着替えている隼人を平気で眺めている……。
その視線……男を女として見る目線ではない事が隼人には解っていた。
そう、まるで……一緒にいる家族のような『お兄さん』が仕事から帰ってきて着替えている──そんな目線。
だから、男の裸を見ても葉月は今は『警戒』していない……。
一緒に暮らし始めたものの……一緒に暮らし始めたが故に……せっかく男として彼女の元に引っ越してきたのに、逆に葉月にとっては『安心できるお兄ちゃま』になってきているようで、隼人は時々『思いもしなかった葉月の変化』に不安になることがあった。
だから……。
「ちょっと……こっちに来てよ」
隼人はニンマリ……部屋の入り口にいる葉月を手招きしてみた。
だが……上半身裸でいるジーンズ姿の隼人に早速……怯えた瞳を返してくる。
それもそうだろう……。隼人のちょっとした男の下心……。
葉月は一緒に暮らし始めてから、かなり敏感に捉えている。
それもこれも……あの憎き『山本少佐』のせいだった……。
あの後……葉月は風邪をひいて暫くは隼人は葉月に手を出していない。
その後も……隼人は試験の追い込みでそれどころではなく、葉月は以前通りマイペースな暮らしぶりで、隼人とは違う自室で早く寝付く。
そんな生活があの後も続いていた。
その上、山本によって引き出された『トラウマ』から、日常の『無感情な平静』……つまり『忘れた振りをする』。これに戻るのに彼女自身も時間を要していたようだった。
一度だけ『一緒に暮らそう』と……このマンションに隼人が来た晩、真一が帰った後に肌を合わせただけだった。
眠る部屋も別々で、彼女の警戒心の強さは、一緒に暮らせば暮らすほどイヤと言うほど、隼人は痛感するようになっていたのだ。
でも、無理強いもしたくない。
「あっそ。いいよ別に……メシ出来たら呼んでよ。俺、一眠りするから……」
隼人のしらけた視線を葉月は気まずそうに逸らして部屋を出ていった……。
(あーあ。 今日から気兼ねなく……葉月のことだけ考えられると思ったのに)
試験が終わった開放感。
それ故に……ちょっと試しに『カマ』かけてみたのだが……。
(なかなか手強い……うーん……)
少しばかり起きた欲情を押さえ込むようにして、隼人は黒いセーターを素肌に着込みベッドに横になった。
慣れてきた裏の雑木林から聞こえてくる葉がさざめく音……今の隼人の安らぐ子守唄……。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
『隼人さん? ゴハンできたの……』
彼女のか細い声で揺り起こされた。
「あー。このまま寝ていたい気もするけどなぁ……」
「それでも良いわよ? ご飯残して置くから自分でよそって食べる?」
ベッドの縁にしゃがみ込んでいる栗毛のウサギさんが、ちょこんと首を傾げながら……平気でそんなことを言う……。
「お前さ……ほんっとに……女っ気ないっいうのかなぁ?」
「どうして??」
そこもまた……『キョトン』と首を傾げて、葉月は訝しそうに真顔で尋ね返す。
女っ気がない……というのは姿とか仕草のことではない。
目の前の彼女は……今日は紺のニットアンサンブルにグレーのロングスカート……。
ふちにビーズをあしらった紺色のセーターが、白い彼女の鎖骨を綺麗に浮き彫りにさせて……しなやかな栗毛が真っ直ぐ胸元まで伸びていて……キョトンとした可愛らしい顔……そのガラス玉の瞳。
そこはまさしく……今は一緒に暮らしている隼人しか見ることが出来ない『御園中佐』の女性らしい……美しい姿。
隼人が言いたいのは……『女性感覚』。
「せっかく私が作ったご飯。一緒に食べてよ!って怒らないわけ??」
「……??」
「俺と一緒に食べたいから……眠たくても起きて欲しいっていわないのか?」
「隼人さん、眠いのでしょう? 眠いなら寝たいのでしょう??」
「ああ。もぅ……いいよ。葉月らしいから……ご飯食べます」
「怒っているの? さっきのこと……」
葉月がそんな事は気まずそうにうつむく……。
隼人はため息……。
どうも……隼人が今まで付き合ってきた女性とは反応が違う。
いや……メディアでも良く目にする女性の『女心』。
葉月にはまったくもって、その感覚がないらしい。
それも男の中で暮らして突っ走ってきた『女中佐故』なのかどうかは、今の隼人には解らない……。
だから……時々見せてくれる『乙女心』が新鮮であったり愛おしかったり……。
そんな彼女に結局……振り回されて巻き込まれてそして……離れられなくなって……。
そんな隼人の募る『熱愛』など葉月には、これっぽちも通じやしない。
『冷たいお前が女に拝み倒す姿。見られるかもな〜! あははーー!!』
フランスを出る前……同期生のジャン=ジャルジェにそう言われたが……。
(おい。あながちそんな事ないとも言えなくなったかも知れないぞ?)
隼人は、親友の言葉を今まで否定してきたが、葉月と暮らし始めてそう認めざる得ない口惜しい思いを噛みしめていたのだ。
(本当に……冷たいご令嬢だな……参った)
隼人は、そう深いため息の変わりに大きな伸びをしてベッドを降りた。
だからと言って葉月がそう……他の女性のように──。
『もう! 一生懸命作ったのにバカ!!』と……怒りだしても、『女は面倒くせー。。』と隼人はふてくされているに違いなかった。
──『天の邪鬼』──
(ああ。そうかもね……でも、葉月にはちょっとだけでも……そうゆう所があってもいいと思うけどなぁ?)
隼人は、ニッコリ微笑みながら部屋を出ていった葉月が結局憎めなくて……それにつられるように林側の部屋を出た。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
食事が終わって、葉月が片づけを始める。
『ああ。 今日から何をしようかな〜?』
試験が終わった。後は結果待ち……。
できれば今夜は彼女とゆっくりしたいのが隼人の本音。
でも……さっそく『カマかけ』に失敗したばかり……。
どうせ……また、葉月はマイペースに片づけの後は洗濯をして、風呂に入って……ちょっとしたテレビを見て部屋に入ってしまうのだろう……。
勿論……以前そうしていたように、一緒にテラスで『お酒』を楽しんで彼女の警戒心を解けば……自然に部屋に入れてくれるのだろうが……?
先ほどの『カマかけ』で失敗したが故に……『酒飲まない??』とか誘って『イヤ』と言われる可能性が高い……。
つまり、葉月は先ほどの『カマかけ』で警戒しているに違いなかった。
山本が去ったというのに……。
シャワールームでの交わりも今じゃ……その時の『勢い』がなせた物で、このマンションに来た晩のことも、気がお互いに高ぶっていた……葉月など……そんなキッカケがないと抱けやしない物なのだろうか??
『もっと、自然にならないのかよ?』
と……言いたいところだが……隼人にも原因はあるのだ。
最初に葉月がグッと寄りかかってくる女にならないよう『距離』をおいてしまったが為に、葉月にも『隼人さんにはべったりしない方が良い』──そう植え付けてしまったからだ……。
(しかたないだろう? 葉月がまさかここまで『こざっぱり』しているとは……あの時は思わなかったんだから……)
隼人がため息をついていると……キッチンから葉月がそっと、こちらを見つめていた。
「なに?」
隼人は思い詰めた表情を彼女に悟られないよう……おもいっきり『にっこり』微笑んでいた。
「カフェオレ……飲む?」
葉月の愛らしい微笑みに隼人もついつい……
「いいねぇ……♪」
と……結局……彼女に操られているような物……。
隼人の微笑みに葉月がさらに輝く笑顔をこぼす。
まるでその軍服では見ることない彼女の姿に侵されているような気分だった。
(はぁ……深く考えるのはよそう……まだ、暮らし始めたばかりじゃないか?)
葉月の愛らしい暮らしぶりを側で眺められる……。
それだけでも早速手に入れた。
『少しずつ、手に入れて行けばいい……葉月のためにも、男として急ぐ物じゃない……』
隼人はそう心に言い聞かせながら、指定席になったダイニングチェアに座ったまま……目の前に見える夜海の絶景にため息をついた。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
カフェオレはテラスで……。暖房が効いたガラス張りのテラス……。
そこで、葉月と試験について話し合った。
でも……もう、隼人の心はそれどころではなかった。
(どうしてかなぁ? こんな話になってしまうのはぁ)
いつもはそんな話が出来る女性『相棒』として満足なところも、今夜はどうしてかそんな『他の邪心』がまとわりついて離れない。
(俺がいけないんだな。俺が……)
そう……試験が終わった開放感故……葉月を何とか手込めにしてやろうなど、そんな邪な男心を葉月に見抜かれてしまったに違いない。
(解っていたんだろう? そうゆう女だって)
そんな彼女が放っておけなくて、側にいるのだから……誰も手に入れる事ない、誰も見る事ない……隼人だけの葉月をこうして毎日、毎晩見ている。
それだけで『充分じゃないか』。
隼人はそう言い聞かせていた。
だけれども……。
「ああ。やっぱり眠いな……俺、もう寝るよ」
もう……葉月との仕事話は悪いが今夜は乗り気がしない。
「……そう? じゃぁ、私もお風呂に入って寝るわ」
葉月が少しだけ……残念そうな顔をしたのだが──。
(ごめんなぁ……お前の為にも、俺は今夜は消える……)
このままじゃ……気にそぐわないことでもしかねないから……。
隼人は言葉通りに、すぐに林側の部屋に入ってベッドに横になった。
眠い事なんてなかった。
先ほど少しばかり眠ったし……。
隼人はベッドサイドのライトだけつけて、着替えもせずにそのまま横になって雑誌を眺めることにした。
林の木々の音と……寝支度をする葉月の行ったり来たりする音を耳に挟みながら……。
葉月の動く音がなくなって……彼女の部屋のドアが閉まる音がした。
それを見計らって今度は隼人が部屋を出る。
暗くなったリビング……。
冬の海の風景。
それに慰められるようにして、隼人が今度はバスルームを使う。
バスローブを羽織って、暗がりのキッチンからビールを一缶取り出す。
テラスで飲みたいところだが、そんな気になれずに、そのままバスローブ姿で林の部屋に入った。
暖房が効いた部屋で缶ビールを空けて、また……雑誌を眺める。
さて、そろそろパジャマにでも着替えて……程良く気持ちがほぐれたところで寝るとしようか……? と……言うときだった。
──コンコン──
滅多に叩かれない音で隼人は一瞬硬直した。
解っている……葉月しかいないじゃないか???
彼女がこの部屋を訪ねてくるなんてないことだった。
『起きてる?』
その声に返事をするべきではない……。
隼人の『理性』は葉月の為に、そう言っていた。
ここで『起きているよ』と彼女を部屋に入れてみろ?
絶対に……葉月を引き寄せてしまうぞ??
隼人はそんな葛藤に挟まれて揺れた。
──『起きているよ』──
そう言いたい……そうだ、言ってしまえばいい!
そう、決心したのに……。
「ねえ? 寝ちゃったの??」
葉月の方からドアを開けてしまった──!
「……今……風呂から出たところで……」
「そっちに行っていい?」
「……ああ……」
葉月の瞳が煌めいているので、つい……そう言っていた。
「ビール、飲んでいたの?」
ベッドの側にある小さなテーブルに缶ビールと雑誌と眼鏡──。
葉月がそれを眺めてベッドの縁に座っている隼人を見下ろして微笑む。
「うん……風呂上がりだから……」
隼人の目の前にあの……シャム猫のようなガウン姿の葉月。
今にも飛びつきたいのだが……!
「なんだよ。そっちこそ。もう眠ったかと思った」
「うん……眠れなくて」
「なに? また……怖い夢でも見たのか?」
その方が隼人は気になった。
時々うなされているのを知っていた。
だから……葉月は隼人がいない頃、精神安定剤を飲み……ピルケースには睡眠薬だって入っている。
それを飲ませないために、葉月が眠るまで気になってしょうがない時がある。
隼人のそんな心配顔を見て葉月がそっと微笑んだ。
「なんで? そんなに心配してくれるの?」
「なんでって。お前、薬ばかり頼ってどうするつもりなんだよ?」
「だって。ちゃんと眠らないと戦闘機には毎日乗れない……」
葉月がちょっとだけ苦しそうにうつむいた。
「具合が悪い時は思い切って休むのも、自分の為じゃないのか?」
「そうだけど……」
「お前はね。頑張り過ぎなんだよ……男が嫉妬するくらいに。そこ、可愛くないから男に虐められるかも知れないだろ?」
すると……葉月の顔が強ばった。
「女の頑張りに嫉妬する男なんて男じゃない」
その顔が……急にあの瞳を輝かす少年のようになる。
隼人も驚いて……そして……。
「そうだな。それは正論だ……虐める前にその女を追い越すのが男だな」
濡れた黒髪を、隼人がかき上げながら、ため息をつくと、やっと葉月がいつものように愛らしく微笑んでくれた。
「そんな隼人さんが好き……」
その微笑みと供にそんな風に囁かれたら……
「何をしに来たんだよ……」
隼人はとうとう……葉月の白い手を握りしめていた。
そっと怯えさせないように手元に引き込もうと……。
「側に来たくなって……」
「本当かよ?」
葉月の瞳が妙に真剣だった。
言葉では彼女の好意の言葉を否定しつつも……その白い腕を、そっとベッドの方に引き寄せながら隼人の鼓動は高鳴った。
でも……葉月がそっと一歩、二歩……隼人に寄って来る。
ウサギが逃げないよう……紳士な皮を被ったオオカミが騙すような罪悪感。
でも……やっと……。
(捕まえた!)
葉月が引き寄せられるまま、座り込んだ隼人の膝に乗ってきた。
座り込んだ彼女はその黒いガウンから白い足をはだけさせて……隼人の膝をまたぐように座り込み、白い長い腕を隼人の首に巻き付けてきた。
隼人の目の前にはまだ……見えない黒いガウンの胸元。
葉月が愛用している乳白色の入浴剤の柔らかい香りが鼻をくすぐった。
隼人の首に掴まった彼女が、切なそうな瞳を潤ませて、その胸元を見つめる隼人をそっと見下ろしていた。
まだ湿っている栗毛が彼女の顔を隠そうとしていたので、隼人は葉月の頬に両手を添えて生え際をかき上げる。
彼女の肩から後ろに長い髪を払った。
「……」
「……」
言葉が続かない……。
でも……お互いの見つめ合う視線でお互いを探り合っている。
葉月がここまで自ら来たのだ。
もう……遠慮はいらないだろう……。
そう確信したので……隼人は葉月が羽織るガウンを肩からそっと引き下ろした。
ブラインドから夜灯りがそっと漏れる中……隼人の目の前に、白い肌のウサギが大人しく大人しく隼人を見下ろす。
木々の音に紛れてそっとお互いの唇が触れ合った……。